ひねくれ教育事典

この事典は、ホームページやブログの内容をまとめたものです。
姉妹編の「おやじの音楽事典」 もお楽しみください。
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【あ】

あいさつ(挨拶) あいさつは人と人とのコミュニケーションの第一歩。人間関係の潤滑油である。朝は「おはようございます」。昼は「こんにちは」。帰りは「さようなら」これだけで気持ちがよい。しかし、このあいさつも強制されるとおかしくなる。「俺にあいさつがない」とか「目上の人には必ずあいさつしろ」とか、他人にあいさつを強制する人間がいる。あいさつが大切だと思ったら自分が積極的にすればよいだけだ。それに、あのコンビニの「いらっしゃいませ、こんにちは!」という形式的なあいさつも気持ち悪い。それも、店内にいる店員がからいっせいに言われるとドキッとしてしまう。
ところで、最近の学生は教員に対して朝から「お疲れさまです」という挨拶をする。こう言われるとすごく腹が立つのはなぜだろう。
ついでに言うと、私はきちんとあいさつしようとこころがけているのだが、時々人のあいさつを無視することがあるらしい。それはたぶん考え事をすると自分の殻の中に閉じこもってしまう(自分も気がつかないくらい)ところがあるからだと思う。気をつけてはいるのだが気がつかないうちにやっているようだ。それで、不愉快な思いをした人がいたらごめんなさい。

あいのむち(愛のムチ) 「愛」という言葉がくっついたからと言ってムチ(身体的・精神的な苦痛を与えること)が許されるわけではない。動機が良いから(子ども達のため)と言ってその結果起きてしまったことに対する責任がなくなるわけではない。教師はこのことをよく自覚すべきである。教育の世界にムチはいらない。ただし、男女が合意の上で使用する場合には「ムチ」が有効になることもあるらしい。私は知らないが・・・

あそび(遊び) フレーベル以来、幼児教育の世界では教育的な価値があるものとみなされているが、成長するにしたがってだんだん価値が薄れていき、最後は悪者扱いされるもの。幼児教育では「遊び」は神様扱いである。しかし、小中高校生の場合は「よく学びよく遊べ」となり、「学ぶ」という条件つきではじめて価値のある存在になる。大人になるともうほとんど罪である。ひとたび「遊び人」などとレッテルを貼られたら、誰からも信用されなくなる。また「遊びの関係」などと言うと不道徳だと言って非難をあびることになる。ただ、別の言葉といっしょに使うとまたちょっと価値が出てくることもあるので不思議である。「遊びごころ」「ハンドルの遊び」など。

【い】

いし(意志) 私は6年前にそれまで1日50本くらい吸っていたたばこをやめた。それで太りはじめたのでランニングをはじめ、フルマラソンまで走るようになった。よく人から「意志が強いね」といわれる。そんなことはない。私は意志薄弱である。近年の喫煙者に対する弾圧と最後まで闘うつもりだったのだが、意志薄弱で弾圧にまけたのである。この経過については、昔弘前大学の学園だよりに書いた。
「禁煙」に関する一考察 

喫煙は文化であり、また喫煙者にとっては生活の一部である。喫煙者から煙草をとりあげるのは息を止めろと言ってるようなものである。航空機内はもちろん禁煙であるが、以前国際線で15時間も禁煙させられた時は気が狂いそうになった。窓を開けてベランダに出ようと思ったが、残念ながら窓は開かなかった。トイレで吸うには分別がありすぎた。

喫煙者に対する弾圧と統制が年々厳しくなってきている。本人だけでなく周囲の人の健康までも損なうというのが理由らしい。しかし、考えてみれば健康を損なうものなどいくらでもある。薬物や有害食品は言うにおよばず、甘いもの、塩分、アルコール、スポーツ、研究等々、採りすぎ、やりすぎは何でも健康を損なう。(私の場合、アルコールとスポーツが過ぎるようである。研究は不足しているかもしれない)。また、自動車の排気ガスなどは人の健康どころか地球の健康まで損なう。さらに心の健康を損なうものまであげれば限りがない。騒音(特に音楽)、会議、講義などである。(私にとっては長い会議は拷問に近い。別にあちらの病気をもっているわけではないが。講義の場合、1年に1度くらいとても満足できることがある。この時はとても健康である。しかしたいていは不健康である)。

どうして煙草だけがこれほど攻撃されるのか。おそらく狂信的な嫌煙権論者のせいである。嫌煙権論者は無遠慮な喫煙者を無遠慮に攻撃するが、そのうちに無遠慮でない喫煙者まで無遠慮に攻撃するようになる。喫煙者がどれだけ非喫煙者に気を使っているかを理解しようとしない。ベランダや狭い喫煙所に押し込まれた喫煙者の惨めさも理解しようとしない。そして喫煙者が少しでも譲歩すると、たたみかけるようにして喫煙条件をさらに狭めてくる。最後は「健康増進法」なる法律まで作らせて、権力を使って喫煙者をいじめる。まるで「禁煙ファシズム」である。しかし、彼らも肝心なことに気づいてない。これらの一連の喫煙の制限措置は、煙草を将来にわたって存続させるための関係者の陰謀によるものなのである。

私は、この禁煙ファシズムと徹底的に闘うぞ、最後の一人になるまで闘うぞ、1日50本は必ず吸うぞ.....と思っていた。ところが3年前に思わぬ敵があらわれた。ある人から「吉田さん、煙草を吸わなかったら素敵なのに」言われたのだ。「太陽政策」である。軟弱にも闘いから脱落してしまった。始末の悪いことに、体の調子もとてもよくなった。

私は脱落したが、喫煙者には弾圧を跳ね返して、もっともっと頑張っていただきたい。それから嫌煙権論者には、弾圧はあまり効果がないということを知っていただきたい。どこかの国とちがって、喫煙者には北風政策より太陽政策のほうが効果があるのだ。 自分でも何を言いたいのかわけがわからなくなってきた。
(^。^)=y=


いきるちから(生きる力) 現在の学校教育の目標を象徴的にあらわした言葉。しかし、実際の授業実践においてはあまり生きて働かなかったようだ。

いじめ いじめを学校からなくすにはどうすればよいか? 「いじめ」という言葉を学校からなくせばよいのである。そんないいかげんなと言われそうだが、本当にそう思うことがある。例えば、何か事件がおこると「学校でいじめがなかったか」ということが問題になる。「いじめがあったかなかったか」と言われても学校は答えようがないだろう。 「いじめ」とはある行為を受けた人間の観念に属することがらだからである。
例えば、恐喝、暴力、無視(しかと)、仲間はずれ、からかい、このような行為が「いじめ」になるのだろう。しかし、恐喝や暴力と無視や仲間はずれやからかいとはまったくレベルが違う。レベルが違うものを「いじめ」という言葉で一括して言うことが問題である。恐喝や暴力は明らかに犯罪である。これを「いじめ」と呼ぶべきでない。「いじめ」と呼ぶことによってかえってその罪深さを軽視することになる。「犯罪」と呼ぶべきなのである。無視、仲間はずれ、からかいは受け止め方は人によって異なる。もちろん意図的・集団的な行為もあるが他愛のないちょっとした誤解から生まれる場合もある。これも一括して「いじめ」と呼ぶべきでなく、その行為を具体的に指摘すべきである。そしてそれぞれに合った解決の仕方をすればよい。「いじめ」という言い方は問題をかえって複雑にする。もう一つは子どもたちに「孤高」という言葉をぜひ教えてほしい。恐喝、暴力には通用しないが、無視、仲間はずれ、からかいに抗する力にはなる。

イデオロギー 持っていると世界がよく見えたような気になるが、実ははるかに多くのものを見えなくする魔法の絨毯。かつて○X主義という魔法の絨毯を手に入れた青年は、それに乗って森の上を飛んでみた。森全体が見渡せて気持ちいい。得意になった青年は、それ以来、森の中に入ることをせずいつも森の上空を飛ぶばかりだった。魔法の絨毯を手に入れられなかったもう一人の青年は、仕方なく森の中を歩き回った。来る日も来る日も地を這うようにして歩き回った。そのうちに森の中にはさまざまな生き物が棲んでいることがわかった。その生き物と会話ができるようになった。そして森そのものが生き物であることも分かった。最後に森とも会話ができるようになった。魔法の絨毯の青年はと言うと、あんまり得意になってはしゃぎすぎたために、絨毯から転げ落ちましたとさ。「木を見気て森を見ず」より「森を見て木を見ず」のほうがはるかに危険。

【う】

うそ(嘘) 私たちが子どものころは「嘘つきは泥棒のはじまり」と口酸っぱく教えられた。あの福沢諭吉先生の言葉に「世の中でもっとも悲しいことは嘘をつくことである」という言葉もあるらしい(もっとも、福沢諭吉先生は、「ほらをふく沢、うそをゆう吉」とも言われたらしいが)。「嘘つき」を相手にする難しさは、嘘つきは自分が嘘つきであることを認めないことだ。なぜかというと嘘つきが「私は嘘つきだ」と言うとその瞬間に嘘つきでなくなってしまうからである。嘘つきはこういう論理的矛盾(パラドックス)を非常に嫌うかどうかは知らないが、一生嘘をつきつづけるしかなくなる。

うちゅう(宇宙) 宇宙とはどこまでを言うのだろうか。宇宙には果てがあるのだろうか。果てがあるとしたら、その果ては何でできているのだろうか。その果ての向こうには何があるのだろうか。では果てがないとすれば・・・。果てがないとはどんなことなのだろうか。子どものころ、こんなことをよく考えていた。考え出すと恐くなって眠れなくなった。天文学者にあこがれたこともあったが、こういうことを考えなくてはならないのがいやだからすぐにやめた。こういうことを考えるのは、自分だけかと思っていたら、みんな結構考えていたらしい。ただ、大人になるに従って現実に追われ、いつの間にか考えることをやめてしまうのだ。「子どもが考えていること」。結構おもしろいテーマである。

うんどうじょう(運動場) 日本の学校には必ず備え付けられていて「ここは学校だぞ!」という目印になっている施設。その脇にかまぼこ型の体育館があれば、もう絶対に学校だ。欧米の学校 には必ずしも運動場がないので、日本人が学校を訪問をしようとすると迷うことがある。運動場は運動する場所だが、最近では少なくなった土の踏める場所でもある。運動場の土地を確保できず、屋上を運動場にしている学校もでてきた。その場合はその学校は何を目印にしているのだろう。また、土のある運動場がなくなれば、土踏まずという言葉は死語になってしまうのであろうか。そうなると扁平足の私はとてもうれしいのだが。

【え】

えいごきょういく(英語教育) 学習者によってその効果が全くことなる教育。吉田は、中学校・高校の時からそれなりに英語はできた。大学の時も英語の勉強はきちんとしていたから、大学院の入試(辞書持ち込み不可)でもそれなりにできたような気がする。大学院の授業では英語ばかり読まされていた。今でも英語を読むことに関しては全く苦にならない。自慢じゃないが、翻訳書一人で一冊出したこともあるのだ。ところが、聞く、話すとなるとさっぱりなのである。それなりに勉強もした。ジオスにも相当お金を払った。テープやCDの教材もたくさん買ったのだ。東京時代は、ウオークマンつけて通勤していたのだ。それでもさっぱりだめなのだ。音楽につながっている仕事をしているくらいだから、耳がそれほど悪いということもないだろう。何かが間違っていたのだろう。それがわかっても今からではおそいだろうな。

えいさいきょういく(英才教育) ある特定の分野ですぐれた才能をもった子どもに授ける教育という意味だが、これを授けるとある特定の分野の才能をもった子どもが育つと勘違いされやすい教育。早期教育をすると、まわりにできる子どもがいなければ、才能があるように見えるが、まわりが追いついてくるとだんだんただの人になってしまうことが多い。

えほん(絵本) 幼児期の子どもの発達とって欠かすことのできない道具の一つである。この絵本が成長するにしたがって、児童文学や科学読み物へと進んでいけばいいのだが、たいていはあら ぬ方向へ進んでいく。ふつうの場合、絵本の次はまんがである。このまんがも中学生くらいで卒業すればよいのだが、大学生になっても、さらには社会人になってもまんがを読んでいる人もいる(おまえだろう!)。まんがを卒業した人でも、最近は活字へとは行かず、写真週刊誌がとってかわることもある。困ったものである。

えんそく(遠足) 遠足は、学習指導要領の「特別活動」に位置づけられているれっきとした教育活動の一つである。本来は、遠いところへ足で移動するから遠足だったのだが、最近は足で移動するのではなくバスで移動するようになった。
昔(いつの話か)は、小学生や中学生がリュクサックやナップサックを背負って、長い列をつくってぞろぞろと歩いているのを見かけたが、今はほとんどみかけない。私たちが小学校6年生の時には、900メートルの高さの山に登った。「遠足」というからには、せめて10キロくらいは足で移動するようにしてほしい。

【お】

おしつけ(押しつけ) 押しつけることが一概に悪いのではない。「勉強」とは勉め強いること、つまり押しつけである。問題は、価値観、思想、趣味、嗜好など押しつけることなど不可能なことを「押しつけようとする」ことである。押しつけようとして押しつけられないので、押しつけが成功したことを示す証拠として、態度や行動を求めようとすることになる。つまり形式である。あらゆる形式主義は「押しつけようとする」ことから生まれるのである。とくに音楽の教師が気をつけなければならないのは「音楽を愛好する心情」である。自然にこれが育つようにするのはいいのだが、いつのまにか押しつけをしていないか。それによって「音楽を愛好するふりをする子ども」が育っていないだろうか。

おんなとおとこ(女と男) ジェンダー。この点に関しては、私は保守中の保守である。最近は、男女混合の名簿を作成する学校が増えてきた。教師が児童をすべて「さん」づけする学校も多い。大学でも、学生の名簿から性別をはずそうという動きもある。私は、ばかげたことだと思っている。男が女より優れているなどとは思わない。天皇が女でもいい(なくなってもいい)。男女は平等である。いや、女男は平等であると言ってもよい。しかし、女は女、男は男である。女と男の区別がなくなってはいけない。ついでに言えば、女男別姓も反対である。女が姓を変えたくなければ、男が姓を変えたらいい。夫婦は同じ姓を名乗るべきだ。そう言えば、最近古いEP盤を手に入れた。さだまさし「関白宣言」。・・・おれより先に寝てはいけない。おれより後に起きてもいけない・・・。うーん、いい歌だ。女はこうでなくっちゃ・・???????

おもちゃ 「遊び」と同じく幼児教育の世界では価値があるが、おとなになるにしたがって価値が下がる言葉。幼児教育の世界では「恩物」と言われるほど尊敬されるのに、おとなの世界では「おもちゃみたいなもの」と言うように軽蔑の対象となる。さらに「おとなのおもちゃ」「おもちゃにされた」という使い方をされると下品ですらある。

おんがくきょういく(音楽教育) そ れ自体の価値を実現することさえむずかしいのに、それに加えて法外な付加価値を求められている教育。例えば、小学校の3年から中学校の3年まで7年間もリコーダーを学習する。教師の労力も相当なものである。だが、大人になってリコーダーを趣味にしている人などほとんどいない。合唱にも相当時間をかけるが、日常生活でちょっとハモって歌ってみるということは、合唱団にでも入ってなければ、ほとんどやることはない。ピアノが弾けたり、バイオリンが弾けたりという人間は五万といるが、それは学校教育とは何の関係もない。ところが、それに「情操」だの「人間形成」だの「個性」だのと言った付加価値がたくさん求められる。いや、それ自体の価値がなかなか実現できないからこそ付加価値が求められるのだろう。そのうち、「付加価値のほうが大切なら別に音楽教育でなくてもいいじゃん」とか言って学校から消えてしまうかも知れない。

【か】

がくりょく(学力) 学力とは何かと言われてもその定義は人によって違う。例えば、「関心・意欲・態度」を重視する人もいれば、あくまでも「学習して到達した力」を重視する人もいる。結局はそれぞれの人が教育の中で何をもっとも重視したいかによって決まるのである。つまり「学力観」とは教育観そのものに他ならないのである。

がくれき(学歴) 時代が進むにしたがって価値の下がってきた言葉。大学卒業者と言ったら昔はエリートだったが、いまではただの人であるどころか、かえって厄介者扱いされることもある。それにともなって「大学教授」という語にも重みがなくなった。さらに吉田某とかいう人物がそれに拍車をかけていると言う。

かんじ(漢字) 書き取りテストをしたら47%しか正解できなかった教師のことが話題になっていた。笑い事ではない。何せワープロ時代である(とくに私はほとんど文章はワープロを使うので、紙に漢字を書くことはほとんどない。手帳やノートくらいだが、人に見られることはないのでわからなければひらがなで書く。板書でちょっと立ち往生することはある)。だからひょっとしたら30%しか書けないかもしれない。大学教員の評価に書き取りテストが導入されないことを願う。

かんどう(感動) 音楽を聴いて感動する。スポーツを見て感動する。めったにないが(^^;、授業を受けて感動する。その感動を他の人と共有する。それによってさらに感動が強くなる。ついに涙がでて止まらなくなる。いいなあ!。とてもいいことだが、そういうふうに感動できない人が必ずいる。例えば、音楽の種類によってはうるさいとしか感じない場合がある。サッカーなんて退屈だと思う人もいる。だから、感動は強制することはできないし、強制してはいけない。当たり前のことなのだが、それが当たり前のこととされない雰囲気が教育界にはある。音楽の時間に、数人はしらけた顔をしている子どもがいる。教師にはそういう子どもが見えていなければならない。だが、そのことをことさら問題視する必要はない。そういう子どもなのだと放っておけばよいのだ。また別の感動のチャンスをつくってやればよいのだ。こういう意味での「ゆとり」は必要である。

【き】

きみがよ(君が代) 国旗及び国歌に関する法律。1999(平成11)年に制定された。その第二条。「国歌は、君が代とする。君が代の歌詞及び楽曲は、別記第二の通りとする」。そしてこの別記第二には「君が代」の五線譜が示されている。すごいことだ。何がすごいかというと、日本国の法律に歴史上はじめて五線譜が掲載されたのである。つまり五線記譜法を国家が正式な記譜法として認知したことになるのだ。

きょういんめんきょほう(教員免許法) 改訂されるたびに教員養成学部がふりまわされる法律。80年代末の改訂では、教科科目が重視され、中学校では40単位必修、小学校では全教科とも必修となった。各学部はそれでかなり苦心しながらカリキュラムの改訂を行った。ところが、それから10年もしないうちに、今度は教職科目重視に変わった。半分の教科科目で免許が取得できる。教員養成審議会(前)のご都合主義によるものである。
私たちが今議論していることも、審議会の考え次第で無駄になってしまうことがある。今「低学力」が問題になっている。どうもいやな予感(とだけとも言えないのだが)がする。

きょうかしょ(教科書) 教科用図書の総称だが、日本の小中高等学校では、文部科学省の検定に合格した図書のみを教科書と言う。同じ教科の教科書を複数の出版社が発行(小学校、中学校音楽は2社)するが、検定を受けるのでどれも似たり寄ったりのものになる。だから今問題になっている歴史教科書をとってみても、それほど大騒ぎをするようなものではない。ナショナリズム中毒の人は、むしろ「えっ?こんなものなの?」と拍子抜けするのではないか。ほめるとしてもけなすとしても、一度手にとって読んでみたほうがよい。

きょうじゅ(教授) 教え授けるという行為の意味だが、大学で教え授ける人のこと指す場合もある。「教授学」という学問のことを「教授になるための学問」と勘違いしている人は結構多い。教授になるにはべつに教授学を勉強しなくても、何らかの学問を極めていればよい。しかし最近では大学教授にも教育の力量が求められるようになったので、教授学をにわか勉強している教授もいるとか。

【く】

くうき(空気) ある集団や社会を支配している不思議な気。日本社会ではこの不思議な気を読めなければ生きていけない。会議の時には、多数決をとらなくてもこの空気によって方針が決められる。全 体の空気と異なった意見を言う人は、ほめられるどころが、あいつは空気が読めないと言って嫌われたり、仲間はずれにされたりする。「おとなになりなさい」と訳の分からないことを言われることもある。それも小さな社会ならよいのだが、国家の方針までなんとなく空気で決まったりする。あの戦争も空気が生み出したのかもしれない。

クルプスカヤ ロシア革命の指導者レーニンの夫人で教育学者だった。教育関係の著作も残っている。日本の戦後の教育学にも大きな影響力を与えた。あの明治図書が『クルプスカヤ選集』というシリーズを出版していたくらいである。「ソビエト教育学」と言う研究分野さえ存在したのである。私も若い頃何冊か読んだ。中身は忘れたが非常に感動したという記憶がある。少なからぬ教育学者が社会主義に対して肯定的であったのは、このクルプスカヤとマカレンコの功績だと私はにらんでいる。それにしても・・・・

クラブかつどう(クラブ活動) 昔は「クラブ」も「部」もまったく同じ意味で課外活動を指していたが、昭和40年代の教育課程の改訂で「必修クラブ」というのが設置されたときに、正規の時間に行うクラブと放課後に行う「部」が区別されるようになった。しかしもともと「部」は「倶楽部」の「部」らしいから、このような区別は適切ではなかった。この「クラブ活動」も大人がやるとあまりよく言われない。クラブ「夕暮れ」とかクラブ「黒猫」といった名前の入ったマッチなどは持ち歩かない方が身の ためである。
※なお現行の学習指導要領の特別活動から「クラブ活動」が削除されたため、必修クラブは廃止になった。だから、これからは放課後に行うものもクラブ活動と呼べばよい。

【け】

けいかく(計画) 計画というのは、たいていは3日くらいで倒れるものである。私は、子どもの頃からおとなになるまで実現不可能な計画ばかりたててきた。
・毎日3時間はピアノの練習をしよう。
・毎朝、英会話を勉強しよう。
・文章を一日に原稿用紙10枚分は書こう。
・授業の準備に授業と同じ時間はかけよう。
・部屋を毎日掃除しよう。
・毎日歯を磨こう。
・ゴミをすてよう。
・てきぱきと仕事をかたづけよう。
・この人と一生ずっといっしょに生きよう
計画倒れもはなはだしい。
ただし、遊びとなるといくらでも続けられるからおもしろい。
・毎日10キロ走ろう・・・いつも書いている通りである。
・毎日酒を飲もう・・・30年以上も続いている。
と言うわけで、いつしか計画を立てるのをやめた。そのおかげで、かなり行きあたりばったりの人生になっている。
この、日記も「極力毎日更新」と言いながら、かなりいい加減で時々見えなくなる。

けいけんしゅぎ(経験主義) (1)親父「俺の子どもの頃、東京オリンピックあった。あれは1960年だった」。子「東京オリンピックは1964年だったと思うんだけど」。父「お前はどうしてそれがわかるんだ」。子「社会科の教科書に書いてあったよ」。父「俺は実際に見たんだ」。(2)年輩の監督「いいか、少しくらいしんどいからといっては水を飲んではいかんぞ。水を飲むとばてるからな」。若いコーチ「水を飲むとばてるというのは古い理論ですよ。今は水分を取らないと脱水症で危険だと言われているんですよ」。監督「俺は何年も監督をやってきたんだ。若造が生意気な口きくな」。

けいしきとうや(形式陶冶) 学 習の中身を問題にせずに、思考力とか想像力とか創造力とか記憶力とか表現力とか生きる力とか言った目に見えない力をつけようとする主張がある。最近ではそれに情報処理能力というのも入るのかも知れない。しかし、私の経験では、そのような教育はほとんどうまくいかない。例えば「創造力を身につけさせるための音楽教育」などはだいたいインチキである。音楽の中身を軽視するのでうすっぺらいものになる。そういえば、どこかの大学の教育学部の目標は「児童生徒・成人に働きかけ、読みとり、働きかけ返す力をもつ教育の教育プロフェッションの養成」だそうだ。これもそのまま行われれば形式陶冶なのだろうが、だれも本気でそんな教育をやる気がないので実害はない。

げいじゅつきょういく(芸術教育)  かつて私は国立教育研究所教科教育研究部芸術教育研究室長という肩書きをいただいていた。室長と言ってもスタッフは一人だけで室員も何もいないので何ということもない。しかし「音楽教育」ではなく「芸術教育」というのがとても好きだった。ところが2001年1月に省庁再編で国立教育政策研究所になり、研究室という名称がなくなった。職名も国立教育政策研究所教育課程研究センター基礎研究部総括研究官という長ったらしくいかめしいものになった。その10ヶ月後にこの職場を去った。

【こ】

こうくん(校訓) 学校の教育目標を簡潔にまとめて表示したものだが、どのくらい意味があるものかはわからない。例えば、「誠実」「努力」「礼儀」「健康」などは、どの学校でも目標になるから、あえて校訓にすることはない。「校訓」というからにはその学校独特のものにしたらよいのだが、多分そんな校訓をつくると世間から批判がくるだろう。
「人をみたら泥棒と思え=安全」「受験では友達も敵だ=努力」「ながいものにはまかれろ=礼儀」「赤信号みんなでわたれば恐くない=協調心」「歯磨きはするな=個性豊かに」「規則はは守らない=勇気」・・・・・

こうこうやきゅう(高校野球) たかが高校生がやることを、天下の公共放送が1日8時間以上もぶっとおしでチャンネルを使い、新聞は毎日2面を使って報道するような国が、世界のどこかにあったら教えてほしい。高校野球、合唱コンクール、吹奏楽コンクール。全国で同じ時期に同じことをしている。大事な青春無駄にして!

こども(子供、子ども、小人、小供、こども)  漢字の使い方によってその人の見方がわかる言葉。「子供」は公用文で使われる。ただし、文部科学省は子供という言葉はほとんど使わない。小学生は児童、中高校生は生徒である。「子ども」は教育関係者が使う。供だと大人のお供のような印象を与えるからだ。「小人」は、銭湯、映画館、遊園地、乗り物その他、料金を徴収する人たちが使う。「小供」と書く人は支離滅裂な人。私の授業のレポートなら不可である。「こども」は祝日「こどもの日」で使われる。ひらがな覚えたての子どもが読めるようにするためか。それなら、「こどものひ」がよい。

こめひゃっぴょう(米百俵) 長岡藩が戊辰戦争の見舞いにもらった米で学校を建てたという話である。確かに教育は大切だ。しかし、米で学校を建てられるうちはまだゆとりがあるということなのである。そのゆとりもないのに学校建てたら餓死者が出てしまう。まさか餓死者が出ても学校建てるほうが先だとは言うまい。どこかの政治家がこの米百俵の話を持ち出していたが、食と教育をはかりにかけること自体が適切かどうか。
「衣食足りて礼節を知る」という言葉もある(最近は「衣食足りて礼節を忘る」という言葉もあるが)。

【さ】

さいのう(才能) 才能のある人を見つけて来て、その才能を伸ばしてやることはそれほど難しいことではない・・というより伸ばしてやろうとしなくても自然に伸びてくるからだ。しかし、才能のない人 の熱を冷ますのはなかなか難しい。才能のない人は、自分の能力さえ見極めることができないからだ。
私は、大学生の頃ピアノに対して少しは情熱はあった。しかし、自分が1週間かけてやっと譜読みをした曲を初見で弾く友人がいた。それもはるかに私よりも音楽的に弾く。すぐに自分の能力を見切った。それからはピアノの練習時間を教育学や心理学の本を読むことにまわした。
その人とはまったく次元が違うくらい力のある人に会わせるのは一つの方法かも知れない。将棋の谷川棋王のお兄さんは自分も棋士になりたかったそうである。しかし、弟が強すぎたのであきらめて東大へ進学したという。みんなが谷川のお兄さんのように行くわけではない。自分に合った生き方を見つければ良いのである。あきらめることはそれほど悪いわけではない。
一方、自分の生徒の才能(能力)がないとわかっていながら、ずっと幻想を抱かせ続ける教師がいる。これはもう罪である。音楽の教師にもそういう人がたくさんいる。

さん 最近、男子にも女子にも 「さん」づけで呼ぶ学校が増えた。「さん」「くん」だと男女差別につながること、「くん」だとさげすんだ言い方になるということが理由らしい。私はどうでもよいことだと思うが、それでお互いに尊敬しあう気持ちが生まれいじめなどが少しでも少なくなるのなら、それはそれでよい。実際の効果を聞いてみたい。私の小中学校の頃は、土地柄も時代も男尊女卑が残っていた。だから当然男子は女子に対しては呼び捨て、女子は男子に対しては「さん」付けだった。さすがに高校になると女子に対して呼び捨てはしなくなった。しかし、女子が男子に「くん」づけすることは絶対になかった。だから大学に入った時に同級生から「吉田く ん」と呼ばれた時は抵抗があった。

さっちゃん(サッちゃん) 最近 亡くなった阪田寛夫氏の作詞による童謡。「さちこ」ていうんだホントはね。この童謡、なんとなく寂しい気持ちになるのはなぜだろう。そういえば昔、ばんばひろふみという歌手が Sachiko という歌を歌っていた。この歌は寂しいというより悲しい歌だった。私は結構好きでカラオケレパートリーの一つでもある。ただし、「さっちゃん」という女性とつきあったことはない。いや年をとったので忘れてしまったのかも知れない。「さびしいね、サッちゃん」。

【し】

し(死) 死というのは、実は子どもにとって非常に恐ろしいものである。私は、5歳くらいに祖母の死によって、はじめて死を意識した。人間がいつかは死ぬことを知った。それ以来、死がいつも頭から離れられないようになった。老人を見ていて、もう死が近いのによくあんなに平然としていられるなあと思った。家がキリスト教だったので、「天国」という言葉を聞いて少し自分をごまかせたが、ごまかしきれはしなかった。天国に行くのは、らくだが針の穴を通るより大変なことなのだから。
しかしおとなになってから、ごまかす方法を覚えた。「死を考えるよりも、人生をどう生きるか。これが大切なのだ」。少しも解決にはなっていないのだが、それによって死を忘れることができる。これがおとなのずるさというものか。
ある哲学者がおとになっても死を考え続けることができれば哲学者になれるというような趣旨のことを言っていた。私は素質がなかったのだ。

しどうとしえん(指導と支援) 教師が前でどんどん引っ張って行くのが指導、後ろからそっと押してやるのが支援。ある時期は「支援」が大流行だったが、最近は影を潜めている。教育の世界は、振り子のように揺れるので、そのうちまた戻ってくるだろう。私の予想ではあと15年くらい先だろう。その時まで生きているだろうか。

しょうか(唱歌) (1)明治5年の学制発布から唱和16年の国民学校令の発布までの間、小学校で実施された教科の名称。 (2)「唱歌」科で使用された歌唱教材。文部省唱歌とはその歌唱教材の中で文部省著作のもの。「文部省著作」と言っても作詞・作曲者はいたので、現在判明している曲については「文部省唱歌」という記述とともに作詞・作曲者名が明記されている。小学校学習指導要領では、共通教材として6年間で24曲の歌唱共通教材が指定されているが、そのうち17曲が文部省唱歌である。またその17曲のうち、6曲が高野辰之(作詞)・岡野貞一(作曲)コンビによるものである
(作曲者については異説のあるものもあるが、学習指導要領にはそう書かれている)。文部省唱歌が多いこと、このコンビのものが多いこと、どちらも偏りすぎている。おまけにどうでもよい歌も多い。

じょうそうきょういく(情操教育)  この言葉を振りかざせば振りかざすほど、振りかざした人の情操が疑われることば。

【す】

すいちょくしこう・すいへいしこう(垂直思考・水平思考)
 (1)物事を時間的な関係性において捉えようとするのが垂直思考、空間的な関係性において捉えようとするのが水平思考 (2)物事について直立したまま考えるのが垂直思考、寝転がって考えるのが水平思考。私はもちろん水平思考が好きである。水平思考だけでなく、水平読書、水平テレビ視聴、水平飲酒・・・みんな大好きである。ただし、寝転がってるのならよいのだが、いつのまにか寝てしまうのが難点である。水平テレビ視聴をしていると子どもたちによく言われたものである。 「お父さん、寝てたでしょう」 もちろん私はむきになって否定した。 「寝てなんかないぞ!」 なぜ、こんな時むきになって否定したのか、自分でも未だに理由がわからない。 ♪なんでだろう♪

すだちのうた(巣立ちの歌) 卒業式のシーズンである。村野四郎作詞、岩河三郎作曲で、卒業式定番のクサいクサい合唱曲。いやあ、それにしてもクサい。サビの「いざさらば、さらばせーんせー」まで来ると、こらえきれず泣き出す子もいるとか。ああ、クサい。でもいい。1965年発表だと言う。もう40年も前の歌だったんだ。

スポーツ 体育という言葉は「体を鍛える」とか「精神を鍛える」というような言葉を連想して嫌いである。子どもの頃、体育の時間が何よりも嫌いな私は、「体を鍛える」などいらぬお節介だと思っていた。最近は大学では「体育」という言葉は使わず「健康・スポーツ」というようになりとてもよい。文部科学省も「体育局」ではなく、「スポーツ青少年局」になった。つい でに、日本体育協会とか国民体育大会とか高校体育連盟とか体育科教育とかもぜんぶ名前をかえたらよい。ただ、スポーツではなくて何かよい日本語はないものかとも思うが、十分日本語になっているのでよしとするか。

【せ】

せいぎ(正義) 当たり前のことだが(実はこの年になってやっとわかってきたことなのだが)、「正義」と「悪」の基準は人によって違う。自分から見てどんなに卑怯で邪悪な行為であっても、やっている本人から見ればそれは正義なのである。極端な場合、法に反するような行為、あるいは世の中の99.99999999%の人が悪と判断する行為でも、本人にっとっては正義なのである。だからこそ戦争(国家の正義)もなくならないし、凶悪犯罪(犯罪者の正義)、不当解雇(企業の正義)、いじめ(いじめっ子の正義)もなくならないのだ。正義はかえって残酷な結果を生み出すことさえある。
かつて、周囲に「正義感のかたまり」と言われ、自らもそのように自覚していた青年がいた。だからこの青年は他人の行為を徹底的に批判した。そして自分が少しでも批判されるとムキになって反論した。他人を批判する時は理路整然としているのに、自分への批判に対する反論は感情的で支離滅裂だった。しかし年齢を重ねるにつれて、この青年もだんだん自分の正義を疑うようになってきた。そのうち「自分は悪人かも知れない」とまで思うようになった。今では「オレは悪人だ」とはっきり自覚しているそうだ。そして「これがオトナになることなのだ」とすっかり悟りの境地を開いているそうである。

ぜったいひょうか(絶対評価) まだまだ解決すべき問題はたくさんあるが、文部科学省は五段階相対評価を完全にやめて絶対評価にする方針を打ち出した。これに対して「入学試験に使えない」というようなクレームもあるそうだが、そもそも学校の評価を入学試験に使うことが問題なのだ。それはそれとして弘前大学に赴任して驚いた。「厳正なる成績評価」というような名目で、事実上相対評価が義務づけられているのである。「平均は70点になるように」とか「成績評価が一部に偏らないように」とか非常にうるさい。成績評価が偏った場合は理由を書かなくてはならない。一度全員に「優」を出したことがある。これは「偏っている」ということになる。理由の欄に「すぐれた指導をしているから」と書いて提出しておいた。

せんせい(先生) 先生が先生と呼び合うのはおかしいという説がある。わたしも「さん」と呼べたらよいと思う。しかし、そのためにはそういう社会関係や人間関係ができていることが条件である。私の友人のYさんの講座では、教員、学生すべて「さん」づけで呼ぶ約束ができているそうである。完全な約束はできていなくてもそういう関係ができていればそれでよい。そうではなくて、相手が「吉田先生」と呼ぶのに、自分だけ「○○さん」では失礼である。また、「さん」と呼び合えるような親しい人は別として、相手の年齢などによって「さん」「先生」を使い分けるのは差別である。「先生」と呼んでおくほうが無難である。ただし、公の場で外部の人と話すときに、身内のことを「○○先生」と呼ぶのはそれが上司であっても言葉使いとして間違っている。

ぜんめんはったつ(全面発達)も はや私(死)語と化した教育の目標。まあ、幻想だったのでしょう。

【そ】

そうごうてきながくしゅうのじかん(総合的な学習の時間) 最 初に教育課程審議会で「横断的・総合的学習」が提唱された時には、現在の教科ではカバーしきれないような内容について学習する時間かと思っていた。しかし、ふたをあけたら何をするのかはっきりしないよくわからない時間になっていた。小学校学習指導要領では、「総合的な学習の時間においては,各学校は,地域や学校,児童の実態等に応じて,横断的・総合的な学習や児童の興味・関心等に基づく学習など創意工夫を生かした教育活動を行うものとする」となっている。これじゃあ、「何でもいいからやってみな」と言ってるに等しい。この時間を利用して成果をあげている学校もあるが、ただなんとなく時間を過ごしているだけの学校も多い。中身は旧来の教科の内容で、「総合的」というころもだけをかぶせた天ぷらカリキュラムの学校もある。

そうぞうせい(創造性) 新しい ものを作り出す能力のことだが、教育界はこの言葉を安易に使いすぎる。創造なんて簡単にできるものか。まず模倣からはじめるべきだ。もちろん「これは模倣だ」ということを自覚させなければならない。でなければ、模倣を創造と勘違いしてしまう。そう、私は本音を言えば、「創作」に反対なのである。

そつぎょう(卒業) この言葉を聞いて、ダスティン・ホフマンを思い出し、カーペンターズの「サウンド・オブ・サイレンス」や「スカボロフェア」の旋律が頭に浮かぶ人は、相当なおやじで ある。そう言えばフォークソングに「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」という女々しい(おっと失礼!)歌もあった。

【た】

だいがくのじち(大学の自治) もうすっか り死語に近くなってしまった言葉。行政の力が強くなったせいもあるが、一番の理由は大学自治の恩恵を一番多く受けた人たちが、大学の自治をすっかり食いつ ぶしたせい。その人たちは、食いつぶしただけでまったく修復もせずに大学を去っていく。ぼやいてもしょうがないが。

たんげん(単元) 関連した内容の授業のひとかたまりのことを「単元」と呼ぶが、音楽などの場合、「なじまない」という理由でかわりに「題材」という言葉をつかう。しかし、音楽の場合でも授業のひとかたまりは当然存在する。だから単元も存在する。その単元の「主題」または「教材」のことを「題材」と呼んでいるにすぎない。私も混乱をさけるため、普通は「題材」を使っているが、本音を言えば「単元」を使いたい。

たんい(単位) 大学生が大学で学ぶ直接の目的はこれを規定通り集めることにある。その内容がどうあれ、これさえ集めることができれば、無事卒業となりめでたしめでたしである。ふつうにやっていれば、たいていは4年間でおつりがくるほどとれる。それができないのは、裏口入学者(・・でも入ってしまえばチョロい)か、かなり怠け者か、学生をいじめることが趣味のサド的教員にあたった場合である。例えば、うっかり携帯をマナーモードにするのを忘れて音が鳴っただけで、出席禁止になった学生がいるとか。私はそんな意地悪はしない。(授業中にどこから携帯の音がするので、「だれだ!」としかったあと、よく聴いたら自分の着メロだった)。

【ち】

ちいくへんちょう(知育偏重)なにか子どもをめぐる事件があると、このせいにされた。しかし、学校は知育をするところなのだ。それに対して「偏重」という批判は的はずれなのだ。知育をすべき場所で知育がされてないことこそ一番問題なのである。

ちゅうおうきょういくしんぎかい(中央教育審議会) 中教審 と訳される。文部(科学)大臣の諮問機関である。かつては教育の基本的な事項について審議する機関であったが、現在は教育課程審議会、教員養成審議会、などもとりこんで唯一の諮問機関になっている。本来は国の教育政策に関して、専門家の立場から忌憚のない意見を言うために設置されたのであろうが、実際には国の政策を追認したり、権威づけたりする機関になっている。とくに旧教員養成審議会は、朝礼暮改のように方針変更を繰り返し、教員養成大学が学部に迷惑をかけている。

ちゅうくんあいこく(忠君愛国) 「忠君」は君につくすこと、すなわち上向きの精神の在り方である。「愛国」は国という自分の所属する集団、つまり公という横に広がる精神の在り方である。したがって「忠君」と「愛国」は両立しえない対立した概念である。愛国に向かえば向かうほど忠君との軋轢は大きくなる。だからこそ、明治維新の志士たちは、「愛国」のために「忠臣」を捨てたのである。しかし、「愛国」すなわち「公」のためと言いながらひとたび権力を握った者は、今度は人民に「忠君」を求めるようになる。これは現在でも同じである。企業、国の組織(官僚機構)、学校と、形は違っても組織はその構成員に忠君を強制するのである。そして「忠君」と「愛国」という矛盾した精神を同時に求めるというグロテスクな教育(「愛国」は大義名分)がはびこることになる。本来の「愛国」とは「忠君」とはけっして両立しない権力に媚びない精神の在り方を示すのである。権力に媚びて生きるエセ愛国者よ、わかったか!!・・・とインターネットだけで大口をたたく・・・・

【つ】

つうしんぼ(通信簿) 私たちが子ども頃は、通信簿というのは私たちの心にずっと重くのしかかるものだった。何と「終業式」の日のことを「通信簿もらいの日」と呼んでいたくらいである。五段階相対評価であった。クラスは50人くらいだったか。五段階のそれぞれに定数があるわけだから、大変である。5をもらうには、だいたいクラスで5位には入っていなければならないわけである。しかし今考えてみると、五段階相対評価というのはわかりやすい方法であった。保護者からみれば、子どもの位置がすぐわかるからである。私の子どもたちの時代には、もう五段階ではなかった。観点別に○(よくできる)または△(がんばろう)または無印である。保護者にとっては何 の資料にもならなかった。昔に戻せというわけではなく、保護者に対してはもう少しやりようがあるはずだと思った・・・というのがもう20年も前のことである(^^;

つっぱり つっぱりにも社会の不正義や権威に対してあえてコトアゲする志の高いつっぱりと、単にわがままを言っていきがっているだけのだけの志の低いつっぱりがいる。「どうせつっぱるならもっと大きくつっぱってみな!」と言いたくなるようなアホなつっぱりが増えている。・・・というかつっぱってるというつもりもないのだろうな。

つめこみきょういく(つめこみ教育) 知育偏重とならんで諸悪の根元のように言われてきたが、今の子どもは何もつめこまれなさすぎている。からっぽに近い。からっぽのびんを振り回しても何も出てこない。・・・・と、中身の残り少なくなったびんを振り回している研究者もいる(^^; 最近、見栄をはって Output 過剰気味なので、Inputに四苦八苦しているという噂。

【て】

テスト テストだけでは人間の能力を評価できないと言われる。当たり前のことである。ならば、テストではかれないものを、その他の手段で本当にはかることができるかと言うと、そうではない。テストで評価できるのは人間の能力のある一面である。そういう意味では面接をしようとそれはある一面にすぎない。ただ、テストと面接が違うのはテストのほうが評価(問題作成には主観が入り込むスキはあるが)に主観が入り込まないことである。とくに公平さが一番問題になるような入試の場合、テストだけできめるのが一番よい。私は、本音を言えば、大学入試に当日のテスト(実技を含む)以外の面接、調査書などいろいろな材料を持ち込むのには反対である(もちろん決めら れたことはいっしょうけんめいやるが)。
大学の授業の場合も、テストの他、出席などの平常点で評価しろと言われるが、私はテストを一番重視しようと思っている。出席点などはごくわずかである。こ れを読んだ学生は覚悟することだ。

でんとう(伝統) どこからどこまでかという境界のはっきり区別のつかない概念。例えば伝統音楽であるためには、時代をどこまでさかのぼればよいのだろう。明治から続くものを伝統というならば、唱歌は立派な伝統音楽である。「夏の思い出」(江間章子作詞・中田喜直作曲)だって、昔の歌だ。尾瀬がそんなに遠いものか。それでも50年も学校で歌われ続けて来たのだからこれも立派な伝統音楽である。もっとさかのぼって、バッハやベートーベンの音楽は伝統音楽じゃないのか。

てつどうしょうか(鉄道唱歌) 「汽笛一声、新橋を・・・」。明治時代(1900年)に地理教育のために作られた唱歌。現代ではこの発想はあまりない。全国の都道府県と都道府県庁所在地 が入った歌とか、かけ算九九を覚える歌とか、円周率を100桁覚える歌とか・・・。おもしろいかもしれない。・・実はたくさん出ているそうである。情報提供に感謝

【と】

どうとく(道徳)  今や小中学校の道徳の時間以外では死語になった言葉。かつては、法律は最低の道徳だと言われた。しかし、現在は法律を守ることさえ道徳の外側のことになってしまっ た。それをぼやくだけで、何もしようとしないのも不道徳である。しかし本気で道徳的に生きようとすれば、現代のドン・キホーテになるしかない。

とうや(陶冶) 教育の機能の中 でもとくに能力形成の側面をこう呼び、人格形成の側面を「訓育」と呼んで区別することがある(最近ははやらなくなった)。音楽で言えば、音楽の知識や技能 を育てるのが「陶冶」、豊かな情操を育てるというのが訓育ということになる。「陶」は陶器をつくること「冶」は金属を溶かして鋳物をつくることである。「冶」だけだとなんだか型にはめるだけのような気がするが、「陶」によって、なんとなくこねたりさすったりして大切に作っていくという感じがする。ある時は型にはめることも大事だし、あるときは丁寧にこねまわすこともたいせつだ。なかなか味のある言葉なのだが、あまり使われなくなって残念だ。

【な】

ないしんしょ(内申書) 各教科の評価や学校生活における活動の記録を記載し、受験先に内々に申告するための文書。ただし、最近は「内申書」の開示が求められるようになったので、「内申書」と呼ぶこと自体が不適切になっている。「調査書」で統一したほうがいいでしょうね。

ナショナリズム 青森県人だからと言って、高校野球で青森県からの出場校を応援する必要はないし、応援しなかったからと言って責められるわけではない。広島県人でもジャイアンツファンは たくさんいる。江戸っ子にだって阪神ファンがいる。しかし、オリンピックのサッカーの試合で、日本人が相手国のチームを応援したりしているとそれは奇妙である。こういう面から見ると、国というのは私たちが帰属意識をもてるもっとも安定した単位である。それは自然な感情である。その感情は私たちの国が他の国より優れているから生まれるのではない。サッカーの試合で勝てばうれしいが、負ける時もある。負けることがあっても、あるいは男子バレーのようにオリンピックに出場できない競技があっても私たちの国は私たちの国である。不幸にしてオリンピックで一つも勝てなくても私たちの国である。世界にそんな国はいくつもある。何の取り柄もないけれど私は私の国を愛する。これが健全なナショナリズムというものである。それに比べて「日本人としての誇り」や「日本人の優 秀性」をことさら強調するのは不健全なナショナリズムであり、偏狭なナショナリズムである。相手国のナショナリズムをも認める健全なナショナリズムの教育が必要である。

なまえ(名前) 小学校の教師にとって子どもの名前を覚えることはとても重要なことらしい。なんせ、特定の子どもばかり覚えていると「えこひいき」と思われるし、特定の子どもの名前を忘 れると「大切にされていない」と思われるかも知れない。そういう意味では私はもう小学校の教師にはなれないだろう。一度覚えても名前が出てこないことが多い。ブラウン管のテレビタレントの名前が思い出せない。会議の時に、「○○先生がおっしゃいました点について」と言いかけて○○が出てこない。少人数の授業をしている時に「○○さん、この点についてどう思いますか?」と質問しても○○さんが出てこない。で、しょうがないので、指さしして「どう思いますか?」とごまかす。・・・単に年齢から来る健忘症にすぎないのかも知れない。
考えて見ると、小学校の先生の場合、私の年齢の先生はたいてい管理職になっている。だから少しくらい健忘症になっても努められそうである。しかし、大学教員はそうではない。たいていは65歳まで現役である。今はまだごまかしがきくが、あと10年持ちこたえられるのか? 同じ授業で同じ話を3回した・・・・ こういうことがおきたらすぐやめようと思う・・・・えっ、「それならもうやめろ」だって? そういうわけでやめました。

【に】

にのみやそんとく(二宮尊徳) 私は、北九州の生まれである。家が若松高校の近くにあり校内でよく遊んでいた。その若松高校の玄関の前に二宮金次郎が背中に薪(だったと思う)を背負って、本を読みながら歩いている銅像が建っていた。祖父が「こんな人になりないさい」と言っていた。農民の生まれであるにもかかわらず、勤勉のゆえに藩士となり藩の財政の建て直しに貢献したのがこの尊徳である。勉強して社会に役に立つ人間になる。当たり前のことなのだが、最近は勉強は自分のためにするものでしかなくなった。損得勘定で勉強してはいけない。金次郎のようにがんばろう!(ありゃっ)

にんげん(人間) 世の中でもっともいろいろな意味で使われる言葉。人間愛、人間性、人間教育などふつうは肯定的に使われる場合が多い。「そんなひどいことをする人は、人間じゃない」と言う言い方をするのも人間を肯定的に見ているからである。しかし、実際には「人間じゃない」と言われるような行為はほとんどが人間だからこそできる行為である。おぞましいので例は省 略するがよく考えてほしい。だから、簡単に人間愛とか人間性とか人間教育と言葉を使う人を見るとかえってこわくなる。教育の世界ではあまりにも簡単に「人間」を語りすぎる。教師の世界でも「あの子はいい」とか「あの子はひどい」というような評価をする。しかし「人間」の評価というのは、結局はその人の言動のうちで自分が知っている部分に対する印象でしかない。人間について語ることは、かえって個別の行動や業績や能力について不当に低く評価したり過大評価したりすることになる。学習者をほめるときは、その行動や成果をほめるべきであって人間をほめるべきではない。注意するときも、その行動やできばえについて注意すべきである。

【ぬ】

ぬきうちテスト(抜き打ちテスト) 予告なしに突然試験をすること。今や、この言葉も死語になった。今大学で抜き打ちテストをしたら「シラバスにそんなこと書いてない」といって文句を言われるだろう。それなら、シラバスに次のように書いておくことにしようか。「学期の間に3回テストをします。この3回のテストの点が計60点、期末テストが30点、出席点を10点とします。学期の間のテストは予告なしに行います。出席者の少ない日に抜き打ち的に行います」

ぬりえ(塗り絵) 「創造性」という言葉をひけらかす人からは「塗り絵的教育」とか言って批判されるが、実は立派な仕事である。漫画やアニメの制作現場ではこの絵に色をつける人たちが必ず必要である。漫画家志望者はアシスタントとして漫画に色をつける作業をしながら、修行をつんでいくのである。それはおいておいて、私たちが子ども頃は、授業が退屈になると教科書の挿し絵に色鉛筆で色を塗る、つまり塗り絵をしていたものである。音楽の教科書ならたいていはまず作曲家のカツラに色を塗ることからはじめたような気がする。ところが今の教科書はカラフルになってはじめから色がついている。子どもたちから塗り絵の楽しみを奪ってしまった。

【ね】
ネタ もともとは「たね」をひっくりかえした言葉。すしのネタのように材料という意味がある。授業研究では、教材のことを「ネタ」と呼ぶことがある。例えば、「授業ではネタが大切かウデ(教授の技術)が大切か」ということが議論のネタになる。ネタには手品のたねのように、しかけという意味もある。授業でも「しかけ」のことをネタという場合がある。 吉田は「教材」「しかけ」どちらの意味でもネタを大切にする。もう若い頃に、『授業のネタ・音楽』(日本書籍)という本を出して、けっこう売れた(もう廃 刊なんでしょうね)。ただ、ネタにおぼれて子どもを忘れることもあるので注意しなければならない。----ちっともひねくれてないですなあ----

ねんれい(年齢) 年齢の数え方 はかなりやっかいである。例えば学校教育法には次のような規定がある。
「保護者(子女に対して親権を行う者、親権を行う者のないときは、未成年後見人をいう。以下同じ。)は、子女の満六歳に達した日の翌日以後における最初の学年の初めから、満十二歳に達した日の属する学年の終わりまで、これを小学校又は盲学校、聾学校若しくは養護学校の小学部に就学させる義務を負う」。最初の学年の始めというのは4月1日のことである。「満六歳に達した日の翌日以後における最初の学年の初め」というと、3月31日に満6歳に達した子どもとって「その翌日以後の最初の学年のはじめ」とは、その翌日の4月1日だから、この子どもはこの年小学校に入学することになる。では4月1日に満6歳に達した子はどうなるか。当然のことながらその翌日は4月2日で、もう「最初の学年の初め」を過ぎている。だからこの子が入学するのは次の年ということになる。と ころが4月1日が誕生日の子は、その年のうちに入学してくる。何故か! 実は、法律的に言えばある年齢に達するのは、誕生日ではなくその前日なのである。 4月1日が誕生日の子どもは3月31日に満6歳に達するのである。だから4月1日生まれの子どもが同学年の子ども中で最年少ということになる。それにして も、この1日差は大きい。得なのか損なのか。

【の】

のうしじょうしゅぎ(脳至上主義) 吉田の造語である。左脳は言語脳で右脳は音楽脳だという説は、かなり広く信じられているようだ。しかし、言語活動や音楽活動がそれほど単純なものか。逆に脳の構造がそれほど単純かどうか。かつてこの説を音楽科の存在理由にしようとした人がいる。右脳活性化に役立つと言ってクラシック全集のセールスに来た人がいる。養老氏の本が飛ぶように売れる。茂木なんたらさんという人がタレント化している。みんな脳至上主義である。

ノート 最近の大学生はノートを全くとらなくなった・・・というより、授業にノートを持ってこない学生までいる(こんな学生に授業の評価をされたくなかった)。私は、レジュメやプリント資料を作って授業に望む。これがどうもいけないようである。ますますノートをとらなくなる。自分自身は、退屈な話ほどノートを必死にとることにしている。退屈しのぎになるからである。またノートをとると、ナンバリング(数字打ち)やラベリング(見出し付け)を意識するようになる。ナンバリング、ラベリングがきちんとできている話は、わかりやすいしノートもつけやすい。話し手がどれくらい準備をしてきたがわかる(中には、「これからポイントを3つ話します」というので、番号をつけてノートをとっていたら、2つしか話されなかった例もある。政治家の話にはこの手のものが多い)。ノートをとっている状態は、思考している状態でもある。大学生にもノート指導が必要だ。

のうりょく(能力) 日本国憲法には次のような条文がある。「第26条 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」。この文章はおかしい。「その能力に応じて」と「ひとしく教育を受ける」は矛盾する。実際にもひとしい教育など受けてはいないではないか。理想は「それぞれの個性や能力に応じて、それにふさわしい教育が受けられること」でなければ、ならない。もちろん「ふさわしい教育」は、能力の高い人が高度な教育を受けられることだけではなく、発達障害や学習障害を持つ人が手厚い教育を受けられることを意味する。だから、憲法の条文は次のように解釈すべきである。「ひとしく権利を有する」。つまり「ひとしく」は「教育受ける」ではなく、「権利を有する」にかかっているのである。次のように書いてあればよかった。「すべて国民は、能力に応じて教育を受ける権利をひとしく有する」。
文章を書くときに、副詞(句)や形容詞(句)の位置をどこにするかは悩ましい問題だ。
「あいまいな日本の私(大江健三郎)」、「前科三犯の吉田孝の知人」

【は】

はつもん(発問) 一般的には「授業において教師が子どもに問いを発すること」(岩波小辞典「教育」)を言うらしいが、これだけでは発問の機能を正確に言いあらわしていない。次のように定義するべきである。
「発問とは学習者の頭の中に問いを発生させるような教師の言語行為である」
この発問が音楽の授業の中でどのように機能するのかを実践例をもとに検討した論文を書いた(今最後のチェックをしている)。
日本音楽教育学会の第2学会誌『音楽教育実践ジャーナル』に投稿するつもりである。編集委員からクレームがつくかも知れない。そうしたら面白いなあと思う。

はなまる(花まる) 教師(とくに小学校低学年)がよくできた子どもの答案に書いてやる丸のこと。小学校時代には私ももらったのだが、あんまりうれしくなかったような気がする。今はどうなのだろうか。今度、大学のレポートに花まるを書いて返してあげようか。ただ、あんまり花まるかけるようなレポートは少ない。

ばんしょ(板書) 教育技術の一つである。教師が黒板をどう使うかはかなり重要な問題である。板書の技術はもっと研究されるべきだ。また教員養成の場ではもっと訓練されるべきだ。私も訓練されたことがない。それにこの技術については研究もしていない。だからへただ。戦前の師範学校時代には、かなり訓練が行われたようだ。1度調べてみたいと思っているのだが・・・時間がない。

ハンディキャップ 昔のイギリスの話。競馬で同じ馬ばかりが勝つのでおもしろくない。それで、おもりを使って同じ馬が勝たないようにすることにした。どの馬にどのくらいのおもりをつけるかは、くじ引きで決めることにした。それで、帽子(Cap)の中にくじを入れてその中に手(hand)を入れてくじを引く。Hand in cap→Handicap が語源である。

【ひ】

PTA(Parent-Teatcher Association) 某大学では、入学式を2回に分けて行うと言う。保護者のスペースを確保するためだそうだ。また、ある学部は成績表を保護者に送付している。別の学部は保護者と教員の懇談会を開催している。そのうち○○大学PTAというのができるかも。かくして子離れ、親離れはがますます遅くなっていく。すでに企業の入社式に付き添う親もいるそうだ。学校の教員の親も学校に付きそうようになるだろう。保護者参観日というのは、教員の親が自分の子の授業を参観する日だったりして。夜家に帰ったら、母親は教員である息子に「たかしちゃん、今日の授業よくがんばったね。ママはとってもうれしいわ」とか言うのだろうか。Parents of Teachers Association とか言う組織ができたりして・・・・・

ひろだい(弘大・広大) 「ひろだい」というとずっと西の方ばかりにいた私は自分の出身の「広島大学」のことばかりだと思っていた。ところが、東京に来ると「ひろだい」と言うと「弘前大学ですか?」と聞かれたことがある。そうか、「弘前大学もひろだいなのか?」と思っていたら、その大学に転任することになった。まだ自分でも混乱しているところもあるが、西に方に行ったら「北のひろだいに勤めています」、こちらでは「西のひろだい出身です」と言ういうことにしている。ちなみに、MS-IMEもATOKも「ひろだい」と入力すると「広大」しか出ない。不便なこと極まりない。

ひょうせつ(剽窃) ある本に次のような箇所がある。「帰朝してから伊沢が痛感したのは、日本には音楽教育が全然ないことであった。彼はすぐに文部省上層部に働きかけて、音楽教育の研究機関を創設させた。この機関は「音楽取調掛」と呼ばれ、明治12年に創設された。伊沢修二はその御用掛を命ぜられた」。これよく似た文が、有名な歴史的名著の中にある。「日本に帰ってから伊沢修二が痛感したのは、音楽教育というものがぜんぜん日本にないことであった。彼はすぐさま文部省上層部を説いて音楽教育の研究機関を創設させた。この機関というのが明治12年創設された音楽取調掛で、東京師範学校長伊沢修二(29歳)がその御用掛を命ぜられた」(堀内敬三『音楽明治百年史』音楽之友社、1967)。よく似ているが、違うところもある。(1)漢字をひらがなになったり、ひらがなを漢字になったりしている。(2)途中の言葉や語尾を少しだけ変わっている。(3)文の一部が省略されている。(4)文の順序が入れ替わっている。-----それにしても、もう少し上手にできないものか。

【ふ】

ふぞくがっこう(附属学校) 教育学部の学生が教育実習を実施したり、教育研究を促進したりするために大学に附設された学校を言う。入学時に選考を行うのは、教育実習生にへたくそな授業をされても、研究開発のための変則的なカリキュラムを実施しても、一時的な学力の遅れを十分に回復できるだけの能力のある児童生徒を確保するためである。だからエリートを選抜するためではないという「建前」を示すために、まず選考の際に第一次の学力試験で入学定員を超える数を合格させ、抽選で最終合格者を決定する措置を取ってきた。しかし、保護者の中には附属をエリートの通う学校と誤解している人はまだまだいる。最近は、この抽選制度をやめる附属学校が増えている。「抽選で進路が決まるのは教育的によくない」という保護者の要望もあるようだ。「抽選が教育的によくない」と思うのは、附属に入学することが名誉なことであるという誤解の裏返しである。抽選が教育的でないというのなら、教師の見習いの授業を受けることが非教育的だとは思わないのだろうか。非教育的なことがいやなら、はじめから受験させなければよいのである。抽選を廃止することは、学校みずからが保護者のそういう誤解や身勝手さを是認し建前を放棄することでもある。
なお、附属学校の情報をインターネットで検索するには「附属学校」としっかり入力しよう。「附属」だとたいていは病院とか図書館が出てくる。
"fuzoku"とは決して入力してはいけない。←コウカイテモヤッテミルヒトガ10ニンハイル。

ぶんがくきょういく(文学教育) 日本の国語教育はこの文学教育に偏重しすぎた。例えば「ごんぎつね」という教材に15時間もかける授業がある。そしてそこでは、「この場面でのごんや兵十の気持ちを考えましょう」などと国語とは関係のないことばかりに時間を費やしている。そのために、肝心かなめの、文章を読みとる能力、書く能力、聞く能力、話す能力といった基本的な能力をつけることはおろそかにされてきた。文学作品などは、授業で細かく指導するよりも、日常生活でできるだけ多読させるほうがよい。細かすぎる指導によってかえって子どもたちは本を読まなくなっている。

プラトン 哲人によって納められる理想世界をめざした哲学者である。音楽教育についてもいろいろ発言しているらしい。それについて私は何も知らんが、実は密かにプラトン主義なのである。若いときはプラトン的な愛、すなわちプラトニック・ラブをいつも実践していたのである。・・・それ以上進まないうちに愛のほうが終わっていたからだ。

【へ】
へいきんりつ(平均律) オクターブを平均的な音程に等分割した音律。等分割というのは、隣り合った音同士の振動数の比が一定であること、すなわち振動数の数列が等比数列になっていることである。 振動数が等比であれば人間は等差に感じる。エネルギーが10倍、100倍になれば、マグニチュードが1段階、2段階とあがっていくのと同じことである。
代表的なものは1オクターブを12等分した12平均律である。理論的にはいろいろな平均律を考えることができる。全音音階は6平均律と言えるし、FとBの鍵盤だけの楽曲を作れば、2平均律である。また、13平均律や29平均律なども可能である。20世紀前半には、クォータートーンピアノ(24平均律)のピアノが作られ、そのための楽曲も作曲された。オリジナルな楽曲をつくるのなら、素数を使った方がよさそうな気がする(そうでないと、平均律と共通する音程ができるからだ。例えば15平均律だと3つの音が平均律と共通音になる)。
また実用できる考え方(あくまでも考え方)に53平均律がある。これだと、純正律やピタゴラス音律などのほぼ近似値をほとんどカバーできる。
大全音を9律(1律はオクターブの1/53)、小全音を8律、大半音を5律、小半音を4律と考えれば、イメージしやすい。

へいわきょういく(平和教育) 平和を愛する国民の育成をめざす教育・・でいいのだろう。となると平和の反対は戦争。だから戦争に反対する国民の育成をめざすということになる。平和教育と 言えば、戦争の悲惨さを繰り返し教える、例えば沖縄戦や原爆の体験を語り継いで行くことがその中心的な実践になる。ただ、どうもこういった平和教育の構図には違和感を感じる。平和の反対は戦争というのもちょっとおかしい。平和を愛する国民が育てば戦争がなくなるものでもない。現に世界のあちらこちらに戦争や紛争が起こっているが、その地域に住む人々が平和を愛していないからではない。というようなことを語ると無限の論争に陥っていくのでここでやめる(^^;

へんさち(偏差値) 数学的に言 うと次の数式であらわされる数値。
 偏差値=50+10×(個別得点ー平均値)/標準偏差  
このように直すと、全体の平均点が50点、標準偏差が10になる。
個々の児童、生徒が全体の中でどの位置にいるかを知るにはまことに都合のよい値であり、受験先を決定したりするさいには特によい判断基準になる。
60点以上なら、だいたい上位15%くらいまでに入っており、70点以上なら上位2〜3%である。
かつて受験地獄と言われた時代には、この偏差値は悪玉扱いされた。「偏差値ですべてを決めてよいのか!」と声高に叫ぶ教育関係者がいて、最近ではあまり使われなくなった。・・・と言っても大手の予備校ではしっかり偏差値データが積み重ねられている。また、当然のことながら、「偏差値が高い大学」「偏差値が高い高校」が存在する。学力を受験学力という側面からだけ見るなら、偏差値ほどそれを正確に表すデータはないのである。
それよりも気になるのは、「偏差値ですべてを決めてよいのか!」と声高に叫んでいた人が、高校野球の全国大会などに「進学校」と呼ばれる偏差値の高そうな高校が出場すると高く評価し、偏差値の低そうな高校は「出場して当然」のようなことを言うのはどうしたことか(私は、こういう人をいくらでも知っている)。まさにこれこそ「偏差値」で人間の価値すべてを決めていることになるのではないか。偏差値が高いこと、スポーツができること、音楽が得意なこと、文章がうまいこと、性格がやさしいこと、将棋が強いこと、ハンサムであること、美人であること、大飯食らいであること、毎日歯を磨くこと、元気なこと、酒が飲めること、酒が一滴も飲めないこと、携帯を持っていないこと、生きていること・・・それはそれとして個別に評価してやれば良いのである。

べんじょ(便所) 小学生は学校の便所で大便をするのを非常にはずかしいことだと考えているそうである。実は、これは私たちの時代もそうだった。私も便所に行けばよいものを、我慢したためにかえってはずかしい失敗をしたことがある。なぜ、はずかしいのか自分でもわからなかったし、今でもわからない。それをからかう子もいたし、今でもいそうである。不毛な思いこみである。しかし、これは教師が何らかの働きかけをすれば簡単に解決できるような気がする。実際に解決している事例もありそうだ。
「ちょっとクソしてくるわ」くらいのことが日常的に言えるようになればよいと思うのだが・・・。小学校の先生方、あなたの学校ではいかがですか。

【ほ】

ほいく(保育) なぜか私は保育には非常に縁があるのだ。最初に就職したのは短期大学の保育科である。保育内容の研究「音楽リズム」を担当していた。それから私の亡き母は幼稚園の教師だった。父方のいとこにも幼稚園の教師をしていたのがいる。母方のいとこには、ずっと保母(保育士)をしていて現在保育所長をしているのがいる。その妹は幼稚園の教師 である。また、弟の連れあいも保母(保育士)である。そう言えば、サイは看護婦(看護師)だった(関係ないか。しかし Nurse と英語で言えば関係なくもない)。ところで、なぜ保育士は「士」で看護師は「師」なのだろうか。考えると夜も眠れなくなった。

ほうじんか(法人化) 国立大学がこの2004年4月から独立行政法人化した。大きな変化として感じる一つは「お金」である。例えば研究費。昨年までは少ないながらも年間の個人研究費の範囲で自分 の研究に必要な物品や、授業に必要な機器をなんとか購入することができた。しかし、今年はそもそも年間にいくら使えるいまだにかわからない状態である。そして研究費の使用を保留している状態なのである。それでも授業をやめるわけにも研究をやめるわけにもいかない。私は、書籍は雑誌はこれまでも自費で購入してきたが、最近ではCDやさまざまなソフト類まで自分で購入するしかなくなった。研究室のコンピュータもそろそろ更新したいのだが、それもままならない。 だましだまし使う以外にはなさそうである。法人化のプラス面は少しもあらわれていない。

ホームページ 今や、企業、役所、学校、団体、趣味サークルまで、開設して当たり前のものになった。また、持っていなければなんとなく時代おくれでださいという印象まで与えてしまう。 だから、みんなそれなりにホームページづくりに気を使うのである。ただ、あればいいかというと、そうでもない。次のようなものならないほうがよい。
×間違いばかりのもの・・・個人のHPはかなりあぶない。気をつけられたし。
×更新していないもの・・・前世紀から一度も更新していないようなページがある・・私の職場のいくつかの講座にはそれに近いのがある。
×デザインのダサイもの・・・これは人のことは言えないなあ。そろそろ表紙デザインは専門家に頼もうとか思っている。
×コンテンツのまったくないもの・・・データベースとか言って、実は単なるリンク集だったりして。今くらい検索ロボットが動き回っているとリンク集だって、必要なさそうだ。音楽教育関係者もホームページをたくさん出していてそこにはリンク集があるが、結局最後は同じところにもどってしまうのはどういうわけだ。
×面白すぎて中毒になりそうなもの・・・一度見に行くとついついはまってしまい、膨大な時間をすごしてしまうもの。私もよくはまるページがいくつかある。
×人を小ばかにしたようなもの。・・・ここです。アクセス・ログを見てみると、Googleの「明日の運勢」で検索してやってきて「もう一度占う」を何度も何度もクリックしている人がいて面白い(実は10種類ある)。はじめから「ジョーク」と断っているのだが、検索ロボットが拾った場合は、直接このページに入ってくるからどうしようもない。だいたいそういう人は、他のページを見ないで帰って行く(多分怒って)。

【ま】

マスターベーション (1)青春の入り口(とく に少年)で通らなければならないほろ苦い儀式(この儀式は繰り返し行うのが特徴) (2)アマチュア(または一部の自称プロ)がやる音楽活動 (3)ごく一部をのぞいたほとんどの音楽教育研究(こわーーーーーーーーー!)

まちがい(間違い) 間違いを恐れていては成長はない。板倉聖宜氏はこの考えを一歩すすめて、間違いを科学的認識のための積極的な要因として、意図的に授業の中に組み込み、仮説実験授業 という方法をうち立てた。間違いは人間の成長にとって不可欠である。ただし、成人の男女の間でこれがおこるとちょっとややこしい。ややこしいだけならまだよいが、たまに血をみたりすることもある。

まなび(学び) 流行だからか、それとも特別な意味があるのか。「学び」という言葉がよく使われるが、うさんくさい。学会で「教師の評価と子どもの学び」と言うタイトルの発表があったが、おさまりが悪い。なぜ一方が「評価」という二文字熟語で、もう一方は連用止めなのか。教育学では伝統的に学習という言葉が使われて来た。もし「学習」という言葉で不都合だというのならばその理由を聞いてみたい。例えば「教授-学習過程」はどうなるのか。学習が「学び」なら、「教授」は「教え」か。「学び-教え過程」ではおかしいから、「学び-教えのプロセス」とでも言うのだろうか。しかしやっぱりおかしい。動詞を連用形で止めて体言の働きをさせることはよくある。その時「学び」は「学ぶ行為」そのものをさす。しかし、「教え」は「教える行為」ではなく、「キリストの教え」と言うように、「教えられた事柄」を指す。だから学習を「学び」とすると、「教授」に対応する言葉がなくなってしまうのである。こういう場合に二文字の熟語を使うと都合がよいのである。「学習」をすべて「学び」という言葉に置き換えてみるとどうなるか。
「自己の学び」「学びの意欲」「学びの集団」「創造的音楽学び」「生涯学び」とても窮屈である。かっこよさそうな言葉にすぐ飛びつくのも問題だ。ひどい場合、「学び」と「学習」が混在した文もある。どう違うんだとだれかさんにかみつかれないようにご用心。

【み】

ミッションスクール かつては、キリスト教の伝道(Mission)を目的にしていた私立の学校を言ったが、最近は学校教育法に規定され、「キリスト教主義の学校」と呼ぶことが多い(かつて私は 松山で勤めていたが、「ミッション」と言うと私が勤めていた東雲学園のことをさした。「キリスト 教」は一つの主義なのである。小中学校の場合は、道徳の代わりに「宗教」や「聖書」などの時間がある。高校でもや大学にも、それに準じる科目がある。ただし、実際にはキリスト教主義はほとんど形骸化しており、教員にも信者は少ない。キリスト教主義の学校に行っているから安心だとか、そういうことは信じてはいけない(最近の殺人事件を起こした人・・・これはちょっと特別な例だが)。ましてや、キリスト教徒だから、敬虔でまじめだなどというのはほとんど"迷信"に近い。そのよい証人が、ほれ、あなたの目の前にいるでしょう。

みんしゅしゅぎ(民主主義) これをふりかざせばみんなを黙らせることができると信じられていた言葉。だが民主主義と言うのは「民が主」だから、民に対する主でないものの存在を前提とする。つまり階級対立である。君主対人民、資本家対労働者、地主対貧農等々である。この考えはしばしば自由と対立する。自由にさせると、たいていは、強いものが富や権力を手にいれることになる。だから自由を制限しなければならない。これを徹底させると、人民の代表である政党にすべての権力を集中させる一党独裁のシステムができあがる。だから「人民民主主義共和国」という名称は、少なくともイデオロギーの上では少しも矛盾しているわけではないのだ。

みんなちがって 金子みすず作で、国語の教材によく取り上げらる詩、「私と小鳥と鈴と」の最後の一節。
「私が両手をひろげても、/お空はちっとも飛べないが/飛べる小鳥は私のやうに、/地面を速くは走れない。/私がからだをゆすっても、/きれいな音は出ないけど、/あの鳴る鈴は私のやうに/たくさんな唄は知らないよ。鈴と、小鳥と、それから私、/みんなちがって、みんないい。」
詩として味わうならそれでよい。またこの詩を宗教的に解釈するのもよい。
しかし、ある有名な教育行政のリーダーは、個性化教育の強調にこの詩を使っていた。
こうなると「それは論理の飛躍でしょう」と言いたくなる。

【む】

むしょうのきょういく(無償の教育) 無償と言ってもただでできるわけではない。国民が支払った税金、すなわち公費による教育ということになる。
憲法第26条に規定されている国民の権利でもある。
「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする」
このため、都道府県が負担する公立の義務諸学校の教職員の給与等について、その2分の1を国が負担するという制度が続けられてきた。今この負担金が3分の1に引き下げられようとしている。3分の1というのは妥協案である。最終的には0にし、教育についてはすべて地方でということになりそうである。地方の側は自分で自由に使えるお金が増えるからこれを歓迎しているようだ。しかし、地方の財力には格差がある。地方で当然格差ができる。無償の教育を続けようとす れば、当然のことながら教育にも格差がつく。憲法の「能力に応じて」の「能力」が「地方の財力」ということになりかねない。無償の教育も将来見直される可能性がある。

むち(鞭) 「教鞭をとる」「愛の鞭」と いう言葉に見られるように、教師には「鞭」=きびしさが求められた。「すずめの学校の先生はムチをふりふりちいぱっぱ」。戦後はそうではなくなってきた。「メダカの学校は、川の中。誰が生徒か先生か」。私は体罰にはもちろん反対だが、いつも厳しくありたいと思っている。すずめの学校の先生でありたいのだ。しかし、元来性格が軟弱なので、いつのまにか、メダカの学校の先生になってしまう。

むじゅん(矛盾) 「ムカつくなあ」。こんな生徒がいたら次のように指導しましょう。「モーツァルトの音楽を聴きなさい」 ☆これには説明が必要だ。次のような文のあとにこのコーナーを書いたのだ。
モーツァルトは脳を癒やす。免疫力アップ。ダイエット効果。サンデー毎日10月17日のトップ記事である。よほど記事がないのだろう。
モーツァルトの音楽は倍音構造が出やすい音の組み合わせを使っていてその倍音が人間の迷走真剣細胞に訴えかけている、とか、高周波が創造性の向上、心拍安定、難聴改善、耳鳴り改善、痴呆症改善、胎教、自閉症改善などに効果がある、とかの専門家の話を載せている。最後には具体的な曲名まで出てくる。老人性痴呆症や難聴など神経系疾患に効くのは「バイオリンソナタ第34番変ロ長調K374」他、高血圧や脳梗塞の予防には「ピアノソナタ15番ハ長調K545」なのだそうである。こうなるともう眉に唾をつけたくなる。
このモーツアルトの話は、少し前にたけしの番組でもとりあげられた。それでユニバーサルミュージックが出した「最新・健康モーツァルト音楽療法パート」というシリーズのCDが馬鹿売れしているそうだ。
この手の話は昔からあった。まあ、モーツアルトの音楽を聴いたら心が安まる(反対に心がかき乱されそうになる作品もたくさんある)というのは多くの人が経験的に知っていることである。それになんとか科学的な説明をして、あわよくばレコードやCDを聴かせよう。たいていはそういう構図である。
科学的な説明をまったく信じないわけではない。しかし、人間の「心」はそれほど単純ではないはずだ。それほど単純なら、今起こっている社会的な問題、とくに戦争や犯罪なども半減してしまうだろう。かりにこの科学的な説明がどんなあたっているとしても、私は音楽をこのように聴きたくはない。音楽は音楽として、作曲家や演奏家のメッセージとして聴きたいからである。
ね、矛盾してるでしょ

【め】

メーソン ルーサー・ホワイティング・メー ソン。明治時代にアメリカからやってきて日本の唱歌教育の確立のために尽力した人。伊澤修二に協力して、最初の音楽教科書である『小學唱歌集』を編纂した。この唱歌集に掲載された曲のほとんどが西洋の愛唱歌だった。中には賛美歌になっている旋律も含まれていた。そのことでメーソンは唱歌教育を通じてキリスト教を広めようとしたのではないかという説も生まれた。これについては黒説(安田寛『唱歌と賛美歌』音楽之友社)と白説がある(藍川由美『これでいいのかにっぽんのうた』文春新書)。私は、子どものころから賛美歌(聖歌)に親しんで育った。その感覚から言えば『小學唱歌集』はまぎれもなく賛美歌集ですな。ところでアメリカの音楽教育の指導者にはローウェル・メーソンという人もいるので間違えないように気をつけなければいけない。前にアメリカ人にホワイ ティン・メーソンのことを話したら、ローウェルは知っているがホワイティングは知らないと言われた。

メタじゅぎょう(メタ授業) "meta"は "after"や"beyond"の意味を持つ接頭辞である。日本語でも「メタ言語=言語についての言語」「メタ思考=思考についての思考」と言うふうに使われている。「メタ授業」は当然「授業についての授業」である。私が担当している音楽科教育法という科目は小・中学校の音楽の授業についての授業だから、メタ授業である。もし私のこのメタ授業をどこかで題材にして授業をしている人がいたら、それはメタメタ授業ということになる。そもそも教科教育法というのはメタ授業科目なのである。ちなみに教育実習生のような未熟者がする授業をメチャ授業、その中でも特にできの悪い者がする授業をメチャメチャ授業と言う。

【も】
もじ(文字) こんなにおしゃべりできるのに文字にするのは難しい(日本語)。文字は読めてもおしゃべりするのは難しい(英語)。おしゃべりもむずがすぃーすぃ文字にもでぎねぃー(津軽弁)。だびょーん。

もろいさぶろう(諸井三郎) 戦後の学習指導要領音楽科編(試案・1947年)をつくった人。音楽教育を情操教育の手段としていては音楽そのものが粗雑になっていくので芸術教育として位置づけようとした画期的な指導要領であった。しかし、この学習指導要領の精神も長くは続かず、次の1951年、1958年の改訂を通じて否定される。今では「豊かな情操を養う」がしっかり音楽科の目標になっている。諸井の理論は「脆い」のか(^^;

もんぶかがくしょう(文部科学省) 2001年の省庁再編で、文部省と科学技術庁の一部が合併してできた省の一つ。しかし、この省の名称を考えた人の言語感覚は相当ひどい。「文部」という言葉は「文部省」という役所の名前として使う以外にはもうあり得ない言葉でありいわば旧い言葉である。それに科学という一般的な言葉をくっけつけるからおさまりがわるくなる。それに「文部」の中にはには「学問」の意味もふくまれるので「科学」も当然入るはずなのである。またどうしても「科学」を入れるなら、文化、教育、スポーツなど、この省の所轄事項をすべて名前の中に含めるべきなのである。それをすべて合わせていう言葉として「文部」というのは非常に都合のよいことばでないか。それをなぜ、「文部科学省」にしたのか。文部省だと、旧科学技術庁にいた役人を文部省に取り込まれてしまうような気にさせる。おそらくそんな理由だろう。つまり役人へのほんの一時的気遣いのために、奇妙キテレツな名称をつくることになったのである。
ちなみに文部科学省の英訳は次の通りである。
Ministory of Education, Culture, Sports, Science, and Technology
頭文字をとって MECSST さらにもっと短くして MEXT
だから文部科学省のホームページは次の通りである。
http://www.mext.go.jp
こちらはなかなかセンスがよいと思う。

【や】

やがく(夜学) 夜学習すること。または夜に開かれる学校。大学の二部、定時制高校、夜間中学校などを言う。かつては働きながら学ぶ学生のための学校だった。しかし、今は多様な学生、生徒が通っている。高度経済成長時代の1960代。金の卵と言われる中卒の少年少女が都会に集団就職してきた。彼らもやがて学習がしたくなり、定時制高校に通う。この時代に定時制に通う高校生の青春を描いたミュージカルと映画が『見上げてごらん夜の星を』。そしてその同名の主題歌を、永六輔が作詞、いずみたくが作曲、坂本九が歌った。中学校の3年の3月、集団就職する同級生を見送りに行ったことを思い出す。私の好きな歌の一つである。もう、40年前の歌だ。

やらせ マスコミがこれをやると問題になるが教育界ではよくみられることである。とくに学校の研究授業に多い。「子どもの思いを大切に!」と言った授業によく見られる。自分の考えを子どもが言っているように見えても、実はどのような解答をすれば教師が一番よろこぶのかを子どもはちゃんと知っているのである。とくに塾通いなどをしている子どもには、授業の前から答えもすべてがわかっているのだが、教師に気を使って知らないふりをする心やさし子どももいる。 やらせの屈折した形である。

ヤンキー かつて頭にそり込みいれてサイズの小さいサンダルはいて集団でウンコ座りしているお兄さんたちがいた。しかし、最近はその上を行くお姉さんたちがいる。電車の中で左手にケータイ、右手にあんパンもって、ウンコ座りを通りこして座り込んで股を広げている(見たくはないのだが中が見える)女子高校生らしい集団である。とても恐い。

【ゆ】

ゆうき(勇気) これを持っていることはすばらしいことだとされているが、実際に行動に移すと反発されることが多い。勇気を持って行動すると「政治的陰謀」などと陰口をたたかれる。なんだかんだ言って人をけしかけるが、結局は自分では何もせず高見の見物をする人もいる。勇気は大切だと思っていても反発をおそれるあまりみんな黙ってしまう。要する にみんなずるがしこく大人になっていくのである。子どもたちもそんな大人を見ているから「勇気」などと言う言葉をはなから信用していない。

ゆめ(夢) 「夢を持ちなさい」などと言う教師がいる。無責任きわまりない。夢というのはすぐ消えてなくなるから夢なのである。そんなはかないことに夢を託すより(あれ?)、自分の人生をきちんと設計し、それに向かって自制し努力することを教えるほうがはるかに大切である・・・と行き当たりばったりの人生を送ってきた私が書いても誰も聞かないだろう(^^;

ゆうじょう(友情) もはや死後となりつつある概念。と言っても、言葉に出して言うのが気恥ずかしいだけで、だれもが大切にしたいと心の中では思っているはずである。ただし、友情という のは少し打算的な感情でもある。相手にとっては自分がいることの都合の良さ、そして自分にとっては自分がいることの都合の良さ、この一致度が友情の強さを決定する。つまり自分を生かし、相手も生かす。そういう相手が友人であり、そう言う相手に対する感情が友情である。そのへんが、恋愛や家族愛と違うところである。愛する人のためならたとえ自分が死んでもいいという感情に対し、相手の存在が自分を生かすからこそ、また自分の存在が相手を生かすという自負があるからこそ成立するのが友情である(どうもひねくれられない)。・・・で話は飛ぶのだが、漫画・梶原一騎原作・川崎のぼる作画「新・巨人の星6」(講談社漫画文庫・本体583円)に次のような場面がある(私は結構こんな漫画が好きなのである)。
主人公の星飛雄馬(ひゅーま・すごい名前だ)の高校時代からの相棒に伴宙太(これも名前だけでどんな人物かがわかる)という豪傑がいる。この伴宙太は飛雄馬に「友情」「友情」といつも友情の大安売りをする男である。この二人が、同じ女性、鷹ノ羽圭子を好きになる。圭子は実は飛雄馬が好きで、そのことを飛雄馬の別の友人である牧場に伝える。そして牧場は伴に「彼女には他に心密かに慕う男性がある」と伝え、飛雄馬の父である一徹(これもすごい名前だ)にも圭子の気持ちを伝える。そのことを父から伝え聞いた飛雄馬は「総身をゆさぶるような歓喜がこみあげてきて何か大声でわめきだしそうだ(この言葉一度借りたことがある)」といいつつも、伴のことを案じて、伴の家へ向かう。伴は牧場からの伝言にショックを受けて大酒を飲んで我を失っているところだ。そこで、飛雄馬が言う。
「伴よ訊くが、青雲高時代の昔も現在(いま)も・・・・おまえ、おれのために死ねるか?」
酔っ払いの伴が答える
「あ・・・あったりまえじゃい! それが真の友情ちゅうもんよ・・・ヒック」
と言って寝てしまう。その脇で飛雄馬が静かにつぶやく。
「わかった。そして・・・・おれもおまえのためなら死ねる」
で、飛雄馬は友情と野球を選ぶ決心をし、圭子のアプローチをはねつけ、野球に専念する・・・かっこいい!(^○^)。
と言う訳で、星飛雄馬氏によると、おまえのために死ねるのが友情だそうだ。
我が家には「巨人の星」「新・巨人の星」「あしたのジョー」等・・単行本がそろっています。

【よ】

ようちえんことば(幼稚園ことば) 私の亡母は、幼稚園の教師をしていた。その母との会話の中で気になることがあった。それは何にでも「お」をつけることである。「おみそしる」「おふとん」くらいはまあいいのだが、「おねまき」「おかばん」「おせかな」「お制服」「おテレビ」・・・だんだんイライラしてきていた。・・・・と思っていたら、もっとすごいのがあった。私が11年すごした高知では、幼稚園のことを「おようち」と言うのである。「おようち行きゆうが?」「あれはおようちのせんせいしゅうぜよ」という具合である。「おようち」。名は体をあらわす。究極の幼稚園ことばである。

よしだしょういん(吉田松陰) 幕末に松下村塾をひらいて明治維新の推進者である、高杉晋作、木戸孝允、伊藤博文らを育てた。しかし安政の大獄で捉えられ処刑される。「金太の大冒険」(「金太負けが多い」の歌詞で一部の子ども若者の絶大な人気を誇っていた)で有名なシンガーソングライターのつボイノリオ氏は、この時の弟子たちの気持ち を「吉田松陰物語」で次のように歌っている。「松陰死んじゃいや! やりとげてほしかった」(著作権の関係、風紀の関係でこれ以上歌詞は紹介できません)。なお、このページの管理者と同姓だが、何の関係もない。

よしだたかし(吉田孝) →http://takashiyoshida.com/profile.html

【ら】

ライス 日本の主食をなぜかこう呼ぶようになった。西洋レストランならまだ良いが、和風レストランじゃなかった大衆食堂でもメニューに「ライス」と書いてある。学生時代に広島の皆実町(みなみまち)にあった丹波屋という大衆食堂(まだあるだろうか・味はともかく安くて量が多かった)で「飯(めし)、大(どんぶりに山盛りだった)」と言って注文していた頃が懐かしい。我が弘前大学の生協も「ライス」で大きさはL、M、Sと書いてある(なぜ大がLなのかわからない)。私はそれでもかまわず、「ごはんの小」というふうに注文することにしている。

ラジオ かつては大学生の中心的なメディアだった。大学生と言えば貧しいと相場は決まっていて、テレビを持っている者などほとんどいなかった。現在で言うJポップはかつてはニュー・ミュージックと呼ばれていたのだが、このニュー・ミュージックはまずラジオで少しずつ浸透し人気が出てくるものだった。中にはテレビには出演しないことを売りにしている歌手もたくさんいた。その人たちも今は、みんなテレビに露出している。時代が変わったのだ。私は最近、旧式の真空管の「五球スーパー」(この言葉を知っている人は旧式の人だ)を買った。家でコンピュータに向かっている時や仕事をする時はラジオをつけていることが多い。なかなかいいものだと思っている。

【り】

りっしんしゅっせ(立身出世) もともとは一人前の大人になって世の中に出ていくと言う意味だが、だんだん人よりも高い地位につくというような意味になってきた。唱歌の「ふるさと」(高野辰之作詞)の「志を果たしていつの日にか帰らん」もそんな心情を歌ったものだろう。しかし、同じ唱歌の「我は海の子」(作詞者不詳)はちょっとすごい。
  いで大船を乗出して
  我は拾わん海の富
  いで軍艦に乗組みて
  我は護らん海の国
一、二、三番くらいまで歌うだけでは(現在6年生の共通教材になっているが、「歌詞は3番まで」という但し書きがある)、言葉一つ一つの意味はわかるが、全体になんのことやらさっぱりわからない。しかしこの七番まで歌えば「話者」の気持ちがわかる。どうせ学校で取り上げるなら、ぜんぶ包み隠さず教えるべきだし(その話者に共感せよと言うわけではない。こういう気持ちを歌った歌だということがわかれば良いのである)、中途半端にするのならはじめから取り上げないほうがよい。

リベラル・アーツ 音楽は美術よりも価値があるのだ。それはアリストテレスが証明しているのである。アリストテレスの考えにもとづいて、文法、修辞学、弁証法、算術、幾何、音楽、天文学を自由七科と呼んだのである。まあ、今で言えば大学の一般教育(こういう言い方は日本の大学ではしなくなった。弘前大学では「21世紀教育」とかいう奇妙な名称がついている)みたいなものである。音楽は昔から必修だったのだ。ハッハッハ!!

りんご(林檎) 神の言いつけを破ってりんごを食べたために楽園を追放されたアダムとイブは、自分たちで厳しい自然を切り開いて行かなければならなくなった。それによってその子孫である人類は、道具を生み出し、文明を生み出し、科学技術を生み出し(ニュートンはりんごが木から落ちるのを見て万有引力の法則を発見したのだ)、音楽を生み出し(歌劇「ウイリアム・テル」のハイライトはあのりんごの場面である。ビートルズのつくったレコード会社はアップルレコードである。ビートルズにはリンゴ・スターというリンゴのスターがいた)、時に争い、時に励ましあい(日本人は「りんごの唄」に励まされながら戦後の復興をとげたのだ)、時に国際協力しながら(だから国連のある所をBigAppleというのだ)21世紀に至っている。つまり人間が人間になるためにりんごは不可欠だったのである。アダムとイブがりんごをたべなかったら、人生はさぞつまらないものだっただろう。先日リサイクルショップに行ったら、松田聖子の「ガラスの林檎」(松本隆作詞・細野晴臣作曲)のレコード(EP盤)が100円で売られていたので買ってきた。さっそく聴いてみた。「蒼ざめた月が東からのぼるわ」。とてもよかった。「EP盤ってどうなつているの?」というギャグがわかる人は相当なおじさんおばさんである。

【る】

ルソー ルソーは思想家、教育家として名が知られているが、音楽にも詳しかったのである。例えば、数字による記譜法はルソーの考案によるものである。ドレミファソラシの代わりに数字をあてるのである。代表的な著書である『告白』に次のように書いてある。
「私の方法の最大の利点は、移調と音部記号とを廃止することだった。そうすれば、曲のはじめの頭文字を、一つだけ変えさえすれば、同じ楽譜を何調でも望むままに、記譜し、移調することができた」
そりゃあ、ルソーの言うとおりだ。頭に調名を書き、階名を123の数字であらわせば、何調にでも記譜し移調できる。頭に「ト長調」と書いてあったものを「ヘ長調」と書けば、移調は完了である(ルソーは移動ド論者だった)。
ただ、『告白』にはそれがあのラモーによって批判されたことも正直に書かれている。その部分がとってもおもしろい。
「私の方法に対する唯一のしっかりした反論はラモーによってなされた。彼はその弱点を見抜いた。彼は私に言った。『あなたの記号は、それが音の長短を簡単に、明快に決め、音程をはっきりと示し、単音程をいつも複音程のなかで示しているなど、普通の音符ではやれないすべての点では、大変すぐれています。しかし、演奏の速さについていけないほどの、精神の働きを要求している点では、悪いのです。われわれの音符の位置は』と彼は続けた、『そんなに頭を働かせなくても、眼に対して描かれます。二つの音符があって、一つは非常に高く、一つは非常に低く、それが中間にある一連の音符で結びついていれば、その段階を追って、私は一目で、一方から他方への進み具合を目で見ます。しかし、あなたの方法でこの連続を確かめるためには、どしてもあなたの数字を一つずつ拾っていか なければなりません。ちらっと見るのはなんの補いにもなりません。』この反論には返す言葉もなく思われ、私はすぐに同意した。この反論は簡単ではっきりしているとはいえ、その道をよほど行わなければ考えつくことはできない。」
なんとなく、ルソーという人、それからラモーのこともわかって面白いはなしである。(白水社『ルソー全集・第1巻』から引用)


ルーズソックス 1994年頃から流行しはじめた女子高校生のファッション。ただ、ソックスをルーズにはいているのかというとそうではない。まず、ルーズ・ソックスというソックスが存在するのである。そしてそれをはくにはおちないよう留めておくためのテープあるいはのりが必要なのである(たいていはのりで留めるらしい)。そして、ルーズソックスと一言で言っても、さらには時代によって「ゴム抜きルーズ」とか「ウルトラルーズ」などというように変化があるそうである。私たちオヤジはそれにずいぶん顔をしかめたものだが、別に何も心配することはなかった。卒業して社会人になってまで、あるいは大学に進学してまでルーズソックスをはき続ける者はいなかった。それに、ルーズソックスをはいた男子高校生もいなかった(^^; しかしルーズにズボンをはいた男子高校生は今でもいる。よく見ると裾がほころびている。そして社会人になっても、大学生になってもルーズにズボンをはいている者がいる。そういう意味では、女のほうが男よりもずいぶん成長がはやいような気がする。

【れ】

れい(礼) 大学の授業でもきちんと「礼」をさせるべきかどうか迷っている。小中学校ではほとんどの教室で「姿勢・礼!」という合図で礼が行われる。しかしそれは形式的になっており授業をはじめるけじめのようなものだ。大学では礼は行われないのが普通だ。ただし、私は「姿勢・礼」は言わないものの、授業の最初には自分から「お願いします」と言って頭を下げて授業をはじめる。たいていの学生はいっしょに「お願いします」と言って頭を下げる。そうしてはじめたほうが気持ちが良い。それだけのことである。

れきし(歴史) 自分の寄って(酔って?)立つ世界観によって、見え方のまったく異なってくるもの。それは単に、ある現象をどう見るかということにとどまらず、現象そのものが存在したかどうかというところまで異なってくるのである。例えば、日中戦争が勃発した1937年に中国国民政府の首都南京でおきたとされるあの事件である。ある人たちは「南京大虐殺」と呼ぶ。しかし、別のある人たちは「そのような事件はなかった。それはまぼろしにすぎない」と言う。そしてまたある人たちは、事件はあったが「大虐殺と言えるものではなく戦争のなかでは通常におこりえるものだった」という。これらをそれぞれ「虐殺派」「まぼろし派」「中間派」と言う。このような異 なった見え方が存在する場合、教育の世界では結局それぞれの見方を認め、判断は学習者にゆだねるべきだとおもうのだが、そう簡単にいかないのが教育界である。どう難しいかについては・・・歴史教育の専門家に聞いてくださいよ。なお、この南京事件については、次の本を参照されたし。
・北村稔『「南京事件」の探求 その実像をもとめて』(文春新書・2001年・680円)

れんしゅう(練習) 私は、子どものころから練習というものが嫌いだった。一時期は夢中になることもあるのだが、あまり長く続かない。数学は子どもことから好きだったが、簡単な算数の計算ミスが多い。計算ドリルがきらいだった。文を書くことは嫌いではなかったが漢字をよく間違った(今でも)。漢字ドリルがいやだった。ピアノ・・嫌いではなかったがやはり練習はきらいだった。1時間以上も練習したのはこの一生で3日くらいか。あの有名な入門用の教則本おわるのに3年かかった。大人になってからは、練習する時間があるのなら・・そりゃあ酒を飲みますよ。・・・というわけで、この練習嫌いで、損をしたことがたくさんある。・・・まあ、報いだからしかたがない。
そんな私が、一つだけ長続きしたもの。それが5年前にはじめたランニングでである。このランニングのためにどれだけ時間を使ったか・・・この時間を研究に使ったらどれだけ成果があがっていたか・・・・・と言ってもそううまくいかないのが人生である。この2ヶ月、けがで休んだが、2ヶ月で研究がすすんだかと言うとそうでもない。というより、停滞していると言ったほうがよいかもしれない。そろそろトレーニング再開しなければ・・・と思ったが、今日も雪。休むことにする。ランニングの練習まで嫌いになったら、私は一体何を楽しみに生きたらよいのだろうか。

【ろ】

ローマじきょういく(ローマ字教育) ローマ字には訓令式とヘボン式がある。なぜか学校では訓令式が教えられている。例えば一郎は"Itiro"、吉田は"Yosida"、藤田は"Huzita" となる。正式な文書では訓令式は許されていない。例えばパスポートはヘボン式なのである。それぞれ、"Ichiro"、"Yoshida"、"Fujita"である。それどころか英語の綴りに近い一郎 "Ichiroh" 本間 "Homma"まで認められているのである。学校以外では意味のないものを、なぜいつまでも守り続けるのだろうか。ところで、ヘボン式の考案者はJamesHepburnと言う。Hepburnはあのミュージカル女優、オードリー・ヘップバーンと同じである。ヘップバーンはローマ字読みであり、英語にはヘボンの方が近い。ヘボンはローマ字読みさせなかったのである。ヘボンさん、あんたは偉い!
(あとからわかりましたが、「訓令」はまだ有効だったのです。パスポートにヘボン式を指定した旅券法施行規則のほうが、例外なのです)

ろんぶん(論文) 研究者の評価はこの数と質で決まると言ってよい。大学の教員に採用される場合も、昇任する場合もこの論文がモノを言う。ただし、我が教育系の論文には、教育の改善にも学問の発展にも役に立たないものもある(というよりほとんどがそうである)。いわばゴミのような論文である。ゴミかどうかは1行読めばわかるので、すぐ読むのをやめる(さすがにゴミ箱にはすてない)。その証拠に、他人の論文をすみからすみまで丁寧に読んだという人の話をあまり聞いたことがない。もし読むとすれば批判論文でも書こうと思った場合である。当然、学会誌に掲載された論文の中にもゴミはたくさんある。具体的に例をあげろと言われればあげてもよいが血を見そうなのでやめる。こんなことを書くと「喧嘩売ってるのか」といわれそうであるが、実は売っているのである。

ろんりてきしこうりょく(論理的思考力) もっとも簡単に言ってしまえばいくつかの知識を組み合わせて新しい知識を導き出す能力のことを言い例えば「人間は動物である」という知識と「動物は死ぬ」という知識があれば「人間は死ぬ」という知識を導き出せるのであって「人間は動物である」と「動物が死ぬ」がともに真理であるかどうかはこのさい無視してそれに「私は人間である」という知識が加わった時にいろいろな複雑な思考を経て一度は「私は死ぬ」という結論に至ったのであるがこれがどのくらい複雑な思考かと言うと「私は人間である」「人間は動物である」という知識から「私は動物である」を導きさらにそれに「動物は死ぬ」という知識と組み合わせて「私は死ぬ」という結論を導いたのか「私は人間である」という知識とすでに論理的思考の結果として知識となっている「人間は死ぬ」という知識と結びついて結論を導いたかを明らかにする必要があるのだがその点に関しても今は考えないことにして人間というのは誰もが「私は死ぬ」ということを認めたくないので(これも真理かどうかはともかくそういうことにしておいて)そのことを否定するために乏しい論理的思考力を駆使して「私」は「人間は死ぬ」と「私は人間である」が真理だと断定できるのだが「私が死ぬ」とは断定できないのであってなぜならば「私」が死んだら「私が死んだ」ということを認識することすらできないではないか「私が死んだ」と認識したとすれば「私」はまだ生きているのであるからやはり「私は死んだ」とは認識できないではないかと実は「死ぬ」と「死んだ」をすり替えているのだがとりあえず「私は死なない」ということにすると「私は死ぬ」の前提となる知識のどこかに誤りがないかともう一度はじめから検討し直して見なければならなくなり「私は人間である」は否定しようがないので「私は動物である」が真理かどうかいちばん疑わしいので、さらにその前提となる「人間は動物である」について喧々諤々(けんけんがくがく)と議論していたら誰かに「それは侃々諤々(かんかんがくがく)の間違いでしょう」と指摘されてそう言えばこういう言い間違いはたくさんするなあ例えば「汚名挽回」と横道にそれそうなのを必死でおさえてとこういうふうに話が複雑になると話を横道にそらそうとする人はどこにもいるなあと思いながら話をもとにもどして「人間が動物である」ことが真理かどうかということについて考えていたら夜が明けてきた。

【わ】

わたくし(私) 一人称にはどれくらいの種類があるか。思いつくままに並べる。私(わたくし)、わたし、ぼく、僕、拙者、小生、我(われ)、それがし、俺(おれ、オレ)、儂(わし)、自分、吾輩(わがはい)、おいら、おら、あたし、あちき、うち、わて、おいどん(方言)、当方、余、朕、麿、筆者(研究者専用)、自分の名前。結構たくさんある。ち なみに、津軽の日常会話では「わ(男女とも)」である。「わの、とごさこいへ!」は「私のところにおいで」という意味である。ところで、あまり調べてはないのだが、「余」から「筆者」まではどうも一人称とは言えないようだ。例えば、筆者を英語に直せば、Author だから三人称だろう。自分のことを一人称ではなく「三人称」で呼ぶ場合があるということだ。
ところで、論文で自分のことを言う時に、「私」と書く人と「筆者」と書く人がいる。私は「私派」である。「筆者」なんて他人みたいで気持ち悪い。研究の客観性を確保したい(というふうに見せたい)という気持ちがそうさせるのかもしれない。しかし、客観性を確保するのなら、「筆者」という言葉さえ必要なくなるのではないか。逆に私は論文とは自分の頭の中にあることがらを書くものだっと思っている。「いや事実を書くのだ」という人がいるかもしれないが、「事実」でさえも「自分の頭の中で再構成された物語」である。だから論文には頭の中にある物語だけを書けばよい。つまり私の頭の中にあることを書けばよいのだから、「私」というような頭の持ち主のことについて言及する必要はないのである。しかし、例外がある。教育研究の場合には、研究者自身が物語の主役になる ことがある。例えば、自分自身が授業者になって、自分自身のことを書く場合である。教育研究のややこしいところである。 

ワンぎり(ワン切り) 若者の間ではやっている携帯電話の利用法で若者文化の一つ。一日一回(あるいは数回)、相手の携帯電話に電話をかけ1回コールしたら切るのである。まあ「元気?」「生きてる?」くらいの意味である。そうすると、今度はかけられた相手は同じことをするのである。「元気だよ」「生きてるよ」くらいの意味である。通話料 のまったくいらないコミュニケーションである。どちらからかけるかというと、これがなかなか微妙である。いつも相手にばかり先にかけさせるのも悪いし、自分がいつも先にかけるのもしゃくである。結構、気を使うのである。また、これが恋人同士とかになると大変なのである。このワン切りが「愛してるよ」という意味だったりする。その返事は「私もよ」ということになる。それは「まだ僕のこと愛してる?」と言う意味になり、返事がないともう愛してないんだね、とか 言うことになったりする。ちょっとこわいのである。若者文化なのにおやじの吉田がワン切りにはまっているという噂もある。ワン切りの相手が5、6人いるそうだ。完全に「携帯を持ったサル」(04/02/17メッセージ参照)である。

【ゐ】
 今は使わなくなった旧かな。漢字の「為」の草書体から生まれた。カタカナは「ヰ」である。次の漢字にこの「ゐ」が対応する。
位、井、亥、猪、居、遺、韋、田舎(ゐなか)、院(ゐん)など(以上『全訳古語辞典』(大修館)による)。えっ、教育事典と関係ないですって。そんなかたいことを言わなくてもいいでしょう。

【ゑ】

 今は使わなくなった旧かな。漢字の「恵」の草書体から生まれた。カタカナは「ヱ」である。次の漢字に・・・・えっ、教育事典と関係ないですって。そんなかたいことを言わなくてもいいでしょう。

【を】

 今は助詞としてのみ使われている旧かな。漢字の「遠」の草書体から生まれた。カタカナは「ヲ」である。「男」「女」は「をとこ」「をんな」である。それで「を」を「くっつきのを」と言うのである。えっ、教育事典と関係ないですって。そんなかたいことを言わなくてもいいでしょう。
 小学校1年生の文字指導で、「お」と「を」の区別を教えるのはなかなか難しい。それで次のように教えると良いそうだ。
「この「を」は「おべんきょうをします」「テレビをみます」「ほんをよみます」のように、ことばをくつつけるときにつかいます。だから「くっつきのを」とよぶことにしましょう。ほらこの「を」をよくみてください。これ(上の部分)とこれ(下の部分)がくっついているでしょ」

をしへる(教へる) そうなのだ!おもろいことに、教育の「教」は旧仮名遣いでは「を」を使うのである。(ちっともおもしろくないってか?)

【ん】

 「しりとり」「りんご」「ゴリラ」「ライオン。あっ!」。しりとり遊びで最後にこれが来ると負けになる音。しかしあるところにはあるのだ。ンジャメナ[N'Djamena]。チャド の首都である。(ああ、苦し)

 ヘボン式ローマ字では「ん」はいつも"n"ではなく、b、m、p の前では、"m"を使ってもよいことになっている。だから、産婆さんは"Samba”、本間さんは"Homma"、乾杯は"Kampai"である。最近は、それが日本語にまで影響してきて「がムばります」と書く人まででてきた。ところで、ローマ字には「訓令式」というのがある。訓令は「上級官庁が所管の下級官庁に対して事務の方針や権限の行使などの基本に関する命令を発すること。また、その命令」(Infoseekマルチ辞典)である。そして、戦前に内閣訓令で定められ、戦後は内閣告示で定められたものが今で言う「訓令式」である(なら、告示式と言ってもよさそうなもの だ)。この告示は現在でも効力があるので、小学校のローマ字教育では訓令式が使われているのである。内閣の長である小泉純一郎氏の名刺には、Junichiroh ではなく Zyun'ichiroô(「じゅにちろう」と読まれる恐れがあるので、nとiの間に’を打つ)と書かれているのだろうか。ぜひ一度見てみたい。私は昔からヘボン式を使って来たが、最近は訓令式も良いなあと思いはじめた。YOSIDATakasi。すっきりしてとてもよい。ただし、「よすぃだたかすぃ」と読まれそうである。ん?「ん」からだいぶ脱線した? そんなかたいことを言わなくてもいいでしょう。