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友だちの友だちは・・・
実は私の友だちが友だちから聞いたと言う話だが・・・

こういう話はどのくらい信用できるだろうか。例えば私の場合、「友だち」と言えるのは何人くらいいるのか。「友だち」の範囲を、お互いに名前を知り合っていて公的なつきあい以上のつきあいをしたことのある人とする。おそらく1000(キロ)人はくだらないだろう。そしてその1000人のそれぞれに1000人の友だちがいれば、友だちの友だちはは100万(メガ)人いることになる。ついでに言えば、そのまた友だちは10億(ギガ)人と言うことになる。

「友だちの友だちは友だちさ。その友だちの友だちもみな友だちさ」。真っ赤なウソである。つまり「友だちが友だちから聞いた話」は100万人のうちの1人の話にすぎない。そのような話はほとんどその真偽を確認しようがない。

危機管理にについて語ることは大切だ。しかし、その事例が「友だちの友だち」の話とは。それも外国人記者に対して。そんな人が我が法務大臣である。恥ずかしい。

| 社会 | 05:19 AM | comments (1) |
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手つき三段
テレビの将棋番組を見られたことがあるだろうか。

プロ棋士が将棋を指す(将棋は「打つ」ではなく「指す」と言う)時の手つきに気をつけていただきたい。人差し指と中指の間に駒をはさんで、ピシッっとマスの中に打ち付ける(中には静かに置く人もいる)ように指す。実に美しい。

私は、若い頃あれにあこがれて何度も練習した。もちろん将棋の勝負にもこだわったが、あの手つきにもあこがれた。その結果が手つきだけはすばらしくきれいになった。しかし、勝負のほうはからっきし強くなれなかった。それで「手つき三段実力初級」と言われた(泣)

プロの棋士の手つきがかっこよいのは、手つきの練習をしたからではなく、将棋の勉強をしてきたたまものである。先人が指した将棋の記譜を見て何千局、いや何万局と並べてみる。そうした勉強の結果なのである。実はかっこうだけまねても仕方がないのである。

音楽の場合はどうか。音楽の場合は格好だけまねするなどと言うのはほとんど不可能である。不思議なことだが(不思議もないのだが)、すばらしい演奏をする人はたいてい演奏している姿も美しい。逆に言えば、美しい姿で演奏している人は、演奏もすばらしい。下手なのに格好つけている人がたまにいるが、そういう人はやはりよく見ると演奏する姿もぎこちなく、滑稽でもある。そういう「演奏家」を何人か知っている(観客は笑いをかみ殺して坐っている)。

お前はどうだと言われても、何にも困らない。
私は自分のことを音楽家と思ったことなど一度もないので。

| 音楽 | 06:27 AM | comments (4) |
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新高梨

高知から新高梨(にいたかなし)が送られてきた(深謝)!
新潟と高知の梨をかけあわせてできた品種である。

高知の時はそれなりに見慣れていたつもりだ。日曜市によく出ていた。だが、こうして改めて見てみると本当にでかい。2〜3人ではとても食べきれない。さて、どうやって楽しんだらいいだろうか。

| 日常 | 06:13 AM | comments (2) |
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説明の能力
昨日、亀田興毅選手が謝罪会見をした。その中で気になる部分がある。
反省反則の指示は出したのか
あの時は、頭が真っ白になっていて覚えていないが、事実映像に残っている。反省している。
−反則の指示を認めるということか
はい
『朝日新聞』本日付朝刊(こちらには夕刊はない)より
何という言葉の貧困さか。これは、かなり重要なポイントである。興毅選手が言いたかったことは次のようなことではないか。
試合中は興奮して何を言ったのか覚えていない。犯則反則を指示する意図はなかった。しかし、自分が「肘で目をやれ」と言った映像がはっきり残っている。反則の指示をした事実は認めざるを得ない。意図はなかったとは言え、このような指示をしたことは自分のいたらなさである。申し訳ない。
自分の意図とは違うことを言ってしまうことはある。いっさいの言い訳をせずに、事実だからしかたがないと認めてしまうことは潔く見えるかもしれないが、やはりそれでは真実を話したことにならない。意図がなくても悪いことは悪い。それでも「意図がなかった」ことは主張すべきではなかったか。「反則の指示を認めるということか」「はい」で意図があったかどうかは永遠にあいまいになってしまった(推測はいくらでもできる)。

実は、意図があったかどうかは、罪深さの重要な尺度になるのだ。殺人事件の裁判で言えば、「殺人罪」と「傷害致死」の差になり、ひいては、「死刑」と「有期刑」くらいの差が出る。

例えば、光市母子殺人事件の犯人は、死刑の可能性の薄い状況では、反省の意思を示すためか殺人の意図を認めた。しかし死刑の可能性が高まってきた時点で意図を否定しはじめた。おそらくこの戦術は失敗するだろう(はじめから否定していれば違った展開になっていただろう。戦術の変更が遺族を苦しめ、裁判官の心証も悪くするだろう)。

日本では、あれこれ言い訳をすることは、美学に反するという空気がある。それによってすべてをあいまいにしたまま一件落着となる。それは本人にとっても、また社会全体にとっても幸せなことではない。

興毅選手はもっとしっかり説明すべきだった。しかし、説明するには言葉が不自由すぎた。日本語能力の欠如がいつか自分を不幸にする。

続き▽
| 言葉 | 09:23 AM | comments (0) |
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ボクサー
亀田家がマスコミに袋だたきにあっている。もうこれはいじめである。私はあの親子がはじめから好きではなかったのだが、ここまでやられるとかわいそうになってきた。とくに、いままでさんざんに持ち上げて来て、一番反省しなければならないマスコミがいつのまにか、袋だたきの先頭に立っているのを見ると怒りさえ覚える。

たしかに亀田興毅も大毅も悪い。試合での反則も悪いし、日頃の言動も悪い(ただ、きちんと敬語が使えないような人間は大学生にもいる。あまり変わらない)。しかしそれでもいいところがある。それは彼等が、ボクサーであることだ。つまり、その宿命として、常に減量のためにたたかっていることだ。

考えてみればわかる。飲みたいときに飲めない。食べたい時に食べられない。それがどれほどつらいことか。私のように、飲むこと・食べること(とくに飲むこと)を楽しみにして生きている(飲むために働いている)人間にとって、そんな生活は信じられないことだ。それに耐えているだけでも相当に偉いと思うだ。もちろんだからといって、傍若無人な行為が許される訳ではない。しかし、そのような面は理解してやらなければならない。

私たちが中学生・高校生の時代はボクシングが全盛の時代だった。世界タイトルマッチのことが教室で話題になっていた。
「原田、強いなあ!」
「昨日の判定は少しおかしかったな」
ファイティング原田、海老原博幸、藤猛、大場政夫、柴田国明、輪島功一、ガッツ石松、具志堅用高くらいまでは、夢中でテレビを見ていた(ガッツ石松の「僕サー、ボクサーなの」というギャグが好きだった。おやじになる前からおやじギャグが好きだったのだ。それから柴田国明のオカマぽいしゃべり方が好きだった。そしてボクサー全体に言えるのだが、リングを降りた時の折り目正しい態度が好きだった)。

「あしたのジョー」(私は文庫版を全巻持っている)や「がんばれ元気」などのボクシング漫画もこのようなボクシングに人気に支えられて生まれたものだ。しかし、いつしかボクシングがつまらなくなった。

つまらなくなった第一の原因は興行的な理由でタイトルを乱造したことだろう。
世界タイトルを認定する組織が増えた上に階級も細かくなった。インフレでタイトルの価値が小さくなった。
第二は日本の企業がスポンサーになって金の力で強引に世界タイトル戦を企画していったことだ。いつしか、世界タイトル戦とは思えないような試合を見ることになっていた。そして、日本人ボクサーがらみの疑惑の判定も増えてきた。例えば、今回の内藤−亀田戦で亀田寄りの解説をして批判されている元チャンピオンも怪しい試合が何試合もあった。

今回の亀田問題は、これからボクシング界をたてなおすよい機会である。亀田兄弟も、もう一度出直して、本当に強いボクサーになって戻ってきてほしい。

| スポーツ | 05:51 AM | comments (1) |
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パスポート
最近、パスポートの申請に行ってきた。
私は、外国にはほとんどいかないので、期限が切れていたのに気づかなかった。近々小旅行をしなければならないので仕方なく申請に行ってきた。

パスポートの有効期間を10年にするか5年にするか迷った。今回旅行をしたら、次にいつ外国に行くかかわからない。それに、10年後に生きているかどうかもあまり自身自信はない(もちろん、明日生きているという保証もない。誰でも、明日生きている保証もないのに、どうしてみんな1年も2年も先のことを約束できるのだろうか。あっ、またかっこの中で脱線しそうになった)。迷ったが結局10年にした。と言うのは、私は運転免許証を持っていないので、自分の身分を確実に証明するものは、パスポート以外にないからだ。

しかし、考えてみると、確実な身分証明の書類としては、運転免許書かパスポートだと言うのはおかしな話だ。例えば、銀行の口座を開くにはこのどちらかが必要である。とくに独身の女性はなかなか信用してもらえないそうである。私は人権侵害だと思っているのだが。運転をしない人はいる(運転免許を持っているのが常識だとするのはおかしい)。外国に行くのが常識だとするのもおかしい。なにか市町村などが身分を証明するような制度が必要なのではないだろうか。

とにかく、これから10年間、私はこれからこのパスポートを、旅券としてでなく身分証明書として使い続けることになるだろう。生きていれば・・・

| 日常 | 05:43 PM | comments (1) |
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大変だ!
ある地方大学で大変なことがおこっているらしい。

法人化されて以降、国立大学の学長は10名前後の委員で構成される学長選考会議(そのうちの数名は現学長が指名することができるので、現学長の意向が反映しやすいシステムになっている)で決定される。ただし、学内の意見の調査のために全教員による意向投票を行う(弘前大学も同じ)。

その大学の学長選考でも意向投票が行われ、選考会議で現職のS学長が再選された。ところが意向投票において信じられないことがおきたらしい。その大学のHPに10月17日付「○○大学学長選考会議」の名でS学長が再選した旨が示されているが、その文書の終わりに次のような奇妙なことが書かれている。
なお、学内意向投票管理委員会からの報告は、細則第15丈第2項に規定されている様式書類に記載されている数字は、T候補419票、S候補378票であり、ともに添付された学内意向投票開票業務の経過説明書に記載されている数字は、T候補399票、S候補398票でした。
つまり二つの投票結果があると言うことだ。そんなばかな。
よくわからないが、真相は次のようなことらしい。
・投票管理委員8名全員が確認したところ41票の差があった。
・その後金庫に移し替えようとして事務職員が票数を確認したら1票差になっていた。
これが事実なら、票数をだれかが操作したことになる。大変なことだ。
・意向投票で何らかの不正が行われたことは明らかである(1票差、41票差どちらが正しいとしても)。まず、選考会議はこのことに関して調査をすべきである。
・このような重大な事態があるにもかかわらず、選考会議は意向投票で少数(41票差か1票差かは明らかではないが)であった現学長を選考した。意向投票を軽んじている。
こんなでたらめなことが大学で行われてよいはずがない。5学部のうちの3つの学部の教授会が今回の学長選考を無効としている。また、県民からの批判も起きていると言う。当然である。

| 教育 | 08:17 AM | comments (0) |
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私は、夢を見るほうである(人がどのくらい夢を見ているのか知らないから「ほうである」と言う言い方はおかしいのだが、ほかにどう言えばいいのかわからないのでとりあえず「ほうである」と言っておく。少なくとも「ほうではない」と言うより文のすわりがよい)。いろいろな夢を見る。楽しい夢も見るし恐ろしい夢も見る(これも書く必要のないことかもしれないのだが、なんとなく文の流れで書くことにした)。
楽しい夢・・・20代くらいの私がだれかと恋に落ちた夢(相手が誰かはっきりしないのが夢らしいところ)
恐い夢・・・どこかの国(どこの国からわからないのが夢らしいところ)の革命運動に加わって独裁政権に捕まり、銃殺刑になりそうな場面の夢
楽しい夢も恐い夢もクライマックスで覚める。
前者はたいてい・・・・。後者は銃殺刑の直前である。目が覚めて、ああ、夢かと思ってがっかりしたり、ああよかったと思ったりする。
しかし、たまに目が覚めて「ああ夢か」と思ったことがまた夢だったりすることもある。そのあとまた夢の中(の夢の中)で起こったとおりのことがまた(夢の中で)起こる。そしてもう一度目がさめる。

やっぱり夢かと思いつつ・・・そこで私は考え込んでしまう。いやひょっとしたら、今こうやって生きているこの時間も実は夢の中なのかも知れない。いやそんなことはない。もう50数年生きてきた。この50年は(途中眠って意識がなくなることはあるが)連続している。・・いやしかし、ひょっとしたらこの50年が夢の中かもしれないのだ。この50年は二十歳位の希望に燃えた青年が旅の途中でご飯を炊いているのを待っている間の夢かも知れない(そうなると邯鄲の夢だ。歴史は繰り返すか)。どうしてそうではないと否定することができるのか。そして、目が覚めたら、二十歳の青年だったらどんなにうれしいことか(夢でもいいから、そんなことがあったらいいのに)。

などと考えをめぐらしていたら、同じようなことが書いてある文を見つけた。


「荘子は夢の中で胡蝶になった。すっかり胡蝶になりきって、ひどく愉快だった。自分が荘子であるという自覚すらなかった。ところが目覚めてみると、まぎれもなく荘子である。いったい荘子が夢で胡蝶となったのか、それとも胡蝶が夢で荘子となったのか」
   中略
「いまの状態が覚めているとどうやって判断するのか」という問いに「現に眠っていないから」と答えてみても、その状態からさらに覚める可能性は退けられない。こうして生きている世界が夢であっては困るから、現実が夢でないという根拠を求めたくなるのは人情である。けど残念ながら、そんな根拠はどこにも見つからない。夢と現実が同じだからではない。夢と現実との区別の可能性を問うこと自体が、はなから無意味だからである。


山田史生『日曜日に読む『荘子』』ちくま書房、740円

言わずとしれた我が同僚の山田史生氏の本である。前に『寝床で読む『論語』』と言う本を紹介した。『論語』の方を本人からいただいたので今回もいただけると期待していたのだが、なかなかいただけないので自分で買った。そのことを話すと、「ちょっと今回のは難しくて・・・」と言う返事。そうか、「難しいからおまえには無理だ」と思われたか(泣)

読んでみると、事実難しかった。わかったのは、この引用した部分だけである。でもよいのだ。「わからないからおもしろい」と書いてある。確かにおもしろい。しかしやっぱりわからない。

ところで、この本によると山田氏は日曜日に酒を飲みながら、リヒター指揮の「マタイ受難曲」を聴きながら、「荘子」を読むのだそうだ。キリストの十字架物語と中国思想・・・哲学者は私はとはだいぶちがうなあ。酒を飲むのだけは同じだが、私の場合はテレビを見ながらうたたねである。テレビの音と夢が交錯して不思議な世界が・・・・

| | 06:46 PM | comments (0) |
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元気です。
少し、ブログを更新しないと、いろいろ心配してくださる方がいます。
ありがたいことです。

ちょっと疲れてしまいました。(肉体的疲労です)
この週末は、一歩も家を出ることなく、ぼんやり過ごし、完全休養しました。
少し回復しました。

| 日常 | 10:27 AM | comments (0) |
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老害
特徴は次の通り

1 自己の主張を疑わない。
2 他人の主張(とくに自分とは異なる主張)に耳を傾けない。
3 好き嫌いが激しい。
4 公私の区別がつかない。
5 批判されると切れる。

小さな組織ならよいのだが、老害が大きな組織にはびこると大変だ。さてどうしたものか。

| 言葉 | 06:11 PM | comments (6) |
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