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子ども中心主義
雑誌『現代教育科学』3月号の特集テーマは《「子ども中心主義」教育の批判と克服」》である。賛同できる論文もある。しかし、このような特集自体に賛成できない。理由を書く。

「子ども中心主義」と言う一つのまとまった「主義」が存在するわけではない。授業の中で教師の「行為」やそう言った行為をすべきだという「主張」に一つの傾向があって、そのような傾向を十把一絡げにして「子ども中心主義」とラベリングしているのだ。音楽で言えば、「強弱や速さの表現は教師が押しつけるのではなく、子どもに工夫させよう」「技能の訓練や知識の注入を行ってはいけない」などが「児童中心主義」となる。

しかし、このようなある授業場面における教師の「行為」やそれについての「主張」は主義と言うべきほどのものではない。ある内容や教材においては教師が押しつけた方が良い場合があり、ある内容や教材においては子どもに工夫させたほうが良い場合がある。普通はそのように柔軟に考えるはずである。

ここまで読まれたかたは、「ある内容」「ある教材」という言葉にもどかしさを感じられたのではないか。当たり前である。授業で教師がどのような行為をすべきかということについては、どのような内容をどのような教材を使って子どもに学習させるかという具体的な場面において語られなければ何の意味もないのである。

教育内容や教材が具体的に示されていない授業論や子ども論は空虚である(教師論でさえ空虚だと思っているが、これはまた別の機会に書く)。一般的に「子ども中心主義」というラベリングされる主張は、「教育内容」や「教材」についての議論そのものを排除する。つい先日出席した小学校の授業研究会がそうだった。教育内容や教材について出席者はだれも発言しなかった。どの先生の発言も空虚だった。

しかし一方で「子ども中心主義」批判も、教育内容や教材抜きで行われると空虚になる。一体どのような授業について批判しているのかさっぱりわからないからである。ただ、今回の特集では、各教科における「子ども中心主義」批判の論稿も掲載されていて、それらには説得力があった。国語、社会、算数、理科である。残念ながら音楽はなかった。

「そう言うお前の文こそ空虚だ」・・と言われそう。

| 教育 | 05:57 AM | comments (0) |
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2月14日
今日は2月14日なのだ。

だからどうした?

・・・・・・・・・・・(-.-)

| 日常 | 11:08 AM | comments (0) |
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暴論
昨日は学部の「重要な」行事があったのだが、私は出席しなかった。
出席した人の話を聞いたが、行かなくてよかった。
教育界の「暴論」につきあわされたようだ。
これではいつまでたっても教育学は学問にならない。

もちろん好んでそういう行事をやっているわけではないことはわかる。
だから学部の執行部の方や職務上こんな行事から逃げられない方には申し訳ないとは思っている。それでも私はそういう場所には出て行きたくない。

そのうち、ここにこんなことを書くこと自体が問題視されるようなことになるのかも・・・

多分読んでも訳の分からない方ばかりだと思うが、書かずにはいられない。申し訳ない。

| 教育 | 09:48 AM | comments (0) |
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ジャズ入門
「ジャズ」と言うとちょっとおシャレな音楽だと思っている人がいるらしい。そう言う人は、そのおシャレな音楽を趣味にする(モノにする)ことがまたおシャレと思っているらしい。しかし、それをモノにしようとしてなかなかモノにならない。そういう人のためのの本だ。

中山康樹『挫折し続ける初心者のための最後のジャズ入門』(幻冬舎新書・720円)

ジャズをモノにしたいと思っている人は多いのに、一方でジャズは初心者には「難しい」「怖い」と思われている。著者はこのジャズの「難しさ」「怖さ」を分かりやすく分析する。ほとんどが「なるほどなるほど」と思うことばかりだ。そして著者は言う。
音楽をあくまでも“音楽”として聴く。
そこでもっとも重要なことは、音楽と距離を置くということになる。すなわち必要以上にCDを集めることはない。ましてや毎日、決まったように音楽に接する必要もない。ほんとうに欲しているとき以外、音楽を聴く必要はない。聴きたいときだけ聴く。いいかえれば、惰性で音楽を聴くことをやめる。そして、聴くときは真剣に聴く

これは、ジャズに限らずクラシック音楽や日本の古典音楽にも言えることだ。そして、上のように聴いてもやはり「難しい」と思ったら、その音楽は自分には向いていない、あるいは聞く耳を持たないと思って別の音楽を探すか、あるいは別の趣味をモノにすることだ。音楽などなくたって、人生に楽しいことはいくらでもある・・・などと私が公言すると問題になるかも知れないのだが、本当にそう思うから仕方がない。

| | 06:42 AM | comments (2) |
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あずますぃ
温泉に行った。気持ちよかった。
津軽弁では、心地よい、気持ちよいを「あずましい」という。津軽弁の「し」は "shi" ではなくsiに近い(・・と私には聞こえる)。無理にひらがなで書くと「あずますぃ」となる。九州出身の私にはこの発音がなかなかむずかしい。この「あずましい」を九州弁といっしょにしてしまうと、次のようになる。

「あずましかー」(きもちよかー)・・・私の中では結構ぴったりしている。

| 日常 | 08:35 AM | comments (0) |
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昨日は、本の整理を行い、少し処分した。処分しなければ動きがとれなくなるからだ。私は何度も引っ越しをし、そのたびに大量に本の処分をしてきたのだが、それでもしばらくするとすぐに置き場がなくなる。必要な本、読みたい本を買う。しかし、なんでこんなくだらない本を買ったのかわからない本も山ほどある。ちょうどそのころ話題になっていて買った本だ(人に本棚を見せるのが恥ずかしい)。

本は、ある人にとっては宝でも他の人にとっては紙くず同然という場合がある。私自身にとってもその時は宝だったのだが、年月がたてば紙くずになる本がある。

私は、世の中で話題に乗り遅れることに対する不安感が強いほうである。多くの人が知っていることを知らないことに対する不安感も強い。それで、ついついくだらない本も買ってしまう。読むならまだよいのだが、買って持っているだけで安心してしまい、結局1行も読まずに処分してしまうこともある。お金が惜しいというより、世に媚びているこんな自分が嫌いだ。

で、どんなくだらない本を買ったかって? それは秘密です。

| 日常 | 09:08 AM | comments (2) |
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職業意識
東京都板橋区の東武東上線ときわ台駅で、自殺しようと線路内に立ち入った女性を救おうとして急行電車にひかれた警察官は、まだ意識不明の重体が続いていると言う。何とか回復してほしい。

自殺願望の女性を救うために、なんでこんな目に会わなければならないかと思わないでもない。しかし、それが警察官の職業意識なのだろう。このように精神と身体が動くようにできていたのだろう。私はこのような人を無条件に尊敬する。

この事件は、私たち教師にとっても無関係なことではない。教師にだって不測の事態は起こる。例えば、地震、火事などの災害である。大阪教育大学附属池田小学校のような事件が二度と起こらないとは限らない。こんな時に教師が為すべき最も重要なことは、児童、生徒、学生の生命を守ることである。そして、それは自分の命を守ることよりも重要である。教師とはそのような職業なのである。

大阪教育大学附属小学校の事件が起きた頃から、ずっと考えていた。あの時に現場に居あわせた先生を責めることはできない。そんなことが起こるとは誰も予測していなかったからだ。予想していないことが起これば、誰もが自分を守ると言う本能が働く。しかし、この事件によってこんな事件が起こりえないとは決して言えないことが明らかになった。言い訳はもう利かないのである。

不測の事態が起きたときにどうするか。頭ではわかっていても、自分が一番最初に逃亡することになるかも知れない。おそらく、私が私の防衛本能に従えば、そう言う結果になるだろう。そうならないためにはこの警察官のような心と体の構えが必要なのだ。武士はいつも死ぬ訓練をしていたという。切腹の作法を習うのもその一つだったのだろう。自分が一番に逃亡するような卑怯者にならないための精神と身体の訓練をしておこう。

・・・と言いつつ、できることならば、こういう事態が巡って来ないことを祈りつつ(残りの人生はそんなに長くないのに)酒ばかり飲んでいる軟弱な私である。

| 教育 | 08:06 AM | comments (0) |
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日本の歌

取手市上空からの富士山(2007/02/06)

親子で歌いつごう日本の歌百選

見ていると、なかなか面白い。懐かしいだけだったりして・・
101曲中、メロディーが出てこなかったのが1曲で「風」(西條八十訳詞 草川信作曲)である。はしだのりひこ作曲のあれならわかるのだが。訳詞というからだれか外国の有名な詩人の作品に草川が曲をつけたのだろう。調べてみることにする。

もう一つは、この一つ一つの歌が最初に掲載された本や歌われた番組とその年代を調べると楽しい。ほとんど曲が、与田準一編『日本童謡集』(岩波文庫)、堀内敬三編『日本唱歌集』(同)でわかる。

例えば「どんぐりころころ」(青木存義作詞 梁田貞作曲)は童謡集『かわいい唱歌』大正10年10月号に掲載された曲である。ついでに「ぎんぎんぎらぎらの「夕陽」(葛原しげる作詞 室崎琴月作曲)も『白鳩』大正10年10月号である。このころ大量の童謡が生まれたのである。

一方、唱歌のほうは・・・別の機会に。
この二冊はおすすめである。安いので是非持っていていただきたい。

101の「我は海の子」。とても大切な歌である。

| 教育+音楽 | 06:01 AM | comments (0) |
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「産む機械」発言
2月4日「朝日新聞」の「声」欄に次のような投書が掲載されていた。
「社会には解決を迫られている問題が山のようにあります。年金のあり方や非正社員の制度改善や北朝鮮問題・・・そんな大問題の審議をないがしろにできるほど《産む機会》発言は重要なのでしょう。(中略)うみが次々と出る政府与党と批判しかできない野党。選挙の年なのに、このままでは国民が得ることのできる選択肢はあまりにも少ないのではないでしょうか」

これは14歳の中学生(女)の投書である。いろいろ考えさせられた。
・このような文章を書ける学力は、どのようにすれば育つだろうか。この学力は「ゆとり教育」の成果なのか。それともゆとり教育とは反対のことをしてきた成果なのか。
・教師をめざす我が学生は、これだけの文章が書けるのだろうか。

| 教育 | 07:30 AM | comments (0) |
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近くて遠い話
東京の宿泊していたホテルの近くで安いめがねを売っていたので衝動買いした。
最近、とみに近くが見えにくくなってきたからだ。

私は、かなりひどい近視である。視力は0.1以下である。ところが、40歳をすぎたころから近くが見えなくなった。といっても遠くが見えるようになったのではない。遠くは遠くでこれまでと同様にめがねが必要なのだが、遠くを見るめがねでは近くが見えないのである。それで結局近くを見るにはやや度の弱いめがねが必要になるのである。つまり近視だった人が歳をとると、近くを見るためには度の弱い近視用のめがねが必要になるのである。

めがねをいつも取り替えるのは面倒なので遠近両用を使うことにしたのだが、それがまたたいへんなのだ。レンズの上のほうで遠くを見て、下のほうで近くを見ることになるのだが、私たちのような仕事の場合、コンピュータのディスプレーや楽譜ど、レンズの上のほうでも近くを見るほうが多い。けっきょく遠くを見ることはあきらめて、日常は近くを見るためだけのめがねをかけている。映画やスポーツを見たりする場合だけ、遠くを見るめがねを使う。慣れれば、遠くは見えなくてもなんとかなる。それどころか、この汚れきった世の中を見なくてすむのでかえってよいのかもしれない。

さて、この買ったばかりのめがねを友人に見せたら、「そんなもんはめがねじゃねえ」と言って、私のめがねの12倍の価格のめがねを見せてくれた。いかにも高そうなめがねだ。どうしたのかときいたら、「めがねやの店員に載せられて、見栄で買ってしまった。トホホ」と言うことだった。

ところで、眼の話はかなりややこしい。「遠近両用」の「遠」は遠くを見ると言う意味なのか、遠視用と言う意味なのか。近くを見るのが遠視用で遠くを見るのが近視用で・・。ある友人は「最近眼が遠くなった遠くなった」と言う。「遠くなったとは一体?」。「耳が遠くなった」というのは「遠くの音が聞こえない」ということなのだろうが・・・訳がわからんようになってきた。

| スポーツ | 07:40 AM | comments (0) |
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