2006,12,31, Sunday
快感
なぜか、ここ数日(私にはめずらしく)必死で学問にいそしんでいる。授業のないこの冬休みと言うのはきわめて研究者にとってはとても重要な時期なのである。
どうしても気になる資料があって3時くらいに起きてその資料を読んでいた。何度読んでも意味が理解できなかったところがあったのだが、今突然すべてがわかった。難しい数学の問題が解けたような、あるいは詰め将棋の問題が解けた時のような快感だ。 こんな快感は、久しぶりである。 どんな内容か? それはもちろん企業秘密である。 と、このように1年の最後に私はとてもよいことがあった。 そう言えば、この年の瀬の最後の10日間はとても充実していて、よいことがたくさんあった。できればこの気分のまま、新しい年に突入したい。 では、皆様よいお年をお迎えください。 |
2006,12,30, Saturday
あと2日
今年も、今日を入れてあと2日。あっという間の・・・という訳でもないのだ。結構、「あと5日」という文を書いてからは、たった3日間なのにかなりいろいろなことが脳みそに刻印されているのである。それは、実につまらないことでも、時間について考え書くことによって、過ぎて去っていく時間を意識しているからだ。1日に1回くらいは時間について自覚する時間をつくってみることは、歳を取るにつれて速度も増していく時の流れ(とっても矛盾した言葉である。なぜかかというと・・・・・・・・・・今日はそれについて言及しない)に抵抗する一つの方法かもしれない。
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2006,12,29, Friday
あと3日
今年も、今日を入れてあと3日。あっという間の1年だった。本当は「あっ」という間に1年が終わるはずはないのだ。1年どころか1日だって終わらないのである。その証拠に、試してみればわかる。「あっ!」。まだ、12月29日なのである。
なぜ1年が「あっ!」と言う間だ感じるのかというと、過去は自分の脳みそに刻印されるだからである。「あっ!」と言う間をせめて「あいうえお」とか「色は匂へど 散りぬるを我が世誰ぞ常ならむ有為の奥山今日越えて浅き夢みじ 酔ひもせず」くらいにするにはどうしたらよいのかと寝ずに考えたら、一つ結論を得た。 私には、実は自分の行動を記録すると言う習慣がまったくない。例えば、朝、昼、晩に何を食べたかとか、どんな仕事をしたとか、お金をいくら使ったとか、誰と会ったとか、誰と飲んだとかを手帳や日誌に書き付けておけばよいだろうが(いろいろ便利である)、そういうことをまったくしない。ブログには時々書くが、さしさわりのあることも多い。書かれて困る人もたくさんいるかも知れない。「あいつは、昨日吉田と飲んだな!」と思われるのも嫌だろう。 1年を長く感じるためには、記録を取るようにすればよい。あとで記録を見て、自分が1年何をしたのかをゆっくり見ることにする。ただ、ものぐさの私にはそれは相当難しいことである。だから、とりあえずこの3日間だけ実効してみる。「3日だけ実効してみる」と言うのは、どうせ3日坊主だとあきらめているからだ。それでも最後の3日だけは少し長めに感じることにある。 |
2006,12,28, Thursday
あと4日
今年も、今日を入れてあと4日。あっという間の1年だった。本当は「あっ」という間に1年が終わるはずはないのだ。1年どころか1日だって終わらないのである。その証拠に、試してみればわかる。「あっ!」。まだ、12月28日なのである。
なんだ、昨日と同じじゃないかと思われるかも知れない。しかしよく見ると2箇所ほど違うのである。この2箇所の違いなどと言うものは過ぎ去ってしまうと「あっ」と言う間の違いに違いには違いなのだが、今この瞬間を生きている私(ああ、なんと若者っぽい言葉だ!)には大きな違いがあるのだ。 あと5日と思っていた時点からあと4日と思った今の時点までの1日は、ゴミのような1日かも知れないが、それでも確かに私の脳味噌の中に刻印されている(カントがそんなことを言ったかどうかは知らない)。しかし、あと3日と私が思う時点が確実にやってくるとは限らないのだ。 そうだ! 今この瞬間、一生懸命生きることが大切なのだ。わーい青春だ! ・・とかなり強引に短絡して文章が終わるのは、もう書く時間がないからである。 今日は、9時30分から大学で会議である。午後は卒論の指導、3時ごろから研究室に来訪者がある。一応今日までが出勤日である。たぶん、明日も出て行かなければならないだろう。もちろん今日の午後がやってくるか、明日がやってくるはきわめて不確実である。 |
2006,12,27, Wednesday
あと5日
今年も、今日を入れてあと5日。あっという間の1年だった。本当は「あっ」という間に1年が終わるはずはないのだ。1年どころか1日だって終わらないのである。その証拠に、試してみればわかる。「あっ!」。まだ、12月27日なのである。
では、なぜ過ぎ去った日々は「あっ」と言う間だったように感じるのかと言うと、少し難しい哲学的な考察を必要とするので、詳しいことはあえてか書かない(書けない)が、過ぎ去った日々というのは、どこかに存在するものではなく、人間の脳味噌の中にしか残らないので、私のように小さく粗雑な脳味噌の中(脳味噌は小さいに違いないのだが、頭はとてもでかくてキャップは3Lである。ついでに顔もでかい。でかい顔は時代劇の役者には向いている。その証拠に高橋英樹も里見浩太朗もでかいが、木村拓哉は小さいのに時代劇にでている。子どもの頃からでかいツラするなと言われ続けてきたが、好んででかいツラをしているわけではない。おっと脱線しそうである。カッコをつけて注釈をつけているうちに脱線するのは私の悪い癖である)には一年分の日々などはとても入りきらないのだ、「あっ」くらいが精一杯なのだと妙に納得して喜んでいる師走である。1年が「あっ」と言う間の人は私だけで、ひょっとしたら「あっいっうっ」くらいの人もいるのかも知れない。 ところで、今年は2006年だが平成18年でもある。私は、今年が平成何年だということにななじむまでに、だいたい夏から秋くらいまでかかる。つまり今年の場合だと10月くらいになってやっと、今年は平成18年だと言うことが違和感なく受け入れられる。つまり、夏あたりまでは、17年のような気がしていた訳である。おそらく、来年になっても19年という実感はあまりないだろう。 一つだけ思い当たる理由は、教育関係の仕事のため、平成○○年度と言う方をすることが多いことである。来年になっても3月までは平成18年度である。それを引きずっているのかも知れない。安倍首相は大学の9月入学制度を考えているようだ。そうなると、ますますややこしくなりそうだ。 |
2006,12,26, Tuesday
死刑執行
重い話でもうしわけない。
昨日、3つの刑務所で4人の死刑囚に対して刑の執行が行われた。杉浦前法務大臣が宗教上の理由から執行を拒んでいたので、一年半ぶりの死刑執行になる。いくら拒んでも、法律にのっとっていつかは執行しなければならないのだから当然と言えば当然とも言えるが、それでも何となく割り切れなさが残るのはなぜだろう。 若い頃は私も当然のことながら、死刑反対論者であった。「人を殺すのは犯罪である。その犯罪を国家が犯すのは矛盾している」。こんな論理はもちろん通用するはずもない。議論はいろいろな行われているので繰り返さないが、現在は死刑制度は維持すべきであると考えている。一つだけ言えば、その死刑囚が虫けらのように殺した人たち(たいていは複数)に比べれば、死刑囚ははるかに人間的に扱われている。遺族にとっては、おそらくそのことさえ許せないことなのではないか。 と言うもののやはり割り切れなさが残るのはなぜだろう。 |
2006,12,25, Monday
東京
一昨日(23日)から東京に来ている。昨日は、さるところでさる委員会に出ていた。私なんぞのような年寄りはもういいのだが、小学生の子どもがいる若い委員などは、家族に白い目で見られながら出てきたのではないだろうか。ある委員は、新幹線で来ていて、「東京にしかないクリスマスケーキを買っていかなきゃ」と言っていた。
今日は、少し調べ事をしてから、夜はさるところの忘年会へ。 |
2006,12,24, Sunday
クリスマス・イブ
今日はクリスマス・イブである。イエス・キリストの誕生日の前夜となっているがたぶん嘘である。イエスが12月25日に生まれたという確かな証拠はどこにもない。ベツレヘムで生まれたというのもたぶん嘘である。ガリラヤのナザレで生まれたのである。ただ、旧約聖書の予言にそう書いてあったので、それに合わせるためにそう言うことにしたのである。そしてとびきりの大嘘が、処女降誕である。新約聖書の「マタイによる福音書」(共同訳)の第1章には次のように記されている。
アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。 途中省略したが系図が系42代にわたって長々と書かれてある。それは、イエスがアブラハムはダビデの直系であることを示すためなのだが、結局はイエスは直系ではないのである。なんせ処女降誕なのである。じゃあ、誰がイエスの父親なのかということに関しては諸説ある。ヨセフのフライングとか、ローマの兵隊などの説があるがそんなことはどうでもよい。大事なことは、そんなことはありえないということである。 クリスマスのこの物語も、イエス(イエスはギリシャ語、本当はヨシュアというユダヤ人にはどこにでもいる平凡な名前である)が生涯で行った数々の奇跡も、そして復活も史実ではない。これを史実だと言い張るなら、キリスト教は完全にカルト宗教である。これらのことがすべて史実としては否定され尽くしても、イエスという人が約2000前に生まれ十字架の上で死んでいったことの意義を認める。そのような人々のためにクリスマスはある。 にも、かかわらず日本でのこのクリスマスの大騒ぎは一体どうしたことか。若者はこの日のためにお金をためて、彼女に高価なプレゼントを準備し、ホテルを予約して、食事に誘う。一体何を考えているのだ。今の時代、フライングが絶対いかんとは言わないが、高価なプレゼントで誘うのはいががなものかと、そんな経験のできなかったオヤジがひがんでいる。 |
2006,12,23, Saturday
同姓同名
ある人のブログを見にいったら、自分の名前が稀少だということが書かれていた。とてもいい記事だった(私のブログなんぞと比べると本当に品のあるブログでもある)。それじゃあという言う訳で、今日は名前について書くことに決めた。その前にある人に連絡したいことがあって電話をした。その時の会話である。
相手「吉田先生、大丈夫ですか?」 私「えっ?」 相手「でも、私がメールでご案内を差し上げたら、家族に事故があって出席できないとのお返事をいただきましたよ」 私「そんな事故はありません。それにメールもいただいていません」 相手「・・・・あっ、別の吉田孝さんに間違って出してました」 相手は東京の人だが、その人と近しい人にもう一人吉田孝という名前の人がいるらしい。実は、吉田孝なんて言う名前はどこにでもあると書くつもりだったのだが、書く前にこんなことが起きたので驚いた次第。 昔も書いたが、研究者だけで「吉田孝」は4人いる。一人は私である。 もう一人は同じ弘前大学の別の学部にいる先生。この先生は私と違ってまったくの良識派。ご迷惑をおかけすることになるので、くれぐれも私とは間違えないようにしていただきたい。この方とはなぜか最近バスでよく会う。お話をしていると、なんとなく不思議な気になる。二人を共通に知っている人が見たら、どんな気がするのだろうか。一度反応を見てみたい。 東北地方の別の大学にも同姓同名の先生がいらっしゃる。なぜか、この方のところに私あての書類が間違って送られ、わざわざこの方が高知大学まで転送して下さったことがある。そこには「会った時は笑って握手しましょう」と添え書きがあった。20年くらい前の話であるが、まだお会いしたことがない。 研究者はもう一人。もちろんあの超有名な歴史学者である。この方の『日本の誕生』(岩波新書)が出版された時は、書店に平積みされて少し照れくさかった。いつか私の本もこういうふうに並べられたいなあと思ったが、もう無理だろうな。 あと、同じ東北地方に「燃えるブログ」というのを出している方がいる。講演など、売れっ子らしい。その他、声優、サッカー選手、まだまだいそうである。それに、隆、崇、敬、貴志なども入れれば、「吉田たかし」は全国に掃いて捨てる(失礼!)ほどいる。ごろがいいのかも知れない。全国吉田たかし会という会を作ったら、どのくらい集まるのだろう。 ところで、「孝」と言う名前をつける人は、一体どんな人なのだろう。そのうち一人(あるいは二人)には会ったことがある。よほど孝行してほしかったのだろう。でも期待に反してごめんなさい。私は天下一の親不孝者である。 |
2006,12,22, Friday
冬至
今日は冬至である。一年で一番日の短い日である。当たり前のことである。ほかに書くことがない。
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