2006,10,24, Tuesday
ストーブ
津軽はもう冬である。
あまり寒いので、ストーブを出した。 私は、5年前の2001(平成13)年11月1日付けでこの弘前に赴任した。 その時に最初に買ったのがこのストーブである。 宿舎の壁に、煙突用の穴があったので、煙突式のストーブにした。 これ一つでかなりあたたかい。 |
2006,10,24, Tuesday
若者との接し方
高校野球の監督と言えば、なんとなくある特別なイメージを持っていた。
そのイメージが少し変わるのがこの本である。 渡辺元智『若者との接し方−デキない子どもの育成力』(角川Oneテーマ21・686円) 横浜高校野球部の監督として、選抜高校野球で3度、夏の大会で2度、横浜高校を優勝に導いた渡辺監督の本である。西武ライオンズの松阪大輔投手を育てた監督である。今年の夏は、早稲田実業の斎藤佑樹投手が話題になってしまったが、その斎藤投手を打ち込んで春の大会で優勝したのが横浜高校である。その監督である。 横浜高校と言えば、野球のエリートばかり集まってくる。そして部員数は100人を超える。そこから良い選手を選んで使うのだから簡単そうに思える。しかし、それはそれで苦労がある。 渡辺監督の指導者としての成長過程を記した本である。 |
2006,10,24, Tuesday
「いじめ」(その3)
行為を受けた側が「いじめられた」と受け取っても、、行った側から見れば大半が「いじめた」という自覚はないのであろう。もちろん「いじめたい」と思ってそのような行為をする者もいるだろう。ただし、ここで自覚があるかないかは重要ではない。また、自覚があるのとないので罪の重さが変わるわけではない。自覚があろうとなかろうと悪いことは悪いとすることが重要なのである。
その2で書いたような、他人の頭をたたく行為は、「いじめる」ためであろうと、ふざけているのであろうと悪いことは悪いのである。また、言葉で他人をからかうことも、教師であれ児童・生徒であれ、決してやってはいけない悪事なのである。 「いじめ」という言葉にとらわれるあまり、日常的に行われている悪事が見過ごされてしまっているのではないだろうか。 |
2006,10,23, Monday
睡眠
昨日は、東京駅の近くで夕方1時から4時まで会議。会議のあと出席者と軽く1時間ほど反省会。今回は時間がないので、そのまま新幹線「はやて」に。駅で缶チューハイを1本買い、飲んだらあとは睡眠。不思議なことに八戸で目がさめ、「つがる」に乗りかえてまた睡眠。終点弘前で目が覚める。
知る人ぞ知る。私は一度睡魔に襲われると、まずだめである。飲み屋のカウンターであろうと、電車の中であろうと、公園のベンチであろうと、どこでも寝てしまう(飲んだ量などはほとんど関係ない。ただただ睡魔に弱いのである)。飲んでいて、なにやら熱心に話しているので、一生懸命聞いていたら、いつの間にか言葉が途切れているのでよく見ると寝ていた・・ということがよくあるらしい。だから、みんなにわがままだと言われる。それならまだよいが(良くない!)、これまでそのことで数え切れないほどの失敗をした。とても話せない。 月曜日、あわただしい1週間がはじまる。今週は本当に忙しい。 |
2006,10,21, Saturday
「いじめ」(その2)
先日次のようなことがあった。
皆さんもよく目にする光景のはずだ。 5人の中学生が、道路上でなにやら騒いでいる。 よく見ると、4人が1人の子の頭を平手でたたいていた。それほど強くたたいていると言う感じではないが音がする。これは「いじめ」かも知れないと思い、止めることにした。中学生といっても最近は注意をすると逆キレして殴りかかってくる子もいる(前、そうなりかけたことがある)。少し怖いが、勇気を出してその子達に近づく。すると、たたかれた子は笑いながら、何か叫んでいる。深刻な顔をしているわけでもない。みんなでふざけていたようだ(と私には思った)。それで私は、怖い役目を果たさずにすんだと胸をなでおどろす。しかし、この時の私の判断は間違っている。 さて、この光景は「いじめ」と言うことができるだろうか。おそらくたたいた子は悪ふざけをしただけでいじめているという意識はないだろう。たたかれた子はいじめと感じているのか感じていないのかはわからない。しかし、いじめられたと感じていないとは決していえない。 私の経験によると、このような悪ふざけをしている場合でも、たたかれ役にまわる子はだいたい決まってくる。決して力の強い子は、たたかれ役にまわることはない。だから、繰り返しこのような行為を受けている可能性がある。笑っているから、いじめられているという意識がないはずだとも言えない。こういう場合は、怒るとかえって面白がられてさらに行動がエスカレートしてくることが多い。だから顔で笑って、心で泣いてじっとたえているのかもしれない(私にとっては頭をたたかれるなどというのはとても屈辱的である。このようなことをすれば、たとえ冗談であっても怒る)。 このように考えると、このような行為は、体をはってでも止めなければならない。もちろんふざけているだけで、たたかれたほうもいじめられているとは思っていないかも知れない。それならなおさら止めなければならない。「ふざけて人をたたいたりしてはいかん!」 まず、暴力はどんな小さなことでも止めるべきである。その時に、「いじめかどうか」などと悠長なことを考えていてはいけない。 だから、私がその場をだまって離れたのは間違っている。 「いじめ」があったかどうかよりも、そこでどのような行為が繰り広げられたを明らかにするほうがよほど重要なのである。 たとえば、滝川市の事件。「いじめ」であることを認めさせようとしたあまり、具体的に何が起こったかは何も明らかにされず、関係者の処分だけで幕引きが行われようとしていないか。 |
2006,10,21, Saturday
アナログ生活(4)
アンプを2台使っている。使うアンプを切り替えたい。
セレクターを使うのも一つの方法だが、なかなか面倒だ。それで、テレビゲーム用の切り替え器を買ってきて使うことにした。入力が2系統、出力が1系統になっているのだが、それを逆にして使っている。 ただ、テレビゲームの切り替え器は、右チャンネルと左チャンネルの間に抵抗を入れている(なぜ、そうするのかわからない)。それで、左右が完全には分離しない。そこで、この抵抗を取ってしまう。これは、少しややこしい作業だが、回路をしっかりたどれば、すぐにできることである。ホームセンターで680円だった。 |
2006,10,20, Friday
「いじめ」(その1)
「いじめ」について書く。ただし、現在問題になっている事件については、まだ真相が明らかになっていないので、その問題についてのコメントは今のところ避ける。
括弧尽きのいじめにしたのは、複雑な問題の絡み合った事態を「いじめ」という一つの言葉で呼ぶことに反対だからである。 私は、ひねくれ教育時点に次のように書いている。 いじめ いじめを学校からなくすにはどうすればよいか? 「いじめ」という言葉を学校からなくせばよいのである。そんないいかげんなと言われそうだが、本当にそう思うことがある。例えば、何か事件がおこると「学校でいじめがなかったか」ということが問題になる。「いじめがあったかなかったか」と言われても学校は答えようがないだろう。「いじめ」とはある行為を受けた人間の観念に属することがらだからである。もう2年ほど前に書いた文である。暴論と言われるかもしれないが、この考えは今でも変わっていない。ただ、「「いじめ」とはある行為を受けた人間の観念に属することがらだからである」は次のように変えたい。 「いじめ」とはある行為を行う人間と受けた人間の観念に属することがらだからである。そして、両者の観念が食い違うこともある。「いじめが原因の自殺」の文部科学省への報告がここ数年の間0件だったことをマスコミが問題にしている。文部科学省や教育委員会や学校をかばうつもりはない。しかし、このような結果は当然である。つまり、人間の観念に属する問題を数字で表すことはもともと不可能なのである。 また、自殺事件がおきたとき、教育委員会や学校が「いじめが原因」だと認めないこともマスコミは問題にする。両者の観念に属する問題を他人が判断できるはずがない。「いじめが原因」と認めないことを問題にすることによって、実はもっと重要なことが見落とされることになる。(つづく) |
2006,10,19, Thursday
和洋折衷
最初、タイトルを音楽教育事始(ことはじめ)としていたが、「事始」はあっちこっちで使われているので、変えた。
たまには研究のことも書かなければ、兄弟分に叱られる。 このところ、明治期の唱歌教育の資料の見直しを行っている。とくに音楽理論関係である(成果はまだほとんど見えてこないが・・・)。 改めて、すごいの一言である。 例えば、音楽取調掛の仕事に一つに、「東西二洋の音楽を折衷して新曲を作る」がある。 今の人で、自己の音楽観から、この折衷を相容れないものを折衷しようとしたとして、簡単に批判する人がいる。 しかし、その折衷のための作業はどのようなものだったか、この折衷はどれだけユニークなものだったか。その過程を少しでも知れば、批判はできないはずである。 また、ある一つの歴史観でこの時代を一言で切って捨てようとする人もいる(かつての私もそうだった)。例えば「明治時代は富国強兵をめざしたから、唱歌教育もすべてそのために行われた」と言うような論調である。 しかし、資料を見ていくと、明治の唱歌教育の指導者たちのまったく違った側面が見えてくる(人物像をさぐるための手紙などの資料ではない。むしろ理論研究の資料からそのような側面が見えてくるのである) 私は、このHPの中のひねくれ教育事典に冗談めかして次のように書いた。 イデオロギー 持っていると世界がよく見えたような気になるが、実ははるかに多くのものを見えなくする魔法の絨毯。かつて○X主義という魔法の絨毯を手に入れた青年は、それに乗って森の上を飛んでみた。森全体が見渡せて気持ちいい。得意になった青年は、それ以来、森の中に入ることをせずいつも森の上空を飛ぶばかりだった。魔法の絨毯を手に入れられなかったもう一人の青年は、仕方なく森の中を歩き回った。来る日も来る日も地を這うようにして歩き回った。そのうちに森の中にはさまざまな生き物が棲んでいることがわかった。その生き物と会話ができるようになった。そして森そのものが生き物であることも分かった。最後に森とも会話ができるようになった。魔法の絨毯の青年はと言うと、あんまり得意になってはしゃぎすぎたために、絨毯から転げ落ちましたとさ。「木を見気て森を見ず」より「森を見て木を見ず」のほうがはるかに危険。○○観と言ったものこのイデオロギーとまったく同じような働きをする。「史観」「音楽観」「教育観」等々である。日常的にも私たちは「学力観」「子ども観」など「観」という言葉を好んで使う。しかし、これらは生きて働くどころか、私たちの目を曇らせる役割をする場合のほうがはるかに多い。 私の場合、このことに気づくのがややおそすぎた。 |
2006,10,19, Thursday
アナログ生活(その3)
今度は入力装置である。
レコード・プレーヤーである。今はアナログ・レコード・プレーヤーと言うそうだが、昔はプレーヤーと言えばこれだった。ショスタコーヴィッチ作曲「交響曲第15番」がかかっている(聞こえますか)。 このプレーヤーはバザーでコンポを10000円で買ったらアンプ類がだめで、このプレーヤーとスピーカーだけが健在だったので大事に取っていたものだ。ここに来て生き返った。 Technics SL-J80R 針は、インターネットで簡単に手に入る。私が死ぬまでくらいの分はストックしておくことにしよう。 そして、レコード・プレーヤーになくてはならないものがこのフォノイコライザーである。 プレーヤーとアンプの間に接続する。 audio-technica AT-PEQ3 このフォノイコライザーの働きを説明するのはなかなか難しいので省略するが、レコードプレーヤーをならすにはこのフォノイコライザーが必要なのである。 ただし、次の場合は必要がない。 ・アンプにPHONO入力端子がある。これはアンプにフォノイコライザーが内蔵されている。 (プリアンプの場合も同じ) ・最近は、フォノイコライザー内蔵プレーヤーが売り出されている。不思議なことだが、安価なものに内蔵されていることが多い。 ・プレーヤーで安価なクリスタル・ピックアップが使われている。(このようなプレーヤーはレコードを痛めるのでおすすめできない) 本当はこのフォノイコライザーも真空管式にしたい。これもキットが出ているので組み立てたいのだが、お金と時間がない。残念ながら、しばらくこの製品を使う。 |
2006,10,18, Wednesday
寝床で読む『論語』
ブログでも本の紹介はつづけることにしたい。
山田史生『寝床で読む『論語』−これが凡人の生きる道』(ちくま新書・700円) 言わずと知れた(その道の学界でどのくらい言わずと知れているのかは門外漢である私は知らない。たぶん専門の中国哲学の世界では相当知られた人であるはずだ。少なくとも我が教育学部には知らない人はいない。我が同僚である−前にも書いたが、途中で括弧をつけて長々と注釈を入れるのは、私の悪いクセである。括弧の中の文章を書くのに夢中になって本題を忘れてしまうのである。「かっこつけやがって!」と言われそうであるが、自分らしさをわきまえて−−これもこの本の言わんとするところである−−書くことにしよう)山田史生氏の本である。山田氏本人にいただいた(サインは入っていなかった。今度もらいに行こう)。深謝! 「寝床」と言うと、あの有名な落語を思い出す。寝床で読むとおべんちゃらを言わなければならなくなる。だから寝床で読んで感想を書くのは失礼である。そこで、私は飲み屋で酒を飲みながら読むことにした。酒にはよく合う本だ。 まず、「はじめに」がよい。 あなたには自分の目で読み、自分の頭で考えてほしい。自信たっぷりに「○○は××である」と説いてある本が巷にはあふれているが、そんなのを鵜呑みにするようでいけない。本に書いてあることがなんでも正しいとは限らない(この本がその証拠である)という訳で、この本には凡人になる方法が『論語』にもとづいて書かれている。 例えば、論語なぞ全く無知な私でも知っているあの節についてはどのように書かれているだろうか。 師曰く。吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲するところに従いて矩を踰えず。「踰」を探すのは大変である(シフトJISのE6FBである。おっとまた脱線しそうだ)。 この有名な節を山田氏は次のように訳す。 先生はいわれた。私は十五歳のとき、ひとつ学問で身を立ててやろうと決めた。三十歳のころ、なんとかこれで食ってゆけそうだという自信めいたものができた。四十歳になって、もっと別の生き方もあったんじゃなかろうか、とは考えなくなった。五十歳をむかえたとき、おのれの能力の限界が見えてきた。結局これが私にあたえられた運命だったのだと合点がいった。六十歳ともなると、どんなに気に食わない意見を聞いても、そんなに腹がたたないようになった。七十歳のいまとなっては、せいぜい派手にやらかしたつもりでも、はた迷惑をしかできなくなってしまったいいなあ。要は「自然の流れに身をまかせる」と言うことである。 山田氏は次のように結論づける。 生きるとは老いるこということである。若いころは、昨日を忘れ、明日を夢見てきた。老いたいまは、そのつど今日を生きるばかりである。さびしいけれどもそれもまたかけがえのない人生である。七十もなって「まだわかいもんには負けん」と腕まくりするのも、それはそれでかわいいけれど、あんまり本気だと見苦しい。 同感! しかし、私のまわりにいる70前後の人を見ていると、こう言うふうに生きるのは難しそうだ。とくに音楽教育関係の人はみんな脂ぎっている。 と言うわけで、一つ一つの節に味わいのある説明がつけられている。少しは、論語を知ったような気になれる。また、各章の扉についた南伸坊さんのイラストがなんともおかしい。 ただ、読み終えた私の感想はただ一つ。 「凡人になるのは難しい。私には無理だ」 |