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わがままな私
我が弘前大学では、今年度から「教育者騒乱総覧(教育活動自己評価記録)」というのをつくることになった。それで私は次のように書いた。
1 授業に臨む姿勢 ※教員として当該授業科目を担当する際の態度表明

教師はできるだけ楽をする。
学生・院生にはできるだけつらい思いをさせる。
私は、最初は学生にどんな姿勢で臨んでほしいかを書くのかと思ったのだが、「教員として」と書いてあったので驚いた。「姿勢」と言うから、「まっすぐに立つ」とでも書くべきだったかも知れない。
2 教育活動自己評価 ※学生による授業評価を教員の自己評価の資料の一部とし,どのような授業内容及び教育方法の充実・改善がなされたか(ママ 実験系の先生が考えたのでしょうか),また工夫をしているか等を記載する。

私は、学生による授業評価は有害だと考えている。学生による授業評価が有害である理由について4点にわたって述べる。

(1)無責任さを拡大する
他人を評価するということには必ず責任が伴うものである。また責任を伴わせるべきである。学生には責任能力も責任意識もない。例えば、学生からのアンケートによって、ある教員に「あの先生は授業に熱心でない」というような印象が持たれるとする。それでも反論のしようもない。名誉毀損であり、人権侵害である(たとえ、記名式であっても)。
「とにかく学生の率直な意見として読めばよい」という反論もあるかもしれない。しかし、それなら「評価」などと呼ぶ必要もない。今のところは、気分が害されるだけで済んでいる。しかし、これがそのうち教員評価にも結びついていく。学生の無責任さを助長させるだけである。

(2)学生が「評価は楽だ」と思いこむ
学生は今学習している途中である。学問の深さも知らない。教育の難しさも知らない。社会のきびしさも知らない。
学生による授業評価によって、未熟な学生が「評価は楽だ」と思いこむ。それによって学生は研究や教育を甘く見る。社会のこともなめてかかる。
教員養成課程の学生は、教師になるために学習している。一度でも教育実習の経験をした学生は、自分が大学教員の授業を評価することがどれだけ怖いことかが分かるはずだ。それが分からない学生は、教員にはならないほうが良い。

(3)顧客意識を招く
私は、毎回の授業の最後に感想を書かせている。「学期の終わりの授業評価アンケートに授業の悪口を書くのは姑息だ」と言ってある。私の授業方法や授業内容に対する批判ならいくらでも受け入れる。学生の意見に耳をかたむけるべきだというならそうすべきである。私の気づかなかった貴重な意見をもらうこともある。私が勘違いしていた場合には次の週に素直に謝る。もちろん反論することもある。
しかし、次のように情けなくなるような感想を書いてくる学生がいる。私が「居眠りは許さない」「教師の方を向いて思い切りあくびをするのは失礼だ」と注意したときの感想である。
「あくびというのは生理現象で眠ることとイコールでは決してない。昔からよく注意されたが別に眠ろうとかつまらないという意思表示ではないし、しゃっくりやせきのようにおさえようと思っても出てしまうので眠ることはともかくあくびは勘弁して欲しい」
「難しい」「分からない」と、泣き言を言う学生も増えた。何という志の低さか。
また、あるオムニバスの授業で、私が教壇に立ったのに私語をやめないから少し強い調子で叱ったあとの感想である。
「どうしようもないことやどうでもよいことで叱られるとむかつく」
オムニバスの授業でその授業1回きりだから、私が教壇に立った時に私語をしているのは私の責任ではない。こんなことがはずかしげもなく書けるのは、学生の中に顧客意識が広がっているからである(すでに学生のことを「ユーザー」と位置づける人もいる)。勉学は基本的には自分の意思で行うものである。決して他人(教師)から売ってもらうものではない。顧客意識の広がりは大学教育全体の質的低下を招く。ただ学生による授業評価がそもそも学生が顧客であることを前提に行われているとすれば、大学教育はもうおしまいである。

(4)特殊な授業観の押し付けである
アンケートに次のような設問もある。
「授業担当者はこの講義の目的や目標を明確に説明していたと思いますか」
このような設問を平気でつくれる人は、授業のパターンを一つしか知らないのであろう。授業の目的や目標を明確に説明することが良いことだ、というのは授業に関する一つの考え方、一授業観にすぎない。例えば「目的」に関して言えば次のようなケースがある。
・目的をあらかじめ学習者にわからせたほうがよい場合
・学習のあとで目的をかわらせた方が良い場合
・学習者自身に目的を考えさせたほうが良い場合
ごくごく一般的に言えば、学習者が熱心に学習できた場合、教師があらためて授業の目的などを話す必要はない。目的や目標を授業内容とは別に説明しなければならないとすれば、その授業が学習者にとってよほどつまらないからである。つまり「授業はつまらないかも知れないが、こんな目的があるのだから我慢して聞きなさい」である。また、逆に授業の目的を言葉でいくら説明しても意味がない場合もある。例えば「音楽は人生を豊かにするから学習する意義がある」と言うことを言葉で説明するのは無駄である。
もちろん私が書いていることも一つの授業観である。押しつける気は毛頭ない。だが、権力でもって特定の授業観を押しつけているのとは違う。学生の授業評価を進める人たち(おそらくいやいやながらやっているのだろう。同情する)は、さまざまな授業観や授業方法があることを軽視し、ひいては教育研究を軽視しているのである。

学生による授業評価は大学に義務づけられているので、学期末のアンケート調査に協力はする。しかし、私の授業に関する評価は一切無視する。

それによって教員として低い評価をされてもよい。どうせ老い先短い人生である。
このページに何度も書いてきた通りである。読みあきた人はとばしてほしい。
3.授業改善のための研修活動等 ※授業内容及び教育方法の充実・改善を図るために参加した,FD活動・セミナー・ワークショップ等があれば記載する。

私も教育学者のはしくれである。音楽教育の改善のために粉骨砕身の毎日を送っている。
授業の改善は私の仕事である。

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うーん、見直しても見直してもミスが見つかる。

| 教育 | 05:58 AM | comments (0) |
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