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めざす教師像などいらない
学部内の研究会が出している「ニュース」に次のような文章を投稿したら
昨日それが発行された。コラムになっていた。1月25日にここで書いた
ものを推敲した(ようには思えない)ものである。ずいぶん、ひんしゅく
を買っているらしい。もしそうなら、ぜひそのひんしゅくを文章にしてい
ただきたい。

なお、この文章は私がおおやけにしたものだから、この文書に対する反論
は、おおやけの場でしていただきたい。ここのコメント欄も使ってかまわ
ない(ただし、本名明記のこと)。メールによる反論は本名明記の上でこ
のブログに掲載する。
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めざす教師像などいらない
                    吉田 孝
「めざすべき教師像」
教員養成学部にそんなものはいらない。もし、めざすべき教師像が決まって
しまったら、その教師像とは異なった教師像を持った大学教員は、仕事がで
きなくなる。教育研究がそのめざすべき教師像にしばられてしまう。

どんな教師をめざせば良いをか敢えて言うなら、私は「『めざすべき教師像』
を否定する教師」と答える。
 
どんな教育思想、授業思想、実践思想も、一度は疑ってかかるべきである。
「教師は子ども(学習者)が好きでなければならない」と言うことですらそ
うあるべきだ。子どもを偏愛して問題を起こした教師もいる。大学教師が大
学生を好きになりすぎたらもっと大変なことになる。

目指すべき教師像を疑わないなのら、大学と言う研究機関で教員養成をする
必要はなくなる。教育研究の必要もなくなる。そう言う意味では、我が学部
が「めざすべき教師像」としている「児童・生徒・成人に働きかけ、読みと
り、働きかけ返す力をもつ教育プロフェッション」はとてもよい。言葉だけ
で実際にはめざすべき教師像になっていないからである。教師という仕事に
ついて定義しているだけだからである。

「教師の仕事とはどのようなものですか?」
「児童・生徒・成人に働きかけ、読みとり、働きかけ返すことです」
こう言うと実にわかりやすい。

ついでだが、学校に「めざすべき子ども像」もいらない。どう成長するかは
子どもが自分で決めたら良いのだ。自分で決める力をつけるために学習する
のである。人間として最低限守らなければならないルールがあると言われる
かもしれない。しかし、そんなものは学校ごとに異なるものではない。各学
校が「めざすべき子ども像」を決めても、結局は言葉の上のスローガンにし
かならないのである。

さらについでに言えば、協同研で研究の全体テーマを決めることにも私は反
対である。どのような教育実践が必要かは、学年、教科、教育内容、その時
々の子どもの状況によって異なる。それらを無視して研究のテーマを決めれ
ば、個々の研究が不自由になる。現に一部の学校の研究テーマがそうなって
いる。

| 教育 | 09:01 AM | comments (0) |
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