2007,03,15, Thursday
めざす教師像などいらない
学部内の研究会が出している「ニュース」に次のような文章を投稿したら
昨日それが発行された。コラムになっていた。1月25日にここで書いた ものを推敲した(ようには思えない)ものである。ずいぶん、ひんしゅく を買っているらしい。もしそうなら、ぜひそのひんしゅくを文章にしてい ただきたい。 なお、この文章は私がおおやけにしたものだから、この文書に対する反論 は、おおやけの場でしていただきたい。ここのコメント欄も使ってかまわ ない(ただし、本名明記のこと)。メールによる反論は本名明記の上でこ のブログに掲載する。 ================================= めざす教師像などいらない 吉田 孝 「めざすべき教師像」 教員養成学部にそんなものはいらない。もし、めざすべき教師像が決まって しまったら、その教師像とは異なった教師像を持った大学教員は、仕事がで きなくなる。教育研究がそのめざすべき教師像にしばられてしまう。 どんな教師をめざせば良いをか敢えて言うなら、私は「『めざすべき教師像』 を否定する教師」と答える。 どんな教育思想、授業思想、実践思想も、一度は疑ってかかるべきである。 「教師は子ども(学習者)が好きでなければならない」と言うことですらそ うあるべきだ。子どもを偏愛して問題を起こした教師もいる。大学教師が大 学生を好きになりすぎたらもっと大変なことになる。 目指すべき教師像を疑わないなのら、大学と言う研究機関で教員養成をする 必要はなくなる。教育研究の必要もなくなる。そう言う意味では、我が学部 が「めざすべき教師像」としている「児童・生徒・成人に働きかけ、読みと り、働きかけ返す力をもつ教育プロフェッション」はとてもよい。言葉だけ で実際にはめざすべき教師像になっていないからである。教師という仕事に ついて定義しているだけだからである。 「教師の仕事とはどのようなものですか?」 「児童・生徒・成人に働きかけ、読みとり、働きかけ返すことです」 こう言うと実にわかりやすい。 ついでだが、学校に「めざすべき子ども像」もいらない。どう成長するかは 子どもが自分で決めたら良いのだ。自分で決める力をつけるために学習する のである。人間として最低限守らなければならないルールがあると言われる かもしれない。しかし、そんなものは学校ごとに異なるものではない。各学 校が「めざすべき子ども像」を決めても、結局は言葉の上のスローガンにし かならないのである。 さらについでに言えば、協同研で研究の全体テーマを決めることにも私は反 対である。どのような教育実践が必要かは、学年、教科、教育内容、その時 々の子どもの状況によって異なる。それらを無視して研究のテーマを決めれ ば、個々の研究が不自由になる。現に一部の学校の研究テーマがそうなって いる。 |