2006,12,03, Sunday
コーホーさん
また、やってしまった。すでに持っている本を買ってしまった。
宇野功芳『新版・クラシックの名曲・名盤』(講談社現代新書・1996年・900円) 講談社現代新書は、数年前にカバーのデザインがかわった。その上帯に次のようなコピーがついてる。 『どだめカンタービレ』でクラシックにハマった人へ・珠玉の名演はこれで聴け・名盤ガイドの歴史的名著最後の「歴史的名著」を見落とした。このカバーと帯で、宇野さんが久々に新しい本を出した、と勘違いししてしまった。 宇野さんというと、ぼくは(宇野さん風に)どうしても「軽薄なクラシック評論」という先入観をもつ。例えば、ヴィバルディ「四季」についてはこうだ。 最後にCDの聴き方だが、「四季」のような小編成の音楽は小さなヴォリュームで聴かないと、その味がわからない。逆に大編成のオーケストラなどは大音量にすべきだ。こういう当たり前のことが意外に守られてないので一言付け加えておきたい。どうでもいいじゃない。かと思えばドヴォルザーク「アメリカ」ではこうだ。 弦楽四重奏は楽器が少ないので、CDを聴くときは普通ヴォリュームをしぼった方が良いのだが、このアマデウスの「アメリカ」だけはある程度音量を上げ、肉声が十二分に鳴り切ったシンフォニックな雄弁さを存分に味わってほしいと思う。それぞれ曲によって、演奏によって聴き方をかえろいうことだけなのだろう。じゃあ次のような文はどうか。ベートーヴェン「交響曲第五番」をフルトヴェングラーが1947年に指揮した演奏についてである。 第一楽章の、人間が運命とたたかう苦しみ、第二楽章の、途中で音楽が止まってしまうのではないか、と不安になるような沈黙、そして第四楽章の勝利の嵐!曲の最後はオーケストラが鳴りきらないような超スピードで猛烈なクライマックスを形成する。まあ、別にフルトヴェグラーでなくともこの曲はこういうふうに書けるだろう。しかし、やっぱりこう書かれるとフルトヴェングラー盤を聴いてみたくなるものだ。それが人情と言うものである。そしてカラヤン盤についてはどうか。 フルトヴェングラーにくらべると、現代の指揮者の演奏はなんとむなしいことか。カラヤンはその最たるもので、まるでスポーツ・カーに乗ってハイ・スピードで飛ばすような「第五」であり、スマートでカッコイイかも知れないが、ベートーヴェンからあまりにも遠い。これを読んだ何十パーセントの人は、カラヤンの演奏はよほどつまらないと思ってしまうだろう。ぼくは若い頃から、フルトヴェングラーは正当でカラヤンは軽薄というイメージをずっと持ち続けてきた。それほど立派な耳は持っていないので、はっきりした根拠があるわけではない。こういうイメージが身に付いたのは、この宇野さんの評論を何度も読み続けてきたせいような気がする。罪つくりな人ではある。 しかし、一方でCDを買おうと思ったときにどの演奏家のを買うかはかなり重要である。お金があれば何種類でも買うが、せっかくだから一番いいのを買いたい。その場合、どうしても評論家にひっぱられてしまう。買ってみるとあたりもあるしはずれもある。そうなると評論家についての評価も必要になる。ぼくには時間がないのでできないが、「評論についての評論」、つまりメタ音楽評論というをだれかやってほしい。 ぼくはこっち(宇野功芳)はとらない! とか・・・ |