2006,10,19, Thursday
和洋折衷
最初、タイトルを音楽教育事始(ことはじめ)としていたが、「事始」はあっちこっちで使われているので、変えた。
たまには研究のことも書かなければ、兄弟分に叱られる。 このところ、明治期の唱歌教育の資料の見直しを行っている。とくに音楽理論関係である(成果はまだほとんど見えてこないが・・・)。 改めて、すごいの一言である。 例えば、音楽取調掛の仕事に一つに、「東西二洋の音楽を折衷して新曲を作る」がある。 今の人で、自己の音楽観から、この折衷を相容れないものを折衷しようとしたとして、簡単に批判する人がいる。 しかし、その折衷のための作業はどのようなものだったか、この折衷はどれだけユニークなものだったか。その過程を少しでも知れば、批判はできないはずである。 また、ある一つの歴史観でこの時代を一言で切って捨てようとする人もいる(かつての私もそうだった)。例えば「明治時代は富国強兵をめざしたから、唱歌教育もすべてそのために行われた」と言うような論調である。 しかし、資料を見ていくと、明治の唱歌教育の指導者たちのまったく違った側面が見えてくる(人物像をさぐるための手紙などの資料ではない。むしろ理論研究の資料からそのような側面が見えてくるのである) 私は、このHPの中のひねくれ教育事典に冗談めかして次のように書いた。 イデオロギー 持っていると世界がよく見えたような気になるが、実ははるかに多くのものを見えなくする魔法の絨毯。かつて○X主義という魔法の絨毯を手に入れた青年は、それに乗って森の上を飛んでみた。森全体が見渡せて気持ちいい。得意になった青年は、それ以来、森の中に入ることをせずいつも森の上空を飛ぶばかりだった。魔法の絨毯を手に入れられなかったもう一人の青年は、仕方なく森の中を歩き回った。来る日も来る日も地を這うようにして歩き回った。そのうちに森の中にはさまざまな生き物が棲んでいることがわかった。その生き物と会話ができるようになった。そして森そのものが生き物であることも分かった。最後に森とも会話ができるようになった。魔法の絨毯の青年はと言うと、あんまり得意になってはしゃぎすぎたために、絨毯から転げ落ちましたとさ。「木を見気て森を見ず」より「森を見て木を見ず」のほうがはるかに危険。○○観と言ったものこのイデオロギーとまったく同じような働きをする。「史観」「音楽観」「教育観」等々である。日常的にも私たちは「学力観」「子ども観」など「観」という言葉を好んで使う。しかし、これらは生きて働くどころか、私たちの目を曇らせる役割をする場合のほうがはるかに多い。 私の場合、このことに気づくのがややおそすぎた。 |
2006,10,19, Thursday
アナログ生活(その3)
今度は入力装置である。
レコード・プレーヤーである。今はアナログ・レコード・プレーヤーと言うそうだが、昔はプレーヤーと言えばこれだった。ショスタコーヴィッチ作曲「交響曲第15番」がかかっている(聞こえますか)。 このプレーヤーはバザーでコンポを10000円で買ったらアンプ類がだめで、このプレーヤーとスピーカーだけが健在だったので大事に取っていたものだ。ここに来て生き返った。 Technics SL-J80R 針は、インターネットで簡単に手に入る。私が死ぬまでくらいの分はストックしておくことにしよう。 そして、レコード・プレーヤーになくてはならないものがこのフォノイコライザーである。 プレーヤーとアンプの間に接続する。 audio-technica AT-PEQ3 このフォノイコライザーの働きを説明するのはなかなか難しいので省略するが、レコードプレーヤーをならすにはこのフォノイコライザーが必要なのである。 ただし、次の場合は必要がない。 ・アンプにPHONO入力端子がある。これはアンプにフォノイコライザーが内蔵されている。 (プリアンプの場合も同じ) ・最近は、フォノイコライザー内蔵プレーヤーが売り出されている。不思議なことだが、安価なものに内蔵されていることが多い。 ・プレーヤーで安価なクリスタル・ピックアップが使われている。(このようなプレーヤーはレコードを痛めるのでおすすめできない) 本当はこのフォノイコライザーも真空管式にしたい。これもキットが出ているので組み立てたいのだが、お金と時間がない。残念ながら、しばらくこの製品を使う。 |