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メッセージ


04/10/30 (Sat)

まだ旅行の途中であるが、駅で時間があるので書き込みをする。
昨日は、JRを使って東京まで出てきた。特急「つがる」で八戸まで、新幹線「はやて」で東京まで。だいたい4時間30分くらいである。待ち時間や、行き先 などを考えると飛行機よりはやいかも知れない。
駅で文庫の小説を3冊買い、列車の中で読んだ。こういう機会でないと小説などなかなか読めない(東京の時は電車通勤していたので読めたが)。
・五木寛之『青春の門・筑豊編(新装決定版)上・下』(講談社文庫・各552円)
「青春の門」は1970年に最初の単行本が刊行され、その後文庫本で2回(2回目に大幅に加筆訂正)刊行された。そして、今回は2回目の文庫を新装で売り 出したというわけだ。私は、最初の判はもっているが、大幅に加筆修正してものは読んでないので買って読むことにした。
この「青春の門」。私には親しみのある本である。それは筑豊という土地が私が高校生になるまで少年時代のほとんどの期間を過ごした土地だからである(直方 市の小学校、中学校、高校を卒業した)。「なんちかんちいいなんな。男は度胸ばい!」。あの独特の筑豊弁がほうぼうにでてくる。時に主人公の伊吹信介と自 分を重ねあわせたりしながら(ぜんぜん似ているというわけではないのだが)何度も読んだ記憶がある。ただ、どこかで共感できないものがあった。今回読み直 してみて、思い当たったことがある。
 少し、話がとぶがイラクで人質になっていた香田証生さんと思われる死体が発見されたという報道がなされている。この人も直方市の出身らしい。残念であり 気の毒だとしかいいようがない。しかし被害者だからと言って批判をしないわけにはいかない。報道によると「自分探しの旅に出る」と言って旅に出てこの事件 にあったようだ。もしそうだとしたらむちゃくちゃである。私は「自己責任」などという安っぽい言葉を使って本人を非難するつもりはない。だから明確に自分 の意思や信念をもってイラクに危険地帯に出向くのであれはそれについてとやかく言わない。しかし「自分探し」とは何だ。私はこの「自分探し」という言葉が 大嫌いなのである。自分は探そうが探すまいが自分である。自分以上のものではないし自分以下のものでもない。自分の生き方はどこかに落ちているのではなく 自分で決めそれに向かって努力するものなのである。しかし自分でいくら決めても、そしていくら努力しても経済的な限界、能力の限界、あるいは社会的な制約 によってそれが実現できないこともある。だからもがき苦しむのである。それを「自分探し」とは情けない。だいたい24歳にもなってまだ自分探しなどと言っ ていること自体が甘えなのである。そんな人間が戦地に行っても迷惑をかけるばかりである。だいたい「自分探しの旅」など言う言葉を考えたのは誰だ・・・・
などと考えていたら、その原型があった。それが『青春の門』である。「筑豊編」の最後の方に信介の次のようなつぶやきが出てくる。
「長太さん、早竹先生、織江、金さん、みんな待っててくれ。おれは二年たったらもう一度、ここにもどってくる。そのときのおれがどんな人間になってるか。 それはわからない。だが、おれはひとりでやるんだ。そして東京で何かを見つけてくる。おれがやらなかえればならないことを。そしておれだけにやれること を」
まさに「自分探し」そのものである。そして「自立編」「放浪編」「堕落編」「望郷編」「再起編」と続いていくのだが、小説では信介はまだ「青春の門」が抜 けられない甘い甘い坊やのままである。どうしても共感できなかった理由はここにあった。
もう1冊はミステリーである。
・吉村達也『セカンドワイフ』(集英社文庫・495円)
吉村得意の心理ミステリーである。この心理ミステリーで描かれる事件、私は臨床心理学にはまったく疎いのでこれらのミステリーにどれほど現実性があるのか はわからないのだが、とにかく面白い。セカンドワイフとは何か?・・・おっと危ない。これを書いたらミステリーの答えを言ってしまうようなものである。

04/10/28 (Thu)

昨日のメッセージに対して上條氏からメールをいただいた。
「うれしいメッセージをありがとうございました。
3度、4度と読み返してしまいました。
今後ともよろしくお願いします。
追伸:一緒に作った先生方にも、先生のメッセージをぜひ紹介させて下さい」
というわけでもう少し中身を紹介する。
例えば小学校編51ページに「せなかの言葉当てゲーム」が紹介されている。
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1)先生がみんなのせなかにカードを1まいはる。
2)教室中を歩き回り、出会った友達と2人でジャンケンをする。
3)ジャンケンに勝った人から先に、カードの言葉をすい測できるような質問をする。
・質問は一人につき一度だけ。
・直接答えを聞くような質問はだめ。
・答える人が「はい」「いいえ」で答えられるような質問をする。
4)いろいろな友達と次々に、1)〜3)をする。
5)カードの言葉がわかった人は、先生にせなかを見せながら答えを言う。正解なら1点。答えを言うチャンスは3回まで。3回とも不正解だった場合は失格。
6)正解した人には別のカードをはる。最も高得点の子がゆうしょう。時間は8分。
せなかの言葉当てゲームをやってみて、気づいたこと・考えたことをできるだけかじょう書きにしましょう。
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「わくわくドキドキゲーム」として紹介されている。教室が騒然となる様子が目に浮かぶ。「だからどうした?」などと言う人がいたらその人はかなりセンスの 悪い人である。しかし、センスの悪い人にもこのゲームの意義が分かるように説明がしてある。
「ゲームが楽しい→すすんで質問する→質問の重要性に気づく」
「質問を競う中から質問の質が高まっていく」
コミュニケーションの能力は確実に高まるだろう。音楽の授業でも使える。
音楽に関係ある言葉をせなかにはることにすれば良いのである。また、楽譜をはったりとか、音楽の記号をはったりとか、いろいろ応用できそうである。
昨日は「授業づくりネットワーク」を紹介したが、校種や教科が違ってもネットワークはいくらでもできるのである。


明日から出張である。「吉田からのメッセージ」を休むかもしれない。しかし、条件がよければ書き込みができるかも知れない。

04/10/27 (Wed)

『授業づくりネットワーク』誌の編集代表の上條晴夫氏から、本を2冊いただいた。深謝!
・上條晴夫編『ワークショップ型授業で国語が変わる 夢中で学べる楽しい授業プラン15(小学校)』(図書文化・2,200円)
・同『同(中学校)』(同)
ワークショップ型授業とは何か。上條氏は言う。
「ワークショップ型授業は、「説明中心の授業」「発問中心の授業」に対して、「活動中心の授業」という点がはっきりとした特徴である」
そして次のように定義する。
「自由感のある「活動」を通して学ぶことで、関心・意欲・態度を基礎とした主体的な学びの力を育てる」
なんだ、いまはやりの子ども中心の授業か?と思いそうだが、少し違う。まずその限界についても意識していることである。
「当然だが、すべての授業をワークショップ型で実施することはできない。単元構想の中で、安定した知識を効率よく学習者に伝えるには、「説明中心の授業」 や「発問中心の授業」などのような知識注入型の授業も必要になるだろう」
つまり「相性のよい単元・場面・目標」というもの(国語では「コミュニケーションの領域」)がありそれをはっきり示しているのである。
さらに、「自由感のある活動」とは「何をしてもいい」「好きなことをしていい」ではなく「子どもが本当に自由に生きる(考える)ためには、教師によって配 慮された環境という枠組みが絶対に不可欠なのだ」として、活動の枠組みを明確にすることの重要性を指摘するのである。
ただの「子ども中心の授業」とはひと味もふた味もちがう。
「子どもが自由に生きるために教師によって配慮された環境」。うん、いいなあ。音楽でも考えてみたい。
ところで、「授業づくりネットワーク」は雑誌名だが、研究団体の名前でもある。私は若い頃(30代)から参加してきた。教科の違い、学校種の違い、職種の 違い(教員だけではない)、教育観の違いを越えて実にさまざまな人が集まってくる。これらの違いを情報にするのである。私はこの団体でたくさんのことを学 んできた。もちろん少しは情報も提供した(少しは役に立ったと思う)。雑誌を読んでいない方は是非読んでいただきたい。
http://www.jugyo.jp/


ひねくれ教育事典 【り】
りんご(林檎) 神の言いつけを破ってりんごを食べたために楽園を追放されたアダムとイブは、自分たちで厳しい自然を切り開いて行かなければならなくなっ た。それによってその子孫である人類は、道具を生み出し、文明を生み出し、科学技術を生み出し(ニュートンはりんごが木から落ちるのを見て万有引力の法則 を発見したのだ)、音楽を生み出し(歌劇「ウイリアム・テル」のハイライトはあのりんごの場面である)、時に争い、時に励ましあい(日本人は「りんごの 唄」に励まされながら戦後の復興をとげたのだ)、時に国際協力しながら(だから国連のある所をBigAppleというのだ)21世紀に至っている。つまり 人間が人間になるためにりんごは不可欠だったのである。アダムとイブがりんごをたべなかったら、人生はさぞつまらないものだっただろう。先日リサイクル ショップに行ったら、松田聖子の「ガラスの林檎」(松本隆作詞・細野晴臣作曲)のレコード(EP盤)が100円で売られていたので買ってきた。さっそく聴 いてみた。「蒼ざめた月が東からのぼるわ」。とてもよかった。「EP盤ってどうなつているの?」というギャグがわかる人は相当なおじさんおばさんである。

04/10/26 (Tue)

・「人生は不治の病である」
Life is an incurabele dissease(Abraham Cowley)
・「人生はセックスによって伝染する病気である」
Life is a sexually transmitted dissease.
いやすごい言葉である。とういうわけで今日は、すごい言葉を集めたすごい本の紹介。
晴山陽一『すごい言葉 実践的名句323選』(文春新書・720円)
「一度読んだら一生忘れられなくなる」という言葉を集めた本である。
上は、この本の冒頭にある「人生について」から二つである。
「教育について」には次のような言葉がある。
・「学者とは、貴重な時間を勉強でつぶしてしまう怠け者のこと」
A learned man is an idler who kills time with study.(George Bernard Show)
バーナード・ショーの言葉である。バーナード・ショーには次のような言葉もあるらしい。
・「できる者は行い、できない者は教える」
ハイ、ごめんなさい(^^;
「オリジナリティについて」というのもある。
・「独創性とは何か? しっぽをつかまれず盗むこと」
What is originality? Undetected plagiarism.(William Ralph Inge)
ちょっとこわい。
私が一番感動したのは「お金について」の中の次の言葉。
「“お金がすべてじゃない”などと言う人に限って、たんまりお金を持っているものだ」
I've learned that th people who say, "Money isn't everything," usually have plenty of it.
この「すごい言葉」には、出典のいかんにかかわらず英文が付されている。英語でメールを書いたりする人には便利だ(私には不要)。

ひねくれ教育事典 【ら】
ライス 日本の主食をなぜかこう呼ぶようになった。西洋レストランならまだ良いが、和風レストランじゃなかった大衆食堂でもメニューに「ライス」と書いて ある。学生時代に広島の皆実町(みなみまち)にあった丹波屋という大衆食堂(まだあるだろうか・味はともかく安くて量が多かった)で「飯(めし)、大(ど んぶりに山盛りだった)」と言って注文していた頃が懐かしい。我が弘前大学の生協も「ライス」で大きさはL、M、Sと書いてある(なぜ大がLなのかわから ない)。私はそれでもかまわず、「ごはんの小」というふうに注文することにしている。

04/10/25 (Mon)

地震の被害は予想以上に拡大している。まだ安全確認ができていない地域もあるようだ。心配だ。国は安全確保と復旧に全力をつくしてもら いたい。国民の安全を守ること。国家の最大の役割である。


今日はオーディオの話
昔のステレオから取り出したジャンク品の20センチのスピーカーが一組あった。捨てるのはもったいないので何とかできないかと思っていたら、平面バッフル について書いてある本に出会った。
・長岡鉄男『世界でただひとつ自分だけの手作りスピーカーをつくる 7000円から楽しめる不思議で奥深い魅力』(講談社・1680円)
スピーカーが振動している時には、スピーカの振動は前方に空気の振動を伝えるが、後方にも振動を伝える。もしスピーカを裸のまま鳴らすと後方から伝わって くる空気の振動と前方から伝わってくる空気の振動が干渉しあって音が弱くなる。波長の長い低音ほどその傾向が強くなる。これを防ぐ一番理想的な方法は壁に よってスピーカーの前方と後方を完全に遮断してしまうことだ。しかし、そんなことはできっこない。できっこないので密閉した箱に穴をあけてそこにスピー カーをとりつける。そうするとスピーカの前方と後方は遮断されることになる。これが私たちがいつも見慣れているスピーカシステムでる。ただ、これも問題点 がある。箱にはかなりの厚みが必要になる。でないと箱が共鳴して下品な音が出る。またきちんと音が出るにはスピーカーの大きさに応じたそれなりの容積がい る(これはスピーカーの小型化で最近は解決してきたが、20センチのスピーカーの場合、かなり大きな箱を作らなければならない。お金がいるし作るのも大変 である)。箱の中の空気がバネ(抵抗)の役をしてスピーカーの動きを悪くする。
それで考えたのが平面バッフルである。完全に遮断できなくてもある程度大きな板に穴をあけてスピーカーをとりつける。広ければ広いほど遮断した状態に近く なる。それでかかりつけの木工屋さんに頼んで、21ミリのサブロク合板(90センチ×180センチ)を二つに切って(正方形)、その中央に穴をあけたもの を作ってもらった。そにスピーカーをつけて立てかけて聴いてみた。すごい音だ。2W×2の真空管アンプなのだが、大迫力である。やはり、箱に入ってないか ら空気の抵抗が少ないのか。しかしこんな大きなものをたてかけたままにするわけにはいかないので、上方を天井にぶらさげ、下方を本棚の上に載せた。斜めに している。
写真はこちら
ついでにこちらは8センチのスピーカーを自作のボックス に取りつけたもの。バスレフ(低音を出すために筒がとりつけられている・下の丸い穴)式である。筒に使ったのは、内径4センチの塩ビ管である。まだ調整し ていないのでとても下品な音である。
ただし、言っておきたいことだが、こんなことをするのは美しい音を追求しているわけでもない。あくまでおたくな趣味で作ることを楽しんでいるだけである。
音楽を楽しむだけならアイワあたりが出しているようなミニコンポで十分である(立派な音である)。10倍お金をかけたからと言って、音が10倍よくなるわ けでない(私の感覚では1.2倍くらいである。5〜6年前に、アイワのミニコンポの十分くらいする高価なコンポを衝動買いして次の日に後悔した。今でも後 悔している)。

04/10/24 (Sun)

台風の次は地震である。被災地の皆様、心からお見舞い申し上げます。近くにお住まいの知り合いのことも気にかかります。被害が広がって いないことを願うだけです。

この間、授業で「どじょっこふなっこ」を合唱した。
春になれば すがこもとけて どじょっこだの ふなっこだの 夜が明けたと 思うべな
夏になれば わらしこ泳ぎ どじょっこだの ふなっこだの おにこ来たなと 思うべな
秋になれば 木の葉こ落ちて どじょっこだの ふなっこだの ふねこ来たなと 思うべな
冬になれば すがこもはって どじょっこだの ふなっこだの てんじょこはったと 思うべな
東北地方に伝わるわらべうたに岡本敏明が唱歌風の旋律をつけた歌である。
小さな湖(池)の四季を歌った歌である。
春になると湖の氷がとけて、明るくなるので、その湖のどじょうやふなは夜があけたのだと思うだろう。
ここまではよい。ただ私は、大きな勘違いをしていた。
「すがこ」を湖の名前だと思い込んでいたのである(子どものころからずっとそう思っていたのである)。しかし、東北地方に「すがこ」という名前の湖はいく らさがしてもない。「しがこ」がなまっているのかもしれないと思って「しがこ」もさがしたがやなりない。授業のお手伝いをしてくれている大学院生(現職の 小学校教員)から、授業後に指摘を受けた。「すが」というのは氷のことだそうである。「すがこ」は「すが」に東北地方独特の「こ」がついているのである。
HPでも確かめた。詳しい情報が出ていた
http://www.edu.city.akita.akita.jp/~kns-s/hyousi/

「聖の青春」についてまた感想をいただいた。感謝。
「先生に教えて頂いた「聖の青春」読みながら・・・何度も何度も泣けて・・・ 人前ではとても読めないなぁ・・・ こんなに泣けてしまう本も珍しくないで すか?」
泣けてくるのは、悲しいとかかわいそうだではないはずだ。村山八段の生き方の凄まじさが感動的なのである。重ねて一読をすすめたい。

ひねくれ教育事典 【よ】
ようちえんことば(幼稚園ことば) 私の亡母は、幼稚園の教師をしていた。その母との会話の中で気になることがあった。それは何にでも「お」をつけること である。「おみそしる」「おふとん」くらいはまあいいのだが、「おねまき」「おかばん」「おせかな」「お制服」「おテレビ」・・・だんだんイライラしてき ていた。・・・・と思っていたら、もっとすごいのがあった。私が11年すごした高知では、幼稚園のことを「おようち」と言うのである。「おようち行きゆう が?」「あれはおようちのせんせいしゅう」という具合である。「おようち」。名は体をあらわす。究極の幼稚園ことばである。

04/10/22 (Fri)

昨日は小専音楽科教育法の授業。大学生は小学校教育専攻の2年生を中心に50名ほど。そこに高校生が20人ほど見学に来る。前半は小学 校の模擬授業のようにいっしょに歌ったりするのだが、高校生にも参加させた。大学生にさせているように授業後に感想も書いてもらった。「楽しかった」とい う感想が多かった。中には「弘大に入って吉田先生の授業をとります」と涙が出るようなことを書いてくれた生徒もいた。ただ、私の授業にはムラがある(そも そもムラのある人間だからしょうがない)。できがいいときはいいのだが、悪いときはめちゃくちゃに悪い。昨日はできがよかった・・・というかなかなかない というくらい良いできだった(授業準備はかなり泥縄だったのだが)。良かった!


というわけで、私は音楽科教育法の授業を担当しているのである。音楽の授業についての授業である。私は音楽の授業で一番大切なことは何かと言われれば、 「たのしい授業」と答える。「楽しい」の意味は「おもしろおかしい」という意味ではない。「音楽活動をしてたのしかった」「一生懸命考えた」「新しいこと を知った」「今までにない体験ができた」「この課題ができるようになってうれしかった」。これらもたのしかったという体験である。ただし大学での私の役割 は「たのしい音楽の授業」をすることではない。「音楽の授業」についての授業である。もっと具体的に言えば、上のような「たのしい授業」をするためにはど うすればよいかということを学び考える授業なのである。しかしである・・・(最近この言い方が多くなったような気がする)。
「たのしい授業をしましょう」と主張する人の授業が一番楽しくない(私もそう言われることある)と言うことがあったらどうなるか。「医者の不用心」という 言葉があるが、医者の場合は不用心でも自分にはねかえるだけだからまだよい。教育の研究者がそう言われたらそれは学生に迷惑をかけているのだから深刻に悩 むべきである。ところが実際にそういうことがよくあるそうだ。弘前大学のことではないのでくれぐれも誤解しないでいただきたいのだが、全国の大学では、教 育方法とか教科教育の授業が一番学生に評判が悪いという事例がずいぶんあるそうである。「評判の悪い音楽科教育の先生」・・・これもうわさ話として伝わっ て来る。・・という事例にならないようにしなければ・・・・・。


ひねくれ教育事典 【ゆ】
ゆめ(夢) 「夢を持ちなさい」などと言う教師がいる。無責任きわまりない。夢というのはすぐ消えてなくなるから夢なのである。そんなはかないことに夢を 託すより(あれ?)、自分の人生をきちんと設計し、それに向かって自制し努力することを教えるほうがはるかに大切である・・・と行き当たりばったりの人生 を送ってきた私が書いても誰も聞かないだろう(^^;

04/10/21 (Thu)

二日酔い最前列が顔しかめ
オエー、飲み過ぎた!
気のおけない同僚二人といっしょに飲んだので楽しかった。
おっと危ない。親しくさせていただいているあるビッグ・ネーム氏のことをメールで紹介した時に、「気のおけない人です」とまで書いて、やめた。「気のおけ ない人」という言葉を「油断のならない人」という風に誤解している人がいるからだ。「気のおけない」は「気をつかわないですむ人」という意味である。「立 派な仕事をされている人ですが、いばったところがなく気をつかうことはありませんよ」というつもりだったのだ。しかし、それが誤解されてはかなわない。
同じような例に「役不足」がある。人に仕事を頼む時に「役不足でしょうがどうかお引き受けください」と言う。これは「あなたにとってこの役は軽すぎてお願 いをするのは失礼かもしれませんが、どうかお願いします」と意味である。つまり人に対して役が不足しているのである。ところが、「役不足」を「力不足」と 誤解している人もいる。プロ野球を引退した人がある球団のコーチを頼まれて「役不足です」と言って断ったそうである。おそらく「力不足です」というつもり だったのだろうが、言葉を正しく受け取れば傲慢そのものである(本当にそうだったという噂もある。「監督なら引き受けるがコーチじゃ役不足」)。また人に 物を頼む時に「役不足でしょうが・・」などと言うと、「失礼だ!」と怒る人もいるかもしれない。こういう誤解されやすい言葉は使わないほうがよい。
それほど危なくなくても私たちはまちがった言葉の使い方をしている(私は特によくやっているらしい)。
汚名挽回−「汚名返上」「名誉挽回」が正しい。汚名を挽回してどうする! 
的を得る−「的を射る」が正しい。的をもらってもしょうがない。
喧々諤々(けんけんがくがく)−侃々諤々(かんかんがくがく)、喧々囂々(けんけんごうごう)が正しい。
こういう誤用についての本は結構出ている。一度読んでおいても損はない。とりあえず私の本棚にあるものを紹介しておく。
・国広哲弥『日本語誤用・慣用小辞典』(講談社現代新書・600円)。
・同『続日本語誤用・慣用小辞典』(講談社新書・700円)

昨日のメッセージに対して佐賀にゆかりのある人からメールをいただいた。深謝!
「△△も佐賀です。家永三郎氏も幼児期鹿島で過ごしていたようなことを聞いております。保守的なところですが、有田、嬉野、呼子などいいところがありま す。究極のラーメン鉢を是非購入してくだされ」。
ラーメン鉢は必ず買ってかえろう。

「これ(「次郎物語」)は、わたしも中学校のころ、なんども読んだ作品です。(少年少女文庫になっていたような気がする)。佐賀で、最初に見に行ったとこ ろは、下村の生家、そしてそこからすぐ先にある北原白秋の生家でした。次郎物語のなかで、「菱の実」を食べる記述があるのですが、これも佐賀に赴任しては じめて食べました。栗と芋をまぜた味です。多分、ふるかわ(この方のおすすめの店)でも食べることができるでしょう」
ふるかわにはせひいかなくっちゃ。

もう一つ、19日のメッセージに対しても次のような意見をいただいた。
「鑑賞共通教材が学校にオーディオ装置を入れることにつながった・・との意見(文部省の人の話もふくめて)、私は、むしろ、メーカー(パ○オ○ア)の働き がすごかったと理解しています。「リコーダー御殿」と毎日新聞にかかれた○し○調査官同様、あの当時、さまざまなメーカーが、音楽教育のあり方に圧力をか けています。当時の業界紙を読むとよくわかります」
別の視点から見ればそうなるのでしょうね。それにしても私は、御殿どころが自分の家さえ建たない(^^;

04/10/20 (Wed)

また台風である。いいかげんせい!

今度、出張で佐賀におじゃますることになった。
私は生まれ育ちが福岡県なのだが、佐賀には不思議に縁がなく鹿児島本線、長崎本線で通ったくらいである。鹿児島本線は博多から久留米までの間に、ちょっと だけ佐賀県をかする。鳥栖市である。この鳥栖が長崎本線の起点でもある。・・・おっと脱線しそうだ。いや、鉄道からは脱線しよう。佐賀の話だ。佐賀には泊 まったこと、そして地面を踏んだことすらない。全国で泊まったことのない都道府県は佐賀の他、宮崎、鹿児島、福井、滋賀、三重、このくらいである。死ぬま でに全県踏破したい。おっとあぶない、また話がそれた。だから佐賀について何も語る材料を持っていないのだが、いろいろ思いめぐらしてみると二つの小説に 思い当たった。どちらも教育がテーマである。

・下村湖人『次郎物語』(今は次の文庫本でよめる。新潮文庫・全3巻上743円、中705円、下514円)
・石川達三『人間の壁』(同。岩波現代文庫・全3巻・各1100円)

「次郎物語」。中学生のころによく読んだ。テレビ小説にもなった。何度も映画化された。大正末期(おそらく)に佐賀の旧家に生まれた次郎は、次男坊である ためか母や祖母から疎まれる。屈折しつつも父や教師にはげまされながらたくましく育っていく。後半は、2・26事件など戦争の影が次郎のまわりにも押し寄 せてくる。次郎も反戦的な思想の影響を受ける。兄の許嫁に対する恋心もテーマになる。これからが楽しみというところで小説はとぎれる。作者が亡くなったか らだ。前半は戦時中、後半は戦後に書かれた。だからややタッチのちがいがあるのは仕方ない。しかしこの悩み迷い続けながら成長してく次郎の姿は感動的だ (と中学生の頃思ったような気がする)。中高生に読んでほしい本である。
「人間の壁」。1957年の佐賀県教職員組合の定員削減反対のための一斉休暇闘争をテーマにあつかっている。当時の文部大臣(灘尾弘吉)や国会議員(湯山 勇)、日教組の幹部などが実名で登場する。しかし、この小説の一番よいところ(と私が思うの)はそれを志野田ふみ子(後に尾崎ふみ子)という一人の女性小 学校教師の目を通して描いていることである。そしてこの魅力ある女性教師が「教育とは何か」、「教師の仕事とは何か」を読者に問う。教室の場面や子どもた ちとのふれあいの場面もふんだんに出てくる。そしてそのことによって、政府の文教政策が教室の授業や子どもたちにどれだけ大きな影響を与えているかという ことを教える。どちらかと言えば保守系と思われていた石川達三がこの小説を朝日新聞に連載したとき、あまりにも日教組寄りだったので驚きを持って迎えられ たという。1957〜8年は戦後教育が大きく変動した時期である(学習指導要領が文部省告示となり法的拘束力を持つようになったのも1958年である。い ずれまた書く)。石川達三氏にはそれほど文部省のやり方が理不尽に映ったのか。
立場はどうあれ、教育関係者、とくに教師には読んでほしい本である。戦後教育史の転換点で私たちの先輩たちが何を考えどう行動してきたかを垣間見ることが できるのである。
というわけで、もうすぐ佐賀におじゃまします。


04/10/19 (Tue)

教科教育法の授業の準備のために、昭和33年版の学習指導要領を調べる。
そこに指定されている鑑賞共通教材がすごい。
・春の海…宮城道雄 作曲
・今様………………日本古謡
・弦楽四重奏曲 ハ長調「皇帝」から 第2楽章…ハイドン 作曲
・歌劇「魔弾の射手」から゛かりゅうどの合唱゛…ウェーバー 作曲
・魔王………………シューべルト 作曲
・組曲「動物の謝肉祭」…サン=サーンス 作曲
・チゴイネルワイゼン…サラサーテ 作曲
・江差追分…日本民謡
・越後獅子(じし)(長うた),…杵(きね)屋六左衛門 作曲
・ピアノ ソナタ イ長調 K.331…モーツァルト 作曲
・バイオリン協奏曲 ホ短調…メンデルスゾーン 作曲
・組曲「アルルの女」第1,第2…ビゼー 作曲
・こどもの領分…ドビッシー 作曲
・ヘンリー=パーセルの主題による変奏曲とフーガ(青少年のための管弦楽入門)…ブリトン 作曲
・雅楽「越天楽」…日本古典
・組曲 第2番 ロ短調…バッハ 作曲
・交響曲 第六番 ヘ長調「田園」…べートーべン 作曲
・交響詩「中央アジアの広原にて」…ボロディン 作曲
・歌劇「おちょう夫人」から ゛ある晴れた日に゛…プッチーニ 作曲
・ボレロ…ラヴェル 作曲
・舞踊組曲「ガイーヌ」…ハチャトゥリアン 作曲
ベートーベンの交響曲が第五ではなく、第六「田園」というのがちょっとよい。「ある晴れた日に」もすごい。
昔の中学生はこんな音楽を学校で聴かされたのである。実は私もその一人である。だから上の曲はよく覚えている。
文部省が学習指導要領で共通教材を指定したことに関してはさまざまな批判がある。私もそれについては何度も発言してきた。ただ、これだけは共通教材のメ リットだということがある。
上のような曲が指定されれば、当然学校はそのレコードをそろえなければならない。また、そのレコードを聴かせるためにオーディオ装置をそなえつけなければ ならない。音楽などまだ軽視された時代である。学校予算でも音楽の予算が最初に削られる時代である。オーディオなどに金を使う学校は少なかった。しかし、 この共通教材が指定されることによって学校は逃げることができなくなったのである。かつて文部省に努めていた人から聞いた話である。共通教材にはこういう ねらいがあったのである。

昨日は8時過ぎまで会議。終わったあと、別の同僚と話があって大学の近くで飲む。それはよいのだが、10時すぎにその同僚は「まだ仕事がある」と言って研 究室に帰っていた。私にはまねのできないことである。帰ってバタンキューで寝る。このへんで差がつくのだろう。

04/10/18 (Mon)

村山聖(さとし)という名前をご存じだろうか。
将棋のプロ棋士である。病気と闘いながらもA級まで上り詰め、さらに名人を目指す途中で29歳で短い生涯を閉じる。この棋士の一生を描いたノンフィクショ ンである。
大崎善生『聖の青春』(講談社文庫・2002年・648円)
大崎は日本将棋連盟が発行している月刊誌『将棋世界』の編集長でもあったので、本人との交流も当然ある。
プロローグで著者は次のように書いている。
「平成10年8月8日、一人の棋士が死んだ。村山聖。29歳。将棋界の最高峰であるA級に在籍したままの死であった。村山は幼くしてネフローゼを患いその 宿命ともいえる疾患とともに成長し、熾烈で純正な人生をまっとうした。彼の29年は病気との闘いの29年でもあった。村山は多くの愛に支えられて生きた。 肉親の愛、友人の愛、そして師匠の愛。もうひとつ村山をささえたものがあったとすれば将棋だった。将棋は病院のベッド生活する少年にとって、限りなく広が る空だあった。少年は大きな夢を思い描き、青空を自由にそして闊達に飛び回った。それははるかな名人につづいている空だった。その空を飛ぶために、少年は ありとあらゆる努力をし全勢力を傾け類まれな集中力と強い意志ではばたきつづけた。夢がかなうもう一歩のところに村山はいた。果てしない競争と淘汰を勝ち 抜き、村山は名人の扉の前に立っていた。しかし、どんな生涯も乗り越えてきた村山にさらに大きな試練が待ち受ける。進行性膀胱癌」
安っぽい言い方になるが涙なしには読めない本である。将棋のわからない人にも是非読んでいただきたい。また、将棋が少しでも分かる方は巻末の棋譜(将棋の 指し手の記録)を並べてみていただきたい。棋譜は作曲家が残した音楽作品と同じように、棋士の残した作品でもある。村山の生き方が伝わってくる。私よりも はるかにあとに生まれ(昭和44年広島生まれだから私が大学に入学したころ近くで生まれたのだ)、そしてずっとはやく亡くなったのだが、残したものは数十 倍である。とてもまねはできないが、読めばこのふしだらな生活を叱りとばしてくれる。それで2〜3日は気を入れて仕事をすることになる。

昨晩は教育テレビの「N響アワー」で「アシュケナージの“運命”」。NHK交響楽団の音楽監督になったとかで、その就任演奏会である。ベートーベンの「交 響曲第5番」と序曲「レオノーレ第3番」が放送された。指揮者としてのアシュケナージはこれまで意識的に聴くことはなかったのだが、「あれっ、こんなだっ たの?」という感じだった。何となく「きつい」というイメージがあったからだ。司会の池辺晋一郎氏は「丁寧に角を取った音楽」と言ってたが、「あたたか い」という感じの演奏だった。「これがベートーベンだ。どうよ!」(誰の演奏だろうか?)という演奏はあまりスキじゃないので、「まあ、いいかな?」とい うのが今の印象である。
しかし、それにしてもどうしてベートーベンなのか? そしてどうして第5番なのか? そしてそれをどうして「運命」(日本だけ)と呼ぶのか? 日本的だなあ。日本のオーケストラだから?

04/10/17 (Sun)

HPに来てくださったみなさま。なんとなくサクサクとしていませんか。
一昨日からBフレッツ(光ケーブル)を使っています。私は職員宿舎に住んでいますが、いままではここまでケーブルが来ていませんでした。ところが申し込み をしたところNTTが「私一人のために」(というのは冗談で将来を見越してということだろう)ケーブルをのばしてくれたのです。という訳でローカルなお知 らせです。
弘前大学の学園町宿舎32にお住まいの皆様。すぐそばまで光ケーブルが来ています。今申し込むとすぐに屋内まで線を引っ張ってくれます。


小浜逸郎『正しい大人化計画 −若者が「難民」化する時代に』(ちくま新書・680円)
小浜氏の本はだいぶ読んだので、何が書いてるかは予想がつくようになった。やはり予想通りである。共感できるところもあればできないところもある。「活用 してこそ学問」という次の文にはほぼ共感できる。
「なお、私はそれほど詳しく調べたわけではないが、アカデミズムで論議される教育論はそれぞれが細かい「タコツボ」に入り込みすぎていて、時代の危機をを どう乗り越えるかという総合的な要求にほとんど応え得ていないように思える。(中略)そもそも、学問とか知識とか呼ばれるものは、その時代や社会が抱えた 深刻な問題を汲み上げ、その原因を探し当て、どうすれば解決できるかというところにその本来的な動機を持っていた。それは常に、いかによりよい政治実践や 社会実践を行うかという意思と密接に結びついているものである。このこととは古今東西変わらないはずだ。ところが、近代以降、社会システムの複雑化に対応 して学問が独立した閉鎖領域を持つとともに細分化と専門化が著しく進み、さらに、「客観性」「検証可能性」を重んじる自然科学の影響で、認識の中立性が過 度に尊重されるようになった。また特に戦後の日本では平和と豊かさが続くという僥倖に恵まれたため、皮肉なことに危機に応える学問、実用に役立つ知識とい う必要性の感覚が薄れてしまった。その結果、学問や知識の本来的な動機がいつの間にかそれを追求する人々の中で忘れられ、ことに人文系の学者はごく限られ た専門領域で浮世離れした「認識の精細さ」を極めることに耽っていればそれだけで何か値打ちがあるような錯覚に支配されるようになってしまった。教育学、 教育論の世界もその例外ではない」
人文系と言っても他の領域はわからないが、教育学に関してはほぼその通りである。例えば大学教育。大学教育の改革を進めようとするときに、教育研究の成果 を活用するというようなことはまずない。だいたい声の大きな人間の思いつきがまかり通る。大学のカリキュラムをつくっていく場合にも教育学の専門家の声を 聞こうなどということはなされない。教育学などという学問ははじめからあてにもされていない。音楽教育の世界も同じである。実証性をやたらと強調するあま り、膨大な資料の収集、膨大な実験を経たにも関わらず、実際に毎日授業をしている現場教師なら誰でもわかっているような(ひどい場合はその水準にも達して いないような)陳腐な結論しかない研究がある。音楽教育研究が実践に貢献しているとはとても言えないのである。この傾向は、音楽教育学という学問が整備さ れればされるほどますます強くなってきたような気がする。
ただ、小浜氏の見方も一面的である。むしろ小浜氏のいう活用できる学問はずっと存在したし現在も存在しているのである。ただ、そのような学問・研究はアカ デミズムや教育行政からは黙殺(はなはだしい場合には弾圧)されてきたのである。


今日はアップル・マラソン。フルマラソンにエントリーしていたが、練習不足・大幅な体重増のため出場を断念する。一からやり直しである。

04/10/16 (Sat)

大学には疲れる会議が多い。その上終わった時にむなしさばかりが残る。特に疲れるのは次のような会議である。
(1)勤務時間外(5時15分以後)に開かれたり勤務時間外にかかるにもかかわらず、終了時間が決まっていない(いつ終わるともわからない。私のような酒 飲みは、アルコールが切れてくる)。
(2)議題の提案者が明確な原案(たたき台)を持っていない。「どうしましょうか?」というような提案の仕方をする。これは会議ではなく相談である。
(3)事実関係に関する情報があいまい、または間違っている。事実かどうかは調べるしかないにもかかわらず、事実かどうかを議論することになる。
(4)何を決定したのかが明確でない。
こんなところだ。
また次のような困った人たちもいる。
・時間が長くかかるのが民主主義だと思い込んでいる。そんな民主主義ならなくてもよい。
・報告事項をきちんとまとめてこないで延々と得々と話す。えらい人に多い。
・まえおきが長く、まわりくどいしゃべり方をする。
・すでに決定した事項を蒸し返す。
・会議アイデンティティなのか目立とうしてどうでも質問をする(私も少しこの傾向がある)。
会議のルールが確立していないのが問題である。そこで提案である。次のようなルールをつくることを提案する。
(1)会議の終了時間決める。どんなに長くても2時間以内とする。終了時間になったら議論の途中でもうち切る。
(2)議題の提案者が必ず原案を文書で提案する。文章なき提案は無効。
(3)事実関係があいまいな場合や、間違っている場合は議論をうち切る。
(4)反対意見や疑念が表明された議題の場合は必ず多数決を取る。会議の最後に決定事項の確認を行う。
最後の(4)について言うと、これは大学だけではないのだろうが、日本社会には多数決をできるだけ避けようとする雰囲気がある。反対者が存在したままこと が進むのを恐れるからであろうが、それは間違っている。多数決は反対者が存在したことを認める制度だからである。反対者のない決定など、逆に恐ろしいと 思ってしまうのである。


○「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日
俵万智『サラダ記念日』(河出書房・1987)の代表的な一首である(今は文庫になっている。河出文庫・440円)。この本が最初に大ブレークしたとき、 怒りまくっている同僚がいた。1ページに三首しか出ていない。白い部分ばかりの本だとか。しかし、1ページ分三首の歌をつくるのはそのページを駄文で埋め るのよりもはるかに難しいと思うのだが。俵万智。私はこの感覚はすきなのである。
○「愛は勝つ」と歌う青年 愛と愛が戦うときはどうなるのだろう(『チョコレート革命』河出文庫・500円)
この人がおもしろい本を出した。
俵万智『考える短歌 作る手ほどき、読む技術』(新潮新書・600円)
『考える人』(新潮社)という季刊誌の中に、俵さんが優秀な歌を選んで紹介し、選にもれた作品を添削するコーナーがあるそうだが、それを本にしたものであ る。
例えば次のよな読者の作品を紹介する。
○欲しいのはメトロノームだ 不確かな無限を紙にしるすとしても
これを俵さんは次のように評する
「ずばっと切り込むような初二句のはじまりが、力強くて、印象的な一首だ。この歌を貫く思いは、「奔放に生きていくとしても、どこかで拠りり所のなるもの が欲しい」ということだろう。カチカチと冷静に時を刻むメトロノームはその拠り所の比喩としてとても説得力がある。「不確かな無限」も魅力のある言葉だ が、ここはメトロノームの比喩と連動させたほうが、すっきりするだろう」
そして次のように変える。
○欲しいのはメトロノームだ 不確かなリズムを紙にしるすとしても
この本を読んでいると自分もつくりたくなってくる(ちょっと無理だが)。新聞の短歌欄くらいは見るようになった。

ひねくれ教育事典 【や】
ヤンキー かつて頭にそり込みいれてサイズの小さいサンダルはいて集団でウンコ座りしているお兄さんたちがいた。しかし、最近はその上を行くお姉さんたち がいる。電車の中で左手にケータイ、右手にあんパンもって、ウンコ座りを通りこして座り込んで股を広げている(見たくはないのだが中が見える)女子高校生 らしい集団である。とても恐い。

昨日はまた同僚の例の人と言い争い。好きな人なのだが、ちょっとした言葉の行き違いで時々こうなる。お互いに大人げないとは思うのだが(^^;

04/10/15 (Fri)

大学の法人化によって、研究費がずいぶん削減された。研究費が少なくなった分は、学術振興会に科学研究費を申請して自分で確保せよとい うのが今の大学の方針である(全国どこも同じらしい)。半ば強制的に申請させられる。その締め切りの時期が近づいた。今申請書をつくっているところであ る。これがややこしくて結構時間をとられる。しかし、私は研究費などそれほどなくてもよい。極端に言えば何もなくてもよい。学生の教育(とくに授業)に必 要な物品等を買う経費、電話、郵便などの通信経費、時々コンピュータを更新する費用があれば十分である(ないならないでもよい)。もちろんたくさんあれば それにこしたことはないが、それ以上に申請書を作ったり、さまざまな事務処理をやるわずらわしさのほうがはるかにいやである。本・雑誌はほとんど自費で購 入する。私の研究にはそれほど金は必要ないのである。もちろん「金がなければ研究ができない」分野があるだろう。しかし、それをすべて一律にあてはめられ てもありがた迷惑なのである。


音楽に関する本の紹介である。
小澤征爾は日本人でありながらなぜ西洋音楽の世界で成功したのか。
遠藤浩一『小澤征爾・日本人と西洋音楽』(PHP新書・740円)
著者は次のように書く。
「小澤の音楽的才能は、日本人であるという自意識の上に立脚している。それは日本人として音楽の基礎文法を徹底的に習得したこととともに、譜面の読み方、 作品の解釈の仕方が、西洋音楽の悪い伝統にひきずられないという意味で、きわめて日本的なのである」
しかし、一方で日本人には小澤の音楽を嫌う人たちがいることも指摘する。
「日本の音楽通の間には、小澤の音楽を認めるのは沽券かかわるという空気さえ漂っている。中には、十九世紀的巨匠の音楽に範をおき、ひたすらそれを目指す ことが音楽的正義だと思い込んでいる人々もいる。(中略)フルトヴェングラーが好きだという人がいれば、小澤征爾が好きだという人がいてもいい筈だが、日 本の通たちは、決して小澤を認めようとはしない」
この構造をどう捉えるか。ここからが著者の音楽論であり、文化論である。
著者はまず西洋音楽「文化的・平和的略奪行為」と捉える。文化的「コロニアリズム」と言い換えてもよいだろう。この西洋音楽の受容をめぐる日本人の「屈折 した心理」を「からごころ(洋意)」という概念で表す。これは本居信宣が「無意識のうちに日本人であることを忘れ、何事も「漢国」つまり中国流をよしとし ている日本人、しかもその自覚を失っている日本人の意識構造」を「漢意(からごころ)」と呼んだことにもとづいて著者がつくった造語である。
「日本人にとって西洋音楽が他者の文化であるにもかかわらず、いつのまにか洋意(からごころ)に浸食され、自らが日本人であることを忘れた人々は、他者の 文化との距離感を見失ってしまっている。宣長(本居)は、国境を越えて存在していると思い込んでいる「当然の理」が、実はシナにおける「当然の理」でしか ないと、普遍主義信仰に対する痛烈な批判を展開したわけだが、西洋音楽を奏でることの孤独と絶望を知らぬ人々は、フルトヴェングラーが体言する洋意(から ごころ)こそが普遍であり、フルトヴェングラーのごとき音楽を奏でることがよき音楽家の道であると信じ込んでいる。洋意(からごころ)を「当然の理」と思 い込んでいるのである」
そして小澤の成功はこの「からごころ」のおぞましい面を克服したこと、そしてこの「からごころ」の効用を忘れなかったことにあると結論づける。
つまりかつて日本人が漢字を訓読みしたように、小澤征爾は西洋音楽を訓読みしたのだとする。
論旨はきわめて明快である。しかし、ちょっと違う・・・という気もする。モヤモヤするものがあるのだが今のところ言葉にならない。もう少し考えてみたい。
なお、著者の遠藤浩一氏は教育界では新しい歴史教科書をつくる会の副会長として知られているが、このさいあまり先入観を持って読まない方がよいだろう。


ひねくれ教育事典 【も】
もろいさぶろう(諸井三郎) 戦後の学習指導要領音楽科編(試案・1947年)をつくった人。音楽教育を情操教育の手段としていては音楽そのものが粗雑に なっていくので芸術教育として位置づけようとした画期的な指導要領であった。しかし、この学習指導要領の精神も長くは続かず、次の1951年、1958年 の改訂を通じて否定される。今では「豊かな情操を養う」がしっかり音楽科の目標になっている。諸井の理論は「脆い」のか(^^;

04/10/14 (Thu)

W杯のアジア一次予選。事実上の決勝戦とも言えるオマーン戦。全国的にはフジ系列でテレビ放送をしていたのだが、青森には系列局がな い。インターネットで逐一状況を知ることはできるのだが、そこまですることはないと思って早寝した。私はことスポーツに関しては「悲観論者」で、悪い予想 ばかりしてしまう(そのほうが負けたときにがっかりせずにすむし、勝った時には喜びも大きいからだ)。たぶん2−1くらいで負けるだろう(2−1で負けた ら、得失差の勝負になるが最終的には得失差でも負けるだろう)。まあ、負ければそれでよい。これから2年間サッカーごときに一喜一憂せずにすみ仕事もはか どるだろう(何という論理の飛躍!)と思っていたら、予想がはずれ朝一でインターネットをみたら1−0で勝っていた。ホッと胸をなでおろす。しかし、これ でアジア最終予選、W杯と目が離せなくなった。それにしても、インターネットは便利だ。一番はやいニュースを好きなときに見ることができるからだ。


弘前市のとなりに黒石市という市がある。「こみせ」(店先の軒が歩道いっぱいにのびている商店街)で有名な市である。このこみせを歩いて驚いた。土曜日だ と言うのに商店街を歩いている人がいないのである。店は開いている。パチンコ屋をのぞいてみたのだが、ここにさえ人が少ない。もう街が死んでいるのであ る。極端な例だが、これは全国的な傾向なのである。
三浦展『ファスト風土化する日本−郊外化とその病理−』(洋泉社新書y・760円)
「ファスト風土」は「ファースト・フード」のもじりである。
都市の空洞化が進んでいると言う。例えば駅前の商店はほとんどシャッターがしまり閉店状態になっている街がある。黒石市のように人通りさえなくなった商店 街がある。かわりに郊外に大きなショッピングモール(例えばジャスコ)や大型の電気店(例えばヤマダ電気)ができていく。道路整備によってかつての田園地 帯がニュータウンに生まれ変わり、そこに大型スーパーや各種の娯楽施設が生まれていく。著者はこの都市の空洞化が人々の精神まで空洞化させ、犯罪を助長す ると主張する。実際に最近のおきた犯罪(少年犯罪も含む)がこの新しく生まれたニュータウンの付近で起きていることに注目している。とくに「ジャスコ」の 近くが危ないと言う(私が言っているのではありませんからね)。
このような都市の変化は学校にも影響を与えるだろう。実際に多くの学校関係者がその問題について語りはじめている。教育研究の課題の一つでもある。
ちなみに、この本には弘前市の武富士襲撃事件も例としてとりあげられている。弘前市は「歴史ある弘前市は崩壊寸前」という小見出しで紹介されている。
黒石のこみせ http://www.jomon.ne.jp/~kkk/k_komise.htm


ひねくれ教育事典 【め】
メーソン ルーサー・ホワイティング・メーソン。明治時代にアメリカからやってきて日本の唱歌教育の確立のために尽力した人。伊澤修二に協力して、最初の 音楽教科書である『小學唱歌集』を編纂した。この唱歌集に掲載された曲のほとんどが西洋の愛唱歌だった。中には賛美歌になっている旋律も含まれていた。そ のことでメーソンは唱歌教育を通じてキリスト教を広めようとしたのではないかという説も生まれた。これについては黒説(安田寛『唱歌と賛美歌』音楽之友 社)と白説がある(藍川由美『これでいいのかにっぽんのうた』文春新書)。私は、子どものころから賛美歌(聖歌)に親しんで育った。その感覚から言えば 『小學唱歌集』はまぎれもなく賛美歌集ですな。ところでアメリカの音楽教育の指導者にはローウェル・メーソンという人もいるので間違えないように気をつけ なければいけない。前にアメリカ人にホワイティン・メーソンのことを話したら、ローウェルは知っているがホワイティングは知らないと言われた。

04/10/13 (Wed)

モーツァルトは脳を癒やす。免疫力アップ。ダイエット効果。サンデー毎日10月17日のトップ記事である。よほど記事がないのだろう。
モーツァルトの音楽は倍音構造が出やすい音の組み合わせを使っていてその倍音が人間の迷走真剣細胞に訴えかけている、とか、高周波が創造性の向上、心拍安 定、難聴改善、耳鳴り改善、痴呆症改善、胎教、自閉症改善などに効果がある、とかの専門家の話を載せている。最後には具体的な曲名まで出てくる。老人性痴 呆症や難聴など神経系疾患に効くのは「バイオリンソナタ第34番変ロ長調K374」他、高血圧や脳梗塞の予防には「ピアノソナタ15番ハ長調K545」な のだそうである。こうなるともう眉に唾をつけたくなる。
このモーツアルトの話は、少し前にたけしの番組でもとりあげられた。それでユニバーサルミュージックが出した「最新・健康モーツァルト音楽療法パート」と いうシリーズのCDが馬鹿売れしているそうだ。
この手の話は昔からあった。まあ、モーツアルトの音楽を聴いたら心が安まる(反対に心がかき乱されそうになる作品もたくさんある)というのは多くの人が経 験的に知っていることである。それになんとか科学的な説明をして、あわよくばレコードやCDを聴かせよう。たいていはそういう構図である。
科学的な説明をまったく信じないわけではない。しかし、人間の「心」はそれほど単純ではないはずだ。それほど単純なら、今起こっている社会的な問題、とく に戦争や犯罪なども半減してしまうだろう。かりにこの科学的な説明がどんなあたっているとしても、私は音楽をこのように聴きたくはない。音楽は音楽とし て、作曲家や演奏家のメッセージとして聴きたいからである。


次のようなメールをいただいた。深謝!

先生,メルマガの復刊,そして明日はいよいよ100号と言うことで,誠におめでとうございます。また,これまでも色々と有用な情報やお考えを,ご教授くだ さり,ありがとうございます(たまには????なお話もございますが,それもまた一興でございます)。
どこかでいつか,また先生と飲める日を楽しみにしております。今後ともメルマガ楽しみに待っております。


ひねくれ教育事典 【む】
むじゅん(矛盾) 「ムカつくなあ」。こんな生徒がいたら次のように指導しましょう。「モーツァルトの音楽を聴きなさい」

04/10/12 (Tue)

オーケストラや吹奏楽に学生生活をかけているような学生がいる。おそらく1日の1/3くらいをその練習に費やしている。その練習量は音 楽専攻の学生の練習量さえ超える。そして生活の中心は部室である。スポーツに打ち込んでいる学生も同じだろう。私は、こういう学生が嫌いではない。好きで ある。しかし・・・
そのような学生には私はいつも次のように励ます。「よくがんばっているね」。そして次の言葉を付け加える。「大事な青春無駄にして・・・」
最後は半分冗談であるが、半分は考えてほしいから付け加えるのである。若いうちに打ち込むことが一つあることはよいことである。少なくとも、酒、ばくち (パチンコ・麻雀など)にはまるよりマシである。それにサークルで生まれる人間関係も人間の成長にとって必要なものである。しかし・・である。
やはりもっとやることがあるのではないかと思うのである。もちろん大学の勉強だけではない。もっと目を向けるべき課題はたくさんあるのではないか。
だれでもその時々に応じて正面から向き合わなければならないことがある。音楽やスポーツに打ち込むことはその正面から向き合わなければならないことから目 をそらすことになる。つまり一番大事な課題からの逃避である。そしてそれ自体が(酒やばくちに比べると)価値のあることだから逃避していることを自覚しに くいのである。
もちろん逃避を否定しない。このような逃避は必要な逃避である。しかし、それを自覚しているかどうかが大切なのである。
私は毎日10キロ走ることを日課としている。これも明らかに逃避の一つである。最近は逃避しないことにした(さぼっているだけとか・・・)。


先月、東京に出張したさいに秋葉原に寄って、真空管アンプの組み立てキットを買ってきた。入門機と言われるTU-870で ある。毎日少しずつ組み立て2週間ほどで完成した(正味1日)。はんだ付けのやり方を忘れていて感覚を取り戻すのに少し時間がかかった。これにレコードプ レーヤーをつないで聴いてみる。アンプの出力が2W×2なのでスピーカーを鳴らすことができるか心配だったが十分だった。この暖かい雰囲気。少年時代に聴 いたあの音楽が帰ってきたようだ。CDプレーヤーをつないでもちがう。前にも書いたが、聴いていないレコードが山ほどある。しばらくは「聴く」ことに関し ては不自由しないですむ。死ぬまでに聴けるかどうかさえ危ない。
なお、TU-870はメインアンプなのでPhono入力端子がついていない。プリアンプも作ればよいのだが、そこまで予算がないので安価なフォ ノイコライザーを間にはさんで聴いている(最近はフォノイコラーザー内蔵のレコードプレーヤーが安価で販売されている)。

04/10/11 (Mon)

もう一度10月8日の附属小学校の公開研究会にまつわる話。
この研究会での全体講演者は小柴昌俊氏で演題は「やればできる」。あのノーベル物理学賞受賞者である。ただ私はノーベル賞は立派だと思うが、教育関係の講 演会にはふさわしくないと思っていた。それには理由がある。
氏がノーベル賞を受賞したとき「東大をビリで卒業した」というご自身の言葉が話題になった。この言葉が、どうも「勉強などできなくても一つのことに努力を すればノーベル賞だって不可能ではない」というふうに受け止められているようだ。だから「やればできる」という題になるのであろう。
もちろんこういうふうに受け止められるのは小柴氏の自身のせいというよりマスコミの演出によるものかもしれない。−−−この点に関して小浜逸郎『頭はよく ならない』(洋泉社新書y・2003・740円)に詳しい−−−しかし、それにしてもノーベル賞受賞者が「ビリだった」と強調するのは嫌味である。いくら ビリでも東大は東大である。もてるものの言葉である。何のはげましにもならないのである。教育の世界は「やればできる」で解決できるほど簡単ではないので ある。
さて、この小柴氏。話の内容は別として、当日は飛行機の到着が遅れたとかで講演の開始が30分ほどおくれて、そして飛行機の都合があるとかで、講演の終わ りの時間はしっかり守って一目散で東京に帰られた。講演の予定時間ギリギリの飛行機で来て、終わりの時間に合わせた飛行機で帰る。これは小柴氏自身が決め たことなのか、それとも主催者がそのように手配したのか。飛行機で来るとしても、少しくらいの時間のゆとりをもたせるのが常識である。何百人の人が氏の話 を聞くために待っているのである。いずれにしても、参加者無視の暴挙である。

ひねくれ教育事典 【み】
みんなちがって 金子みすず作で、国語の教材によく取り上げらる詩、「私と小鳥と鈴と」の最後の一節。
「私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが
飛べる小鳥は私のやうに、
地面を速くは走れない。
私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のやうに
たくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。」
詩として味わうならそれでよい。またこの詩を宗教的に解釈するのもよい。
しかし、ある有名な教育行政のリーダーは、個性化教育の強調にこの詩を使っていた。
こうなると「それは論理の飛躍でしょう」と言いたくなる。

04/10/10 (Sun)

NHK教育テレビで、NHK学校音楽コンクール小学校の部を生放送していた。ある見方をすれば確かにレベルが高い(のだと思う)。しか し、どの学校もまったく同じようにきこえたのは私だけだろうか。どれも同じだから、わずかなミスや不揃いで順位も決まってくる。このような全国まったく同 じの合唱を育てることが日本の音楽文化にどれほど意味があるのだろうか。
もちろん、それで子どもたちに何かが残り、これからの子どもたちの人生によい影響を与えるのならそれはそれでよい。しかし、関係者の話を聞いているとなか なか大変だ。
学校音楽コンクールに関しては、真っ正面からの学問的な分析と批判が必要な時期に来ていると思う。だれがやるかが問題だが・・



04/10/9 (Sat)

2〜3日休むつもりが3ヶ月も休んでしまった。このムラっ気こそ私の最大の欠点なのである。
と言う訳でいつまでも放置しておくわけにはいかないので、復活することした。

昨日弘前大学附属小学校の公開研究会があった。
弘前大学の附属校の公開研究会の売りの一つに、大学教員が児童・生徒に授業をするというのがある。誰が考えたのか、恐ろしいアイデアである。
今回は、5人の大学教員が授業をした。私もその一人である。
私は、これまで小中高等学校で100回以上も研究授業をしてきた(と思う)。たぶんその中でも最悪の授業だろう。中身を書きたくないくらいである。失敗の 理由ははっきりしている。手順に問題があったのである。
あとの研究協議のさいにもそのことをはじめに言った。そのことを言っているのに、フロアーの小学校の先生から追い打ちをかけるように厳しい批判があった。 ちゃんとわかって反省してるのに〜〜〜〜〜〜(;;) 本当に教師は他人に厳しい。
しかし、自慢できることが一つある。昨日は附属小の教員も含めて2時間で19人の教員が授業をしたのだが、その中で私が最年長者である。大きな声では言え ないが私はこの9月に54歳になったのである。考えてみると54歳で研究授業をする人が小学校や中学校の教師にいるか!(まあ、たいていは校長や教頭に なっているが)。だから自分で「私はえらい!」と言い聞かせることにした。私はえらい!

ひねくれ教育事典 【ま】
まちがい(間違い) 間違いを恐れていては成長はない。板倉聖宜氏はこの考えを一歩すすめて、間違いを科学的認識のための積極的な要因として、意図的に授 業の中に組み込み、仮説実験授業という方法をうち立てた。間違いは人間の成長にとって不可欠である。ただし、成人の男女の間でこれがおこるとちょっとやや こしい。ややこしいだけならまだよいが、たまに血をみたりすることもある。


History v1.32 [Shigeto Nakazawa]