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メッセージ


04/7/5 (Mon)

都合により2〜3日ネットを休みます。メールマガジンも休刊します。

04/7/3 (Sat)

この4月から、弘前大学は学内の交通規制を厳しくした。とくに車の入構制限を厳しくした(と言うより適正に制限するようにしたと言うべ きである。以前は無法状態だった)。さっそくほうぼうからクレームがついた。
非常勤講師さえ入構させてもらえなかった。附属学校の教員が会議で大学に入ろうしても入れてもらえなかった。研究室の用で入ろうとした業者が拒否された。 警備員が高飛車だ・・等々である。弘前大学は町の中(?)にある。だからキャンパス全体が狭い。そもそも駐車場の確保は難しい。大学当局は立体駐車場を建 設する計画を持っているようだ。それでも根本的な解決にはならない。
車に関しては、大学を郊外の広い土地に移転させない限り、すべてのニーズに応えることはできない。この状況を解決するには、発想の転換しかない。そもそも 「大学は車で来る所ではない」と考えることだ。非常勤をお願いしたり、会議を開催したりする場合も、車を使わない(公共交通機関を使う)ことを前提にすべ きである。もちろん、通勤・通学には使わない。大学に入構できるのは業務用だけにする。たいへんなようだが、慣れてしまえば何ということはない。私は運転 免許さえ持っていないが、困ったことなど一度もない。いざとなればタクシーを使う。タクシーを使ったところで、車の購入費や維持費に比べれば大したことは ない。
弘前市は城下町で幸いにして戦災にもあわなかったで、道路が非常に狭い。ところがこの狭い道路に車があふれかえっている。中心的な道路は昼間から渋滞して いる。車に乗る人が多いから、公共交通機関は不便になる一方である。この悪循環も断ち切らなくてはならない。大学は率先してこの車社会の悪循環からの脱出 をはかるべきだ。


ひねくれ教育事典 【ほ】
ほうじんか(法人化) 国立大学がこの4月から独立行政法人化した。大きな変化として感じる一つは「お金」である。例えば研究費。昨年までは少ないながら も年間の個人研究費の範囲で自分の研究に必要な物品や、授業に必要な機器をなんとか購入することができた。しかし、今年はそもそも年間にいくら使えるいま だにかわからない状態である。そして研究費の使用を保留している状態なのである。それでも授業をやめるわけにも研究をやめるわけにもいかない。私は、書籍 は雑誌はこれまでも自費で購入してきたが、最近ではCDやさまざまなソフト類まで自分で購入するしかなくなった。研究室のコンピュータもそろそろ更新した いのだが、それもままならない。だましだまし使う以外にはなさそうである。法人化のプラス面は少しもあらわれていない。

04/7/2 (Fri)

録音の歴史をたどると感慨深い。
エジソンが蓄音機を発明したのが1878年。録音媒体は円筒型。そし約10年後にの1889年にベルリーナが円盤型の畜音機を開発する。30年の競争を経 て円盤式が勝利。さらにマイクロフォンやスピーカー、真空管の発明にともなって録音は電気式になっていく。それでも30センチのレコードで録音時間は最長 で片面5分程度。例えば、ベートーベンの交響曲第5番の場合4枚組である。第2次世界大戦後にLPが登場する。これによって1枚のレコードの中に交響曲が 1曲入るようになる。その後マルチチャンネル録音(ステレオ)が登場する。そしてこの「ステレオ」という言葉がオーディオ機器の代名詞になる。しかし、ど れだけ音が改善されても、また、使用者がどれだけ大切にあつかってもレコードは摩耗した。半永久的なものではなかったのである。
しかし、1980年状況は一変する。CD、つまりデジタル録音の登場である。これまでの音質の改善の努力をあざ笑うかのように、従来のレコードを駆逐し まった。デジタルデータだから、永久に保存しておくことも可能になった。
エジソンからCDの開発まで、つまりアナログの歴史は、ほぼ100年である。CDの開発によって表面的には否定されたように見える100年である。しか し、音楽や音楽教育にとっては極めて重要な100年の歴史ではなかったか。音楽教育を「録音の歴史」という視点から見直すのもおもしろいかも知れない。


ひねくれ教育事典 【へ】の部
へいわきょういく(平和教育) 平和を愛する国民の育成をめざす教育・・でいいのだろう。となると平和の反対は戦争。だから戦争に反対する国民の育成をめ ざすということになる。平和教育と言えば、戦争の悲惨さを繰り返し教える、例えば沖縄戦や原爆の体験を語り継いで行くことがその中心的な実践になる。た だ、どうもこういった平和教育の構図には違和感を感じる。平和の反対は戦争というのもちょっとおかしい。平和を愛する国民が育てば戦争がなくなるものでも ない。現に世界のあちらこちらに戦争や紛争が起こっているが、その地域に住む人々が平和を愛していないからではない。というようなことを語ると無限の論争 に陥っていくのでここでやめる(^^;


昨日、私に関してけしからぬ人格攻撃をしている人間がいることを知った。言うに事欠いてというところだろう。私が行ったことや書いたこと、そのことを批判 されるのならそれはそれでよい。もちろん受けて立つべきときには受けて立つし、私が誤っていればすなおに認めるつもりである。人格攻撃はいっさいの議論を 否定する行為である。そういう意味では、研究者にはもっとも似つかわしくない行為である。

04/6/30 (Wed)

昨日の「ひねくれ」の「プラトン」についてご意見のメールをいただいた。
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ポパーは、共産主義の淵源をプラトンに見る。全体主義国家、前衛党の無謬主義。東大総長の佐々木は、ポパーに関連してプラトンの政治哲学を批判の本で受賞 しました。
また、「プラトン的愛」を、ドイツの法哲学者ハンス・ケルゼンは、ソクラテスを愛する同性愛者としてのプラトンの愛の捉え方として論じています。
日本での実際は、ペンフレンドなどを雑誌で募るような恋愛への牧歌的時代の「方法論」となった・・・みたいな(^_^;)。しかし、この賞味期限は昭和 30年代から50年代までではないのですか?
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貴重な情報、深謝。でもちょっとしたジョークのつもりだったのに(^^;


この夏に小学校採用試験を受ける学生が採用試験の模擬問題集を持って質問しに来る。
例えば、二長調の主要三和音をコードネームで答えるような問題がある。その問題集の解答では、D、G、A7 となっている。そして解説には「主要三和音とは主要な3つの和音」と説明されている。明らかに間違っている(三和音とは3つの和音という意味ではなく、三 音からなる和音という意味である)。この手の本には間違いが非常に多い。その他、「次の楽曲のうち小学校の鑑賞教材に○をつけなさい」という問題も掲載さ れている。もう鑑賞共通教材はなくなったのである。本当にこんな問題が出ているとしたら、出すほうがおかしい。
なぜ、こんないい加減な情報が出回るのか。それは採用試験を行う各都道府県と政令指定都市の教育委員会が、試験問題をきちんと公開していないからだ。
問題集を発行する出版社は、受験者から情報を集めて問題集をつくる。出来の悪い受験者から集めた情報もまぎれこむ。そして中には出来の悪い解説者もいる。 情報公開の時代である。各教育委員会は、問題と解答をきちんと公開すべきである。


昨日、じじいなったことを書いたら、ほうぼうからお祝いのメールが・・・・。感謝!
でも、「でも、私はまだじいちゃんにはなりたくない」と言うものも。「私はまだパパにもなっていない」とかも・・・

04/6/29 (Tue)

24日のこのコーナーへの意見
「吉田先生は人望など気にしているのか?」
そう言われると困るよなあ、という感じ。
しかし、人望を気にしすぎるのが一番バカ・・ということは言える。


どこにでも見られる家庭の風景。
夫:ただいま。
妻:おかえりなさい。あなた、お風呂先にする。それともビール。
夫:ビールがいいなあ。
妻:お風呂にしなさい。
それを聞いていた子どもの独り言
「そんならはじからきかなきゃいいのに」
家庭ならこれでよい。しかし同じ事が教室で行われていないだろうか。
教師は、同じことをやっていないだろうか。
発問する。子どもなり一生懸命考えて答える。その答えが気に入らない。無視する。
これなら発問しないではじめから説明なり指示をしたほうがましだ。
発問を途中で放棄してはいけない。
「発問における誠実性の原則」である。


四国に旅行に行ってきた。高知に住んでいる長男に5月初旬に長女が生まれたのだ。ということは、私もじじいになったということなのだが、てれくさいのであ まり人に言わなかったのだ。それに「親ばかぶり」を見せたくないというもあった。しかし、ついにやせがまんも限界で・・・・。そして実際にこの手に抱いて みると実感が・・・
というわけでネットも5日間休止した。



ひねくれ教育事典 【ふ】の部
プラトン 哲人によって納められる理想世界をめざした哲学者である。音楽教育についてもいろいろ発言しているらしい。それについて私は何も知らんが、実は 密かにプラトン主義なのである。若いときはプラトン的な愛、すなわちプラトニック・ラブをいつも実践していたのである。・・・それ以上進まないうちに愛の ほうが終わっていたからだ。

04/6/24 (Thu)

今日は本の紹介。少し(私にとっては)耳の痛い本である。
樋口裕一『頭がいい人、悪い人の話し方』(PHP新書・714円)
「話し方ひとつで評価されてしまう。バカな話し方がわかれば知的な話し方は身につく」として以下、バカな話し方の例が山ほど出ている。
目次を見るだけでだいたい中身はわかる。
例えば第1章は「あなたの周りのバカ上司−部下から相手にされない話し方」となっているが、これは「バカ研究者」「バカ教師」でも十分通用する。次のよう な例が紹介されている。
1. 道徳的説教ばかりをする。
2.他人の権威を笠に着る。
3.自分を権威づけようとする。
4.自分の価値観だけで判断する。
5.根拠を言わずに決めつける。
6.ケチばかりつける。
7.少ない情報で決めつける。
8.具体例を言わず、抽象的な難しい言葉を使う。
9.詭弁を用いて自説にこだわる。
10.矛盾に気づかない。
11.難解なことを言って煙に巻く。
12.知ったかぶりをする。
このうちの一つや二つくらいなら誰でもあるかも知れないが、半分以上あるような人は要注意である。と言うか、そういう人は自覚もできないだろうな。
私は、このへんは大丈夫だと思っているが(それが恐い?)、第3章はちょっとこわい。
第3章は「絶対に人望が得られない話し方」である。自分が叱られているようだ。
21.自慢ばかりする。
22.強がりばかり言う。
23.人の話を聞かない。
24.おべっかばかりで自分の意見は言わない(私にはこれはない!)。
25.感情の起伏が激しい。
26.正論ばかりをふりかざす。
27.ありふれたことしか言わない(これも私にはない!)
28.ぐずぐずと話して何を言いたいのかわからない。
29.どんな話題もいつもの話にもっていく。
30.差別意識を口に出す。
いやあ、こわいこわい>ALL

04/6/23 (Wed)

学会の選挙に関してコトアゲしてきた。このへんで撤退する。自分にも責任の一端があると思う。次のようなメールを出した。
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弘前大学 吉田孝です。

会長より選挙に関して説明をいただきました。
その説明を受け、また私なりに過去の文書を調べました。
その結果、不満はありますが前のメールで主張した「選挙のやりなおし」
を撤回します。

わかりやすく言えば次のようなことだと理解しました。

(1)得票順第1位の獲得者を会長とする(平成14年10月14日改正
の「日本音楽教育学会会長・副会長・理事選挙実施要領」に明記されている)
(2)「候補者1名の場合も、その候補者が1位である」と解釈する。
(3)実施要領は総会の議決事項なのですぐには変更できない。

私は「当選要件が示されていない」ことを問題にしたのですが(1)(2)
で当選要件は存在するということなのでしょう。

※「実施要領」のこの「得票順・・」が一番重要であるし、問題点でもある
のですが、この文言がニュースレターでも、選挙公報でも一度も示されてい
ません。「会員なら知っておけ!」と言われればそれまでですが、この文書
を探し出すのに私自身苦労しました。

私はこの解釈(「1名でも1位」)に反対です。しかし、一つの考え方とし
て理解はしました。はじめからこのような説明があればよかったと思います。

結局、実施要領の規定が、候補者が複数の場合のみを想定したものであり、
それを候補者1名の場合にも当てはめると言うことに無理があったわけです。
実施要領を決めるときには私も議場にいたような気がします。また当時理事
をしていて、会長の直接選挙に関しては総会に提案する前の理事会でもさま
ざま意見や問題点について発言しました。この部分にも気がついていたよう
な気もしますが記憶が定かではありません。結果的には見過ごしてしまいま
した。不覚でした。

問題点を整理すると次の通りです。
(1)12年度の総会で決定した「実施要領」に欠陥がある。すべての問題
はここから生じている。
(2)決定後4年が経過した。その間に1度選挙が行われた。それにもかか
わらず、誰も欠陥をただそうとしなかった。組織として問題である。役員に
も責任があるが、問題点に気づいていて指摘しなかった一般会員(吉田など)
にも責任の一端はある。

ということで、次回は改訂されるようですので、これ以上この問題で発言す
ることを停止します。なお個人としては今回の選挙は拒否しますが、個人的
な理由であって、選挙の無効を主張するものでありません。

04/6/20 (Sun)

学部のカリキュラム委員をしている。今カリキュラムの全面見直しを行っている。
教員養成学部のカリキュラム編成には、最初から制約がある。それは教員免許法という制約である。それぞれの教員免許を取得するために似必要な科目や単位数 が同法と同法施行規則によって定められている。学部の教員養成課程のカリキュラムは最低限この条件を満たしていなければならない。
その他、全学のカリキュラムがある。かつて一般教育として開講されていた科目だが、これを弘前大学では「21世紀教育」と言う。
※この名称を考えた人を知らないから言うが、バカである。なぜかというと、この言葉を使うたびに知らない人には説明しないといけないからである。全国いろ いろ調べてみたが、こんなバカな名前をつけているのは弘前大学だけである。もう一つあった。千葉大学では「普遍教育」と言うそうだ。
で、この21世紀教育を受けさせることも前提にしなければならない。
これだけならまだいい。その上、「教育学部にはこの科目(具体的な指定があるが、はずかしくて書けない)を必修として開講しなさい」という天の声が下る。 どうも大学で一番偉い人の思いつきらしい。それで学部は教育研究者集団という誇りも投げ捨ててその通り実施しようとする。
※この大学の教育には、だれかの思いつきで決まったような考え方がまかり通っている。
これでは、カリキュラム委員会で議論する意味などないではないか。ここでなんとかふみとどまらなければ。


ひねくれ教育事典 【ひ】の部
ひょうせつ(剽窃) ある偉い音楽教育学の先生は「他人の知的財産である著書や雑誌の内容を無断で自分のものにするのは剽窃行為なので十分注意したい」 http://www.u-gakugei.ac.jp/~takeshik/ronbun.pdf と書いておられる。「注意したい」と書いているので 注意していらっしゃるのであろう。ご本人の文章に次のようなものがある。
「帰朝してから伊沢が痛感したのは、日本には音楽教育が全然ないことであった。彼はすぐに文部省上層部に働きかけて、音楽教育の研究機関を創設させた。こ の機関は「音楽取調掛」と呼ばれ、明治12年に創設された。伊沢修二はその御用掛を命ぜられた」(『音楽教育への挑戦』日本音楽学校、2003)。
これよく似た文が、有名な歴史的名著の中にある。「日本に帰ってから伊沢修二が痛感したのは、音楽教育というものがぜんぜん日本にないことであった。彼は すぐさま文部省上層部を説いて音楽教育の研究機関を創設させた。この機関というのが明治12年創設された音楽取調掛で、東京師範学校長伊沢修二(29歳) がその御用掛を命ぜられた」(堀内敬三『音楽明治百年史』音楽之友社、1967)
よく似ているが、剽窃行為にならないように「十分注意」されているだろう。「注意する」とは次のようなことなのであろう。
(1)漢字をひらがなにしたり、ひらがなを漢字にしたりする。
(2)途中の言葉や語尾を少しだけ変える。
(3)文の一部を抜く。
(4)文の順序を入れ替える。
それにしても、もう少し上手に「注意」できないものか(^^;

04/6/19 (Sat)

(昨日の続き)
日本音楽教育学会会長選挙に関して、次のような意見書を出した。
最後の手段である。
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日本音楽教育学会
会長、副会長、事務局長、選挙管理委員長殿

学会会長選挙の件について

                   一会員 吉田 孝

今回の学会の会長の選挙に関しては、混乱を避けるために選挙中に
おける行動を自制し、選挙後に意見書を提出するつもりでおりまし
た。しかし、6月15日付「選挙公報」に見過ごすことのできない
問題点を発見しましたので、意見を申し上げることにしました。な
お、この内容はメールや私自身のHP等を通じて、公開します。

会長選挙公報の「1 会長候補者」には次のような文が書かれてい
ます。
「上記の結果、立候補は無し、推薦候補者は○○○○○氏1名とな
りました。対立候補はありませんが、重要な選挙ですので、棄権の
ないようにお願いいたします」
※選挙管理委員会が「対立候補」なる用語を使用するのは不適切で
す。その理由は少しでも論理的思考力のある方なら理解できるはず
ですので、あえて説明をしません。

さらに、「5 実施方法」の(4)アとして次のようなことが書か
れています。
「単記無記名投票により行う。その際会長候補者以外への投票は無
効とする」

この二つを合わせて考えると選挙管理委員会は、結果的に次のよう
に言っていることになります。

・投票用紙に○○○○○と書いて投票する以外は無効である。
・棄権しないで、○○○○○と書いて投票すること。

これは、あきらかに選挙管理委員会としては越権行為です。しかし
それ以上にもっと大きな問題があります。それは次の点です。
 
  選挙での当選者を決定する根拠がない。

その理由を記します。

本学会の諸規定には選挙の成立要件や(条件)や当選要件が示され
ていません。また選挙管理委員会からもそれがそれが示されていま
せん。本来、規定に書いてないことに関しては選挙管理委員会が責
任を持って決定すべきです。
ただ、今となっては社会的通念にしたがって、決定するしかないで
しょう。次のように決定することが一番妥当だと考えられます。
(1)有効得票数の最多得票者を当選者とする。
(2)有効得票の過半数の得票者を当選者とする。
しかし、今回の場合、「○○○○○」という名前を書いた票以外は
すべて無効票となります。したがって「最多得票者」や「過半数の
得票者」という概念そのものが成立しません。
そうでなければ一体何を根拠に当選者を決定するのでしょうか。
私は極めて深刻な事態だと考えています。

実は私はこうなることを懸念していました。そのため4月の時点で
私は選挙管理委員長に対し、成立要件と当選要件を明示すべきとい
う趣旨のメールをお送りしました(資料1)
ところがそのメールに対する選挙管理委員長の見解は、「選挙管理
委員会は選挙の実施方法等について、先のニュースレターに記載し
た通り実施する以外のことに関わりません。選挙に関して個人の意
見に返答することも職務でありません」(全文は資料2)というお
どろくべきものでした。私は記載した通りだけでは当選者を決定す
ることができないと思ったから当選要件の明示を求めたのです。

これでも、選挙をこのまま実施し、当選者の決定を強行するつもり
でしょうか。くどいようですが今のままでは当選者を決める根拠は
ないはずです。「ある」と言われるならその根拠を示してください。
この点をあいまいにしたまま当選者を決定することは、選挙軽視で
あり、結局は学会会長の役割の軽視にもつながりかねません。学会
会長というのはこんな決め方をしてよいほど軽い職なのでしょうか。


私は投票がはじまった現在の時点では、選挙をやりなおすしかない
と思います。具体的にどうされるかはこれからの動きを静観します。

なお私は現選挙管理委員長のもとで行われる選挙を正当な選挙とは
認めません。投票用紙は別途、返送します。



資料1 選挙管理委員長への吉田からの意見(4月5日付)
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選挙管理委員長殿
                       一会員 吉田孝


最新号のニュースレターで、学会会長選挙の公示が行われました。
そのことに関連して、3年前に気になったことがありましたので、
意見を書きます。

1 会長選挙の方法について
3年前の選挙の際に候補者に推薦された方は、現村尾会長お一人だ
ったと記憶しております。その際、その選挙のさいの投票用紙には
候補者の名前を書くことになっていました。この方法には疑問を持
ちました。もし、仮にその候補者を支持しない場合、どのように意
思表示をすればよいかわからなかったからです。極端に言えば、1
人でも投票しそこに候補者の名前があれば当選ということになって
しまう制度でした。不支持という意思を表す行動ができないシステ
ムになっていたということになります。
普通は候補者一人の場合は、無投票で自動的に当選になるか、信任
投票になるかしかありえないと思います。
本来なら前回の時に言うべきでした。前回は立派な方が推薦されて
いましたし、具体的な候補者が挙がってからでは言いにくいという
面もありました。ただ、立派な方が推薦されているから選挙のやり
方に不備があってよいわけではありませんから、意見を言うべきだ
ったと反省しています。
今回も立派な方が推薦されると思いますが、だからこそ選挙の権威
を高めるためにも、候補者が出る以前に次の点について明示すべき
だと思います。
・選挙が成立する要件
・当選のための要件 
  複数の候補者の場合
  候補者が1名の場合
なお、ひょっとしたら私のニュースレター等の見落としで、これら
の点は解決しているのかも知れません。その場合はこのメールは無
視してください。

2 得票数の公表について
確認事項です。
会長選挙、理事選挙全体にわたって投票数や得票数は繰り上げ当選
者も含めてすべて公開するのですね。
そもそも会長が会員による直接選挙になったのは「開かれた学会」
にするためでした。その意味では、本来すべての情報を公開するの
が当然です。
一応念のため、どこまで公開するのかを教えてください。

ご多忙のところ恐縮ですが、よろしくお願いいたします。
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資料2 
選挙管理委員長から吉田への連絡(4月15日付)
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吉田孝殿                 
  日本音楽教育学会 選挙管理委員会  委員長 ○○○

貴台より電子メールが送られ、内容を拝見しました。選挙管理委員
会は選挙の実施方法等について、先のニュースレターに記載した通
り実施する以外のことに関わりません。選挙に関して個人の意見に
返答することも職務でありません。返答しなかったのはこの理由に
依ります。再度事務局に問い合わせがあったので、このことのみ連
絡します。以上



04/6/18 (Fri)

日本音楽教育学会の会長及び理事の選挙がはじまった。選挙管理委員会から投票用紙が送られてきた。
会長選挙への立候補・推薦を受け付けた結果は一人だったそうだ。
選挙管理委員長からの文書には次のように書いてある。
「上記の結果、立候補は無し、推薦候補者は○○○○氏1名となりました。対立候補はありませんが、重要な選挙ですので、棄権のないようにお願いいたしま す」
さらにあとのほうには、次のように書いてある。
「単位無記名投票により行う。その際会長候補者以外への投票は無効とする」
つまり、候補者は1名でその候補者以外への投票はすべて無効だから○○○○と書く以外にない。その上、選挙管理委員長が「棄権のないようにお願い」してい る。これを「茶番」と言わず何と言えようか。
しかも、この選挙には、選挙の成立の条件や当選の条件も示されていないのである。極端に言えば、1票でも満票でも、当選とも当選でないとも言えないのであ る。この選挙によって何も決めようとしているのか。有権者にどのような意思を問おうとしているのか。
このような状況を引き起こした最大の責任は選挙管理委員長にある。明日詳しく書く。


ひねくれ教育事典 【は】の部
ハンディキャップ 昔のイギリスの話。競馬で同じ馬ばかりが勝つのでおもしろくない。それで、おもりを使って同じ馬が勝たないようにすることにした。どの 馬にどのくらいのおもりをつけるかは、くじ引きで決めることにした。それで、帽子(Cap)の中にくじを入れてその中に手(hand)を入れてくじを引 く。Hand in cap →Handicap が語源である。
(一昨日【は】の部を書いたことを忘れ、ダブってしまった)

04/6/16 (Wed)

昨日7・8時間目。1学期間15回のうち1回だけ私が担当する。受講生のほとんどが1年である(全学から集まっている)。200人ほど 入る大講義室に受講者は130人。例によって、受講者は後ろから着席する。前のほうは当然あいている。「後の4列、起立! 前の開いている席に座りなさ い」。たいていの学生は起立して前に来るが、なかなか動こうとしない学生がいる。大きな声で、「何やってる? 立て!」と叱る。びっくりしたような顔をし ている。叱られ慣れてないのだろう。
授業をはじめる。はじめから居眠りしている学生もいる(2時20分、一番眠い時間帯である)。そこに行ってつっつく。「邪魔をしなければいいじゃないか」 と言う人もいる。そんなことはない。邪魔である。目障りである。私のやる気を半減させる。結局、受講生全体に迷惑になる。だから起こす。起きなければ、追 い出すつもりである。「そんなに眠いなら、家で寝なさい」。
寝なくても多くの学生が、暗くよどんだ顔をしている。今まで担当してきてきた先生たちもみんなこんな雰囲気で授業をしてきたのだろうか? などと思いなが ら授業をすすめる。
ただし、もう眠らせない。私がしゃべる時間を極力短くする。次のようにする。
・次から次へと質問をする。
・教室を歩き回る(だからマイクを使わない。こんな時声が大きいのはとくだ)。
・考えさせる。考えたことをノートに書かせる。
・ノートに書いたことを発表させる。
・発表したことを板書する。
ほとんどこれだけで授業をすすめる。よどんだ雰囲気が変わってくる。しかし、1コマの授業で私自身がヘトヘトになる。
もう少しラクができないものかと思う。


ひねくれ教育事典 【は】の部
ばんしょ(板書) 教育技術の一つである。教師が黒板をどう使うかはかなり重要な問題である。板書の技術はもっと研究されるべきだ。また教員養成の場では もっと訓練されるべきだ。私も訓練されたことがない。それにこの技術については研究もしていない。だからへただ。戦前の師範学校時代には、かなり訓練が行 われたようだ。1度調べてみたいと思っているのだが・・・時間がない。

04/6/15 (Tue)

仕事、その他で上京していた。今回はネットに接続することすらできなかった。しかし、それもまた快適ではある。


皇太子の発言が波紋を呼んでいるそうだ。そのせいか、月刊誌各紙が関連した特集を組んでいる。『諸君』7月号は「天皇と硬質の21世紀」。
特集内の記事ではないが、編集部の持ち記事「紳士と淑女」欄の記述がちょっとおもしろい。
「皇太子はご結婚のとき、あなたのことは全力をつくして守ると言われたと聞く。しかし、守る? 誰から? 下々の者には少し奇異の念を抱かせる約束ごと だった。いま、その守る時が来たのだろうか? だが下世話に言えば「雅子さんも、ご亭主によくまああれを言わせたよ」と驚く−飾りなく言えば。沈黙の方 が、より巧みに真実を包むものなのに」
皇太子批判ともとれないことはない。まあ、タブーがとれたということか。しかし、逆にこの皇太子の発言に大騒ぎをするのもいかがなものか。
もとより私は皇室にはあまり関心がない。ただ、逆に(若い頃そうであったように)強行な皇室(君主制)否定論者でもない。歴史や文化からたまたま現在でも 国のシステムとして君主制をとっている国が存在すること、またこれからも存在することを否定しない。それを必ずしも共和制に変える必要もないと思ってい る。それだけではなく、君主制にもよいところはある。君主制には(君主そのものが独裁者にならない限り)、独裁者が生まれにくい。現在、君主制をとってい る国に独裁国家は存在しない。君主の存在が独裁制を防いでいるとも言える。日本の場合も、今すぐ天皇制をどうこうするという必要もない。「国民の総意」に まかせたらよい。


「命の大切さを教える」。当然のことのようである。佐世保の小学生殺傷事件のような事件が起きるたびに言われてきたことだ。「命の大切さを教える」とはど のようなことか。このところ疑っている。そのうちに書く。


ひねくれ教育事典 【の】の部
のうしじょうしゅぎ(脳至上主義) 吉田の造語である。左脳は言語脳で右脳は音楽脳だという説は、かなり広く信じられているようだ。しかし、言語活動や音 楽活動がそれほど単純なものか。逆に脳の構造がそれほど単純かどうか。かつてこの説を音楽科の存在理由にしようとした人がいる。右脳活性化に役立つと言っ てクラシック全集のセールスに来た人がいる。養老氏の本が飛ぶように売れる。みんな脳至上主義である。

04/6/11 (Fri)

オエー。飲み過ぎた。

「心のケア」「心の教育」という言葉がはやっている。しかし何となく胡散臭い。その胡散臭さはどこからくるのか。少し分かってきた。
小沢牧子・中島浩籌『心を商品化する社会』(洋泉社新書y・740円)
「心理主義」批判の書である。心理主義とは、「人の状態や行動または社会現象を、臨床心理学的な視点から人間の内面のありように還元して解釈し、説明し、 問題を「改善・解決」しようとする立場」だという。これがなぜ問題なのか。端的に表す箇所ある。
「さらに「心のケア」という言葉は、次第に生活に食い込んでいる来ている感がある。いじめがあるので、失業したので、年老いたので。最近では「心ののケア のケア」という言葉さえ聞かれるようにった。「心のケア」にたずさわる福士や医療領域の人々の疲れた心をケアするものだ。そのために「癒し講座」を設け、 「社会参加増進ヘルパー」を養成するという。そんな回り道ではなく、過重労働にならないための人手を増やし、おたがいに会話や相談をしあえる休憩時間を多 くするなどふつうの考え方ができないものだろうか。「心のケア」こそが問題を解決するという発送で進むと、いまに生きていくそのものへのケアが必要にな る。「心のケア」は、ほんらい論じるべき問題を覆い隠し、これを免罪することにつながるのだ。(中略)心理的な理論や技法は一般に、人の悩みや苦しみの原 因を取り除く視点ではなく、体制によって決められた状況に人をどう従わせるかという視点のもとに成り立っていることが、よく示されている。人を殺し殺され る戦争体制が「心の苦しみ」をあまた生み出すことについては目をつぶる。「長いものには巻かれよ」という体制順応思想のもとで、「長いもの」が期待する技 術を提供する。根本のところで、人間の悩みや苦しみに冷淡な専門性であると思わざるをえない」
このような心理主義批判は、当然のことながら文部科学省の出した「心のノート」批判に行き着く。
おっと時間がない。いまから東京に行く。今日は、文科省がらみの仕事で「心の教育」について話さなければいけない(^^;

04/6/10 (Thu)

もうかなり古い本である。
いずみたく『体験的音楽論』(国民文庫・1976)
「いずみたく」と聞いても、若い人はピンと来ないかも知れない。亡くなってだいぶたつ作曲家である。この人の作曲で故坂本九が歌った「見上げてごらん夜の 星を」(永六輔作詞)という曲が最近復活した。
このいずみたく氏がおもしろいことを言っている。
「子供の音楽はお子さまランチであってはならない・・・・。子供の歌を、子供のための歌として迎合的に作ってはいけないのである。子供は、けっしてお子様 ランチを望んではいない。子供は大人の食べ物と同じものを食べたいと思っているのに、大人と差別されると反抗してしまうのだ。われわれ大人が自分の子供の ころを思い出してつくる歌が一番危険である。子供が喜ぶように、喜ぶようにと、迎合してつくるのは、商業的なオモチャだけで結構である。文化的なものは、 差別なしにあたえてやらねばならない」
そして、自分の作曲した「手のひらを太陽に」(やなせたかし作詞)も「ゲゲゲの鬼太郎」(水木しげる作詞)もお子様ランチとして作ったのではないと言う。
確かにそうだ! で、現状を考えてみる。依然として、お子様ランチが多すぎる。


ひねくれ教育事典 【ね】の部
ねんれい(年齢) 年齢の数え方はかなりやっかいである。例えば学校教育法には次のような規定がある。
「保護者(子女に対して親権を行う者、親権を行う者のないときは、未成年後見人をいう。以下同じ。)は、子女の満六歳に達した日の翌日以後における最初の 学年の初めから、満十二歳に達した日の属する学年の終わりまで、これを小学校又は盲学校、聾学校若しくは養護学校の小学部に就学させる義務を負う」。最初 の学年の始めというのは4月1日のことである。「満六歳に達した日の翌日以後における最初の学年の初め」というと、3月31日に満6歳に達した子どもとっ て「その翌日以後の最初の学年のはじめ」とは、その翌日の4月1日だから、この子どもはこの年小学校に入学することになる。では4月1日に満6歳に達した 子はどうなるか。当然のことながらその翌日は4月2日で、もう「最初の学年の初め」を過ぎている。だからこの子が入学するのは次の年ということになる。と ころが4月1日が誕生日の子は、その年のうちに入学してくる。何故か! 実は、法律的に言えばある年齢に達するのは、誕生日ではなくその前日なのである。 4月1日が誕生日の子どもは3月31日に満6歳に達するのである。だから4月1日生まれの子どもが同学年の子ども中で最年少ということになる。それにして も、この1日差は大きい。得なのか損なのか。

04/6/9 (Wed)

6月4日(金)の公開研究会とその前の授業で、中学生たちといっしょにヒット曲の売れ方について考えてみた。「オリコン」の週間シング ルCD売り上げの結果から次のようなことがわかった。
(1)上位に来る曲は、その週に発売された曲である。
(2)2週目には売り上げが落ちる。
(3)数週間にわたって長く売れ続ける曲は少ない(平井堅の曲が例外)
(4)演歌は売れない(最高でも週に1万以上売れない)。
(5)テレビドラマ、映画、CM、スポーツなどと結びついた曲がよく売れる。
要するに、最近ではだれもが一度は耳にし、くちずさむような大ヒット曲(100万枚以上いわゆるメガヒット曲)はなかなか生まれないということなのであ る。音楽も使い捨て時代である。
なぜ、こうなるのか?
メディア・リテラシーではこれを次の3つの面から考えていくことになる。
(1)メディア・テキスト メディアを通じて伝達される作品そのものの特徴
(2)メディア制作者 メディアテキストをつくり売る側の論理や意図
(3)オーディエンス メディアテキストの受け取り方
最終的にはここまでやりたいのだが、入り口の(1)を生徒に考えさせるくらいしかできなかった。


ひねくれ教育事典 【ぬ】の部
ぬりえ(塗り絵) 「創造性」という言葉をひけらかす人からは「塗り絵的教育」とか言って批判されるが、実は立派な仕事である。漫画やアニメの制作現場で はこの絵に色をつける人たちが必ず必要である。漫画家志望者はアシスタントとして漫画に色をつける作業をしながら、修行をつんでいくのである。それはおい ておいて、私たちが子ども頃は、授業が退屈になると教科書の挿し絵に色鉛筆で色を塗る、つまり塗り絵をしていたものである。音楽の教科書ならたいていはま ず作曲家のカツラに色を塗ることからはじめたような気がする。ところが今の教科書はカラフルになってはじめから色がついている。子どもたちから塗り絵の楽 しみを奪ってしまった。

04/6/8 (Tue)

言い訳(^^;
6月4日(金)。附属中学校の公開研究会で公開授業を行った。「メディアの中の音楽」という題材名で、メディア・リテラシーの一環として行った。2回の授 業の2回目だった。参観者には十分に授業の趣旨が分かっていただけなかったようだ。授業終了後に同僚から「わからない!」と言われてしまった。
私は自分が授業をするときにあらかじめ指導案を出したりすることはない(終了後に配布する)。授業を見ず、指導案を見る参観者がいるからだ。また、授業の 中でも自分が言いたかったことをまとめたりしない。何が言いたかったかは、学習者または参加者が自由に受け取ってもらったらよいと思っている(公開の授業 ではたいていそういう授業をする)。だから、「わからない」のは仕方がないと思っている。しかし、それを差し引いても(あとの協議会の感想を聞いていてわ かったのだが)参観者の受け止め方はあまりにもピントがはずれていた。問題があるのだろう。ただ、生徒の作文などを読むと、そうでもないのだが・・・
なお、授業の流れについては、ここに 掲載している。


公開研究会の全体会講演者は明治大学の斎藤孝氏だった。講演の内容はこれまで読んだ本と同じでまあ何と言うこともなかったのだが、一つだけ「私」がいちば んいやなことをした。というのは講演の時間を10分延長したことだ。その会場は体育館で、そのあと体育の公開授業が行われることになっていた。そのために 結局、全体のスケジュールが10分ずつのべたおくれになった。授業であろうと講演であろうと、時間が設定されている場合は、きちんと終わるべきである。信 じられないことである。


ひねくれ教育事典 【に】の部
にんげん(人間) 教育の世界ではあまりにも簡単に「人間」を語りすぎる。教師の世界でも「あの子はいい」とか「あの子はひどい」というような評価をす る。しかし「人間」の評価というのは、結局はその人の言動のうちで自分が知っている部分に対する印象でしかない。人間について語ることは、かえって個別の 行動や業績や能力について不当に低く評価したり過大評価したりすることになる。学習者をほめるときは、その行動や成果をほめるべきであって人間をほめるべ きではない。注意するときも、その行動やできばえについて注意すべきである。

04/6/2 (Wed)

2〜4日
取り込み中につき、ネット活動はお休みです。メールマガジンも休刊です。

04/6/1 (Tue)

吹奏楽部。私たちの中高生の頃(昭和40年前後)、「男」のクラブ(部)であった。ついでに言えば、部とクラブは同じ意味だった。ほと んどが男子で、女子が吹奏楽部に入って来ることは珍しかった。女子が入っても、担当する楽器は限られていた。フルート、クラリネット、パーカッションくら いである。金管楽器を女子が吹くなどありえないことだった。だから女子が吹奏楽部に入ってくると男子の人間関係が悪くなることさえあった。
ところが、ある時期から急速に吹奏楽部に女子部員が増えた。そして現在では、部員はすべて女子という学校さえある。
その理由は?
全体としての体力の向上があげられるだろう。女子の体力が男子より勝るようになったとは言えないとしても、以前の男子には劣らない。「金管楽器は女子には 無理!」というような説も通用しなくなった。
しかし、もっとも大きな理由は、学習指導要領にある。昭和44年告示の中学校学習指導要領には、特別活動の中に「クラブ活動」に関して次のように記述され ている。
「クラブは,学年や学級の所属を離れて共通の興味や関心をもつ生徒をもって組織することをたてまえとし,全生徒が文化的,体育的または生産的な活動を行な うこと」
つまりこれによってすべての生徒が、なんらかのクラブに入ることになったのである。いわゆる「必修クラブ」である。そしてこの必修クラブのために学校は週 1時間程度の「クラブ活動の時間」を正課の時間に組み込むことになった。そしてこの必修クラブの一つである「吹奏楽クラブ」に女子が参加して来た。どこか のクラブに所属しなければならないとすれば、音楽に関心のある女子生徒の中に吹奏楽を選ぶ者が出るのは当然である。そして、その必修クラブは当然、放課後 の部活動につながっていく。女子は男子に比べるピアノなどの音楽の習い事をしている者が多い。楽譜も男子より読める。音楽の基礎ができている。当然女子が リーダーになる。かくして吹奏楽の女子化は一気に進んだ。これが一番大きな理由である。
ところが、14年度が施行されている中学校学習指導要領の特別活動からクラブ活動が削除された。つまり、「必修クラブ」がなくなったのである。それによっ て男女の比率という点ではそれほど変化はないようだ。しかし、「必修クラブ」がなくなることによって活動のきっかけの一つがなくなったことは確かである。 どうなるのか。様子を見てみたい。


ひねくれ教育事典 【な】の部
ナショナリズム 青森県人だからと言って、高校野球で青森県からの出場校を応援する必要はないし、応援しなかったからと言って責められるわけではない。広 島県人でもジャイアンツファンはたくさんいる。江戸っ子にだって阪神ファンがいる。しかし、オリンピックのサッカーの試合で、日本人が相手国のチームを応 援したりしているとそれは奇妙である。こういう面から見ると、国というのは私たちが帰属意識をもてるもっとも安定した単位である。それは自然な感情であ る。その感情は私たちの国が他の国より優れているから生まれるのではない。サッカーの試合で勝てばうれしいが、負ける時もある。負けることがあっても、あ るいは男子バレーのようにオリンピックに出場できない競技があっても私たちの国は私たちの国である。不幸にしてオリンピックで一つも勝てなくても私たちの 国である。世界にそんな国はいくつもある。何の取り柄もないけれど私は私の国を愛する。これが健全なナショナリズムというものである。それに比べて「日本 人としての誇り」や「日本人の優秀性」をことさら強調するのは不健全なナショナリズムであり、偏狭なナショナリズムである。相手国のナショナリズムをも認 める健全なナショナリズムの教育が必要である。