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メッセージ


04/4/28 (Wed)

小室等『人生を肯定するもの、それが音楽』(岩波新書・700円)※
---さー今、銀河の向こうへ、飛んでゆけ---
1972年に大ヒットした上条恒彦と六文銭の歌った「旅立ちの歌(たびだちのうた)」である。学生時代、私はこの歌が大好きだった。この歌の作曲者で、当 時の六文銭というグループのリーダーが小室等である。この小室も60歳を越えたらしい(どうりで私も歳をとるはずだ)。この小室の体験的な音楽論である。 タイトルが魅力的だが、中身もよい。世界のいろいろな音楽家との交流を中心に描いている。とくに小室が人生の師と呼ぶ故武満徹との交流がおもしろい。武満 が突然自分のコンサートを聴きに来ていてびっくりしたこと、またそのコンサートを評を音楽雑誌書いているのを知って有頂天になったこと、井上陽水も加えて よく飲んだこと、酒場で井上陽水がビートルズを歌い始めると武満がハモったこと、武満がジャズ・フォーク・演歌も含めていろいろな音楽をよく知っていたこ と、等々。このようなエピソードを交えながら、最後はきちんと武満論になっている。次の文は腑に落ちた。
「武満さんが亡くなったいまもっとも強く思うのは、武満さんは、結局、西洋音楽をやり続けた、西洋音楽としか呼びえないものをやり続けた、ということで す。それは借り物ということではない。<武満徹という西洋音楽>をやり続け、まっとうしたということだと思うんです。尺八や琵琶に出会うこと、あるいは日 本の伝統音楽に真摯に立ち向かうことは武満さんの音楽生活にとってきわめて大事なことであったし、自分のDNAのようなものと関わるところがあったかもし れない。でも、アメリカン・アーリータイム・ジャズミュージックを原点にしつつ、そこから出発したことで、<武満徹という西洋音楽>をつくりあげたという こと、言いかえれば、西洋音楽をやりおおせることを実績で証明してみせたということ、それがないよりすごいと、ぼくは思います」
これ以上何も注釈はいらないだろう。
※本の紹介のところに価格をつけるのは、ぜひ学生の皆さんにも読んでもらいたいからである。新書や文庫は価格も手ごろである。1日あたり1冊買っても(私 は新書・文庫だけでそのくらいは買っている)月に20000円くらいである。


ひねくれ教育事典 【く】の部
クルプスカヤ ロシア革命の指導者レーニンの夫人で教育学者だった。教育関係の著作も残っている。日本の戦後の教育学にも大きな影響力を与えた。あの明治 図書が『クルプスカヤ選集』というシリーズを出版していたくらいである。「ソビエト教育学」と言う研究分野さえ存在したのである。私も若い頃何冊か読ん だ。中身は忘れたが非常に感動したという記憶がある。少なからぬ教育学者が社会主義に対して肯定的であったのは、このクルプスカヤとマカレンコの功績だと 私はにらんでいる。それにしても・・・・


柏村武昭参議院議員が人質問題で「反日分子」発言。私は人質になった人たちの言動を肯定するわけではない。しかしその言動が政府の方針と異なるからと言っ て「反日」はないだろう。それに「分子」とは一体何だ。人間に対して「反革命分子」「反社会主義分子」「反共分子」とか、まるでモノのようなレッテルを貼 るのは今では金正日の北朝鮮くらいのものだと思っていた。柏村氏は広島にある中国放送の元アナウンサーでこの人が司会をしていた「サテライトNO.1」と いう番組は若い頃とてもすきだったのだが。


4・28(よんてんにーはち)。こういう言い方を覚えているのは、デモとか集会があった日だからだ。何の日だったろうと思っていたら、新聞の社説でわかっ た。「戦後はこの日からはじまった」(読売)。1952年4月28日にサンフランシスコ講話条約が発効し、日本が占領統治から解放された日とある。では何 のデモだったのか。サンフランシスコ講話条約は、沖縄を日本から切り離し米軍の占領下に置くことを固定する条約だったからだ。だから、4月28日を「沖縄 デー」と呼び「沖縄返還!」を叫んでデモに参加したのである。1970年頃の話である。「固き土を破りて民族の怒りに燃ゆる島沖縄よ」(作詞・全司法福岡 高裁支部 作曲荒木栄)。そして1972年に沖縄は日本に復帰した。遠い遠い「幻」のような話である。そう言えば、今の学生には「デモ」という言葉を知ら ないのがいる。

04/4/27 (Tue)

教員養成の理想を言えばキリがない。
我が教授会でも「6年間かけて教員養成すればよい。4年間は専門の勉強をさせ、あとの2年間で教職のための専門をべんきょうさせるようにする」という発言 があった。実際にイギリスはこのような制度である。しかし、日本は制度が違う。基本的には4年間でなんとか一人前に仕事ができる教師を養成することが求め られているのである。あれこれカリキュラムを論じることになる。
一つは、開放型のカリキュラムである。「リベラルアーツ」である。最近はずいぶん評判が悪くなった。しかし、本当にこれではだめかというそうでもない。小 学校には少ないが、中学校や高校には教員養成学部出身でない教員がたくさんいる。こういった教員が教員養成学部出身者に比べてレベルが低いかというとそう でもない。きちんと働いているのである。
もう一方は徹底的に目的養成型のカリキュラムである。例えば、大学の一年生に入学した時から、教職関係の科目を履修させる。小中学校に観察に生かせたり、 恒常的に教育実習をさせたりする。教科科目(教科専門科目)もできるだけ教員養成の目的に合うような内容にする。現在、上から求められている教員養成の姿 である。そして、我が学部もこれを目指している。こうすれば一般学部の出身者よりレベルの高い教員を育てることができるなら、こうすればよい。昨日書いた ように、これまでがあまりにもひどすぎたので一定の方向転換は必要だろう。
しかし、あれこれカリキュラムをいじったところで仕方がないと思うことがある。時間が限られているからだ。例えば、小学校の教師になるための音楽科教育法 という科目は、4年間でたった2単位、時間にして90分授業が15回である。私が伝えたいことがすべて伝わるはずがない。観察や教育実習もよいが、逆に経 験主義に陥らせる危険も孕んでいる。
結局は、授業の中で学んだことが他の力に転移することを期待する以外にない。つまり自己学習する学生を育てることである。さらに具体的に言えば、本を読む 学生を育てることなのである。学生にテキスト以外の本をどのくらい読んだかを聞いて見るとわかるのだが、1ヶ月に1冊読んでいる学生が半分に満たない。 「新書、文庫でよい。1月に2冊、夏休みなどもあるから1年25冊、4年間に100冊読め」という。ずいぶん遠慮がちにである。それでも「えーっ!」とい う反応である。これでは、何をやってもだめである。「リベラルアーツ」でも教師がやれるのはちゃんと本を読んでいるからではないか。リベラルアーツに教育 学部出身者がかなわないのは、大学時代に免許取得に汲々として本を読むことをしていないからではないか。そう思えて仕方がない。


ひねくれ教育事典 【き】の部
きょういんめんきょほう(教員免許法) 改訂されるたびに教員養成学部がふりまわされる法律。80年代末の改訂では、教科科目が重視され、中学校では40 単位必修、小学校では全教科とも必修となった。各学部はそれでかなり苦心しながらカリキュラムの改訂を行った。ところが、それから10年もしないうちに、 今度は教職科目重視に変わった。半分の教科科目で免許が取得できる。教員養成審議会(前)のご都合主義によるものである。
私たちが今議論していることも、審議会の考え次第で無駄になってしまうことがある。今「低学力」が問題になっている。どうもいやな予感(とだけとも言えな いのだが)がする。


昔の仲間にメールをいただいた。無断で掲載する。
「吉田孝 ONLINE NEWS はいつも読んでいますよ。勉強になります。紹介されているうちのいくつかは自分も買って読んだりしています。ところで絶不調らしいですが、大事にしてくだ さい。ジョギングとかこのニュースの発行とか、私からは想像を絶するエネルギーです」
うれしい。絶不調が吹き飛んでしまいそうだ。 

04/4/26 (Mon)

そろそろ、復活しなけばならないだろう。創造力はまだ不足している。こんな時は本でも読むに限る。
少し、古い本だが・・・。教員養成学部のこれからを考える上で少し参考になることが書いてある。
向山洋一『学校の失敗』(扶桑社文庫・533円・2001)
「第二次世界大戦が終了して、日本の教育界が失ったものが三つある。
第一は、日本の中に何十年、何百年に渡って蓄積されてきた教育のやり方、つまり教育技術・方法である。
戦争直後、戦争に走ってしまったのは、あまりにも小さな技術や方法にとらわれてしまったためであるとの反省がされ、これからの教師は、小さな技術よりも高 い教養が求められるとされた。そして、すべての師範学校は廃止され、それに代わって各県に学芸大学が設置された。「リベラウ・アーツ」が強調されたのであ る。日本の教育界は、ここで、プッツリと長い伝統をうち切られることになる。
こうした流れの中で、戦後は「教育技術・方法はその程度の低いレベル」と見られたのである」
向山氏が言うように、教育技術・方法を程度の低いものと見る見方は、教員養成学部の中にも充満している。例えば、ある教員養成学部では、授業論や教材論は 大学教員が指導するようなことではないと主張するかのように、小中学校の教員を非常勤講師にして丸投げしてしまうというようなことが行われている(一部の 教科教育科目だが)。教育技術・方法そのものが、学問や研究の対象になりうることが理解されてこなかったからである。こうなった原因には、教員養成学部全 体が教科教育学に対して無理解であったことにその一端がある。それだけではない。教科教育担当者そのものが、自分の役割に無理解であったことも原因であ る。
逆に、行政の方針だけに乗っかかった、基礎研究や学問体系を軽視した薄っぺらな教員養成カリキュラムにしようとする動きもある。
また書く。


ひねくれ教育事典 【か】の部
がくりょく(学力) 学力とは何かと言われてもその定義は人によって違う。例えば、「関心・意欲・態度」を重視する人もいれば、あくまでも「学習して到達 した力」を重視する人もいる。結局はそれぞれの人が教育の中で何をもっとも重視したいかによって決まるのである。つまり「学力観」とは教育観そのものに他 ならないのである。


04/4/20 (Tue)

想像力、創造力、論理的思考力、表現力、気力、・・・・・すべてに渡って不調。
腹立たしいこともあり。書き出すと歯止めが利かなくなりそう。
数日の間、ネットはお休み。

04/4/18 (Sun)

ちょっとワクワクしていることがある。
GWに赤穂に行くのである。あの播州赤穂である。忠臣蔵の赤穂浪士の赤穂である。昔から一度行きたいと思っていたところである。
実は、少し縁がある。なぜか、赤穂で出ているタウン情報誌に4回ほど記事を書かせてもらったのだ。
子どものころから「忠臣蔵」が好きだった。史実はいろいろ言われているが、私は忠臣蔵を題材にした小説が好きなのである。いくつか紹介する。
・大佛次郎『赤穂浪士(上・下)』(集英社文庫) 忠臣蔵もの中で最初にNHK大河ドラマになったあの原作である。仇討ちではなく「幕府への抗議」という 視点を出した最初の本である。TVではあの長谷川一夫が主演。
・堺屋太一『峠の群像(1〜4)』(文春文庫) これも大河ドラマになった。「峠」とは時代の中の頂点を指す。堺やらしくこの時代の経済を背景においてい る。浅野内匠頭の刃傷以前が長い。緒形拳が主役をした。
・森村誠一『忠臣蔵(1〜5)』(角川文庫) これも年末ドラマか何かでTVになったような気がする。浪士や吉良方の家臣など一人一人の人間を描き出して いる。森村誠一らしい人間の描き方である。
・池宮彰一郎『四十七人の刺客』(新潮文庫) これは高倉健主演で映画化された。浪士たちは自らを美しく描くために、自らで一つの物語をつくっていく。池 上が69才で小説デビューしたもあって話題になった。
・池波正太郎『おれの足跡(上・下)』(文春文庫) 私は、これが一番好きだ。主君の刃傷さえなかったら、本当に昼行灯なのんきな一生を送っていたであろ う大石内蔵助という人間を描く。
吉良を主人公にしたものもある。あとタイトルだけ紹介しておく
・森村誠一『吉良忠臣蔵(上・下)』(角川文庫)
・池上彰一郎『その日の吉良上野介』(新潮文庫)
・岳真也『吉良の言い分(上・下)』
というわけで、5月4日・5日、私は赤穂に現れる。

04/4/17 (Sat)

仕事に趣味に・・・それなりに充実した生活を送っている。自由な一人暮らし、ぜいたくな暮らしである。しかし、この寂しさ、人恋しさだけはど うしようもない。新入学した学生はなおさらではないか。
大学生協の書籍部に行く。「大学生活応援フェア」と称する、新入生向け書籍が置いてある。どんなことが書いてあるのかと思って1冊買ってみた。
中谷彰宏『大学時代しなければならない50のこと』(PHP文庫・495円・2000年)
・単位に関係なく、もぐってでも聴く講義がある。
・どんなに飲んで帰っても、とりあえず机に向かう。
・受験時代より勉強する。
うん、なかなかいいぞ。ところが・・
・講義を聴きながら、本を読めるように訓練する。
けしからんことも書いてある。もっとも、本を読みながら聴けるような講義をするのが悪いのだが。
おもしろいのもある。
・親不孝をする。
母親の期待に応えているうちは、やりたいことは見つからない。私も母親の期待に応えないように生きてきた。
・勉強するためには、親のすねの太さをはかり、しゃぶりつくす。
そうすべきだ。私の場合は細すぎてどうしようもなかったが、それでもしゃぶった。
しかし、一番共感したのは次のところ。
・行方不明になれる場所を持つ(1人の時間を持たないと、成長しない。大学時代は、1人になれる最後のチャンス)
「大勢の友達の中で暮らしてきた学生よりも、たった一人ぼっちで暮らしてきた学生のほうがずっと魅力的です。友達と話してしまうと、自分と会話しなくなっ てしまうからです。女子学生は、あいかわらず、友達と一緒にトイレに行くような暮しをしています。まるで小学生の延長です。まるで小学生の生活の延長で す。男子学生は、女子学生よりもっと友達とべたべたしています。友達がいると、つい「お茶」をしてしまいます。せっかく孤独になれる時間を「友達とのお 茶」でみすみす失ってしまっては、あまりにももったいない。孤独が最大の教師です。孤独にならないと人間は成長しません」
次のようにも言う。
・誰とも会わず、ひと言も話さない日を1日持つ。
「さびしい」「人恋しい」は贅沢だと反省。「連帯を求めて孤立を恐れず」。あの大学紛争時代にはやったフレーズである。


ひねくれ教育事典 【お】
おんがくきょういく(音楽教育) それ自体の価値を実現することさえむずかしいのに、それに加えて法外な付加価値を求められている教育。例えば、小学校の 3年から中学校の3年まで7年間もリコーダーを学習する。教師の労力も相当なものである。しかし、大人になってリコーダーを趣味にしている人などほとんど いない。そう言う物好きは私が知る限り、同僚の美術史家くらいである(美術史とリコーダーがどう関係するのかは、今度ゆっくり聞いてみたいが)。合唱にも 相当時間をかけるが、日常生活でちょっとハモって歌ってみるということは、合唱団にでも入ってなければ、ほとんどやることはない。ピアノが弾けたり、バイ オリンが弾けたりという人間は五万といるが、それは学校教育とは何の関係もない。ところが、それに「情操」だの「人間形成」だの「個性」だのと言った付加 価値がたくさん求められる。いや、それ自体の価値がなかなか実現できないからこそ付加価値が求められるのだろう。ある大先生は音楽を学ばせなくてはならな い理由を「1.感動体験の共有、2.知性と感性の融合、3.精神の集中と意思の持続、4.人間感情の純化、5.感性による人間認識」(http: //wwwsoc.nii.ac.jp/jmes2/NL15.pdf 7ページ)と言われる。やっぱり付加価値なのである。それに私が学習する側に絶てば、感動体験を共有させられたり、知性と感性を融合させられたり、精神を 集中させられたり、意思を持続させられたり、感情を純化させられたりするのは絶対いやだ。そのうち、「付加価値のほうが大切なら別に音楽教育でなくてもい いじゃん」とか言って学校から消えてしまうかも知れない。


今日は20キロほど走りに行こうと思ったが、ちょっと風邪気味である。○○は風邪をひかないという。風邪をひかないのが自慢なのだ。珍しいことだ。少しか しこくなったのかも知れない。
カープがまた勝った。それも胸のすくような勝ち方。「自分の生活が乱れるから、勝つな!」って言うのに。

04/4/16 (Fri)

歴史研究をするには、それなりの覚悟がいる。徒労に終わるかも知れない作業をいとわずとにかく洞窟のような闇の世界をうろうろ歩き回るしかな い。魅力的ではあるが、こわくて踏み込めなかった。だから私は、歴史研究をやっている音楽教育研究者を無条件に尊敬する。例えば私の前任者のYH氏であ る。
しかし一方では、自分では洞窟に入らないでおいて、洞窟から出てきた人が書いたものをちょっと組み合わせて歴史研究と称しているものもある。自分自身の目 で確かめてないことを書くわけだから相当な慎重さがいるはずだが、功を焦るとそれを忘れる。勢い間違いだらけになってしまう。そんな歴史の本があった。
それを批判するのが目的ではない。自分への戒めとしたいのである。歴史研究ではないが、私が書いた論文の中にも後で読むと功を焦るあまり慎重さを欠いたも のたくさんある。この歳になってこんなことを自戒しているようではどうしようもないのかもしれないが。


ひねくれ教育事典の「お」が出てこない。「音楽教育」では魅力的でない。
4/8に野球のことを書いた。
「・・・・・・・・・と冷めているのは我がカープがさっぱりだからだ。カープが開幕3連勝でもしていたら、もう仕事にも手がつかないだろう。そう言う意味 ではカープが弱いのは私にとってとても良いことなのである。どうせなら、100敗くらいしんしゃい」
そういう訳にいかなくなった。何と首位である。もっとも、カープが強いのは昔から鯉のぼりの季節までと言われていたので、あんまり期待はしないが。
でも、今日から対巨人三連戦。朝からソワソワしている。

昨日の記事で「伊沢修司」が気になったので、著者の正高氏にメール(京大のホームページに公開されていた)で問い合わせたところ、誤植とのことでお礼の メールをいただいた。

04/4/15 (Thu)

オエー、飲み過ぎた。飲み過ぎた上に今日は1時限から授業。朝のうちにHPの更新もできなかった。


発明王エジソンは注意欠陥という障害をもっていた。注意を違った対象に移動していくことができないという障害だそうだ。
アインシュタインはたいへんな癇癪もちだったそうだ。子どもの頃妹によく暴力を振るったそうである。妹がのちに「思想家の妹になるには頑丈な頭蓋骨が必要 だ」と言ったとか。音声が覚えられない障害のせいだと言う。
レオナルド・ダ・ビンチは鏡文字を書いた。視覚障害を持っていたという。短期的語彙貯蔵の障害でもあった。だからメモ魔だった。
アンデルセンは文法障害だった。グラハム・ベルは自閉症だった。ディズニーは多動症だった。
正高信男『天才はなぜ生まれるか』(ちくま新書680円)
氏は言う。
「障害を持つことは、必ずしも当人にとってハンディキャップとして作用するとは限らない。それどころか、正反対に強みとして働くことも珍しくないのだ。そ れを弱点としてとらえてしまうのは、健常者の思いあがりというものである。(中略)それどころか、劣っている面が存在すするからこそ、それを代償しようと 常になく他の能力が発揮されることがある。ふつうならば眠っているものが、目を覚ますのだ。状況は常ではないことが良い方向に作用して、フル稼働が起きる のかもしれない。結果として健常者にはない才能が発揮されることになる」
その例が上にあげた6人の天才である。こういう天才はたいてい学校教育では落ちこぼれている。
学校教育は今、「ゆとり・個性尊重」から「基礎学力重視」の方向への揺り戻しが始まっている。そう言う動きに対抗しようとする本である。
全体の主張とは別に余談として少し面白いことが書かれている。
「グラハム・ベルが電話を発明し、アメリカで電話事業がスタートした時、多くの人のいるところで最初に受話器をとって話すようグラハムに依頼されたのは、 かれのところへ口話(ベルは聴覚障害者に口話を教える仕事をしていた)教育を勉強しに来ていた伊沢修司(ママ)という日本人留学生だった。そこには、同じ くハーバードに留学中であった外務省の小村寿太郎と金子堅太郎も立ち会い、日本語が英語と同じように受話器を伝わることにデモンストレーションをした。 (略)このアトラクションもどきの試みは、大受けしたらしい」
ハーバードに留学したと言えば、あの伊澤脩二のことである。音楽取調掛長で、日本最初の音楽の教科書である『小学唱歌集(明治14年)』を編集した人であ る。神出鬼没。まあ、いろいろな所に登場する人である。

04/4/14 (Wed)

4/11の『音楽指南』を別の側面から見る。
この音楽指南のこの場面では教師と生徒との一問一答のやりとりで授業が進められることになっている。それどころが、この本のすべてが、この一問一答式に なっているのである。また当時の教授法の書物にはこのような一問一答式の授業場面が多々見られるのである。
山住正己は『日本教育小史』(岩波新書・1987)に次のようなことを書いている。
・1880年年代にはペスタロッチに由来する開発主義がもてはやされた。
・それにより従来の暗記、暗誦による注入主義の教授法が批判されたこと。
・しかし、開発主義の意義を多くの教師が理解することは無理であり、教室では問答の形式的繰り返しに終わった。
考えてみると、今の教室でもこのような一問一答式の授業は少なくない。一番大きな問題は、ここでの教師の問いが形式的には問いになっていても、生徒とに対 する機能としては、「既知の知識を話せ」という命令にしかなっていないことである。これを「発問」と呼ぶべきでない。
発問とは生徒の頭の中に問いを生み出す教師の働きかけなのである。いつもこういうふうに意識して授業に臨む。しかしそれでもなかなかうまくはいかない。


ひねくれ教育事典 【え】の部
えいごきょういく(英語教育) 学習者によってその効果が全くことなる教育。吉田は、中学校・高校の時からそれなりに英語はできた。大学の時も英語の勉強 はきちんとしていたから、大学院の入試(辞書持ち込み不可)でもそれなりにできたような気がする。大学院の授業では英語ばかり読まされていた。今でも英語 を読むことに関しては全く苦にならない。自慢じゃないが、翻訳書一人で一冊出したこともあるのだ。ところが、聞く、話すとなるとさっぱりなのである。それ なりに勉強もした。ジオスにも相当お金を払った。テープやCDの教材もたくさん買ったのだ。東京時代は、ウオークマンつけて通勤していたのだ。それでも さっぱりだめなのだ。音楽につながっている仕事をしているくらいだから、耳がそれほど悪いということもないだろう。何かが間違っていたのだろう。それがわ かっても今からではおそいだろうな。

04/4/13 (Tue)

(4/21の続き)
「ドレミ」を「ヒーフーミー」と訳したのがなぜ間違いだったのか。
よく「音には名前が二つある」と言われる。音名と階名である。かつて私もそう書いたことがある。もちろん二つあることは確かだからこの限りでは間違いでは ない。しかし、「三つある」といっても良いのだ。もう一度整理しておく。
音名−音の絶対的な高さを表す名称
階名−音の高さの関係、音程関係を表す名称
この階名を理解する上で重要なことは、ドーレは全音、レ−ミは全音、ミ−ファは半音というように音程関係を表すだけで、ドに特別な意味が与えられているわ けではないということである。
では三つ目の名称とは何か。それは、いわば音の働きを表す名称である。例えば長音階や短音階で言うところの、主音、属音、下属音・・・などである。主音の ことを他の音階では、終止音とよんだり中心音と呼んだりする。また主音(終止音、中心音)を1として、低いほうから巡に i ii iii iv のような数字で呼ぶこともある。これを「音度」と呼ぶことがある。この第3番目の名称を音度名とよぶことにする。
音度名−音の働きを表す名称
本題にもどる。なぜ、「ドレミ」が「ヒーフーミー」ではいけないのか。「ヒーフーミー」と訳すとどうしても、「ヒー」(1)に強い意味が生じる。例えば短 音階を本来の意味の階名であらわすとすれば「ラシドレミファソラ」だから、「ヒーフーミー」を使えば「ムーナーヒーフーミーヨーイームー」になる。これは 不自然である。
村尾忠廣氏は次のように言う。
「和洋折衷を、レ旋法とド旋法の間の頻繁な転旋法と考えるとすれば、その方法は1)主音の位置を共有する同主調型、2)主音の位置、旋法を変え類(吉田注 =この場合は使用する絶対的な音高、「均」とよぶべきではないか)が考えられるだろう。日本の子どもがお手合わせ唄なので折衷したのは後者の方である。典 型的な例は、わらべ唄型と和洋折衷と同じ方法で作曲された中田喜直の「かわいいかくれんぼ」である。冒頭の「ひよこがね」の「ね」と、その後の「かくれん ぼ」の「ぼ」は、属和音の第5音の「レ」として半終止のようになっているけれども、わらべ唄の変格レ旋法の主音のようにもききとれる。両足をレとドの両方 に主音にかけてバランスをとっているようでもある。ところが、そのあと西洋音楽としてのカデンツがきて明確に「ド」という片方(左側)の主音に軸足を移 す。その軸足をさらに今度は反対(右)側に移し変えて「だんだん誰がめっかった」というように「レ」の主音に再度もどすのである」
きわめて重要な指摘である。しかし、これを「ドレミ」ではなく「ヒーフーミー」で説明するとどうなるか。つまり「主音がヒーからフーに移る」というような 説明をしなければならなくなる。もちろん当時「ヒー」に主音という特別な役割を持たせたわけではなかったが、「ヒー」と呼ぶことによって当然のことながら 特別な役割が生じてしまう。事実、その後「短調の主音はド」というような誤解も生まれることになる。
「ヒーフーミー」は階名ではなく、音度名としてとっておくべきだったのである。「ドレミファ」(ファが難しかったのか?)というシラブルを使うことを ちょっと躊躇したのだろうか。それがあとあとに禍根を残すことになる。


ひねくれ教育事典 【う】の部
うそ(嘘) 私たちが子どものころは「嘘つきは泥棒のはじまり」と何度も言われた。あの福沢諭吉先生の言葉に「世の中でもっとも悲しいことは嘘をつくこと である」という言葉もあるらしい(もっとも、福沢諭吉先生は、「ほらをふく沢、うそをゆう吉」とも言われたらしいが)。「嘘つき」を相手にする難しさは、 嘘つきは自分が嘘つきであることを認めないことだ。なぜかというと嘘つきが「私は嘘つきだ」と言うとその瞬間に嘘つきでなくなってしまうからである。嘘つ きはこういう論理的矛盾(パラドックス)を非常に嫌うかどうかは知らないが、一生嘘をつきつづけるしかなくなる。

04/4/12 (Mon)

本日はネット関係の活動はお休みです。
メル・マガもお休みです。新聞も休刊日です(関係ないですね)。

04/4/11 (Sun)

『音楽指南』(エル、ダブリュー、メーソン著、内田弥一訳、1884<明治17>年)
日本で唱歌教育がはじまり、最初の唱歌集が発行されたのが明治14年である。その頃出された、いわば「音楽教授法」がこの本である。なかなか面白い。
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師問 サレバ此音階中他ノ諸音ニモ亦其音程ノ差異アリテ在ル二音間に於テハ其差異他ノ二音間より大ナルモノアリ偖テ此音階中ニ其音程ノ種類幾個アリヤ
生答 大小二種ノ音程アリ
師問 1(ヒー)2(フー)ノ二高度の差異ハ如何ン
生答 大音程ナリ
師問 3(ミー)4(ヨー)は如何ン
生答 小音程ナリ
師問 此音階中ニ小音程幾個アリヤ
生答 二アリ
師答 汝等其二小音程トハ何レヲ指スゾ
生答 3(ミー)4(ヨー)及7(ナー)1(ヒー)ノ音程ナリ
師問 此音階中ニ大音程幾個アリヤ
生答 五アリ
師答 音樂家ハ音階ニ於ケル大音程ヲ全音ト云ヒ小音程ヲ半音ト云フナリ
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これを現代風に直してみる。
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教師 (音階の図を見せて)この音階の中には音程の違うところがありますね。ある二つの音の差が、他の二つの音の差より大きなものがあります。この音階の 中に音程の種類はいくつありますか。
生徒 大小の2種類です。
教師 1(ヒー)2(フー)の高さの差はどちらですか。
生徒 大音程です。
教師 では、3(ミー)4(ヨー)はどうですか。
生徒 小音程です。
教師 ではこの音階の中に小音程はいくつありますか。
生徒 2つです。
教師 では、その小音程とはどれですか。
生徒 3(ミー)4(ヨー)と7(ナー)1(ヒー)の音程です。
教師 この音階の中には大音程はいくつありますか。
生徒 5つです。
教師 音楽家の世界では、大音程のことを全音といい、小音程のことを半音と言います。
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唱歌教育をこういうふうに進めようとしていたのだ。もちろんこんなふうにすらすらと進むはずはないが。
この中の1、2、3、の数字は階名のドレミの日本語訳で、数字をヒー、フー、ミー、ヨー、イー、ムー、ナーと読んだ。
実は、この階名にドレミに123の数字をあてたことが、階名の指導(つまり移動ドの指導)の最初の間違いなのである。(続きは次回)


ひねくれ教育事典 【い】の部
いじめ いじめを学校からなくすにはどうすればよいか? 「いじめ」という言葉を学校からなくせばよいのである。そんないいかげんなと言われそうだが、本 当にそう思うことがある。例えば、何か事件がおこると「学校でいじめがなかったか」ということが問題になる。「いじめがあったかなかったか」と言われても 学校は答えようがないだろう。「いじめ」とはある行為を受けた人間の観念に属することがらだからである。
例えば、恐喝、暴力、無視(しかと)、仲間はずれ、からかい、このような行為が「いじめ」になるのだろう。しかし、恐喝や暴力と無視や仲間はずれやからか いとはまったくレベルが違う。レベルが違うものを「いじめ」という言葉で一括して言うことが問題である。恐喝や暴力は明らかに犯罪である。これを「いじ め」と呼ぶべきでない。「いじめ」と呼ぶことによってかえってその罪深さを軽視することになる。「犯罪」と呼ぶべきなのである。無視、仲間はずれ、からか いは受け止め方は人によって異なる。もちろん意図的・集団的な行為もあるが他愛のないちょっとした誤解から生まれる場合もある。これも一括して「いじめ」 と呼ぶべきでなく、その行為を具体的に言うべきである。そしてそれぞれに合った解決の仕方をすればよい。「いじめ」という言い方は問題をかえって複雑にす る。もう一つは子どもたちに「孤高」という言葉をぜひ教えてほしい。恐喝、暴力には通用しないが、無視、仲間はずれ、からかいに抗する力にはなる。


昨日は久しぶりにLSDをやった。と言っても薬物のことではない。Long、Slow、Distantで長時間かけてゆっくり長い距離を走る練習である。 約40キロを5時間かけて走った。弘前市をぐるっと1周するという感じである。そのせいか今朝は足が少しはっている。
6月27日にサロマ100キロを走る。その練習として5月3日に武庫川で70キロを走る。昨日のはその練習である。長い距離を走るには、その前に半分くら いは走っておく必要があるのだ。

04/4/10 (Sat)

ゲームとしてのディベートのことを書く。
ディベートには論題がある。今年のディベート甲子園の中学校の論題は次の通りである。
「日本は救急車の利用を有料化すべきである。是か非か」http://nade.jp/
この論題で是とする側が肯定側、非とする側が否定側ということになる。双方が同じ時間を使って、立論(自分の側の主張をする)、反駁(相手の立論に反論す る。相手の反駁に対しても反論する)をする。最後に審判が、議論の中で有料化することのメリットとデメリットのどちらが上まわっていたかを判定する。メ リットが上まわっていれば肯定側の勝ち、そうでないならば否定側の勝ちとなる。
「そうでないならば」というのはデメリットが上まわる場合だけではない。メリットとデメリットが同じ場合も否定側の勝ちである。つまり現状を変える積極的 な理由がなければ、変える必要はないということになるのである。これは、ゲームとしてのディベートでなくても同じである。
どんな提案も積極的な理由がなければ却下されるべきなのだ。ところが「よそもやっている」くらいの理由でまったく思いつきのような案が提案され、それが 通ってしまうことがよくあるのだ。
ある団体の規約の改訂案が「よそもやっている。問題はおきていない」というだけの理由だけで通ったことがある。弘前大学では、ゼミの指導教官制度とは別 に、「クラス担任制」という制度が「よそでもやられている」という理由だけで上から押しつけられた。この場合、デメリットすら議論されなかった。現状を変 える場合は、それによって予想されるデメリットを大きく上まわるメリットがあることを、提案する側が証明する義務があるのだ。このことが分かっていない人 間が人の上に立つとろくなことがない。


ひねくれ教育事典(2周目) 【あ】の部
愛のムチ 「愛」という言葉がくっついたからと言ってムチ(身体的・精神的な苦痛を与えること)が許されるわけではない。動機が良いから(子ども達のた め)と言ってその結果起きてしまったことに対する責任がなくなるわけではない。教師はこのことをよく自覚すべきである。ムチは教育の世界では破棄されるべ きである。ただし、男女が合意の上で使用する場合には「愛のムチ」が有効になることもあるらしい(ロウを併用することもあるらしいが、吉田はどちらも使っ たことがないのでその効果は保障できない)。


イラクの人質事件。考えていることはあるが、安全なところから何を言っても無責任だ。無事を祈るだけである。

ニーチェが「神は死んだ。中東問題の複雑さに悩んで死んだのだ」と言った。こういうジョークがあるそうだ。たしかにそう思うことがある。
芝生瑞和(しばうみずかず)『パレスチナ』(文春新書・700円)

キリスト教では、明日は復活祭(イースター)である。イエスは金曜日に十字架にかかり、3日目の日曜日に蘇ったとされている。今日はイエスのいない日であ る。

04/4/9 (Fri)

(ローマ字の話の続き)
私は、学校のローマ字学習で訓令式が採用されているのは学習指導要領にそう書かれているからだとばかり思っていた。しかし違うのである。小学校学習指導要 領の国語の節には第3学年及び第4学年の内容として次のような文があるだけである。
「第4学年においては、日常使われている簡単な単語について、ローマ字で表記されたものを読み、ローマ字で書くこと」
これだけである。では、どうして訓令式なのか。実は「訓令」が今も生きているのである。まず、訓令とは何かということについてはっきりさせておく。国家行 政組織法には次のような一文がある。
-----------
第14条 各省大臣、各委員会及び各庁の長官は、その機関の所掌事務について、公示を必要とする場合においては、告示を発することができる。
2  各省大臣、各委員会及び各庁の長官は、その機関の所掌事務について、命令又は示達するため、所管の諸機関及び職員に対し、訓令又は通達を発することがで きる。
-----------
告示は国民全体に知らせるもの、訓令は職員への命令である。
ではローマ字の場合はどうか。下記のHPに詳しく出ていた。
○訓令式ローマ字の日本語
http://xembho.port5.com/index2.html
○「ローマ字の基礎」
http://www.halcat.com/roomazi/rmzkiso.html
この二つのページを参考に簡単にまとめてみる。

まず、最初に出されたローマ字に関する訓令は、昭和12年の内閣訓令第3号であった。
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内閣訓令第三號
各官廰
國語ノローマ字綴方ハ從來區々ニシテ其ノ統一ヲ缺キ使用上不便尠カラズ、之ヲ統一スルコトハヘ育上、學術上將又國際關係其ノ他ヨリ見テ、極メテ必要ナルコ トト信ズ。仍テ自今左ノ通ローマ字綴方ヲ統一セントス。各官廰ニ於テハ漸次之ガ實行ヲ期スベス。
内閣總理大臣 公爵 近衞 文麿
一、國語ノローマ字綴方ハ左表ニ依ル
ローマ字綴方表(略)
----------
昭和12年と言えば日中戦争のはじまる年である。このように「訓令」によって定められたから「訓令式」と言うわけである。
戦後になるとローマ字は告示によって示されることになる。それが昭和29年の内閣告示第1号である。次のような文である。
-----------
内閣告示第一号
国語を書き表わす場合に用いるローマ字のつづり方を次のように定める。
昭和二十九年十二月九日
内閣総理大臣  吉田 茂
--
ローマ字のつづり方
まえがき
一般に国語を書き表す場合は、第1表に掲げたつづり方によるものとする。
国際的関係その他従来の慣例をにわかに改めがたい事情にある場合に限り、第2表に掲げたつづり方によってもさしつかえない。
前二項のいずれの場合においても、おおむね添え書きを適用する。
(表−略)
------------
ここで言う、第1表というのが、いわゆる訓令式の表。
第2表に掲げられたつづり方は次の通りである。
------------
第2表--
sha shi shu sho tsu
cha chi chu cho
fu ja ji ju jo
di du dya dyu dyo
kwa gwa wo
----------
つまり場合によってはヘボン式も認めることになる。
さらに同時に、内閣訓令1号を出している。
----------
内閣訓令第一号
各官庁
ローマ字のつづり方の実施について
国語を書き表わす場合に用いるローマ字のつづり方については、昭和十二年九月二十一日内閣訓令第三号をもってその統一を図り、漸次これが実行を期したので あるが、その後、再びいくつかの方式が並び行われるようになり、官庁等の事務処理、一般社会生活、また教育・学術のうえにおいて、多くの不便があった。こ れを統一し、単一化することは、事務能率を高め、教育の効果をあげ、学術の進歩を図るうえに資するところが少なくないと信ずる。よって政府は、今回国語審 議会の建議の趣旨を採択して、よりどころとすべきローマ字のつづり方を、本日、内閣告示第一号をもって告示した。今後、各官庁において、ローマ字で国語を 書き表す場合には、このつづり方によるとともに、広く各方面に、この使用を勧めて、その制定の趣旨が徹底するように努めることを希望する。
なお、昭和十二年九月二十一日内閣訓令第三号は、廃止する。
昭和二十九年十二月九日
内閣総理大臣 吉田 茂
---------
そしてこの時の告示と訓令はそのまま現在でも有効なのである。
外務省が省令でヘボン式と定めているのは、「国際的関係その他従来の慣例をにわかに改めがたい事情」にあたるのであろう。
つまり、この内閣告示・訓令にもとづいて学校ではローマ字指導がなされているわけである。
ただし、これでも矛盾はある。小学校学習指導要領解説国語編には次のような文がある。
----------
最近では、ローマ字表示が添えられた案内板などが多くなり、ローマ字は児童の生活に身近なものになっている。「日常使われている簡単な単語」とは、地名や 人名などの固有名詞も含めた、児童が日常目にする程度の簡単な単語のことであり・・・」
-----------
これはあきらかに嘘である。日常目にする地名や人名はほとんどヘボン式だからである。これを理由にするならヘボン式を教えるべきだし、さもなければ「告示 で定められた表記」と明記すべきである。


ひねくれ教育事典 【ん】の部
ん 「しりとり」「りんご」「ゴリラ」「ライオン。あっ!」。しりとり遊びで最後にこれが来ると負けになる音。しかしあるところにはあるのだ。ンジャメナ [N'Djamena]。チャドの首都である。(ああ、苦し)


というわけで、ひねくれ教育事典が【あ】〜【ん】でとりあえず一周した。明日から2周目に入る。乞ご期待!

04/4/8 (Thu)

プロ野球がはじまった。久しぶりにテレビの野球中継を見た。
しかし・・・・
なんであんなものが面白いのか。大の大人が、大きな手袋と棒きれを持って玉遊びして。見る方も見る方だ。1試合に5万人も集まって。年に1回の行事ならわ かるが、年に130回もあるのだ。そしてまたいいおやじがいい歳こいて、同じ法被着てみんなでメガホン振り回して、声を揃えて選手の名前を叫んで。高校野 球だって同じだ。たかが高校生の玉遊びを天下のNHKが1日中まったく隙間無く放送して。もっとやるべきことあるだろう。それにたった一人のおっさんが脳 梗塞で倒れたくらいで日本中大騒ぎして。巨人が勝とうが、阪神が勝とうが別にどうだっていいじゃない。自分の人生がどう変わる訳じゃあるまいし。ほんと日 本中アホばっかりである。いいかげんにせい!!
・・・・・・・・・と冷めているのは我がカープがさっぱりだからだ。カープが開幕3連勝でもしていたら、もう仕事にも手がつかないだろう。そう言う意味で はカープが弱いのは私にとってとても良いことなのである。どうせなら、100敗くらいしんしゃい。


ひねくれ教育事典 【を】の部
を 小学校1年生の文字指導で、「お」と「を」の区別を教えるのはなかなか難しい。それで次のように教えると良いそうだ。
「この「を」は「おべんきょうをします」「テレビをみます」「ほんをよみます」のように、ことばをくつつけるときにつかいます。だから「くっつきのを」と よぶことにしましょう。ほらこの「を」のよくみてください。これ(上の部分)とこれ(下の部分)がくっついているでしょ」
今日もひねくれてない(^^;


昨日は新入生のガイダンス。ここに書いた通りのことをしゃべった。
「皆さんたちは、今たいへんキリッとしていい顔をしています。それが、2〜3ヶ月もするとみんなバカ面(づら)になって来ます。勉強しなくなるからです。 上級生のまねをする必要はありません」




04/4/7 (Wed)

昨日、「ひねくれ教育事典」でローマ字のことを書いた。ゲストブックに田中健次氏から反論があった。ローマ字は少し面白い話題になるかもしれ ない。
(ゲストブックのほうに意見を書いていただきたい)
で、「パスポートはヘボン式」はだれが決めたのか。ちゃんと法令にあるのだ。パスポートに関する法律は「旅券法」という法律だ。その第六条に次のような条 文がある。
---------------
(旅券の記載事項)
第六条  旅券には、次に掲げる事項を記載するものとする。
一  旅券の種類、番号、発行年月日及び有効期間満了の日
二  旅券の名義人の氏名及び生年月日
三  渡航先
四  前三号に掲げるもののほか、外務省令で定める事項
2  前項第三号の渡航先を地域名をもつて包括記載する場合の地域の範囲は、外務大臣が官報で告示するところによる。
--------------
当たり前のことのようだが、パスポートには「氏名」が書いていなければならないのである。これも法律で決まっているのである。
そしてその運用のための規則である旅券法施行規則(外務省令)第5条には次のような規定がある。
--------------
法(旅券法のこと)第六条第一項第二号の氏名は、戸籍に記載されている氏名について国字の音訓及び慣用により表音されるところによる。ただし、公の機関が 発行した書類により表音が確認できる場合であって、かつ、外務大臣又は領事官が特に必要と認める場合はこの限りではない。
2  前項の氏名はヘボン式ローマ字によって旅券面に表記する。ただし、外務大臣又は領事官が、その氏名が出生証明書等によりヘボン式によらないローマ字表記 が適当であり、かつ、渡航の便宜のため特に必要があると認める者については、この限りではない。
--------------
まずは、戸籍通りの発音じゃないといけないということである。「たかし」と読めるように書かなければならず、音読みして「こう」ではいけないわけである。 そしてなおかつヘボン式じゃないといけないのである。これで "Takasi" でなく "Takashi" 、"Yosida" でなく "Yoshida" でなければならないのである。田中氏が、それでも訓令式を使う人のことを述べているが、おそらく「渡航の便宜のため特に必要があると 認める者」にあたるのだろう。どういう手続きをしているのか、ぜひ聞いて見たいものだ。
今日は何が言いたかったかというと、「法治主義」についてである。日常的には意識しないが、私たちの生活は法によって規定されているのだ。
法によらなければ、総理大臣でもできないことがあるのだ。これは教育の世界でも同じである(はずである)。


ひねくれ教育事典 【わ】の部
ワンぎり(ワン切り) 若者の間ではやっている携帯電話の利用法で若者文化の一つ。一日一回(あるいは数回)、相手の携帯電話に電話をかけ1回コールした ら切るのである。まあ「元気?」「生きてる?」くらいの意味である。そうすると、今度はかけられた相手は同じことをするのである。「元気だよ」「生きてる よ」くらいの意味である。通話料のまったくいらないコミュニケーションである。どちらからかけるかというと、これがなかなか微妙である。いつも相手にばか り先にかけさせるのも悪いし、自分がいつも先にかけるのもしゃくである。結構、気を使うのである。また、これが恋人同士とかになると大変なのである。この ワン切りが「愛してるよ」という意味だったりする。その返事は「私もよ」ということになる。それは「まだ僕のこと愛してる?」と言う意味になり、返事がな いともう愛してないんだね、とか言うことになったりする。ちょっとこわいのである。若者文化なのにおやじの吉田がワン切りにはまっているという噂もある。 ワン切りの相手が5〜6人いるそうだ。完全に「携帯を持ったサル」(2月17日のメッセージ・またはメルマガ参照)である。


昨日、入学式が行われた。キャンパスは新入生であふれかえっている。初々しい。そしてまたこれまで勉学に励んで来たのだろう。キリっとしまった顔をしてい る。これが、大学生活2〜3ヶ月もするとバカ顔になってくる。やはり大学教育が甘いからだろう。すこし重要な役目(偉くはないが)を引き受けることにし た。まずは自分の足元から固めなければならない。

04/4/6 (Tue)

本日のメルマガ、昨日の記事がくっついてしまいました。なぜだろう?おわびもうしあげます。

04/4/6 (Tue)

日本音楽教育学会の会長選挙が公示された。選挙管理委員長に次のようなメールを出した。候補者が一人の場合に不支持の意思を表す投票ができな いようになっていることを指摘したものである。こんなことを言わなくても、たぶん立派な人が推薦されるだろうから心配はないのだが、将来に禍根を残しては いけない。例えば将来次のような事態が起きるかもしれない。
1)特定のボスが学会を支配して、自由に立候補したり推薦したりできない雰囲気ができる(今の学会にはそんな雰囲気はない。念のため)。
2)例えば剽窃常習者のような質の悪い研究者が立候補したり推薦されたりする(今の学会にはそんな人はいないそうだが)。
3)吉田が衝動的に立候補する(吉田はときどき衝動的にやけくそな行動をとることがある。暴言を吐くこともある。注意すべきだ)。
上のようなことがあり得ないとは言えないのでやはり歯止めをしておくべきなのである。
私は、「候補者一人の場合は信任投票とし、複数の場合は有効投票数の過半数の得票を必要とする」くらいの規定は必要だと思っている。まずは、成立要件と当 選要件を問う。
----------------------
選挙管理委員長殿
                       一会員 吉田孝


最新号のニュースレターで、学会会長選挙の公示が行われました。
そのことに関連して、3年前に気になったことがありましたので、
意見を書きます。

1 会長選挙の方法について
3年前の選挙の際に候補者に推薦された方は、現村尾会長お一人だ
ったと記憶しております。その際、その選挙のさいの投票用紙には
候補者の名前を書くことになっていました。この方法には疑問を持
ちました。もし、仮にその候補者を支持しない場合、どのように意
思表示をすればよいかわからなかったからです。極端に言えば、1
人でも投票しそこに候補者の名前があれば当選ということになって
しまう制度でした。不支持という意思を表す行動ができないシステ
ムになっていたということになります。
普通は候補者一人の場合は、無投票で自動的に当選になるか、信任
投票になるかしかありえないと思います。
本来なら前回の時に言うべきでした。前回は立派な方が推薦されて
いましたし、具体的な候補者が挙がってからでは言いにくいという
面もありました。ただ、立派な方が推薦されているから選挙のやり
方に不備があってよいわけではありませんから、意見を言うべきだ
ったと反省しています。
今回も立派な方が推薦されると思いますが、だからこそ選挙の権威
を高めるためにも、候補者が出る以前に次の点について明示すべき
だと思います。
・選挙が成立する要件
・当選のための要件 
  複数の候補者の場合
  候補者が1名の場合
なお、ひょっとしたら私のニュースレター等の見落としで、これら
の点は解決しているのかも知れません。その場合はこのメールは無
視してください。

2 得票数の公表について
確認事項です。
会長選挙、理事選挙全体にわたって投票数や得票数は繰り上げ当選
者も含めてすべて公開するのですね。
そもそも会長が会員による直接選挙になったのは「開かれた学会」
にするためでした。その意味では、本来すべての情報を公開するの
が当然です。
一応念のため、どこまで公開するのかを教えてください。

ご多忙のところ恐縮ですが、よろしくお願いいたします。
---------------


ひねくれ教育事典 【ろ】の部
ローマじきょういく (ローマ字教育) ローマ字には訓令式とヘボン式がある。なぜか学校では訓令式が教えられている。例えば一郎は"Itiro"、吉田 は"Yosida"、藤田は"Huzita" となる。正式な文書では訓令式は許されていない。例えばパスポートはヘボン式なのである。それぞれ、"Ichiro"、"Yoshida"、 "Fujita"である。それどころか英語の綴りに近い一郎 "Ichiroh" 本間 "Homma" まで認められているのである。学校以外では意味のないものを、なぜいつまでも守り続けるのだろうか。ところで、ヘボン式の考案者は James Hepburn と言う。Hepburnはあのミュージカル女優、オードリー・ヘップバーンと同じである。ヘップバーンはローマ字読みであり、英語にはヘボンの方が近い。 ヘボンはローマ字読みさせなかったのである。ヘボンさん、あんたは偉い!




5月3日に70キロのレースを走る予定。最近1日20キロ以上のトレを4日間続けたら、さすがに疲れがたまり足がパンパンである。
今日は入学式だが、何の役割もないので研究室で一日仕事をする。 
ひねくれ教育事典が【ろ】まできた。あと、【わ】【を】【ん】である。ラクに作っているように見えるかも知れないが、けっこう大変なのである。たいていは 前の晩に寝ながら考える。


04/4/5 (Mon)

『授業づくりネットワーク・4月号』(学事出版・629円)で、八木正一(埼玉大学)氏の「超やさしい授業づくり入門セミナー」がはじまっ た。第1回目「忘れ残りの授業をつくる」からおもしろい。
「私は「教材づくりと授業の展開」という授業を担当している。この授業のはじめにはいつも、「自分が受けてきた小・中・高等学校の授業の中で、いい意味で 記憶に残っている授業をひとつあげ、そのアウトラインを書きなさい」という課題を出すことにしている」
「忘れ残り」を最初に言ったのは確か仮説実験授業の板倉聖宜氏ではないかと思うが、どの文献に書いてあったか思い出せない(キーワードから、いつでも文献 名が出てくるシステムができていない。研究者としてはなさけないことなのだが)。授業で学習したことはほとんどは忘れてしまうということを前提にしてい る。ほとんどは忘れてしまうものだが、その中で忘れ残る部分を一つくらいは作っておこうというようなものだった。板倉氏の主張は一つの授業の中に一つくら いは忘れ残る部分を用意しておくというものだったように記憶している。八木氏の言う「忘れ残りの授業」は少し違う。部分ではなく一つの授業としての「忘れ 残り」の授業を書かせているのである。
八木氏は「毎年、同じような授業があげられる」として、次のようなものを紹介している。
・婚姻届けを書いた授業−実際に市役所からもらってきた婚姻届けに、相手の名前など必要事項を記入する。(中略)結構についてさまざまな角度から学習し た。
・株の取引きをする授業−社会科の授業。自分たちで株券をつくり、実際の株の取引をシュミレーションする授業
・着衣泳の授業−デニムのような厚手の服を着たまま泳ぎ、着衣泳のコツを体験した授業
・みかんづくりの授業−学校の裏山でミカンをつくり、給食用のジャムや菓子をつくった授業。
・日本チャンピオンに教えてもらった縄跳びの授業。
この中には、私には賛成できない授業がある(にわとりを食べる授業)。まただれもが実践するには不可能な授業もある(縄跳び)。そのことは別として、八木 氏は学生に忘れ残っている授業は、授業の要素のどれかが関連していると言う。
 「教授行為」
 「教育内容」
 「教材・教具」
 「学習活動」
たしかにその通りである。逆に言えば、これがまずいと授業はつまらないものなるということだ。
ただ、「学習活動」というのは教授行為や教育内容や教材・教具によって生まれるものだから、並列にするのはおかしいような気もする。
いずれにしても八木氏の連載は楽しみだ。


ひねくれ教育事典 【れ】の部
れい(礼) 大学の授業でもきちんと「礼」をさせるべきかどうか迷っている。小中学校ではほとんどの教室で「姿勢・礼!」という合図で礼が行われる。しか しそれは形式的になっており授業をはじめるけじめのようなものだ。大学では礼は行われないのが普通だ。ただし、私は「姿勢・礼」は言わないものの、授業の 最初には自分から「お願いします」と言って頭を下げて授業をはじめる。たいていの学生はいっしょに「お願いします」と言って頭を下げる。そうしてはじめた ほうが気持ちが良い。それだけのことである。


4月2日に一日中雪が降ったのにはおどろいた。さすがに北国を実感した。
雪は溶けてきたが、まだまだストーブが必要である。

04/4/4 (Sun)

今日はネット活動は全面的におやすみ。メルマガもおやすみ。
身体と脳味噌のトレーニングします。

04/4/3 (Sat)

(昨日の続き)
この授業はよい授業か?
たったこれだけの情報で、よい授業かどうかについて判断をくだすことができるわけがないのである。
例えば、私がこの記録に書かれている教師の行為について批判をしたとする。それを聞いた人が次のように言うかも知れない。
「そんなことはない。私は教室でこの授業を見せてもらったのだ。子どもたちは生き生きと歌っていたのだ」
ならば、もう少し子どもの状況を詳しく書いてあれば判断ができるのか? やはり判断などできない。音楽の授業だから、よい授業かどうかを判断するためには 音楽表現に関わる情報も必要である。それはその場で聴いてみなければわからないからである。では、このような授業記録を読むことは無意味なのか? そうで はない。
授業記録は、その記録者(この場合は授業者本人)を通して見た授業の様子が書いてある。そこには記録者の考え方や思いが反映する。いわば、記録者の作品な のである。このような記録を読むときに問題にすべきは、その授業がどうだったかではない。この記録を書いている記録者(この場合は授業者)の考え方や思 い、すなわち記録者の頭の中を問題にすべきなのである。これを「授業観」と呼ぼう。この場合、本に紹介するような実践だから、記録者(授業者)はよい授業 だと思っているはずである。だからよい授業の一部として、このような場面を紹介する記録者の頭の中(授業観)を問題にすべきなのである。
前にも紹介したが、私は最近「発問論」について書いた。論と言っても大部分が授業記録である。授業の様子はできるだけ読者に分かっていただけるように書い たつもりだ。しかし、完全にわかってもらえることはないだろう。読者はこのような授業記録を書く私の頭の中を読むことになる。そうなのだ。私は私の頭の中 を読んでもらいたくて授業記録を書いているのである。
・・・そろそろ、音楽科授業研究論をまとめないといけないと思っているが、材料がまだ少なすぎる・・・・


ひねくれない教育事典 【る】の部
ルソー ルソーは思想家、教育家として名が知られているが、音楽にも詳しかったのである。例えば、数字による記譜法はルソーの考案によるものである。ドレ ミファソラシの代わりに数字をあてるのである。代表的な著書である『告白』に次のように書いてある。
「私の方法の最大の利点は、移調と音部記号とを廃止することだった。そうすれば、曲のはじめの頭文字を、一つだけ変えさえすれば、同じ楽譜を何調でも望む ままに、記譜し、移調することができた」
そりゃあ、ルソーの言うとおりだ。頭に調名を書き、階名を123の数字であらわせば、何調にでも記譜し移調できる。頭に「ト長調」と書いてあったものを 「ヘ長調」と書けば、移調は完了である(ルソーは移動ド論者だった)。
ただ、『告白』にはそれがあのラモーによって批判されたことも正直に書かれている。その部分がとってもおもしろい。
「私の方法に対する唯一のしっかりした反論はラモーによってなされた。彼はその弱点を見抜いた。彼は私に言った。『あなたの記号は、それが音の長短を簡単 に、明快に決め、音程をはっきりと示し、単音程をいつも複音程のなかで示しているなど、普通の音符ではやれないすべての点では、大変すぐれています。しか し、演奏の速さについていけないほどの、精神の働きを要求している点では、悪いのです。われわれの音符の位置は』と彼は続けた、『そんなに頭を働かせなく ても、眼に対して描かれます。二つの音符があって、一つは非常に高く、一つは非常に低く、それが中間にある一連の音符で結びついていれば、その段階を追っ て、私は一目で、一方から他方への進み具合を目で見ます。しかし、あなたの方法でこの連続を確かめるためには、どしてもあなたの数字を一つずつ拾っていか なければなりません。ちらっと見るのはなんの補いにもなりません。』この反論には返す言葉もなく思われ、私はすぐに同意した。この反論は簡単ではっきりし ているとはいえ、その道をよほど行わなければ考えつくことはできない。」
なんとなく、ルソーという人、それからラモーのこともわかって面白いはなしである。(白水社『ルソー全集・第1巻』から引用)

04/4/2 (Fri)

昨日の続きである。
このような発問をすると、学生はかなり真剣に考える(10分ほど時間をとって考えさせノートさせるのがコツである)。そしてそのあとできるだけ多くの学生 を指名して考えを発表させる。いろいろな意見が出てくる。
・「途中で曲の感じがかわりますね」で誘導するのはよくない。
・最後に強引に一つの意見にまとめたのはよくない。一度それぞれの考えで歌ってみて決めるべきだ。
・子どもに考えさせているようで、先生が誘導している。これならはじめから先生が考えていた通りに歌わせるべきだ。
なかなかいいセン言っている。
私も自分の意見として、次のようなプリントを配る(以前書いた論文の一部である)
------------
この記録は文体から見て授業者が書いたものであろう。典型的なT−C型授業記録である。このT−C型授業記録からはどんなことが読みとれるであろうか。
(1)教師は「この曲は,途中で曲の感じが変わるところがありますね。このプリントにその場所で分けてどんな歌い方がいいか,言葉で書き込んでみましょ う」と指示した。
(2)子どもが作業をしている間(机間巡視をして),2つに分けている子と3つに分けている子がいることに気がついた。
(3)2つに分けた子が2人,3つに分けた子が2人発言した。
(4)教師は3つに分けた子が多いと判断して,「初めをはずんだように元気よく,次をなめらかに,一番最後をはずんだように元気よく歌ってみましょう」と 指示した。
(5)その結果子どもは満足しているように,教師は感じた。
主観的な記述は少なくなっている。しかしここに書かれた記述だけ見れば,私にはずいぶんひどい授業に見える。書き出してみる。
(1)最初の指示がまずい。「どこで分けたらよいか」と「どのように歌うべきか」をいっしょに書かせようとしている。子どもは混乱するのではないか。
(2)教師は2つに分けている子と3つに分けている子がいることに気がついている。また発言も半々であった。それにもかかわらず,3つに分けた子が多いと 判断した。しかも歌い方も一つに限定した。ここで子どもに考えさせた意味がなくなっている。こんなことなら教師がはじめから次のように指示したほうがよ い。
 「この曲は3つの部分に分かれています。初めをはずんだように元気よく,次をなめらかに,一番最後をはずんだように元気よく歌ってみましょう」
--------------
加えて、次のようなことを話す。
・私自身は子どもにこのように意見を求めて集団的な表現活動をすることには反対であること。
・しかし、はじめに子どもに意見を求めるのであれば、それを徹底的につらぬくべきであること。
・途中で教師が態度を変えるのは「誠実性の原則」に違反していること。
しかし私が一番伝えたいのはこのことではない。
最後に次のような発問をする。
「この授業はよい授業ですか?」
(続きは明日)


ひねくれ教育事典 【り】の部
リベラル・アーツ 音楽は美術よりも価値があるのだ。それはアリストテレスが証明しているのである。アリストテレスの考えにもとづいて、文法、修辞学、弁 証法、算術、幾何、音楽、天文学を自由七科と呼んだのである。まあ、今で言えば大学の一般教育(こういう言い方は日本の大学ではしなくなった。弘前大学で は「21世紀教育」とかいう奇妙な名称がついている)みたいなものである。音楽は昔から必修だったのだ。ハッハッハ!!

私の定番の授業を一つ紹介する。 「授業研究入門」と題した1コマ授業である。 次のような授業記録を配る。
 ------------------
 教:「ちびっこカウボーイ」を歌いましょう。 児:(明るい声で,元気よく歌っている。) 教:この曲は,途中で曲の感じが変わるところがありますね。この プリントにその場所で分けてどんな歌い方がいいか,言葉で書き込 んでみましょう。
 児:(口ずさんで確かめながら,プリントに自分の考えを書いてい る子も見うけられる。一番を2つに分けている子と,3つに分けて いる子に考えが分かれる。)
教:2つに分けた人と3つに分けた人といるようですが,どうして そこで分けたのか教えてください。
児:ピアノの伴奏の感じがはじめにはずんだ感じだけれど,5段目 からは流れるような感じになっていたから。
児:私も同じところで分けていて,5段目からは,ふしのリズムの 感じが変わっているからです。
児:ぼくは3つに分けたけど,はじめの分け方はいっしょで,次を 最後の段でわけました。ぼくは “いさましいカウボーイと”とあ るので,なめらかな感じじゃなく,元気よく歌ったほうがいいから です。
児:ふしの感じも変わっているので,3つに分けるのがいいと思う。 教:3つに分けた人が多かったようですし,意見を聞いてなるほど と思った人もいたようですね。それでは,みんなのはなしてくれた ように,初めをはずんだように元気よく,次をなめらかに,一番最 後をはずんだように元気よく歌ってみましょう。
児:(だいたい意図したように歌えたので満足そうであった。) (高知大学附属小学校『学ぶ力を育てる学習指導』1992) -------------------
次のような発問をする。
 1)この中の教師の発言の中で、「悪い」発言を一つ挙げなさい。
 2)「悪い」理由を書きなさい。 3)あなたの代案を書きなさい。 これだけで90分の授業が持ち、結構盛り上がるのである。 続きは明日書く。暇な読者の皆さんは、ぜひ考えていただきたい。


ひねくれ教育事典 【ら】の部
 ラジオ かつては大学生の中心的なメディアだった。大学生と言え ば貧しいと相場は決まっていて、テレビを持っている者などほとん どいなかった。現在で言うJ−ポップはかつてはニュー・ミュージ ックと呼ばれていたのだが、このニュー・ミュージックはまずラジ オで少しずつ浸透し人気が出てくるものだった。中にはテレビには 出演しないことを売りにしている歌手もたくさんいた。その人たち も今は、みんなテレビに露出している。時代が変わったのだ。私は 最近、旧式の真空管の「五球スーパー」(この言葉を知っている人 は旧式の人だ)を買った。家でコンピュータに向かっている時や仕 事をする時はラジオをつけていることが多い。なかなかいいものだ と思っている。


今日は4月1日。若い頃は「今日はどんなウソをつこうか」と考え ていた。しかし、私の同僚のI氏は、4月1日でなくても1日に1 回はウソを言う。そのウソのくだらなさには絶対にかないそうにな いので、ウソをつくのはやめる。 複雑な事柄を説明するのに図を使うとすっきりしてわかりやすくな る。図というのはそんなものかと思っていたら、グチャグチャして まったく訳のわからない図があるところに出ていた。他にもびっく りしたことがあった。ちゃんと書くのはなかなか勇気がいる。思案 中である。