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メッセージ


04/3/31 (Wed)

「発問論」に関する論文を書いた。その「はじめに」の部分である。
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音楽の授業における教師の教授行為は、大きく二つに分類することができる。音楽的行為、及び言語行為である。
音楽的行為には、範唱、範奏、指揮、伴奏、合図などがある。これらの音楽的行為は学習者の音楽表現に大きな影響を及ぼす。
言語行為は、一般的には指示(「○○しなさい」、「○○しましょう」)、発問(「○○ですか」)、説明(「○○です」)の三種類に分類されることが多い。 しかし、このような分類は表面的な分類にすぎない。
例えば、授業の中で教師が「この曲は何分の何拍子ですか」と問うことがある。分かった時は挙手するというルールが教室にある場合、この問いには「わかった 人は手を挙げなさい」という指示が隠されている。
一方、「この曲をどのくらいの速さで歌ったらよいかを考えなさい」と指示する場合もある。この場合この指示には「この曲をどのくらいの速さで歌ったらよい と思いますか」という問いが隠されている。
このように考えると、教師の言語行為を、語尾の違いによって指示と発問に区別することに、意味はない。むしろ、学習者の音楽活動や学習活動に、そのような 言語行為がどのような働きを及ぼすかのほうが重要である。
(中略)
 私は、語尾が指示型になっているか質問型になっているかどうかにかかわらず、発問を次のように定義する。
「発問とは学習者の頭の中に問いを発生させるような教師の言語行為である」  
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これから投稿するので、ここまでにしておく。
この先が見たい方は、メールでお知らせください。ご意見を下さることを条件にお送りします。


ひねくれ教育事典 【よ】の部
よしだたかし(吉田孝) → http://takashiyoshida.com/profile.html


明日から国立大学は独立行政法人としてスタートする。私たちも国家公務員ではなく法人職員ということになる。
公務員ではないから「教官」ではなく「教員」である。だからと言って、生活を変えることはない。これまでどおり普通に生きていくだけである。

04/3/30 (Tue)

3月22日に紹介した本についてもう一度書く。
・森口朗『授業の復権』(新潮新書)
著者の森口朗氏は、保守か革新かという二分法を使えば、明らかに保守に属する人である。例えば卒業式の「君が代」問題については次のように言う。
「私は、周りの教員たちがどうであれ国歌斉唱の場面では起立し、できる限りしっかり歌うように心がけてきた。来賓や保護者が起立するなか教職員だけが起立 を拒否する、その姿はどう見ても異常だし、なにより国旗が掲揚され国歌が流れる場面で人はどう行動すべきなのか、その姿を子どもにみせるのは大人の努めだ と思っているからだ」
しかし、だからといって単純に日教組攻撃をするわけではない。例えば、「日本の教育をダメにしたのは日教組である」という常識には正面から異を唱え、この 本の中で紹介したいくつかの事例(3月22日参照)が日教組の教育研究集会やそれと関係の深い民間教育研究団体によって支えられ広められたことを積極的に 評価しているのである。つまり保守だろうが革新だろうが良いものは良い、悪いものは悪いという姿勢である。
また、卒業式の国旗・国歌問題についても次のように保守強行派を批判する。
「ところが、保守強行派に牛耳られた一部の教育委員会は、ここに来て校長から決定権を取り上げ、国旗は壁にはれ、国歌は生演奏で斉唱させろ、起立しない教 員は処分するといいはじめた。私の知る最悪の例は、肢体不自由児のための養護学校で、それまで同一のフロア形式で行っていた卒業式を壇上方式に変更させた ことだ。これにより多くの生徒が、自分の力で卒業証書を受け取る喜びを絶たれてしまった。−−−中略−−−教育委員会の役人が国歌斉唱時に国旗に尻を向け て「起立」「斉唱」の実施率をチェックする姿を想像してほしい。かくも愚劣な行為が、「愛国心」の重要性をとく人たちの圧力により本当に起こっているの だ」
こういう感覚がとても重要なのだ。


ひねくれ教育事典 【ゆ】の部
ゆうき(勇気) これを持っていることはすばらしいことだとされているが、実際に行動に移すと反発されることが多い。勇気を持って行動すると「政治的陰 謀」などと陰口をたたかれる。なんだかんだ言って人をけしかけるが、結局は自分では何もせず高見の見物をする人もいる。勇気は大切だと思っていても反発を おそれるあまりみんな黙ってしまう。要するにみんなずるがしこく大人になっていくのである。子どもたちもそんな大人を見ているから「勇気」などと言う言葉 をはなから信用していない。


東京で私の大切している同志の一人と会った。今、職場で首をかけたたたかいを開始したそうである。できるだけの支援はしたいが残念ながら高見の見物しかし てやれない。私自身が毎日を目一杯に生きるしかない。

04/3/29 (Mon)

と言うわけで、サーバーの不具合でHPにつながらずまた更新もできず、メールマガジンも発行でき ませんでした。
明日より通常の活動を開始しますのでよろしくお願いいたします。

04/3/25 (Thu)

本日25日、26日はインターネットの環境が悪くやっとのことでここに書き込みをしている。
メルマガも発行できそうにない。というわけで今日、明日、最悪の場合27日もお休みです。

04/3/24 (Wed)

昨日の「指揮者−団員システム」に関して、いつもゲストブックに来てくださっている曽我部清典氏から「異義あり」というメールをいただ いた。御本人の許可をいただいたので。ただ、「もともとは友人への私信のつもりで書いたので文が荒いのは御容赦を」とということなのでそのつもりで読んで いただきたい。
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「指揮者」とは、いろいろな人が居るので、交通整理を頼まれてやっている人のことです。中には有能な人が居て、交通整理をやりながら、知らず知らずの内 に、通行人を気分良くさせる人もいます。でもたいていは普通の人です。普通の人が特別扱いされると、自分は有能なんだと勘違いしてしまう人が多いようで す。交通整
理すら満足にできないで、人より高いギャラもらって当然のような顔をしている人もいます。そういう指揮者だと、通行人は普通に歩くのもままならず、通行人
同士であうんの呼吸を合わせて、何とか切り抜けているのです。
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うーん、深い。どうも教師−学習者の関係を、指揮者−団員に例えるのは無理があるかもしれない(だいたい比喩を使うとどこかで矛盾が生じるものである)。 しかし、おもしろいので指揮者は交通整理をする人という比喩にのってみることにする。
私は、交通整理とはかなり難しいプロの技術であると思っている。
通行人というのはたいてい個性が強くわがままである。このわがまな通行人集団に少しわがままをさせながら、なおかつ見た目には整然と通行しているように見 せるわけである。しかし、この場合の通行人はまだ交通ル−ルを知っているし、運転技術も持っているからよい。
では教師に交通整理の役割を求めたらどうなるか。つまり学習者の個性や意見を全部認めてなおかつきちんとまとめて行く。理想的な授業かも知れない。しか し、無理である。交通ル−ルも知らなければ、運転技術の未熟な通行人もたくさんいる。どんな有能な交通整理人がいたところで、すぐに大渋滞(ならよいがひ どい場合は大事故)を引き起こすことになる。まずは、交通整理よりもル−ルや運転技術をちゃんと教えることが先である。ルールや運転技術も知らない人間を 交差点に集めて交通整理しているような授業はよくある。
(なんとなくかみあっていないような気もするが、まあよしとしよう)

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 ひねくれ教育事典 【や】の部

やらせ マスコミがこれをやると問題になるが教育界ではよくみられることである。とくに学校の研究授業に多い。「子どもの思いを大切に!」と言った授業によく見ら れる。自分の考えを子どもが言っているように見えても、実はどのような解答をすれば教師が一番よろこぶのかを子どもはちゃんと知っているのである。と
くに塾通いなどをしている子どもには、授業の前から答えもすべてがわかっているのだが、教師に気を使って知らないふりをする心やさし子どももいる。やらせ の屈折した形である。

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ウイルス付きのメ−ルがくる。そしてこのメ−ルは人のアドレスを勝手に使うのでなおさら始末が悪い。私になりすましたメ−ルもあらわれているそうである。 ウイルス対策は万全のつもりだが、もし、そのようなものが来たら知らせていただきたい。

04/3/23 (Tue)

「指揮者−団員システム」
というのは私の造語である。
オーケストラや合唱団では、指揮者が作品の解釈をし、団員はその解釈通りに演奏する。またそのために練習もする。学校の音楽の授業では、合奏や合唱などの 集団的な音楽活動をすることが多い。したがって、授業では教師が指揮者で、学習者は団員と言う役割をすることになる。
ただ、違うところがある。オーケストラや合唱団の団員は、指揮者のもとで演奏することがよいことだと分かっているから自らすすんで自分の演奏を指揮者にゆ だねるのである。しかし、学校の授業は違う。学習者はいわば強制的に団員にさせられ、指揮者である教師によって演奏させられる。
そういった授業ばかりでよいか? という問題提起のために「指揮者−団員システム」という言葉を使ったのである。つまり、合唱や合奏ばかりしている音楽の 授業への問題提起だったのである。そしてこの言葉は受けた。
ところが最近では、合奏や合唱の時でさえ教師が指揮者になる授業を否定するような授業が多くなっている。いわゆる「表現の工夫」と称して、学習者にどのよ うに表現したいか(作品をどう解釈するか)を問いながら授業をすすめるのである。そしてそれがよい授業だと評価される。教師が指揮者になって学習者をどん どん引っ張って行くような授業をするとひんしゅくを買う。
まえにある研究授業のあとの話し合いで、「学習の前にCDを聴かせるのはよいことか」ということが議論されていた。作品に対する先入観を与え学習者が表現 の工夫をする機会を奪ってしまうことになるという理由である。それなら、教師が自分で歌って旋律を覚えさせる行為ですら表現の工夫の機会を奪う行為になる ではないか。
教師が教えることをためらっているという状況が増えている。しかし、オーケストラや合唱で、指揮者が、「ここはどんなふうに工夫して演奏しましょうか?」 などと団員にたずねることはありえない。
学校の授業も指揮者−団員システムでやるべきときには、ためらわずにそうすべきなのである。むしろ、指揮者−団員システムにならざるを得ないようなそうい う音楽の授業ばかりしていることが問題なのである。
では、どうするのか? あちこちに書いている。これからも書くつもりである。

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 ひねくれ教育事典 【も】の部

もんぶかがくしょう(文部科学省) 2001年の省庁再編で、文部省と科学技術庁の一部が合併してできた省の一つ。しかし、この省の名称を考えた人の言語 感覚は相当ひどい。「文部」という言葉は「文部省」という役所の名前として使う以外にはもうあり得ない言葉でありいわば旧い言葉である。それに科学という 一般的な言葉をくっけつけるからおさまりがわるくなる。それに「文部」の中にはには「学問」の意味もふくまれるので「科学」も当然入るはずなのである。ま たどうしても「科学」を入れるなら、文化、教育、スポーツなど、この省の所轄事項をすべて名前の中に含めるべきなのである。それをすべて合わせていう言葉 として「文部」というのは非常に都合のよいことばでないか。それをなぜ、「文部科学省」にしたのか。文部省だと、旧科学技術庁にいた役人を文部省に取り込 まれてしまうような気にさせる。おそらくそんな理由だろう。つまり役人へのほんの一時的気遣いのために、奇妙キテレツな名称をつくることになったのであ る。
ちなみに文部科学省の英訳は次の通りである。
Ministory of Education, Culture, Sports, Science, and Technology
頭文字をとって MECSST さらにもっと短くして MEXT
だから文部科学省のホームページは次の通りである。
http://www.mext.go.jp
こちらはなかなかセンスがよいと思う。


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そう言えば、あと1週間で国立大学は法人化する。法人化すれば、私たちは国家公務員でなくなる。何でも「団体職員」ということになるそうだ。それから公務 員ではないから「教官」ではなく「教員」になる。もちろん文部科学省の職員でもなくなる。
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今日から1週間東京生活になる。
今回はいろいろな人に会うことになっている。楽しみである。

04/3/22 (Mon)

【問題】それぞれの人物と関係の深い用語を選びなさい。
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1 板倉聖宜  2 遠山 啓  3 野口芳宏 
4 向山洋一  5 蔭山英男  6 藤原和博
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a 教育技術の法則化運動 b 百マス計算
c 水道方式  d よのなか科  
e 鍛える国語  f 仮説実験授業
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正解は一番下の方に。
少なくとも授業や授業研究のプロなら全問正解していただきたい。授業について少しでも論じようとする方なら、半分以上は正解していただきたい。そうでなけ れば次のように批判されても仕方ないだろう。
・保護者と同じレベルのアマチュア
・自分の経験だけを唯一絶対視して本などから勉強しようとしない人
・ある一つの主義だけに固まっていて広く勉強しようとしない人
・授業の研究を業績づくりの手段としか考えない人
上の6人とも、それぞれの分野で子どもたちの学力向上のために力を尽くしてきた、あるいは尽くしている授業の(または授業研究)のフロンティアである(も ちろん私自身すべての人の考えに賛成であるわけではない)。しかし、日本にはこのくらいのレベルの研究や実践があることは知っておいていただきたい。
本当は、一人一人の著書をきちんと読んだほうがよいのだが、この人たちの考えにちょっとふれるには非常によい入門書が出た。
・守口朗『授業の復権』(新潮新書・680円)
守口氏はゆとり教育批判の立場からこの本を書いている。だから氏自身も6人に全面的に賛成しているわけではない。私と氏の考えも違う。しかしそれぞれにつ いてほぼ正確に紹介している本である。
安価だし読みやすい。まずはすぐ手にとって読んでいただきたい。今なら新刊の新書コーナーに山のように置いてある。


ひねくれ教育事典 【め】の部
メタじゅぎょう(メタ授業) "meta" は "aftar" や "beyond" の意味を持つ接頭辞である。日本語でも「メタ言語=言語についての言語」「メタ思考=思考についての思考」と言うふうに使われている。「メタ授業」は当然 「授業についての授業」である。私が担当している音楽科教育法という科目は小・中学校の音楽の授業についての授業だから、メタ授業である。もし私のこのメ タ授業をどこかで題材にして授業をしている人がいたら、それはメタメタ授業ということになる。そもそも教科教育法というのはメタ授業科目なのである。ちな みに教育実習生のような未熟者がする授業をメチャ授業、その中でも特にできの悪い者がする授業をメチャメチャ授業と言う。


ここ2〜3日、ウイルスメールが20〜30通くる。これはどうしたかことか。ただひたすら削除作業をしている状況である。
明日からは1週間弘前を脱出する。


1−f 2−c 3−e 4−a 5−b 6−d 

04/3/21 (Sun)

アテネオリンピックの女子マラソンの代表選手の選考で高橋尚子選手が落選した。このことについてよく意見を求められる。「高橋選手の落 選をどう思いますか?」。私が走ることを趣味にしているからである。私の考えを書く。
・高橋選手がオリンピックのメダルに一番近い(それは多くの人の実感だろう)。「メダル獲得の可能性」も基準の一つだからその基準を採用すれば、高橋尚子 選手を代表選手にすべきである。
・選考レースが4レースあった。世界、東京、大阪、名古屋。この成績で行けば当然高橋は届かない。落選は当然である。
・そもそもこのような二重の基準で選考することに無理があるのだ。
というわけで結論は次の通りである。
・必ず、一つの結論しかない基準を決め、どのような結果になろうとその基準通りに決定する。
具体的には選考レースを一つにしぼり、そのレースの上位3人を代表にするのが一番シンプルである。ただ世界陸上を重視するなら、ここで一人決定し、あとの 二人を選考レースでもよい。陸連が選考レースを一つに絞れないのは、主催の放送局、ひいてはそのスポンサーに気をつかうからだろう。どうしても選考レース を複数にするなら、そのレース日のコンディションなどいっさい無視してタイム順に決定する。とにかく、基準を機械的に適用すべきである。シンプルがベスト である。
そもそも、あとくされがないように白黒はっきりつけられる。これがスポーツの良さだと思っているのだが。
大学入試も今みたいに複雑なことをしないでシンプルにしたい。


ひねくれ教育事典 【む】の部
むち(鞭) 「教鞭をとる」「愛の鞭」という言葉に見られるように、教師には「鞭」=きびしさが求められた。「すずめの学校の先生はムチをふりふりちい ぱっぱ」。戦後はそうではなくなってきた。「メダカの学校は、川の中。誰が生徒か先生か」。私は体罰にはもちろん反対だが、いつも厳しくありたいと思って いる。すずめの学校の先生でありたいのだ。しかし、元来性格が軟弱なので、いつのまにか、メダカの学校の先生になってしまう。

04/3/20 (Sat)

向山洋一氏は言う。
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授業の時、わかりきったあたり前のことを聞く人がいる。
時に一つか二つ助走のために問う時はある。しかし、わかりきった
ことを延々と聞く。
国語の授業に多い。
あたり前の一つの言葉を、ちがうあたりまえの言葉に置き換えてい
るのである。
退屈な授業である。
一問一答という形での授業となる。
全くムダである。
ムリな発問とは子どもが答えられない発問である。
(中略)
何を聞きたいのかさっぱりわからないのである。
発問は短く端的に言い切れることが必要になる。
語尾が不明確なのも答えようがない。
「日本の米づくりどうかしら」などと聞かれても答えようがない。
「問題点を挙げてください」ならわかる。
向山洋一『発問一つで始まる「指名なし討論」』明治図書,2003
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この逆をやれば、よい発問ができる。
「発問」を全面に出した実践論文を書いた。ここに紹介したいが、投稿規定に「未発表のもの」とあるのでだめだ。
ところで向山洋一とは誰か? 教育技術の法則化運動(TOSS)の代表である。「教育技術の法則化」という言葉だけ聞いて反発する人が
いる。その人は1冊でもよいから向山氏の著書を読んでみるべきだ。
入門書として次の本がある。
・向山洋一『授業の腕をあげる法則』(明治図書・1985年) 
続編もある。
少し進んだら次の本を読んだらよい。
・向山洋一『教師修行十年』(明治図書・1986年)
また、この法則化運動に集まる音楽教師の書いた本もたくさんある。全部とまではいかないがたいていはチェックしている。私が学ぶこ
ともたくさんある。ひどいなあと思うものもある。いくつかは読んでみるべきである。大手の音楽出版社が出している雑誌よりもよほ
ど役に立つ。私または私たちが出した本といい勝負である。
えっ? 向山洋一を知らない? それは本屋にも足を運ばない人なのだろう。教育書コーナーは、向山だらけである。


ひねくれ教育事典 【み】の部
みんしゅしゅぎ(民主主義) これをふりかざせばみんなを黙らせることができると信じられていた言葉。だが民主主義と言うのは
「民が主」だから、民に対する主でないものの存在を前提とする。つまり階級対立である。君主対人民、資本家対労働者、地主対貧農
等々である。この考えはしばしば自由と対立する。自由にさせると、たいていは、強いものが富や権力を手にいれることになる。だから
自由を制限しなければならない。これを徹底させると、人民の代表である政党にすべての権力を集中させる一党独裁のシステムができ
あがる。だから「人民民主主義共和国」という名称は、少なくともイデオロギーの上では少しも矛盾しているわけではないのだ。

04/3/19 (Fri)

たまには、音楽教育のことを書く。でなければ何のページかわからなくなる。

リコーダー。現在の学習指導要領では、必ず学校で扱うべき楽器は指定されていない。しかし、たいていの学校では第学年から指導しているのが実状であろう。 リコーダーにはバロック式とドイツ式がある。どうせやるなら、あとあとのことまで考えて私はバロック式をすすめたい。ここでは詳しくは述べないがドイツ式 には音楽的な難点がたくさんあるからだ。
ところが、ソプラノリコーダーの場合、バロック式は一点ヘの音の運指がとても難しい。右手は、中指、薬指、小指でホールをふさがなければならない。ではど うすればよいか。簡単である。「ハ長調中心主義」(吉田の造語)を改めればよいのである。バロック式のソプラノリコーダーはそもそもハ長調が一番演奏しや すい楽器ではなく、ト長調が一番演奏しやすい楽器なのである。一点ヘを押さえるのは難しいが、一点嬰ヘだと何でもない。
つまり最初はト長調から入ればよいのである。−−−初歩的段階で、実際右手を使わない時の教材は、実際にはト長調である(嬰音が出てこないからそう見えな いだけである−−これも造語だが「隠れト長調」と呼ぶことにしよう)。まずト長調の教材をどんどん演奏しよう。
とすると学習指導要領の問題を持ち出さざるを得ない。現在の学習指導要領では小学校6学年までではハ長調とイ短調の視唱や視奏しかしないことになってい る。これも非現実的な「ハ長調中心主義」のあらわれである。


ひねくれ教育事典 【ま】の部
まなび(学び) →学習(過去ログ4 2/9 メルマガNo2) ---ひどい手抜きである。

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ついでですが、メールマガジンを読んでいない方のためにちょっと紹介。
メールマガジンの申し込みをするとこの「吉田からのメッセージ」がメールになって届きます。
何がよいかというと、このページにアクセスしなくてもすむということだけです。とくに家庭で普通の電話回線からアクセスしている方は電話代の節約になりま す。LANやADSLの方でも、時間の節約になります。それだけのことですが・・・
今日は次のようなメールマガジンを配信しました。



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 吉田孝 ONLINE NEWS (極力日刊)No.35 04/03/19
 編集発行 吉田 孝 taka.yoshida@nifty.ne.jp
 http://takashiyoshida.com
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弘前から雪がほとんどなくなりました。しかしまだまだ寒い日が続
いています。九州の方はもうあたたかいのでしょうね。

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本日の「吉田からのメッセージ」

たまには、音楽教育のことを書く。でなければ何のページかわから
なくなる。

リコーダー。現在の学習指導要領では、必ず学校で扱うべき楽器は
指定されていない。しかし、たいていの学校では第学年から指導し
ているのが実状であろう。リコーダーにはバロック式とドイツ式が
ある。どうせやるなら、あとあとのことまで考えて私はバロック式
をすすめたい。ここでは詳しくは述べないがドイツ式には音楽的な
難点がたくさんあるからだ。
ところが、ソプラノリコーダーの場合、バロック式は一点ヘの音の
運指がとても難しい。右手は、中指、薬指、小指でホールをふさが
なければならない。ではどうすればよいか。
簡単である。「ハ長調中心主義」(吉田の造語)を改めればよいの
である。バロック式のソプラノリコーダーはそもそもハ長調が一番
演奏しやすい楽器ではなく、ト長調が一番演奏しやすい楽器なので
ある。一点ヘを押さえるのは難しいが、一点嬰ヘだと何でもない。
つまり最初はト長調から入ればよいのである。−−−初歩的段階で、
実際右手を使わない時の教材は、実際にはト長調である(嬰音が出
てこないからそう見えないだけである−−これも造語だが「隠れト
長調」と呼ぶことにしよう)。まずト長調の教材をどんどん演奏し
よう。
とすると学習指導要領の問題を持ち出さざるを得ない。現在の学習
指導要領では小学校6学年までではハ長調とイ短調の視唱や視奏し
かしないことになっている。これも非現実的な「ハ長調中心主義」
のあらわれである。


ひねくれ教育事典 【ま】の部
まなび(学び) →学習(過去ログ4 2/12 メルマガNo5) ---ひど
い手抜きである。

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04/3/18 (Thu)

昨日、要約のことを書いた。今日も要約について書く。
宇佐美寛氏は要約の危険性について次のように書いている。
長くなるが、大事なことなので引用する。
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文章における概括(要約)と同様の誤りは、しばし、学会でのシンポジウムや討論会でも(つまり文字ではなく音声でのコミュニケーションでも)現れる。発表 者の発表が終わると、司会者が「今の○○氏の御発表の主旨をまとめると......ということでした。」などと概括した上で参会者の質問・意見の発言を促 すことがある。整理をしたつもりなのだろうが、とんでもない愚考であり暴言である。その理由は次の通りである。
1 あらためて、まとめを言ってやるのは、発表者○○氏がそんなにまとまらない発表をしたのだと言っていることになる。司会者である自分の方が発表者自身 よりもよくまとまった発言をし得るのだと威張っていることになる。
2 発表者の発表を概括するとしても、様々な概括結果があり得る。どこに重点を置きどんな言葉で表現するかによって、概括の言葉は違ってくる。ところが司 会者やこの多様な概括の可能性を認めないと宣言しているようなものである。「参会者には概括の能力が無い。その能力が有ったとしても、司会者である自分の 方がすぐれた概括をしているのだ。」と言っているようなものである。
3 発表内容について思考するには、発表者が発した言葉そのものよりも司会者が概括した言葉の方が適しているのだと言っている等しい。概括の言葉は、抽象 的であり簡単で短くなっている。そのような言葉の方がもとの具体的で長い発表内容よりも思考に適しているというのは誤りである。思考の素材である意味深い 具体的内容は捨てられてしまうことになる。いわばかすのような抽象的な概括の言葉で思考しても無駄である。くりかえし言うのだが、「神は細部に宿りたま ふ」である。(以下略)
・宇佐美寛『作文の論理「わかる文章」の仕組み』(東信堂・1998年)
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私は、要約の危険性をここまできちんと理論的に考えたことはなかった。しかしなんとなく学会や研究会で司会者が概括したり注釈をつけたりするのが感情的に いやだった。若い頃に、ある研究会で司会者(大物教育学者)があまりにも要約したり注釈をつけたりするので抗議をしたことがある。「何の権限があって人の 話を要約したり注釈したりするのか」。ずいぶんへそを曲げられた。私も年をとってくると、司会を頼まれたりすることがたまにある。決してそういうことはす まいと心に決めている。要約することは自分の意見を述べているに等しい。それは参会者が意見を言う時間を奪っているのだ。そのくらいの自覚が必要である。 司会者は会がスムーズに進行することだけを心がけたらよいのである。
しかし、我が業界にはあいかわらず概括したがる人がたくさんいる。そしてたいていはその概括は的はずれである。


ひねくれ教育事典 【ほ】の部
なぜか私は保育には非常に縁があるのだ。最初に就職したのは短期大学の保育科である。保育内容の研究「音楽リズム」を担当していた。それから私の亡き母は 幼稚園の教師だった。父方のいとこにも幼稚園の教師をしていたのがいる。母方のいとこには、ずっと保母(保育士)をしていて現在保育所長をしているのがい る。その妹は幼稚園の教師である。また、弟の連れあいも保母(保育士)である。そう言えば、サイは看護婦(看護師)だった(関係ないか。しかし Nurse と英語で言えば関係なくもない)。 ところで、なぜ保育士は「士」で看護師は「師」なのだろうか。考えると夜も眠れなくなった。


23日から1週間弘前を脱出する。脱出するまでに論文を3本(長1本、短2本)書こうと思っていたが、とりあえず2本できた。あと短1本である。何とかな りそうである。

04/3/17 (Wed)

『授業づくりネットワーク3月号』(学事出版・629円)
喜岡淳治氏の連載「国語の授業方法大全」の24回目「要約の技術」について書く。喜岡氏のこの連載は国語の授業を扱っているが、専門外の私が読んでもとて もおもしろい。楽しみにしている。だが今回だけは、少し文句がある。
喜岡氏は、夏目漱石の「草枕」の冒頭の文章を要約する例をとりあげている。
 「山道を登りながら、こう考えた。
知に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越 しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画ができる。
 人の世を作ったものは、神でもなければ、鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて 越す国はあるまい。  
人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりなおすみにくかろう。
 越すことならぬ世が住みにくければ住みにくい所をどれほどかくつろげて、つかの間の命を、つかの間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という転職がで きてここに画家という使命が降る。
 あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするがゆえに尊い」
喜岡氏は要約のプロセスを示しながら、最終的には60字に要約した次の文を紹介している。
「詩や絵などあらゆる芸術は、この世をのどかにし、人の心を豊かにして、住みにくいこの世をよくしてくれるから尊い」
たしかに短くはなっている。しかし、この要約は不正確である。最後の文をもう一度よくみていただきたい。「あらゆる芸術の士は」と言っているのである。つ まり芸術ではなく、芸術家のことを言っているのである。「向こう三軒両隣にちらちらするただの人」に対して、「芸術の士」が「尊い」のである。
この要約は失敗である。いや、要約しようとしたことがすでに失敗なのである。
そもそも要約しなければならない状況とはどんな状況なのか。私の場合で言えば、紙数の少ない原稿を書いている時くらいである。自分の書いた文章をさらに要 約するのである。自分が何が言いたいかは自分が一番わかるから、この作業は簡単である。では他人の文章を要約できるのか。私は不可能なことだと思ってい る。とくにすぐれた文には無駄がない。いや、無駄がないから優れているとも言える。そんな文章を要約してどうしようというのか。
もしどうしても短くするのであれば、著者の考えが一番強く出ているところを一カ所そのまま正確に書くほうがよい。
「あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするがゆえに尊い」
要約するよりよほどましである。よほどのことがない限り要約はすべきでない。


昨日、会議で興奮して大声を出してしまった。大人げないとは思うのだが、相手も大人げない人だからどうしようもない。相手の人は全然嫌いな人ではなく、む しろ好きな人なのだが、会議になるとこうなる。どちらも中学生くらいの精神年齢の人間がそのまま年取っただけだ。

04/3/16 (Tue)

100マス計算というのがまた流行しているらしい。
この100マス計算というのはもともとは落ち研の岸本裕史が提唱したものである。「落ち研」とは「学力の基礎を鍛え落ちこぼれをなくす研究会」(現在は 「学力の基礎を鍛えどの子も伸ばす会」に改称)の略称である。その一番もとになっている考え方がわかる本がある。
・岸本裕史『見える学力・見えない学力』(国民文庫・1981)
「一般に算数のできない子というのは、計算力が劣っている子です。しっかり計算練習をしている子で、算数のできが悪い子は、めったにいません。研鑽の練習 を始終くり返すことによって、思考速度が早まりますし、少々困難なことでも力を集中して克服しようという意志の力も鍛えられます」
そして、当時は「マラソン計算」という名前で、100マス計算を提案したのである。その後、新学力観ブームでしばらくなりをひそめていたのが、最近の学力 低下批判で、一気にブームになったのである。
私は、ピアノなど一応は習ったことがあるから、繰り返し練習一般を否定するものではない。しかし、この100マス計算だけは気に入らない。算数のできない 子は計算力が劣っているというのにどうも納得がいかないのである。「計算力」とは何かも問題である。計算力というのは計算がはやくできる力なのか。別に少 しくらい遅くたっていいじゃないかと思うのである。例えば、100マスを2分でできる子と4分でできる子がいたとしても、だから2分でできるほうがよいな どとは言えないではないか。4分でもできれば良いのである。もちろん理解していなければ問題なのだが、理解していない場合には100マス計算など何の意味 もないのである。
算数(あるいは数学)のおもしろさは、むしろ考えることにあるのではないか。考えることによって論理的思考力を身につけることが重要なのではないか。ただ はやさを競う100マス計算は、算数(数学)のおもしろさとはまったく正反対の極に位置しているような気がするのである。
だから、岸本氏がいみじくも言うように「少々困難なことにも力を集中して克服しよういう意志の力」を鍛えることに本当のねらいがあるように思えるのであ る。実践報告のいくつかを読んだが、意志の力とか、達成感といった精神的なことを強調しているものが多いのが気になる。
それに、教師がストップウォッチを持ってこの100マス計算をやらせている姿は、どうもアマチュアぽい。こんなことはだれでもできるではないか。プロなら もっとやることがあるだろう! と思ってしまうのである。
向山洋一氏の法則化がこの100マス計算に対して批判を開始した。もっともだと思う。


昨日は、灯油を3缶(1缶18リットル)買った。これでこの冬は終わりというわけにはいかないだろうか。

04/3/15 (Mon)

例1 お酒を飲むと、酔う。ビールを飲んでも、ウォッカを飲んでも酔う。ところで、お酒にも、ビールにも、ウォッカにも、水が入ってい る。ゆえに、水が酔っぱらう原因である。
例2 「石森は酒を飲まないらしいね。あいつが酒を飲んでいるところを見たことがないもの」「そういえば、おれはラムちゃんがトイレに行くのを見たことが ないぜ。あの子はトイレに行かないんだな」
野崎昭弘『詭弁論理学』(中公新書・1976)は論理学の入門書としてよく読まれている。何度も版を重ねてきてきたベストセラーである。私も若いころか ら、何度となくこの本を読んできた。いまやボロボロになっている。上の例は、詭弁の中でも「部分より全体に及ぼす誤り」として説明されているところであ る。
私たちもこう言う誤りをよくやる。自分のまわりにいる人間だけを見て、「秋田出身の女性は美人だ」とか「九州出身の男は酒飲みだ」とか「音楽教育の専門家 は性格が悪い」とか決めるつける人がいる。まあ、このレベルは良いとしても、教育研究の中にもたくさんある。有名な研究者が書いたものの中にもある。例を あげても良いのだが、血を見ることになりそうである。それに「お前はどうか」と聞かれたら自信がない。だから書くのはやめる。それにいくつかの例をあげ て、「だから教育研究の世界はこうだ」と決めつけるのもやはり「部分より全体に及ぼす誤り」を犯してしまうことになる。
この本にはさまざまな種類の詭弁術は掲載されている。詭弁に惑わされないようにするためだけでなく、自分自身が知らず知らずのうちに詭弁を弄しているのを 防ぐ本でもある。私はこうやって気をつけているつもりである。しかし、それでもやってしまう。やっつけ仕事でものを書いているときである。
なお、同じ著者の『逆説論理学』(中公新書・1980)も合わせて読まれることをおすすめする。


ひねくれ教育事典 【へ】の部
べんじょ(便所) 小学生は学校の便所で大便をするのを非常にはずかしいことだと考えているそうである。実は、これは私たちの時代もそうだった。私も便所 に行けばよいものを、我慢したためにかえってはずかしい失敗をしたことがある。なぜ、はずかしいのか自分でもわからなかったし、今でもわからない。それを からかう子もいたし、今でもいそうである。不毛な思いこみである。しかし、これは教師が何らかの働きかけをすれば簡単に解決できるような気がする。実際に 解決している事例もありそうだ。「ちょっとクソしてくるわ」くらいのことが日常的に言えるようになればよいと思うのだが・・・。小学校の先生方、あなたの 学校ではいかがですか。

04/3/14 (Sun)

昨日は久しぶりにパソコンショップに行った。
ノートパソコンにLinuxをインストールしたのだが動きが悪い。ワープロソフトが立ち上がるのに3分もかかる。メモリ不足だとわかったので、メモリを買 いに行ったのだ。64MB(メガバイト)に128MBを増設して、計192MBにした。
しかし....。今から15年ほど前、NECのPC98(一番スタンダードなパソコンだった)というパソコンを使っていたころは、コンピュータのメモリは 最大で640KB(キロバイト、またはケイバイト)だった。M(メガ)が100万、Kが約1000だからその違いが分かるだろう。そしてハードディスクは 装備されてなくて、外付けでしかも非常に高価だったのだが、4MBほどのを買って喜んでいた。現在私が自宅で使っているパソコンのハードディスクは 80GB(ギガバイト)である。G(ギガ)は10億だから80MBだと当時の2万倍ということになる。
考えて見れば、たった一枚のフロッピーディスク(約1.25MB)だけで、ワープロソフトの一太郎や、表計算ソフトのロータス123、データベースソフト のTHE CARDが動いていたのである。たいてはフロッピーディスクドライブが2つついており、1つにプログラム(ワープロソフトなど)の入ったディスクを入れ、 もう一つにデータ(文書ファイルなど)を保存するディスクを入れて使っていた。これで十分に仕事ができた。ただ、まだ誰でも使えるというわけにはいかな かった。ある程度はコンピュータのコマンド(命令)などの知識が必要だったからだ。マウスもまだスタンダードではなかった。
一気に変わったのは、90年代にWindowsなどのGUI(Graphical User Interface)の登場してからである。つまり画面の画像をマウスでクリックすることによって簡単にプログラムの操作ができるようになったのである。 画像を処理しようとすれば、当然データも大容量になってくる。そして処理速度をはやくしなければならないし、メモリもハードディスクもどんどん大きくなら ざるを得ない。それでもメーカーは価格を上げずに高速化、大容量化を達成したのである。
そういう意味では便利になった。研究者でパソコンを使わない人は珍しいくらいになった。私などはパソコンがなくては一切仕事ができなくなるだろう。
便利にはなったが、以前よりその便利さに見合った仕事をしているかどうかというと、話は全然別である。


ひねくれ教育事典 【ふ】の部
ぶんがくきょういく(文学教育) 日本の国語教育はこの文学教育に偏重しすぎた。例えば「ごんぎつね」という教材に15時間もかける授業がある。そしてそ こでは、「この場面でのごんや兵十の気持ちを考えましょう」などと国語とは関係のないことばかりに時間を費やしている。そのために、肝心かなめの、文章を 読みとる能力、書く能力、聞く能力、話す能力といった基本的な能力をつけることはおろそかにされてきた。文学作品などは、授業で細かく指導するよりも、日 常生活でできるだけ多読させるほうがよい。細かすぎる指導によってかえって子どもたちは本を読まなくなっている。

04/3/13 (Sat)

「ツルとカメがいてそのその合計数12、足の総本数は34本である。ツルは何羽、カメは何頭いるか」
「ツルとカメがいて、足の本数は合わせると34本であるが、もしツルとカメの数が入れ替わると、足の本数は合わせて38本になるという。ツルは何羽、カメ は何頭いるか」
これを代数を使わずに、四則演算だけで解く。おなじみの鶴亀算である。
・佐藤恒夫『大人のための算数練習帳・論理的思考を育てる文章題の傑作選』(講談社ブルーバックス・860円・・・特に発行年を書いていない場合は新刊で ある)
論理的思考が今から育つのかどうかはわからないが、ボケの防止くらいにはなるかも知れない。鶴亀算とか、旅人算とか、植木算とかおなじみの算数の問題の解 説書である。本の裏表紙には「物事を柔軟にかつ論理的に考える訓練をするための最適な教材」という宣伝文句が書いてある。
しかし・・・・
「ツルとカメがいてその合計数が12というのはどうしてわかったんだろう? ツルとカメの数を数えないとわからないよね。そんなら計算する必要ないじゃ ん」
「ツルとカメはどうやって入れ替わることができるのか? そんなばかなことがあるものか」
学校で勉強していることは所詮ゲームなのだ。現実には何も役にたちはしないのだ......
「ゲームとしての学校文化」。前の職場(国立教育研究所)の同僚で心理学の上野直樹氏がこう言うふうに呼んでいた。何かの本にも書かれていたのだが、出て こない。
たしかに学校で習っていることはほとんどゲームでしかない。音楽も同じだ。創造的音楽学習も伝統音楽の学習もしょせんゲームでありごっこ遊びである。しか し、ゲームでもいいではないか。ゲームだと割り切ってゲームを楽しむことにしたほうが学校はもっと楽しくなるのかも知れない。



ひねくれ教育事典 【ひ】の部
ひろだい(弘大・広大) 「ひろだい」というとずっと西の方ばかりにいた私は自分の出身の「広島大学」のことばかりだと思っていた。ところが、東京に来る と「ひろだい」と言うと「弘前大学ですか?」と聞かれたことがある。そうか、「弘前大学もひろだいなのか?」と思っていたら、その大学に転任することに なった。まだ自分でも混乱しているところもあるが、西に方に行ったら「北のひろだいに勤めています」、こちらでは「西のひろだい出身です」と言ういうこと にしている。ちなみに、MS-IMEもATOKも「ひろだい」と入力すると「広大」しか出ない。不便なこと極まりない。


入学試験も無事に終えることができた(と言っても、受験生は大変だろうが)。今日は今から走ってくる。そのあと原稿2本片づけるつもりである。

04/3/12 (Fri)

今日は入試だ。粗相がないようしたいので全エネルギーを大学の業務に集中したい。だから、今日はここには何も書かない−−−というパラ ドックスはどうよ?

04/3/11 (Thu)

オウムが引き起こした、松本サリン事件、地下鉄サリン事件などの集団的犯罪事件は、その底辺に集団妄想症候群がある。
この集団妄想症候群は、最近生まれたものではなく、ヨーロッパ史の中で繰り返し現れた。
・浜本隆志『魔女とカルトとドイツ史』(講談社新書・720円)
ヨーロッパの十字軍、異端狩り、中世のユダヤ人大虐殺、魔女狩りと魔女裁判などは集団妄想症候群の現れで、ドイツにとくに顕著だったと著者は言う。そし て、それが20世紀に現れたのがヒットラー・カルトだと言う。ドイツになぜ顕著だったのかは、本を読んでいただくとして、私はヨーロッパの集団妄想がキリ スト教と結びついていることに注目する。例えば、森島恒雄『魔女狩り』(岩波新書・1970年)も読んでいただくとよいのだが、魔女狩りには人間の思いつ くありとあらゆる残虐な拷問、刑罰が登場する。そして、それはキリストの名のもとに行われたのである。ここで気をつけて置かなければならないのは「キリス トの名のもとに」というのは「キリストの名を借りて」とか「キリストの名を利用して」ではないのである。心から「キリストを信じて」「キリストへの信仰心 から」このような残虐なことが行われたのある。現代のキリスト者はこの事実から目をそらすべきではない。
集団妄想症候群という概念で歴史や社会を見ると、説明できることがある。例えば、大東亜共栄圏、文化大革命、カンボジアの大虐殺、金親子への個人崇拝、 ブッシュの暴走とそれへの追随。すべて集団妄想症候群のなせる技ではないか。集団妄想症候群から冷めるには、悲劇的な結末を目の当たりするしかないのか。


ひねくれない(今日だけ)教育事典 【は】の部
はつもん(発問) 一般的には「授業において教師が子どもに問いを発すること」(岩波小辞典「教育」)を言うらしいが、これだけでは発問の機能を正確に言 いあらわしていない。次のように定義するべきである。
「発問とは学習者の頭の中に問いを発生させるような教師の言語行為である」
この発問が音楽の授業の中でどのように機能するのかを実践例をもとに検討した論文を書いた(今最後のチェックをしている)。
日本音楽教育学会の第2学会誌『音楽教育実践ジャーナル』に投稿するつもりである。編集委員からクレームがつくかも知れない。そうしたら面白いなあと思 う。

04/3/10 (Wed)

説明の論理
例 クラスに子どもが40人いる。この子どもを A〜Hの8つのグループに分ける。分けたのは教師だ。
出席番号順ではなく、さまざまな状況を考慮に入れて分けてある。誰がどのグループに入るかを今から子どもに伝える。
できるだけ正確に伝えるためには、次の二つの方法のうち、どちらをとればよいか。
方法1 「A班には○○さん、△△さん・・・・が入ってください。B班には××さん、◇◇さん・・・・が入ってください。C班には...」
方法2 「名簿順にどの班に入るかを言います。××さん、B。○○さん、A。・・・・」
「どちらでも同じじゃないか」と思う人は、少なくとも教師には向かない。方法1だと聞き漏らす子どもがかなり多くなるだろう。方法2のほうが確実である。 もちろん授業の効果という点から考えるとどちらが良いとは一概に言えない(わざとわかりにくく説明するのも子どもを集中させるための一つの方法である)。 しかし、情報を確実に伝えようとする場合は方法2のほうがよい。
いずれにしても、どちらの方法で説明するのが合理的かを十分に検討すべきである。小中学校の教師とってはこのくらいのことは常識である。
上のような意識がまったくないのが大学の教師である。会議での提案の仕方にそれがあらわれる。昨日出席したある会議での説明は最低だった。


ひねくれ教育事典 【の】の部
ノート 最近の大学生はノートを全くとらなくなった・・・というより、授業にノートを持ってこない学生までいる(こんな学生に授業の評価をされたくな い)。私は、レジュメやプリント資料を作って授業に望む。これがどうもいけないようである。ますますノートをとらなくなる。自分自身は、退屈な話しほど ノートを必死にとることにしている。退屈しのぎになるからである。またノートをとると、ナンバリング(数字打ち)やラベリング(見出し付け)を意識するよ うになる。ナンバリング、ラベリングがきちんとできている話は、わかりやすいしノートもつけやすい。話し手がどれくらい準備をしてきたがわかる。ノートを とっている状態は、思考している状態でもある。大学生にもノート指導が必要だ。


昨日の替え歌について小学校の先生からメールをいただいた。
「子どもたちが替え歌を作ってしまうときは往々に授業がつまらない時。ある意味バロメーターです」
それはそうだろう。それならいっそう、替え歌づくりでもするとか。「旋律と言葉の関係」を学習するよいネタになるかも知れない。
最近、毎日のように WORM32 NETSKY というウイルスが10回ほどやってくる。メールの添付ファイルを開かない限り大丈夫だから、あまりこわくはない。問題は、セキュリティーホールをねらって くるウイルスだ。対策はまだ万全ではない。

04/3/9 (Tue)

あるひパパとママがけんかをしていた
パパはママをなぐり ママはへをした
グリーン グリーン パパはママに たんすを 投げつけ
グリーン グリーン ママはパパに ララ ラジカセ投げたさ

「グリーン グリーンの替え歌」である。すさまじいが、まあ子どもの遊びである。
・鳥越信『子どもの替え歌傑作選』(平凡社・1998・1900円)
題の通り、子どもの替え歌を集めた本だ。私の子ども時代の歌もある。元歌は言う必要もないだろう。

あかりをつけましょ 百ワット お花をあげましょ 若乃花
五人ばやしのグレン隊 今日は楽しい なぐりこみ

この本にはシモネタも紹介されている。著者はこれを「B面」と命名している。たとえば 「タンタンタヌキの・・」は代表的な例である。
ここに書くのは、はずかしいものもある。が、比較的どぎつくないのを思い切って。これも元歌わかりますね。

静かな湖畔の 森のかげから 誰かさんと誰かさんの声がする
いやーん ばかーん そこは だめよ

まあ、替え歌というのは活字にするようなものではないですね。


ひねくれ教育事典 【ね】の部
ネタ もともとは「たね」をひっくりかえした言葉。すしのネタのように材料という意味がある。授業研究では、教材のことを「ネタ」と呼ぶことがある。例え ば、「授業ではネタが大切かウデ(教授の技術)が大切か」ということが議論のネタになる。ネタには手品のたねのように、しかけという意味もある。授業でも 「しかけ」のことをネタという場合がある。吉田は「教材」「しかけ」どちらの意味でもネタを大切にする。もう若い頃に、『授業のネタ・音楽』(日本書籍) という本を出して、けっこう売れた(もう廃刊なんでしょうね)。ただ、ネタにおぼれて子どもを忘れることもあるので注意しなければならない。−−今日は ちっともひねくれてないですなあ−−


昨日は、電話工事のため一時的に、このページのアクセスが不能になった。自宅サーバーのむこうずねである。まあ、わたしのサーバーへのアクセスが一時的に 不能になっても社会的には何の不都合もないが(^^; でも、もしアクセスを日課にしている方がいらっしゃったらごめんなさい。

04/3/8 (Mon)

現行の学習指導要領が、以前のものと一番大きく変わったのは、共通教材の削除である。以前は小学校・中学校とも、歌唱共通教材と鑑賞共 通教材が指定されていたが、現行の指導要領では、小学校の歌唱教材だけになってしまった。そのため、これまでの教科書に掲載されていた愛唱歌が消えてしま うことを懸念する声が高くなった。それを反映してか、一昨年から昨年にかけて、唱歌・童謡に関する本がたくさん出版された。私もすべてにあたったとは言え ないが、家の本棚だけにでも十数冊はある。そのうちの一つ
・横田憲一郎『教科書から消えた唱歌・童謡』(産経新聞社・2002・1238円)
唱歌、童謡の紹介で、資料としてはおもしろいのだが主張が一方的すぎる。たとえば次のような主張である。
「戦後教育は戦前の諸価値を否定することにより進められた。歌の世界でも戦前の天皇制や軍隊にふれた歌詞まで変えられた。過剰反応としか思えない言葉狩り はいまだに続いている」
これに続いて、歌詞改作の例を出している。
例えば、「われは海の子」の7番の歌詞は次の通りである。
「いで大船を乗り出して 我は拾わん海の富 いで軍艦に乗り組みて 我は守らん海の国」
著者は現在では3番までしか歌わないことを批判する。その理由として次のように述べる。
「曲が作られた明治43(1910)年といえば、日露戦争に勝利して五年後だ。元気な少年が海軍にあこがれるのは自然なことであった。それを軍国主義と決 めつけるのは浅知恵というものである」
確かに、軍国主義と決めつけるのは浅知恵だ。しかし、それならば著者の言う明治43年の少年にとって自然な歌が現在の子どもにとって自然なのか。こういう 歌を「共通教材」に入れておくことが自然なのか。こういう検討をしないで批判ばかりすると主張全体が壊れてくる。著者も次のように言う。
「歌はそのときの国情や世相を映す鏡でもある。いたずらにカットせず、時代背景まで教えるのが教育だ」
賛成である。しかし、カットせず時代まで教えるとすれば、「共通教材」で何を扱うべきかについて慎重な議論が必要になってくる。
教科書でカットされていることを著者が批判している例をもう一つ紹介する。「蛍の光」の3番である。
「筑紫のきわみ みちのおく 海山とおく へだつとも その 真心はへだてなく ひとつに尽せ国のため」
これについて次のように言う。
「もうおわかりになるだろう。「国のため」や「守り」が気に入らないのだ」
それを言うなら、この歌詞そのものがもともと改作であったことも紹介すべきであろう。音楽取調掛が1881(明治14)年に小学唱歌集にこの歌を掲載しよ うとしたときは、「海山とおくへだつとも その 真心はへだてなく」は「わかるゝみちは かはるとも かはらぬこゝろ ゆきかよい」だったのである。「か はらぬこゝろ」は男女間で契る言葉だとして当時の文部省が圧力をかけたのである(園部、山住『日本の子どもの歌』岩波新書)。
唱歌や童謡に思い入れが強い人はたくさんいるはずだ。それはそれでよい。しかしその思い入れのために情報が一面的になることがある。この本だけでない。


ひねくれ教育事典 【ぬ】の部
ぬきうちテスト(抜き打ちテスト) 予告なしに突然試験をすること。今や、この言葉も死語になった。今大学で抜き打ちテストをしたら「シラバスにそんなこ と書いてない」といって文句を言われるだろう。それなら、シラバスに次のように書いておくことにしようか。「学期の間に3回テストをします。この3回のテ ストの点が計60点、期末テストが30点、出席点を10点とします。学期の間のテストは予告なしに行います。出席者の少ない日に抜き打ち的に行います」


昨日は紀伊国屋に。一週間ぶりだ(日曜日は弘前にいればたいてい行くのだが)。音楽関係の本8冊、新書2冊、文庫7冊、計17冊。18000円ちょっと。 カードという便利なものを持っているのでついつい買いすぎる(いやいや、本はいくら買っても買いすぎることはない)。私は自分が読む本はすべて自腹で買う ことにしている。もちろん公費で本を購入することはできる。しかし、それは公共のためである。共同で利用するため、学生に読ませるため、貸し出しのためな どである。もちろん研究のためも公共のための一つではある。しかし私は管理がまったくできないのだ。紛失するとめんどうだ。だから自分で何でも買ってしま うのである。
そう言えば、この冬は衣類を何も買ってない。
「ぼろは着てても心は錦、どんな花よりきれいだぜ」。そうだ、水前寺清子なのだ。

04/3/7 (Sun)

「がんばれ」「がんばってください」という言葉が気になる。
「マラソン大会に出場する」と言ったら、たいてい「がんばって下さい」と言われる。また、42キロの間ずっと沿道から「がんばれ」と言われる。たまに「が んばってるよ!」と言い返したくなる時もある。マラソンはがんばるスポーツだから、まあしかたない。
「学会で発表する」と言ったら、学生から「がんばってください」と言われた。どやしつけてやろうかと思った。
小学校の音楽の時間、「がんばって歌いましょう」「がんばりました」を連発している先生を見たことがある。歌はがんばってうたうものか。
難病でほとんど回復の見込みのない患者に「がんばってください」と言う見舞客がいる。どうがんばればよいのか。残酷である。
「がんばれ」「がんばってください」は便利な言葉である。だいたいどこでも通用する。だからみんな安易に使う。しかし逆に言えばこれは「言葉の貧困」の裏 返しである。
例えば、楽器の指導をしている時つまずいている子どもに「がんばれ」という言葉をいくらかけても何の意味もない。まずきちんとつまずきを解消して、あとは 時間さえかければ必ず達成できる見通しができた時にはじめてがんばってが意味を持つ。見通しのない「がんばれ」は苦痛に感じることさえある。私は、「がん ばれ」が出そうになったら「何か他の言葉はないか」と考えることにしている。私も言葉が貧困なのでなかなか出てこないが、言葉を考えようとするだけで頭の 体操くらいにはなる。少なくとも教師を職業にしている人は「がんばれ」を禁句にするくらいのほうがよい。


にのみやそんとく(二宮尊徳) 私は、北九州の生まれである。家が若松高校の近くにあり校内でよく遊んでいた。その若松高校の玄関の前に二宮金次郎が背中 に薪(だったと思う)を背負って、本を読みながら歩いている銅像が建っていた。祖父が「こんな人になりないさい」と言っていた。農民の生まれであるにもか かわらず、勤勉のゆえに藩士となり藩の財政の建て直しに貢献したのがこの尊徳である。勉強して社会に役に立つ人間になる。当たり前のことなのだが、最近は 勉強は自分のためにするものでしかなくなった。損得勘定で勉強してはいけない。金次郎のようにがんばろう!(ありゃっ)


昨日夜は学生の送別会があった。いろいろ気持ちの整理をしたいことがあって家を出るのが遅れたら、幹事の学生から「早く来い」という電話がかかってきたの で出席した。人といっしょにいるのはつらかったので二次会にも行かなかった。私もたまにはこういうことがある。今日はもう元気だ。学生のみなさん、ごめん なさいね。

04/3/6 (Fri)

パワーポイント考 最近、学会でのプレゼンテーションにパワーポイントを使うことは 常識になりつつある。私もたまに使う。その利点は次の通りである。 ・限られた時間の中で要点を手際よくプレゼンテーションできる。 ・映像や音声を張り付けることが可能で、多面的なプレゼンテーシ ョンが可能である。 ・保存し、再編集することで、再利用が可能である。 まことに便利である。パワーポイントの編集ができてしまうと、す でにプレゼンテーションが終わったような気になるから不思議であ る。 これを、大学の講義でも使う人がいるそうである。私もその誘惑に 駆られたことがある。しかしやめた。理由は次の通りである。 ・大学の授業は要点を手際よく伝えることが目的ではない。私は、 大学の授業では学生はできるだけ苦しみながら学習すべきだと考え ている。パワーポイントを使う授業は受け身になりやすい。学生は ノートを取らなくなる。はなはだしい場合、パワーポイントのスラ イドをプリントしたものを配布するように要求してくるようになる。 ・映像や音声が必要な場合にもちろんコンピュータを使うことはあ るが、パワーポイントである必要はない。映像や音声は必要最低限 にして、言葉で思考させることをできるだけさせたい。 実は私は授業をもっとシンプルにしたいと思っているのである。 教材となる資料1点(これが映像、音であってもよい)、ノート、 鉛筆、黒板、あとは教師と学生の対話。それだけで一コマ90分の 充実した時間が過ぎていく。そんな授業がしたい。パワーポイント とは正反対の極にある授業である。


ひねくれ教育事典 【な】の部

 ないしんしょ(内申書) 各教科の評価や学校生活における活動の 記録を記載し、受験先に内々に申告するための文書。ただし、最近 は「内申書」の開示が求められるようになったので、「内申書」と 呼ぶこと自体が不適切になっている。「調査書」で統一したほうが いいでしょうね。

 仕事のことではないのだが、昨日大ポカをしてしまった。約束を忘 れたのだ。それも今日朝起きて気がついたのだ。手帳に書いていれ ば良かったのだが、手帳に書くのを忘れていた。どうしらよいのか。 とにかくひたすら謝るしかない。だれに謝るのかも問題だ。
04/3/5 (Thur)

評価の話はお休み -- 太郎は言った。 「愛してるよ」 花子は言った。 「うれしいわ。」 -- 上の文章にはおかしなところがある。 「愛してるよ」には句点がなく、「うれしいわ。」には句点がある。 どちらが正しいか。 新聞、雑誌をはじめとする出版界では前者を用い、教科書では後者 を用いている。 これを続けて書くとどうなるか。出版会では次の通りである。
 --
太郎は言った。「愛してるよ」。花子は言った。「うれしいわ」
 --
 つまり出版界では、次のような表記法を採用している。 ・段落末が」で終わる場合は、句点をつけない。 ・段落の途中の文末が」で終わる場合には」の後に句点をつける。 では、教科書はどうして違うのか。それは文部省「国語の書き表わ し方」(1950)<吉田注・「表し方」ではないところに注目> で示された表記法を採用しているからである。 私は出版界が教科書とは異なる表記法を使っていることを15年ほ ど前に知ってからは、出版界の表記法使って書くようにしている (国立教育研究所時代に、それで原稿を直されたことがある)。.
 このように文末に解説の( )をつける場合に最後に句点をつけ るのも出版会のやり方である。 ・金武伸弥『新聞と現代日本語』(文春新書・720円) 日本語の表記に関してはいろいろな考え方がある。例えば、朝日と 産経は「橋本龍太郎」と書き、他紙は「橋本竜太郎」と書くそうだ (左右はあまり関係なさそうだ)。どれを採用しようと自由だ。た だし、自分なりの基準は持っていたほうがよい。私もよくやるが、 一つの文章の中で表記が統一していないのは見苦しい。この本は現 代の最先端の表記法を紹介している。自分の表記法はこの本に近い ので、しばらくはこの本を基準にすることにする。

ひねくれ教育事典 【と】の部
 どうとく(道徳)  今や小中学校の道徳の時間以外では死語にな った言葉。かつては、法律は最低の道徳だと言われた。しかし、現 在は法律を守ることさえ道徳の外側のことになってしま った。それをぼやくだけで、何もしようとしないのも不道徳である。 しかし本気で道徳的に生きようとすれば、現代のドン・キホーテに なるしかない。

昨日は学部の送別会だった。スピーチとス○ー○は短いほうがよい。 人間潔さが大切だ。自分の時はそうありたい。

4/3/4 (Wed)


評価規準についてはお休み。

 私は、文を書くときは、書きたいことから書くことにしている。あ れを先に書かなければならない、などと思うと、かえって書けない。 また、章立てや起承転結の構成などもほとんど考えない。とにかく 書けることから書いて形式はあとから考える。ワープロ時代の文章 術である。


私は、車を運転しない。というより14年前に運転するのをやめた。 12年前には免許証を捨てた。事故を起こす恐怖にとりつかれたか らだ。もう一生ハンドルを握らないつもりである。これを他人に押し 付ける気持ちはない。仕事、家庭の都合などによって車がどうしても 必要な人もいる。私自身が他の人の車のお世話になることもある。し かし、車の使用は必要最小限にすべきである。運転すればするだけ事 故を起こす、あるいは事故にまきこまれる確率が増える。自分に落ち 度があろうとなかろうと確率は必ず増す。もちろん運転しなくても事 故にまきこまれることはある。しかし、加害者にならなくてすむ。
一昨日、昨日と親類の通夜、葬儀だった。62歳、散歩中に自動車と 接触して脳挫傷を負い、5日後に息をひきとった。企業戦士だった。 定年退職して、これからゆっくり過ごそうする矢先だった。無念だっ たろう。私は接触した車の運転者が本当に車を運転する必要があった のかどうかに一番関心がある。 葬儀(キリスト教)で司教のお話があった。「死は一人一人に必ずや ってくる。しかし人はその事実から目をそむけその日その日の生を精 一杯燃やそうとして生きている」。
そうだ、子どものことは私は「死」 がとても恐ろしかった。毎日毎日そのことばかり考えていた。だから 人生の残り少なくなった老人が毎日楽しそうに暮らしているのが不思 議でしょうがなかった。そのうち、考えるのをやめた。「どう生きる か?」のほうがはるかに重要なテーマになったからだ。テーマが変わ っただけだが、それでも死はやってくる。子どもの時の真剣さを持ち 続けるのは難しいかも知れない。しかし、時には逃げずに死をしっか り見つめることは大切なことである。身内の死はつらいが、そんなこ とを考えさせられる。


 最近めずらしく頭に来ることがあった。書こうかどうか迷っている。 でも少し冷静に考えてからにする。


今、朝8時。東京のホテルのロビーのコンピュータからである。10 時の飛行機で青森に戻って、13時から会議である。 結局3週連続東京にやってきたことになった。
4/3/1 (Mon)

評価規準について(昨日の続き)
 昨日は次のように結んだ。
 「つまりこれによって評価が校長(実質的には教師)に義務づけら れる訳である。 ところが、評価に関してはこれ以上は法規上の規定はどこにもない のである。したがって、本来は評価というのは学校が創意・工夫を 凝らして行うべきものなのである」
とは言うものの、指導要録の作成を義務づけている以上、文部科学 省は、指導要録がどのようなものかを示す必要がある。それは教育 課程の改訂が行われた時に、「初等中等教育局長通知」という形で 発表される。現行のものは、2001年4月の発表された「文部科 学省初等中等教育局長通知 小学校児童指導要録,中学校生徒指導 要録,高等学校生徒指導要録,中等教育学校生徒指導要録並びに盲 学校,聾(ろう)学校及び養護学校の小学部児童指導要録,中学部生 徒指導要録及び高等部生徒指導要録の改善等について(通知)」で ある。この文書には、評価についての文科省の基本的な考え方、指 導要録に記載する事項、各教科における観点別評価のとための各学 年ごとの観点とその趣旨、評定欄の記入の方法、指導要録の参考様 式等が掲載されている。ここまでは指導要録の定義とも言うべきも のであって、基本的にはこの通知は「従うべきもの」と言うべきで あろう。  なお、この通知は文部大臣(当時)の諮問機関である教育課程審 議会(当時)の2000年12月の「2000年12月 教育課程 審議会答申 児童生徒の学習と教育課程の実施状況の評価の在り方 について」(省内では「12月答申」と呼ばれていた)にもとづい て作成された文書である。 ここに示された、文部科学省の評価の考え方について述べる(以下 つづく)
※なんだか文部科学省の人間のような言い方になってしまったなあ。 各文書の位置づけを正確に伝えたいからである。 ※なお(「なお」も私の文章には多いかな)、昨日も紹介したが、 上で説明した文章には私のHPから簡単に到達できるようにしてい る。http://takashiyoshida.com →左下の方の研究資料へのリンク


ひねくれ教育事典 【つ】の部
 つめこみきょういく(つめこみ教育) 知育偏重とならんで諸悪の 根元のように言われてきたが、今の子どもは何もつめこまれなさす ぎている。からっぽに近い。からっぽのびんを振り回しても何も出 てこない。・・・・と、中身の残り少なくなったびんを振り回して いる研究者もいる(^^; 最近、見栄をはって Output 過剰気味なの で、Input に四苦八苦しているという噂


。 酒が飲みたい、ランニングがしたい、本が読みたい、教育もきちん とやりたい、研究ももう少しまともにしたい。発信もしたい。いい 年こいて私はかなり欲張りである。このうちどれか二つくらいは削 らないといけないのだがどれも削りたくない(酒を除いては、Input Output すべてにわたって遅れているのだ。若い人がどんどん私を追 い越していく。それがたまらなく悔しいのである。酒だけは負けな いが・・・・)。やるっきゃない。