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メッセージ

04/1/20 (Tue)

読んではいけない(とくに学生は)本!!

先崎学『小博打のススメ』(新潮新書)・・・大学の生協には新潮新書の新刊はたいていおいてあるのだが、この本は置いてなかった(当然か)。
先崎は青森県出身の将棋の棋士(八段)。あの羽生名人と同年代で、子どもころから「天才」と言われたのだが、やや羽生におくれをとった。それでも一流の棋 士と見られるA級八段まで上りつめた。羽生名人や谷川棋王を見れば分かるように今の将棋の棋士はみな紳士である。しかし、先崎は中学生のころから麻雀屋に 出入りし、酒、たばこを吸っていたという。「最後の無頼派」である。その先崎の本。
麻雀、トランプ、サイコロ、花札、などのゲーム(このゲームに少しの金をかけるのが小博打である)などといっしょに、「手本引き」というゲームが紹介され ている。先崎はこのゲームを「日本裏文化が残した、博打の最高傑作」と言う。耳慣れない名前だが、それもそのはずだ。「その筋の人御用達」の禁断のゲーム だったからだそうだ。解説を読んでいるだけでも確かにおもしろい。わくわくしてくる。
読むとはまりそうな本である。だが、先崎は前書きで次のように言う。
「本書は博打をすすめる本ではない。小博打を楽しんでいただく本である。楽しむために一番大事なことは、博打というものが、お金をやり取りするものである ことをしっかりわきまえて、その恐ろしさを決して忘れないことである。金の持つ力は魔力だ。それはたしかである。それをきっちり分かったうえで、また人間 というものがいかに欲望に対する自制心が弱いかを知ったうえで、健全に小博打を楽しめば、生きるということが豊かに、そして楽しくなるのである」
ははは。かなり分裂気味の文である。心にもないことを書くからこんなことになる。「自制心の弱い」人間が「健全に」小博打など楽しめるものか。先崎がそれ を知らないはずがない。
この本を読んで小博打を楽しんだということくらいで止めておくべきだろう。小博打を楽しまなくとも、人生を豊かに楽しくする方法などいくらでもあ る。・・・・でもやってみたい(^^;
先崎は私の好きな棋士の一人である。将棋の方でもっと活躍してもらいたい。

今日も午後2コマ授業。
来年のシラバスをWEBを利用して入力しなければならない。今日までということになっている。
しかし、「WEBを利用して入力しなさい」という通知が紙で来るというのもどうしたものか。
とにかく紙の山である。電算化はまだまだである。

04/1/19 (Mon)

A.M. 9:45
雪で、滑って転んで、しりもちをつく。学生に目撃される。

04/1/19 (Mon)

コンビニの店員(なぜか大学生協も同じ)が大声で言う。「いらっしゃいませ、こんにちは」。今度コンビニに言ったら、同じように大きな声で、 「こんにちは」とあいさつをかえしてみよう。どんな顔するか楽しみだ。「いらっしゃいませ、こんにちは」は「リアクションを期待しないコミュニケーショ ン」である。その他、「お近くにお越しの節は、ぜひお立ち寄りください。」「優先席付近では携帯電話の電源をお切り下さい」「あなたの健康を損なうおそれ があります」なども、同類である。
野口恵子『かなり気がかりな日本語』(集英社新書)は、タイトルの通り、気がかりな日本語について述べた本である。素材の大半が大学生から集めたものであ ること、使う側の心理を分析していることが、類書とは違うところである。

今日は、午後に授業が2コマ。その前に片づけないといけない事務的な仕事がだいぶある。
ただ、この土日はゆったりと過ごしたので気分的にとても爽快だ。

04/1/18 (Sun)

『現代教育科学』2月号(明治図書)の特集は「「公教育の役割」教師に求められる新しい資質・能力」。
巻頭は田中統治氏(筑波大学:一昨年9月にいっしょに飲んだ。とても楽しい人だった)の「学力を保障するためのカリキュラム開発の力量」。
田中氏は次のようにのべる。
「学校の責務としての学力保障の進め方を考えてみると、たとえば教育課程の原理に履修主義と習得主義の考え方がある。最近の教育改革は前者から後者に転換 し、学力保障の基準を明確にしたと言ってよい」
だから教師にはカリキュラム開発の力量が求められるというわけだ。
だが、田中氏の言うカリキュラムとはどのレベルのことなのか。我が国ではカリキュラムの編成権は、学校や個々の教師にはない。学習指導要領で決まっている からだ(学習指導要領そのものがカリキュラムとも言える)。仮に個々の教師が編成できるとすれば単元レベルのカリキュラム(これをカリキュラムとよべる か?)である。しかし、単元レベルなら、一人ひとりの教師が開発しなくともたくさんの書籍が出ている。最終的には教師の力量が試されるのは1時間1時間の 授業である。
カリキュラム開発などいう大きなことより、足元の授業をきちんと見直すことが先である。(大学も同じ)
連載の宇佐美寛氏の「続・授業にとって「理論」とは何か・語用論の原理2」。語用論を自覚すること・・・教師の鉄則である。「人見て法解け」

昨日は、気持ちが乗ってトレッドミルで18キロ。「おいしいものを食べて」帰るつもりが、おいしいものを飲んで帰ることになってしまった。でも、「歩いて 帰る」を規則にしたので、酔っぱらいにはならずにすんだ。

04/1/17 (Sat)

このところゲストブックに書き込みをしてくれる曽我部清典さん、通称 EBAKOS(逆さに読んでください)さんは、知る人ぞ知るトランペット奏者である。ゲストブックには突拍子もないことを書いているように見えるが、実は 本当に突拍子もない人である。私が一番驚いたのは、ゼフュロスという楽器である。
もう8年も昔の話だが、パソコン通信上で私がゴミをまいた。「音が出ないトランペットはナランペット、ピッチの悪いのはイランペット・・・・スライド式の はシランペット」などと書いて悦にいっていたら、曽我部さんから反応があった。「私はスライド式のを持っている」と。
曽我部さん考案のその楽器がスライド付きトランペット、ゼフュ ロスである。詳しくはご自身のHPで見ていただきたい。私もコンサートやCDで聴いたことがあるが、表現力のある楽器である。だから多くの作曲家 がこの楽器のための作品を書いている。
と言う訳なので、しゃべるトランペットもぜひ実現してほしいと思っている。

今日は、センター試験だが教育学部は当番に当たっていないためお休み。ゆっくり過ごすつもりである。
走れていないので、いまからフィットネスクラブに行って筋トレゆっくりやって、トレッドミルで10キロ、気が乗ったらプールに入ろう。
帰りに紀伊国屋によって、そのあとどこかでおいしいものを食べて帰るとしよう。

04/1/16 (Fry)

昨日、附属小で授業をした。小専音楽科教育法の受講者約50名が見ている前である。
日頃担当していらっしゃる先生の計画を壊さない内容の授業をした。
昨日迷った導入については、結局何もせず、「既習曲を歌う」で落ち着いた。
指導案を書いていた(まだ、公開していない)が大幅に変更した。
とりあえずすんだ・・・というところである。
来週の大学の講義で、この授業を材料にして授業づくりについて解説する予定。

このところ走れていない。ちょっと欲求不満気味である。

そういえば私は「ちょっと」が多い。「ちょっと」はオトナ語の一つみたい。
「丙丁つけがたい」「パワポ」「手前ども」「直帰」「午後イチ」などなど、オトナ語の解説書が出た。
糸井重里『オトナ語の謎。』(東 京糸井重里事務所)
「。」に注意。「モーニング娘。」みたい。

04/1/15 (Thu)

昨日は、おとなりでおめでたいことがあったので、それを肴にして4人で飲んだ。
よいことがあったから飲むのはいいもんだ・・・酒の鉄則とも言えるのだがなかなかこうはいかない。

今日も雪。
午後附属小で授業をすることになっている。全体の計画はとっくにできているのだが、導入で迷っている。
うーん、うーん、うーん、

話変わって
私は今年になってひそかに決意したことがある(「ひそかに」といいながら公開している)。
「市内での移動に乗り物は使わない」である。
どんなに雪が降っても、どんなに酒を飲んでもバス、タクシーは使わないで歩くか走る。
歩く・走る時間は無駄なようだが、私の場合この時間が一番脳味噌が働いているような
気がする。考えているのはたいていこの時間である。
乗り物を使わないためには
・乗り物を使わなくてよいくらいに時間的なゆとりを持つ。
・タクシーを使って帰らなければならないほどには飲まない。

そう決めたら外に飲みに出る日がずいぶん減った。
やっぱ雪の中を歩いて変えるのはつらいので。

そうなのだ。私は、「ほどほどに」ができないのだ。中毒になるのだ。
10年前に車をやめた。やめられなかったらいけないので免許証を捨てた。
3年半ほど前に○○○○をやめた。ほどほどがつらかったからだ。
しばらくして、たばこをやめた。人に迷惑をかけずにたばこを吸うことなど不可能だ。
それから結構はまっていた「ハ○チンコ」もやめた。というより、これをやると
たばこが吸いたくなるのでやめた。最近はたばこの誘惑がなくなったので1月に1回くらい。
今年乗り物をやめた。

まだ中毒が抜けてないものがある。
・酒−−−−やっぱり私の体の中に酒虫がいるのかもしれない。追い出すのはかなり大変だ。
・インターネット−−−−何も用もないのにサーフィンするくせがある。
(けっこう、これに時間を使っているみたい)
・本−−−−自分の専門の研究には何にも役に立たない本が好き。専門に近い本は嫌い。
東京時代は、電車で通勤していたのでこの時間を使うという言い訳ができたが・・・
・ランニング−−−−これはやめようと思えばいつでもやめられるが、やめたらどうなるのか
とてもこわい。

つまり Selfcontrolが全然できないのである。
だから All or Nothing までなってしまうのである。

でも、仕事中毒だけはなったためしがない。
基本的に言って、音楽があんまり好きじゃないのかも。

まだ迷っている。うーん。うーん。うーん。

04/1/13 (Tue)

今日は会議だった。とっても疲れた。
明日は教授会だ。想像しただけで疲れた。
酒飲む言い訳ができた(^o^)v

生協の本屋に行ったら新書の新刊がどーんと出ていた。
(空前の新書ブームだ。私はミーハーなのでこのブームにはついついのってしまう。
けっこう好きなのが、文春、ちくま、洋泉社である。・・・・と言うと「右」と言われ
そうだ。ちなみに岩波とか集英社を読んでると左ということになり、講談社、中公あた
りだと、中道ということになるそうだ。だが、そんな時代じゃない・・・おっと脱線)
ちくま新書と洋泉新書yから数冊ずつ買う。ついでに小学館文庫の『ゴマ専7』も。
ちょっと眺め読みしておもしろかったのが岩木秀夫『ゆとり教育から個性浪費社会』
(ちくま新書)。あのゆとり教育をすすめてきた官僚(例えば寺脇研氏)や教育学者
をポストモダニストと呼ぶ。うーん、そうだったのか。8年ちょっと勤めた前の職場
にもそういう研究者がいたが、ポストモダニストとは気が付かなかったなあ。
ということは、生活科で有名な私の直接の上司だったNS氏などは超々ポストモダ
ニストってことになるのかなあ・・・日本型ポストモダン?

04/1/12 (Mon)

採用試験や大学入試の小論文の課題に「・・・・・・について、あなたの経験をもとに述べなさい」というのがよくある。
どうしてこんなひどい問題を出すのかよくわからない。あなたの経験と言ったところで、人生たかだか20年ほどである。
そういう人間が自分の経験で何が言えるのか・・・。こういう問題を作る人間の「人生経験」を疑う。
例えば、重病で入院している人は、見舞いの客に「がんばってください」と言われるのがとてもつらいそうである。
このことを題材にした小論を読ませて、学生に自分の意見を書かせる。すると次のようなことを書いてくる。
「私が高校の時、部活動をやめようと思っていたら先生から「がんばれ」と言われてとてもうれしかった。だからがんばることは大切だと思う」
私は「あなたの経験をもとに」などとは言わなかったのだが、そういう習慣がしみついているのである。
いっぱしの意見を言おうと思うなら、まず意見を言おうとしていることがらに関する基礎的な知識、意見を言うための基礎的な技術が必要である。そのためには まず読書である。
遠慮がちに言う。大学生の場合、新書レベルの本を月に2冊、夏休みや冬休みもあるので年に25冊、4年間で100冊は読むべきだ(もちろんこれでも少な い。私の友人の大学教師Fさんは「身銭を切って月に2万は本を買え」と言ってるそうである。そういいたのだが、言えないところがつらい。ジャンルは問わな い。少しくらいわからないところがあっても気にしない。とにかく多読することである。
いつまでたっても自分の経験した範囲でしかものが言えないとは情けない。ただでさえ弘前は狭い世界なのである。視野を広げるにはとりあえずは読書しかない ではないか。

そうだ、今日は紀伊国屋に行こう!

04/1/10 (Sat)

3連休の1日目、午後から大雪の気配である。

ゲストブック[78](過去ログで見られます)に次のように書いた。

> 本当は、イスラム教とユダヤ教は対立していたわけではないのです。むしろこの対立は政治的につくられたと思っています。

次の本を読んで、なおこの考えを強くした。
マハティール・モハマド『立ち上がれ日本人』(新潮新書・680円)
言わずと知れた、昨年10月まで27年間にわたってマレイシアの首相を勤めたマハティールの本である。日本人として元気になれる本だ(もちろん全面的賛成 しているわけではない)。一番よいのは第4章「日本人こそイスラム教を理解できる」。ここを読むと世界平和への糸口が少し見えてくる

04/1/9 (Fry)

教員養成課程(弘大とは限らない)に勤める教育学者と心理学者の会話

教育学者「心理学なんて心理学の論文を書くためだけに存在する学問だ」
心理学者「教育学なんて空理空論ばっかりだ」

別の意見
ある有名な実践家「教育学者はすぐ過去と外国に逃げる」

我が音楽教育学を見てもだいたい上の3つくらいに当てはまりそう・・・
(みんながみんなという訳じゃあありませんからね)

1)空理空論を振り回す教育学的研究
2)外国と過去のことしか言わない教育学的?研究
3)論文を書くことが自己目的化した心理学的研究

じゃあ、お前は何だ? と言われたら
どっちかと言うと空理空論を振り回してきたのかな(泣)

04/1/8 (Thu)

このところ、1日おきに雪がふってはとけて、という日が続いていた。
しかし今日は大雪である。これから数日は雪、という天気予報である。
やっぱりこうでなくっちゃ・・と言うと地元の人にはしかられる☆\(^^;)
でも、今朝はしっかり雪の中を13キロ走って来た(走りはじめるまでは
勇気がいるが走りはじめると何と言うことはない)。

明日から授業がはじまる。会議も増える。最後の冬休みだ・・というわけで
今日は今年はじめての年休をとった。家のことをいろいろする。

午後は市役所等に行ったりして、たまっているいろいろな手続きをしよう!
夜は......

副田義也『死者に語る−弔辞の社会学−』(ちくま新書・720円)を読んだ。
おもしろい!。とくに第2章の「政治家の弔辞」が。岸信介元首相の葬儀での
中曽根康弘首相の弔辞の分析はすごい。弔辞は伝記、弔辞は現代史・・と言い
つつしっかり著者の主張をする。「社会学者は主張しない」と思っていた(近
くにいる社会学者のみなさん、社会学なんて個人的な好奇心にちょっと学問的
なお化粧をしたくらいの学問だと思っていたのよ。ごめんね)。ちょっと認識
が変わった。

04/1/6 (Tue)

眞先(まさき)敏弘著『酒乱になる人、ならない人』(新潮新書)を読んだ。
恐ろしいことが書いてあった。
これからも酒をおいしく飲みたいと思う人は読まないでください。

04/1/4 (Sun)

今日は津軽は雪でしたが、勇気を振り絞って走ってきました。
家から弘前城公園の外をぐるっとまわって帰ってくるとだいたい12キロです。
ところで、12キロ走るといったいどのくらい痩せられるのしょうか。
よく聞かれるので書いてみます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
時々人に聞かれます。
「走るのはダイエットに効果がありますか?」
この質問は実は間違っています。Dietは「食事」やや広げて「食事療法」という意味です。
ダイエットを減量という意味で使っている人(マスコミなども含む)もいますが、意味の広げすぎです。
ダイエットというのは減量の一つの手段です。そしてもう一つの減量の手段が「走る」を含む運動です。

問題は「走ると一体どのくらい減量できるのか?」ということです。
例えば、走る前に体重を計ります。10キロ走って帰ってきて体重計にのります。最大の場合3キロくらい減っています。
しかし、これは減量とは言いません。体から水分(汗)が出ていっただけです。出た水分は補給しなければならないのです。
水分を補給すれば結局体重は戻るのです。補給しなかったら脱水症状になり危険です。「水を飲んではいけない」などという
説もあるそうですが、古い昔の説です。・・ちなみに△木そ○子式ダイエットでは「水分をとるな」と言ってましたが、
大きな間違いです。

本当の減量とは、体の脂肪を燃やすことを言います。個人差はありますがだいたい次のように考えてください。
(どの本に書いてあることもだいたい同じようなものです)

・体重Xキログラムの人が1キロ走る(早足で歩くでもよい)とXキロカロリー消費する。
・7200キロカロリー消費すると、体脂肪が1キログラム燃える。

では実際に応用してみましょう。計算しやすいように体重72キロの人(昔の私)の例で考えてみます。
この人が毎日2キロのジョギングをしたとします。
72キロの人が1キロ走ると72キロカロリー消費しますから2キロだと144キロカロリー消費します。
7200キロカロリーで1キログラムですから、144キロカロリーだと0.02キログラム、つまり20グラム減量できます。
10キロ走ってやっと100グラムです。体重の少ない人はもっと効果薄です。

ジョギングで減量できる量なんてごくわずかですね。10キロ走ってもいつもの食事よりカレーライス1杯(約700キロかろりー)
余分に食べたら、それでもうおしまいです。
「なーんだ」と落胆されたあなた! それだけ時間をかけて自分で脂肪を貯め込んだんだからしかたないでしょう。
時間をかけて消費しましょう。

とは言うものの続ければ必ず効果が現れます。健闘を祈ります。

04/1/3 (Sat)

2004年もはや3日が過ぎようとしている。
2005年まであと363日である。ちなみに今年は閏年である。2月は29日ある。オリンピックがある。
アメリカで大統領選挙がある。その他、大学の行事、入学式、定期試験、入学試験などは例年通り行われるので
十分に気をつけていただきたい。
なぜ、「3日が過ぎようと」などとどうでもよいことを書くかと言うと、他に書くことが何もないからである。
まずランニングのことでも書こうかと思ったのだが、今日はそれもさぼったのである。
私は朝ランニングをすることにしているのだが、朝起きた時にまずすることは走るのをさぼる言い訳探しである。
雨が降っていたり雪が降っていたり路面が凍っていたりすると、即ランニングをとりやめることにしている。
その他、ひざがちょっと痛い、頭がちょっと痛い、体調がちょっと悪い、前の日の酒が残っている、
前の日のいやな出来事も残っている、悪い夢を見た、洗濯をしなけれならない、ゴミを出さなければならない、
宿題をしていないなどが言い訳になる。
今日は、その言い訳が何も見つからなかったのでランニングを休むことにした。
それから3日ともなると5日朝にメールで送らなければならない原稿のことも気になる。この原稿、昨年のうち
に少しはとりかかっている(ワープロソフトで原稿のスタイルだけとりあえず設定した)のだが、それからあと
は何も書けなかった。それでも勇気を振り絞って仕事を始めようとしたら、テレビで箱根駅伝の復路をやっている。
別に見なくても結果は同じだし、ひいきの大学もないので見る必要はないのだが原稿を書くよりはるかに楽しいので、
ついつい最後まで見てしまった。以下・・・いろいろ言い訳をつけながらくらしていたら、もう6時30分である。
そろそろの酒の時間である。まあ、明日できることは明日やることにしよう。
というわけで貴重な貴重な366日のうちの3日を浪費してしまった私である。

04/1/2 (Fri)

新年おめでとうございます(なぜおめでたいのか・・などというこうとはこのさい問わないことにしましょう)。
今年もひたすら走り(いろいろな意味で)続けます。ご声援をよろしくお願いします。

03/12/31 (Wed)

今年も、残すところわずかとなりました。
うまくいったとは思いませんが、中身の濃い1年だったと思います。

今日は、朝12キロのランニング・・・これで年間2500キロ達成です。
HPを少し変えました。大幅リニューアルといきたかったのですが。

このメッセージの過去ログを整理したこと、色を変えたこと、それともう一つ・・・JavaScript を使って・・・・

では、このページに来てくださったみなさん。今年は本当にありがとうございました。
月並みですが、良いお年をお迎えください。

03/12/30 (Tue)

2000年問題解決!

昨日書いた2000年問題を考えると夜眠れなかったので考えていたら、簡単に解決しました。
if を使えばいいのでした。ソースを覗いてください。

03/12/29 (Mon)

2000年問題が解決していない。

私のトップページの 吉田孝 ONLINE の右の日付けの所に注目してください。
IEで御覧の方は問題ないのですが、Netscapeで見ると何と、西暦が 103年になるのです。
どうもその理由は次のように考えられます。
私は、西暦年を次のようにgetして書いています。

today = new Date();
document.write((today.getYear())+"/");

どうもNetscapeはgetYearに対して
103を返してくるようなのです。1900年を0年としているのです。
つまり2000年問題を解決していないのですね。
それで、そうならないように、年のところだけは直接
document.write("2003/");
としてきたのです。これだと、IEでもNSでもちゃんと2003/と出ますが、2004年になっても2003/とでることになります。
一瞬でも、2003/01/01/ は見せたくないので、
document.write((today.getYear())+"/");
に戻しました。でも、NSの人には、204/01/01/ に見えてしまいそう。
うまい解決方法わかりませんか。

03/12/29 (Mon)

今日2回目のメッセージ(今5時40分です)

今大学の研究室です。3時間ほど仕事しましたが、もうスチームの暖房は止まっています。
ガスストーブ一つではちょっと寒いです。ちょっと(・・ですまないと思う)飲んで帰ることにしましょう。

あと二日です。

03/12/29 (Mon)

今日はランニングの話

私はとても太りやすい体質なのである。だからトレーニングを休むとすぐ体重が増える。
ついでに顔が丸くなる(でかいツラがさらにでかくなる)。
そういうわけでは今日は、路面が凍っているのを承知でムリして走って来た。
何度もすべりそうになったが、それをふんばるのも何らかの訓練になるのではないだろうか。

今年もあと2日、あと20キロ走ると1年で2500キロ走ったことになる。
なんといっても、今年はサロマ100キロ。制限時間13時間を12時間40分で完走。
ただ、そのあとがさっぱりだった。

来年はなんとかフルマラソンでサブフォーを達成するぞ。


03/12/27 (Sat)

昨日から雪が降っています・・・と書かなければならないほど今年は雪が降ってないのです。
この年末年始に高知生まれで高知育ちの息子が遊びに来るのです。「雪が見たい」が理由です。
雪がなかったらどうしようと思ってましたが何とか見せてやれそうです・・・ホッ。

03/12/25 (Thu)

昨日は、何か疲れ果ててしまった。
夕方ちょっと家に帰って、出かけようと思っていたら、居眠り。気がついたら9時をまわっていた。
何ということだ。
今日は教育フェスティバル。夜までずっと行事。何となく気が重い。

03/12/24 (Wed)

今日は、クリスマス・イブ。
今から2003年前のこの日の夜、イエス・キリストがベツレヘムで生まれたということになっている。いや、イエスははじめからキリストとして生まれたので はない。ヨシュア('イエス'はヨシュアのギリシャ語発音)というイスラエルならどこにでもあるごくありふれた名前の男児として生まれたのである。

このページのゲストブックにも出てきたが、12月というのは「史実」ではないだろう。「ベツレヘム」もかなりあぶない説である。旧約聖書にそういう予言が 書かれているのでそれに合わせた(ダビデの末裔でなければならない)だけである。さらに処女降誕も当然「史実」ではない。出生が怪しいのであとの人がそう いう話をつくったのである。それにしても、処女降誕と言いながら、「マタイによる福音書」にアブラハムから父ヨセフ(処女降誕ならこの人は本当の父ではな い)に至る長々とした系図を載せているのもおかしい。ついでに言えば聖書にあるさまざまな奇跡や復活は全部「史実」ではない。この世界ではほとんど無力な まま、ただ十字架に架けられてられて死んで行った惨めな男、それがイエスである。イエスがキリストになったのは、死んであとのことである。

というわけで私はイエスに関わる奇跡話のいっさいを「史実」としては認めない。
これを全部「史実だ」と言い張るなら、キリスト教は自らをカルト集団に貶めることになるだろう。
では、何故?

03/12/23 (Tue)

今日は、公私ともにいろいろな意味のある日。

まず私。長女の○○回目の誕生日である。あの日のことは忘れない。大変だった。

一方今日は、天皇誕生日である。国民の祝日である。
にもかかわらず、日本人にとっては忌まわしい日でもある。
今から55年前 1948(昭和23)年の今日、12月23日に東条英機元首相、広田弘毅元首相ら7名のA級戦犯が絞首刑になった。
日本が行ったあの戦争をどう評価するかは別にしても、7名に死刑判決を下した東京裁判だけはひどい。
勝者が敗者を裁いた野蛮な裁判としか言いようがない。
それにしても、どうして12月23日なのか。おそらくこの日が将来「天皇誕生日」になることは分かっていたはずだ。
アメリカの嫌がらせなのだろうか。

ちなみに、絞首刑が執行された巣鴨プリズンの跡地には、サンシャインビルが立っている。
55年前にそんなことがあったとは思えないくらいに、今日はにぎやかにクリスマスの音楽が鳴り響いているのだろう。

03/12/22 (Mon)

東京出張から戻っていました。
今回は、いろいろな人に会うことができました。
また、日曜朝には皇居内堀1周(5キロ)もできました。
とても収穫の多い東京行きでした。

ところで私は今、本気で禁酒を考えています。
酒がなくても人生が楽しくなる方法はないものか・・・

煙草をやめる前は、
「たばこを吸わなくなると人生の大切なものを一つなくすような気がする」
と思っていたのですが、それが錯覚だと気が付いたらすぐやめられました。

お酒も
「酒をやめると人生の大切なものが一つなくなるような気がする」
と思っています。今のところこの考えをどうしても捨てることができないのです。

お酒のために失ったものはたくさんあるのに・・・・

03/12/20 (Sat)

12月7日にNAHAマラソンでフルを走って以来、トレーニングを休んでいましたが、
一昨日から少しずつ再開しました。
まず、5キロずつ走りました。
明日の朝は東京です。久しぶりに皇居の内堀通りを1周してみようと思っています。
なぜ走るかって・・・・師走だから。

03/12/19 (Fri)

★今からちょうど3年前の12月19日に私は次のような「研究論文?」を書いた。
発表したら「実にくだらない」と言われた。「頭がおかしくなったんではないか」
と心配して電話もかかってきた。それくらいくだらない「論文」である。
少し訂正して再掲する。

クリスマスに関する哲学的考察
                       吉田 孝

もうじき、クリスマスがやってくるらしい。「らしい」と書いたのは、クリスマスが
やって来ない人もいるかも知れないからだ。明日生きているかどうかも怪しい人もい
るし(それは私かもしれない)、そもそも<クリスマスがやってくる>という言い方
が論理的に成立するかどうかが、十分に検討されていない。ただし、時間と紙数と私
自身の思考力(これが一番大きな理由である)に制限があるのでここではその検討を
省略する(注1)。
そういうわけで、どう言う訳でかは知らないが、「クリスマス」「クリスマス」と言
って、猫も杓子も大騒ぎするのはいかがなものか(「いかがなものか」とは自分の意
見を言わずに何となく周りに同意を求める時のとても都合のよいことばである)。大
騒ぎしている場合ではないのである。
中でも一番大騒ぎしている場合でないのは私である。25日締め切りの原稿に四苦八
苦しているどころか、まだ何も手をつけていないのである。おそらく25日になった
ら(先に述べたように25日になるかどうかも不確定であるが、無事25日を迎えた
と仮定して)、「クリスマスが来るのがはやすぎる。クリスマスが1月25日だった
らいいのに」と愚痴を言っているだろう。
二番目に大騒ぎしている場合でないのは猫と杓子である。猫はたまに騒ぐこともある
が、たいていは春先であってクリスマスはおとなしくしている(ほれっ、「ねこはこ
たつで・・」という有名な唱歌があるじゃないですか)。いわんや杓子が大騒ぎをす
ることは絶対にないのである(ちなみに、広島市民球場でカープの応援団が打ちなら
しているのは、杓子はなくしゃもじである)。だから「猫も杓子も大騒ぎ」というの
は不当な言い方である。万国の猫と杓子諸君は断固抗議すべきである。だから大騒ぎ
している場合ではないのである。
また、クリスマスの大騒ぎに多くの良識ある人は違和感をもっていることであろう。
日本は仏教の国だからである。ところがクリスマスというのはイエス・キリストの誕
生日ということになっているということになっているということになっている・・・
・・・・・ということになっているらしい(注2)。
回りくどく言えば、要するにキリスト教の行事でなのである。だから、仏教国なら仏
教国らしく、クリスマスはお寺でお祝いすればよいのである。24日のイブには、木
魚に合わせて「き・よ・し・こ・の・よ・る・ほ・し・は・」と唱えたらおもしろい
だろう。それになかなか音楽的である。私が言っているのだから信用しないほうがよ
い。
もちろんこうなったらキリスト教会のほうでもお返しをしなければならない。釈迦の
誕生日がいつか知らないが、そのお釈迦様の誕生日に、教会でも賛美歌を歌って讃え
るのである。
♪もろびとこぞりてむかえまつれ。
♪ひさしくまちにし、釈迦きませり。
お経を賛美歌の節で歌ってもよい。賛美歌の節には拍子があるので、形式の自由なお
経のことばを付けるのはかなり無理があると言う人がいるかも知れない。しかし、今
の若者はミス・チル以来歌詞と節との関係に相当無理がある歌を平気で歌っているの
で大丈夫だろう(私はおじさんなのでミス・チルどころかサザンさえ歌えないが)。
いずれにしても、お釈迦さまの誕生日を盛大に祝うことにすると、クリスマス(のよ
うなもの)が年に2回あることになる(ついでにマホメッドの誕生日も祝うことにす
れば、世界平和に少しは貢献するかも知れない)。レストランやホテルや宝石店は売
り上げが増え、クリスマスに彼氏・彼女がいなかった若者にもチャンスが増えて、み
んなが幸せになるだろう。
こんなことを書いているとほうぼうから石が飛んできそうだが(そこで眉をひそめて
いる人、ディスプレイに石を投げないでくださいな)、日本という国ではこんなこと
があっても少しも不思議ではないと思う昨日あの頃である。

(注1)かりにこの問題を検討して「クリスマスがやってくる」が論理的に成立した
としても、さらに新しい問題が持ち上がる。例えば私が12月23日にこの世からい
なくなったとしたら、クリスマスはやってくるのか来ないのか。ある有名な哲学者
(名前を忘れた)は「我思う、ゆえに我あり」と言ったが、「我ある。ゆえにクリス
マスがやってくる」とは言ってないのである。「存在と意識」に関わる問題は哲学の
根本問題であり、著書が1冊書けるくらい大きな問題でもあるが、私には1行も書け
なかったので書くのは断念した。
(注2)「ということになっている」を繰り返すのは、情報が又聞きの又聞きの・・
・・・・・・又聞きの場合の常套手段である。もちろんこのような場合は又聞きの経
路も出典もわからない。

03/12/18 (Thu)

オエー 飲み過ぎた
(昨日は忘年会でした)

03/12/17 (Wed)

昨日、はじめて事務的な仕事が追いつかないという理由で授業を急遽休んだ。こんなことは始めてである。しかし後味が悪い。

前にマウスを左で操作するようにした(右クリックが実行・左クリックがメニューになるようにマウスの設定もかえた)という報告をした。
当然だが、右の肩や腕の痛みがとれた。だからといって、左がいたくなるわけではない。左はそれほど使ってないからだ。
そして、やはり脳味噌の感じがずいぶん違うような気がする・・・右脳がうごいている・・・気のせいかなあ。
もちろん、音楽脳が動いてるとは思いませんよ。


History v1.32 [Shigeto Nakazawa]