03/12/16 (Tue)
03/12/15 (Mon) 今日は、急遽附属小学校で授業をすることになりました。
4年生ですが、日頃の当たり前の授業をします。
1月に「小専音楽科教育法」の授業を附属でするための予行演習です。
11時35分間からです。
03/12/15 (Mon) コンビニで弁当を買ったら、店員から「お箸のほう、おつけしましょうか」と聞かれたので、
「お箸は要るけど、お箸のほうはいらん」と言ったら、ぽかんとした顔をしていた。
03/12/14 (Sun)
03/12/13 (Sat)
03/12/10 (Wed)
03/12/9 (Tue)
03/12/9 (Tue)
03/12/6 (Sat)
03/12/6 (Sat)
03/12/3 (Wed)
03/12/3 (Wed)
03/11/30 (Sun)
03/11/28 (Fri)
03/11/27 (Thu)
03/11/26 (Wed)
03/11/25 (Tue) おはようございます。今5時30分です。
ホームぺージの表紙がぐちゃぐちゃしてきたなくなったと思う。なんとかしたい。
ジョギングにいざ出発
03/11/24 (Mon)
03/11/24 (Mon)
03/11/22 (Sat)
03/11/21 (Fri) 26日のシンポジウムで、反対意見を述べるための小文を書いてみた。ご意見をいただけるとありがたい。
学生の授業評価に反対する 教育学部・音楽教育講座 吉 田 孝
1 議論の前提
大学教育にとって授業の質を高めることはきわめて重要な課題である。
授業の質を高めるどうすればよいか。一つは授業内容の質を高めることである。この点では大学教師は研究者だから、自分の研究を基礎に授業を行えば問題は ないだろう。もう一つは授業方法を改善することである。授業方法に関してはほとんどの大学教師は素人である。小、中、高等学校の教師になるためには教員免 許状が必要だから○○教育法というような科目を大学時代に履修するし、教育実習も行うが、大学の教員になるための「大学教育法」などという科目はないから である。また、大学の授業について学ぶ場もほとんどない(小、中、高等学校の教師は研究会などに出かけ、いつも勉強している)。
授業方法を改善するには、大学教師も勉強するしかない。小中学校の教師とまでいかなくとも、せめて高校教師くらいは勉強すべきである。授業に関する本や 文献は山ほどある。小中学校の教師向けの本でも学ぶ点は多い(なんなら私がリストを作ってもよい)。また他の教師から学ぶという方法もある。教育学部の教 員には授業に強い人もいる。そのような人の授業をみたり、また逆にその人に自分の授業を見てもらったらよい。また、授業のための勉強会などを開くのもよ い。
ついでに言っておくが、私は自分の授業をいつ見に来てもらってもかまわない。自分が授業がうまいと思っているから言うのではない。私自身がこの年になっ ても勉強の連続である。うまく行かないことが多い。たまにうまく行く授業もある。いずれにしても見てもらって意見をいただけると自分の授業の改善につなが る。
上のようなことをしないで、学生による授業評価をしてもほとんど効果はない。効果がないどころか有害でさえある。学生による授業評価は教員に少しばかり のプレッシャーをかけるくらいのことである。授業評価があるから授業を改善するなどというのはむしろあってはならないことである。そのような動機で行う授 業の改善が実効性のあるものになるはずがない。
2 学生による授業評価の有害性
学生による授業評価が有害である理由について5点にわたって述べる。
(1)人権侵害である
他人を評価するということには必ず責任が伴うものである。また責任を伴わせるべきである。学生には責任能力も責任意識もない。例えば、学生からのアン ケートによって、ある教員に「あの先生は授業に熱心でない」というような印象が持たれるとする。それでも反論のしようもない。名誉毀損であり、人権侵害で ある。
「無責任な学生の意見として読めばよい」という反論もあるかもしれない。しかし、それなら公開する必要もない。
今のところは、気分が害されるだけですんでいる。しかし、具体的な賞罰なども与えようという案があるようだ。もってのほかである。学生の無責任を助長さ せるだけである。
(2)学生が「自分たちは評価する資格がある」と思いこむ
学生は今学習している途中である。学問の深さも知らない。教育の難しさも知らない。社会のことも知らない。
学生による授業評価は、その未熟な学生に「自分たちは評価する資格がある」と思いこませることになる。それによって研究や学問を甘く見る。社会のことも なめてかかる。
教育学部の教員養成課程の学生の場合、教師になるために学習している。一度でも教育実習の経験をした学生は、自分が大学教員の授業を評価することがどれ だけ怖いことかが分かるだろう。
(3)顧客意識を招く
私は、自分の授業の最後に必ず感想を書かせている。「学期の終わりにアンケートなどに授業の悪口を書くのは姑息だ」と言ってある。私の授業方法や授業内 容に対する批判ならいくらでも受け入れる。学生の意見に耳をかたむけるべきだというならそうすべきである。私の気づかなかった貴重な意見をもらうこともあ る。私が間違っていた場合には次の週に素直に謝る。もちろん反論することもある。
しかし、次のように情けなくなるような感想を書いてくる学生がいる。私が「居眠りは許さない」と注意したときの感想である。
「あくびというのは生理現象で眠ることイコールでは決してない。昔からよく注意されたが別に眠ろうとかつまらないという意思表示ではないし、しゃっくり やせきのようにおさえようと思っても出てしまうので眠ることはともかくあくびは勘弁して欲しい」
全体に泣き言を言う学生も増えた。何という志の低さか。
また、あるオムニバスの授業で、私が教壇に立ったのに私語をやめないから少し強い調子で叱ったあとの感想である。
「どうしようもないことやどうでもよいことで叱られるとむかつく」
(オムニバスの授業でその授業1回きりだから、私が教壇に立った時に私語をしているのは私の責任ではない。私は、決してそんなことはさせない。チャイムと 同時に授業がはじめられるよにしている。だから授業の5分ほど前には教室に行って準備をする。いやな教師だと思われているかも知れない)。
こういうことがはずかしげもなく言えるのは、学生の中に顧客意識が広がっているからである。勉学は基本的には自分の意志で主体的に行うものである。決し て他人(教師)から売ってもらうものではないのである。顧客意識の広がりは大学教育全体の質的低下を招く。ただ学生による授業評価がそもそも学生が顧客で あることを前提に行われているとすれば、もうどうしようもない。
(4)問題の解決をおくらせる
授業評価アンケートに次のような質問項目がある。
「授業担当者の声はよく聞き取れましたか」
「黒板の字はよく読みとれましたか」
学期の授業の最後にこんなこと聞いてどうするのか。よく聞き取れなければ、授業中に「聞き取れません」と言えばいいのである。読みとれなければ「読みと れません」と言えばいいのである。そう言われたら私なら、「前の席に座りなさい」と指示するだろう(ただし、私はそういう必要もない。教室の収容能力が学 生数より高い時は全員を前方に座らせる。一番最初の授業で、「後ろから4列目までにすわっている人、起立!それより前のあいている席に座りなさい」。学生 は不満そうに席を移動するが、授業を進めていくうちにこのほうがよいことが分かる)。こんなことを学期の最後までひきずってはいけないのである。解決でき るときに解決すべきである。このような質問は、この大学が「聞き取れません」ということをアンケートで答えさせなければ解決ができないほど、教師と学生と の関係が悪化していると宣伝するようなものである。そんなことはないはずである。
(5)特殊な授業観の押し付けである
アンケートに次のような設問もある。
「授業担当者はこの講義の目的や目標を明確に説明していたと思いますか」
このような設問を平気でつくれる人は、授業研究をしたり授業研究に関わる著作を一度たりとも読んだりしたことのない人なのであろう。
授業の目的や目標を明確に説明することが良いことだ、というのは授業に関する一つの考え方、一授業観にすぎない。
例えば「目的」に関して言えば次のようなケースがある。
@目的をあらかじめ学習者にわからせたほうがよい場合
A学習のあとで目的をかわらせた方が良い場合
B学習者自身に目的を考えさせたほうが良い場合
ごく一般的に言えば、学習者が熱心に学習できた場合、教師があらためて授業の目的などを話す必要はない。目的や目標を授業内容とは別に説明しなければな らないとすれば、その授業が学習者にとってよほどつまらないからである。つまり「授業はつまらないかも知れないが、こんな目的があるのだから我慢して聞き なさい」である。つまり目的や目標を説明するのは、非常手段なのである。
もちろん私が書いていることも一つの授業観である。押しつける気は毛頭ない。だが、FD委員会は権力でもって特定の授業観を押しつけているのである。
授業評価を進める人たちは、さまざまな授業観や授業思想があることを軽視し、ひいては教育研究を軽視しているのである。
3 流れを変える
1の「議論の前提」で述べたように、授業の改善はきわめて重要である。
しかし、その授業改善は学生を顧客として扱い顧客のニーズに応えるためのものであってはならない。学問の楽しさ、そして学問の厳しさを教えるための授業 改善が必要である。そしてその改善も研究を基礎に行われるべきである。FD委員会はそのような研究をすすめるための手だてを考えるべきである。
なお、どうしても学生による授業評価をすすめるとすれば次のようにすべきである。それは教員だけに厳しい責任を負わせるのではなく、学生にも責任を負わ せることである。例えば、大学で単位を修得するためには、講義時間の他にその二倍の時間を家庭で学習しなければならないことになっている。これを厳密に義 務づけるのである。そのくらい勉強しなければ単位が取得できないくらい授業を厳しくしたり課題を出したりする。そうすれば、サークル活動やアルバイトの時 間はなくなるはずである。当然サークルやアルバイトは完全に禁止する(体育館やグランドの証明もいらなくなる。電気代もかからなくなるから経費の節約がで きる)。そこまでやる気があるなら、学生による授業評価を続けたらよい。
学生による授業評価は社会や行政に対するパフォーマンスでしかない。
03/11/20 (Thu)
03/11/19 (Wed)
3/11/17 (Mon)
03/11/13 (Thu)
03/11/10 (Mon)
03/11/6 (Thu) 私は学生による授業評価には反対です。
今まで、確信を持って書いてきました。私が学生に批判されるのがいやからではありません。
そういう評価をさせること自体か非教育的だと思っていたからです。
そのことを確信を持って書いてきました。
最近、その確信が揺らいできました。
世の中には学生以下のとんでもない大学教員がいることがわかったからです。弘前大学ではありません。
弘前大学にはそんなひどい先生はいないと信じたいものです。
「おまえだ!」とか言われたりして・・・(^^;
03/11/5 (Wed) 9月末のアップルマラソン以来、トレーニングをさぼっていましたが、今日久しぶりに早朝10キロのジョギングをしました。
少し、体がなまっているようです。12月7日(日)のNAHAマラソンに向けて少しこれから少しずつピッチをあげていきます。
03/10/30 (Thu) 「シラバスは学生との契約だから」というのは、もちろん弘前大学だけで言われているのではない。現在の大学においては、学生は顧客(そ ういえば教授会で「User」と言う言葉もきいたことがある)だから、学生と教員も対等の契約を結ぼうというわけである。ではシラバスを本当に契約書とい うふうに考えて見よう。そうするとどうなるか。
教員だけに契約を履行させようとするのは不当である。当然、学生も契約を履行しなければならない。学生が履行すべき契約とは何か。例えば講義に関しては、 講義の出席とその講義時間の倍の時間を自宅等で学習が義務づけられる。それをしない学生は契約不履行である。契約不履行であれば当然、Userとしての権 利も放棄したとみてもよいはずだ。ある製品(例えばコンピュータ)を買ってそのマニュアル通りにその製品を使わなかった(例えばちゃぶ台の代わりに使っ た)ために壊れたとしても、メーカーに対してクレームをつける権利はないのといっしょである。だからそのような学生は、教師の授業にクレームをつける権利 も授業の評価をする権利もなくなる。
学生が契約をきちんと履行しようとすれば、食事や睡眠の時間を除いてはすべての時間を学習に費やすしかなくなるはずである(そうなるととてもよいと思 う)。サークル活動をしたり、バイトをしたりする時間などあるはずもない。だから、「シラバスは学生との契約」と唱える大学教師がサークルの顧問をしたり するのは矛盾である。サークルなどすべてを解体するよう主張すべきである。(そうなったら音楽サークルの騒音も聞こえなくなりとてもよいと思う)
もし「シラバスが契約だから」で書式まで全部押しつけられたら、その契約を盾に取るつもりである。90分授業を聞いたら、最低家で3時間は勉強しなければ 単位が取れないように課題を出したり試験問題を思い切り難しくしたりする。もちろん私だけが憎まれるのはいやだからすべての教員がそうしているか当局に監 視させる。またサークル活動やアルバイトを禁止するように要望することにしよう。弘大に落ち着いたアカデミックな雰囲気が生まれるだろう。考えただけでゾ クゾクしてくる。
03/10/29 (Wed) 大学のシラバス(授業要目)をホームページに掲載し、その際書式も決められるらしい。15回の授業内容を書かせようという案もあるらし い。
「シラバスは学生との契約(学生は何を契約してくれるのかはわからないが)だから、シラバスはできるだけ詳しく書くべきだ」というのが理由らしい。こうい うことを考えるのは、○○系の教官に決まっている。仮にシラバスが契約だとすれば、なおさら15回分の授業計画を載せるわけにはいかない。授業はパワーポ イントでプレゼンテーションするようなものではない。
学生の状況によって進め方を見直すことがある。内容に関する私自身の考えがかわることもある(研究者なら当然である)。
それにしても、学部の実態や学生の実態を無視して「シラバスは契約である」と繰り返すのはいかがなものか。シラバスを見て学生が科目を選択する場合はまだ わかる。しかし、教育学部の授業の場合、教員免許を取得するための必修科目が多い。私の授業もほとんどがそうである。学生はシラバスがあろうとなかろうと 授業を履修するわけだから教育的な意味しかない。シラバスに何をどのように書くかは、「最初の授業の前までに受講者にはどのような情報を与えておくべき か」による。それは科目によって違うはずだ。書式を決めればよいというものではないはずだ。
どうして○○系の人たちはは自分達の作法をよそに押し付けるのが好きなのか。そしてそれに対してどうして教育(学)の専門家である教育学部の先生たちが 黙っているのか、不思議である。
03/10/27 (Mon) 下の記事の1年後に書いた記事である。この頃にくらべると中学校教師の言葉づかいは改善されているような気がする。
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1997年6月号
おこったぞ! PART2
昨年の5月号でことばの乱れについて書いた。しつこいがもう一度。
1
話しことば言葉の語尾があがる「疑問型」が流行していることはすでに書いた。一部の人々に多い現象かと思っていたら、社会のすみずみにまでいきわたって いる。驚いたことに天下のNHKにもこの疑問型を使うアナウンサーがいる。授業の中で疑問型(別に発問してるわけじゃないのに)を使っている教師を目撃し たことがある。
この疑問型には、断定的するを恐れ、相手に同意を求める心理が働いているようだ。同じようなもので、「○○みたいな」「○○したりして」などがある。た だし、もう流行してしまっているので、同意を求める心理とは関係なく使われている。
まったく頭に来る。
2
もう一つ頭にくるのが、おおやけの場での「オレ」「おまえ」の連発。テレビのタレントに多いのだが、一人称はすべて「オレ」、そして視聴者に対して「お まえ」を連発する。これが社会全体に蔓延する。大学生が教官に対して「オレ」を使って平気でいる。
教育界にもその原因はある。全体として見ると、中学校の教師の生徒に対する言葉づかいは非常に乱暴である。
呼び捨てはいいとして(私は嫌いだが)、「おまえ」「○○しろ」「馬鹿野郎」など、一体どういう関係で使っているのだろうと思ってしまう。先月号特集のア ドラー心理学ではないが、相手をもっと尊重する言葉を使ってほしい。
自慢じゃないが、私は自分のかみさんにだって、呼び捨てにしたり、おまえよばわりしたり、命令口調で話したことは一度もない。どんなに若い人にでもきち んと「○○さん」と呼ぶようにしている。
ここまで他人に求めるつもりはないが、おおやけの場の発言はもう少し丁寧であってほしい。
3
言葉づかいは家庭生活の影響が強い。またテレビなどの影響を受けやすい。
だから、正しい言葉づかいや美しい言葉づかいは、学校教育で小学生のころからきちんと学習できるようにしたい。とくに国語教育は重要である。
実際に小中高にわたって日本のカリキュラムでは国語教育が重視されている。ところがこの国語教育がひどい。聞く、話す、読む、話す能力をつけるというよ りも、文学作品の鑑賞に膨大な時間を使っている。例えば、「ごんぎつね」という教材に十数時間も使う授業があるそうだ。また「ごんぎつね」一本で十数時間 持たせられる教師がすぐれた教師だと評価させることもあるらしい。実際にやっていることといえば、「この場面で兵十はどんな気持ちになったでしょう」など という、国語の能力とは関係のないことばかりだ。
授業時間数がたっぷりある国語大きな無駄が行われている。文学偏重の国語教育は即刻改めるべきである。
国語教育では、話しことばの教育を重視してほしい。とりわけ状況に応じた言葉づかいが、とくにおおやけの場での言葉づかいができるようにすることが大切 だ。
重点としては、人称代名詞を状況を意識して正しく使うこと、語尾を正確に使うことをきちんと指導してほしい。これだけでも、日本語はかなり美しくなるは ずだ。
4
私は乱暴な言葉づかいをしているのをきくと殺伐とした気持ちになる。またどんなに立派なことをやっていても言葉づかいだけで失望してしまうこともある。私 が特別に神経質なのかもしれない。
03/10/27 (Mon) 私は、顔に似合わず言葉づかいにはうるさいのである。学生が教官に「オレは○○です」などと言うのをきくとぶっ飛ばしてやりたくなるの だが、気が小さいのでだまっている。そのかわりずっと昔かいた雑誌の記事を紹介する(「授業づくりネットワーク」という雑誌に、井合総(いごうそう←い ごっそう)というペンネームでコラムを連載していた)。
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96年5月号
怒ったぞ!
(その1)
食堂のメニューに「朝定食」とあったので、ウエートレスさんに「朝定食には何がついてるのですか」と聞いたら、「ご飯?味噌汁? 卵? おしんこ? が ついてる?」だって。こっちがたずねてるの!。これ半クエ(半クエッション)言葉と言うそうだが、私には完クエにしか聞こえない。男女、年齢、職業を問わ ずかなり広く普及している。著名な教育学者が講演で半クエ使っていて幻滅したこともある。イライラしていたら、かみさんまで「私明日は、職場? で送別 会? あるからおそくなる?」
(その2)
電車の中での高校生の会話
「おい、田中。おまえんとこの担任どんなヤツ」
「チョ最低。あのセンコウ。おれ、もう目つけられたみてえ」
何とこれ女子高校生ですぞ。ぶんなぐってやろうかと思った。
(その3)
知り合いの大学教師とゼミの学生の会話
学生「先生、私、お父さんに言われちゃったんですけど・・・・」
教師「あなたのために言っておきたいんだけど、大学生にもなって教師の前で『お父さん』という言い方はおかしいんじゃないの。きちんと『父』って言った ら」
学生「勝手でしょう!」
あっ、そう。勝手にしたら。
(その4)
ある学校の先生に用があって電話をかけた時の相手の応対
私「○○先生、お手すきでしたらお願いします」
相手「○○先生は、本日はお休みになっておられます。明日はお見えになります」
学校までこれなんだから。
ちなみに企業に電話したら、
私「△△課長さんお願いしたいのですが」 相手「もうしわけございません。△△は本日は休暇をとっております。明日は出社しています」
これが常識だ。
言葉の乱れは昔から何度となく問題になって来た。しかし、これまで問題にされてきたのは、文法的な間違いや誤解に基づくものが多かった。最近よくやり玉 にあがる「らぬき言葉」はその典型である。これは、あまり大きな問題ではない。
しかし、例にあげた言葉の乱れは人間関係におけるルールの無視である。言い換えれば社会生活における自己と他人との関係についての自覚の欠如によるもの である。言葉使いのルールが無視される続けるなら、それは社会的ルールの崩壊につながり、ひいては国家の崩壊にまでつながりかねない。
教師は、どんなに煙たがられようと、言葉使いのルールだけは、口酸っぱく指導しなければならない。ただ教師がルール無視しているようでは仕方がない が・・・
03/10/25 (Sat) ある掲示板に次のような質問が掲載されていた。
【質問】
誰か教えてください。 ○○△△
編集の仕事をしてる友達に質問を受けました。音楽家って、よく「音楽の父」とか「楽聖」とか別称がありますよね。そこでモーツァルト、ワーグナー、マー ラーには、このような別称がなんかあります?Goodな回答をして頂けたら賞品はでませんが、褒めちぎって差し上げます。
それで、次のように答えておいた。
【答え1】
Re: 誰か教えて下さ〜い 音楽のドラ息子 - 2003/10/25(Sat) 01:18:00 No.537
モーツァルト 神童
ワーグナー ドイツのオペラ王(イタリアのオペラ王はヴェルディ、日本のオペラ王はお馬さん)
マーラー 巨人復活の父(今つけた)
ついでに
ヘンデル 音楽の母(といってもバッハと夫婦だったわけではない)
ハイドン 交響曲の父(交響曲には母はいない。父子家庭で育ったようだ。またハイドンのお父さんのことを交響曲の祖父とは言わないようだ)
【答え2】
Re: 誰か教えて下さ〜い 音楽のドラ息子 - 2003/10/25(Sat) 09:57:10 No.538
ついでに、思い出すだけ
シューベルト−歌曲王
ショパン−ピアノの詩人
ラベル−オーケストラの魔術師
リスト−ピアノの魔術師
ヨハン・シュトラウスII−ワルツ王
カラヤン−帝王
モンテクリスト伯−厳窟王
トーマス・エジソン−発明王
エリザベスU世−イギリスの女王
王貞治−ホームラン王
長島茂雄−長島一茂の父
松田聖子−Sayakaの母
ミスターマリック−単なる手品師
谷川俊太郎−単なる詩人
30年前の私−学生
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