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吉田からのメッセージ


06/9/30 (Sat)

ずっとずっと昔。1970年代の話。
日本の教育界では民間教育研究団体の活動が盛んだった。音楽関係では「音楽教育の会」という会があった。
ある県に、その音楽教育の会のリーダー的な存在の先生がいた。N先生と呼ぶことにする。反権力の姿勢の非常に強い方だった。私も何度がお会いしたことがある。お話をするのは楽しかった。その地方では伝説になっている話。
その地方の音楽教育研究会(音楽教育の会ではなく半官半民の研究会で県市の指導主事なども出席する)で、授業のあとで研究協議をしているところに教育委員会の指導指導主事がやってきた。この先生をM先生と呼ぶことにする。悪いことにそこにN先生がいた。N先生から見れば、指導主事であるM先生はもう「権力の権化」である。いきなりM先生に向かって「権力は帰れ!」。(帰ったかどうかは聞きそびれた)
しかし、M先生もえらい(この先生ともあとでお会いしてお話をしたことがある)。夜、外で酒を飲んでN先生の家に寄って玄関の戸を叩いて叫んだそうだ。「おーい、N。権力が来たぞ!」
(お二人ともお元気なのだろうか。この話を聞いてこころあたりのある方は情報をお寄せください)
おおらかな時代だった。こう言うおおらかさがなくなり、最近は教育界がギスギスしてきた。ギスギスしたのは、権力のせいなのか、それとも反権力のせいなのか。
音楽教育の会。何度かおじゃまさせていただいたし、共感することもあったのだが、どうしても自分がいっしょにやる気にはならなかった。その会が「反権力」だったからではない。また、音楽観や教育観の違いでもない。おそらく研究観の違いではなかったか。
その会は今でも続いているらしい。ただ、その会の方から見れば今の私はまさに「権力の権化」ということになるだろう。


先日、テレビを見ていて笑えた話。
大相撲の千秋楽を見ていたら、インタビュー室担当のアナウンサーの声
「先ほど、○○関にインタービューしていただきました。・・・・」
すると間髪を入れず、実況アナが「ちょっと、敬語の使い方が間違っていましたが、・・・・」
アナウンサーの言い間違えを、放送の中で他のアナウンサーが指摘するのが、なんとなくおかしい。先輩なのだろうか。
敬語で、私が最近気になっているのは、「ございます」である。
ある時、研究室に電話がかかって来た。
「吉田先生でございますか?」
私は、ちょっとムッとした。<そりゃあ、ないだろう>という気持ちをかみころして私も「はい、吉田でございます」。(目下の人から言われたからとか言うことではなく、言葉の使い方の問題として書いている)
「ございます」は、尊敬語でもあり、謙譲語でもあり、丁寧語でもある。
「ご希望がございましたら、○○までお知らせください」・・・尊敬語
「私は○○でございます」「こちらに○○を準備してございます」・・・謙譲語
「ここには○○や○○がございます」「今日はよい天気でございます」・・・丁寧語
だから、「吉田先生でございますか」を尊敬語と思えば良いのだろうが、どうも文法では割り切れない違和感がある。なぜだろうか。
わからないので、私は「ございます」を「おめでとう」「ありがとう」以外には使わないことにしている。と言うより敬語自体をあまり使わない(使えない)。
敬語に関してわかりやすい本は次の本である。
・大野晋『日本語練習帳』(岩波新書・1999・660円)

06/9/29 (Fri)

この1週間片づけないといけない小さな仕事がぐちゃぐちゃして、整理できない・・・落としてしまったものも(申し訳ない)。
来週からは後期授業がはじまると言うのに、準備がほとんどできていない。このままでは、昨年度と同じことをやってしまうことになる。
本当に私は、こういう面ではだめ人間である(「こういう面だけじゃない」と言われそうである)。
こんな時、若い頃なら徹夜を2〜3日して全面解決していたのだが、そんな体力もなくなってきた。
とりあえず、机のまわりをきれいにしてみたら少しすすみはじめた。
マラソンどころじゃなくなってきたが、どうしようか。
明日の諸行事ははじめからパスしていた。よかった。
・・・いいとしこいてこんなことをぼやいている自分が情けない・・・・

06/9/28 (Thu)

伊吹文部科学相が、小学校の英語必修化に慎重な姿勢を姿勢を示したことが、各紙で報道されている。
この面に関しては賛成だが(私は節操がない?)、必修化の方向でまとまりつつある中教審最終答申ではどうなるか。また、必修化を先取りして来た学校はどうするのか。
文部科学大臣の諮問機関が答申したものを、文部科学大臣が否定するようなことがあれば、諮問機関そのものの存在意義が問われることになる。さあ、どうなるのか・・・と高見の見物をしている場合ではないのだが。



06/9/27 (Wed)

津軽は久しぶりに雨。ランニングを休む言い訳ができた。

私は、考え事をしていると(めったに考えないが)、まったくおかしな行動をするようだ。
人に会っても挨拶しない(愛想はいい方なのだが)。方向の違う電車に乗る。降りる駅を間違える。たばこの火を消さない(禁煙したのでこれはなくなった)。さっき何を食べたか覚えてない。前があいている(泣)。・・・そういうときはたいてい口がぽかんと開いている。
昨日は大きな失敗をしてしましまった。
昼休み・・・弘前大学の学食では、自分の食べたいものをカウンターから引きとって、それをレジに持って行って料金を計算してもらい、支払いをすることになっている。
ところが、昨日はぼーっとしていたのか、レジに寄らずにテーブルに行きそのまま食べてしまったのだ。
食べ終わって食器を返却したあともまったく気づかず、そのまま学生の観察実習の指導へ。
気が付いたのはその指導が終わったあと、食堂を出て2時間もたってからである。どうも、レジを通った記憶がない。財布を見てもお金を払った形跡がない。一目散に学食のレジへ・・・「すみません。無銭飲食してしまいました」。何とか言い訳をして、食べたメニューを思い出して支払いをし許してもらった。
同じようにぼーっとしてスーパーや本屋で支払いを忘れたまま、店を出ようとして店員に呼び止められたらこわい(実際に本を手にかかえたまま店を出そうになったことがある)・・・やってしまったら完全に万引きである。
万が一そういう失敗をやらかしたら、この欄にこう書いていることが言い訳になるだろうか?


安倍内閣が発足した。
「美しい国」をつくると言うが、日本が美しくない国になった原因をどう考えているのだろうか。
何と言ってもその原因はこの国を動かしてきた人たちにあるのではないか。
教育改革を最重点課題としている。これまでの教育が日本を美しくない国にしたと言うのだろうか。
文部科学大臣は、伊吹文明(ぶんめい)氏。知らんぞ。
内閣に「教育再生会議」を設置するらしい。どこかで聞いたことがあるぞ。
まだまだ、不透明である。

06/9/26 (Tue)

川口市で悲惨な交通事故。原因はカセットを裏返そうとして脇見。飲んでいなくても車は、運転すること自体が危険なのである。
あんなこわいものを私が運転していたのかと思うとぞっとする。

1年の「教職入門」という授業で、中学校・小学校の授業を見学させている。私が担当している学生(14名)たちは、昨日は中学校で国語、理科の授業を見た。今日は小学校の授業を観察する。「学習者」という立場以外から授業を見るのははじめてではないか。「教師のたまご」を自覚する第一歩である。このような機会を提供してくれた協力校に感謝。
(余談)協力校に行くため昨日は久しぶりにネクタイを締めたらクビがすれて痛い。夏は文科省の会でもクールビスでノーネクタイ。

06/9/25 (Mon)

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飲むなら持つな、免許証!
「平成5(1993)年の誕生日まで有効」の私の免許証。周囲が止めるのも聞かず、そのまま失効。
約15年間、免許証を持っていた(最後の2年は運転していない)。

19日にショスタコーヴィッチについて書いた。その時は今年が生誕100年だという意識はまったくなかった(忘れていた)。
今日が、誕生日だそうだ(1975年没)。
ソ連(もう懐かしい言葉になってきた)を生き抜いたショスタコーヴィッチ。ソ連が消滅し社会主義が忘れられても、ショスタコーヴィッチの音楽は不滅。

本日、明日は1年学生の観察実習の引率。ネクタイ着用。
10月1日にマラソン。しかし、練習が思うようにいかない。体重も減らない。困った。

06/9/24 (Sun)


ななかまど(クリックすると大きくなります)

2005年度に「指導力不足」と認定された公立小中高校などの教員や506人で、その8割以上が40歳以上だったという文部省まとめが、各紙で報道されている。「えっ、たった500?」というのが私の実感である。本当にそれくらいだとすると、安倍次期首相が免許更新制を声高に叫ぶほどのことはないではないか。現在のような研修の制度で十分である。私は、むしろ「40歳以上」というところが気になっている。
21日付読売新聞では、「ベテラン教員が指導力不足と認定される背景について、関係者の声として次のような指摘を紹介している。
「かつてのような絶対的な権威が失われているのに、先生が昔と同じ感覚で子供と接しているために、うまく指導できなくなっている」
これは、本当に現場からの声だろうか。突然教育界に投げ入れられたのならわかるがずっと先生をしていれば教育界の変化に気づかない訳がない。
指導力不足と認定された例として次のようなことが報告されている。
「厳しい口調で威嚇するようにしかりつける」
「課題のある児童に感情的になって暴言を吐く」
「教材の研究が不十分で、指導の工夫ができない」
「授業中に教科と関係のない話が多い」
これらは、指導力不足というよりもっと以前の資質の問題ではないか。むしろこういう教員が採用されていることのほうが問題である。
40歳以上にこのような教員が多いということは、その頃の教員採用のあり方に問題があったということである。
かつて、教員採用時には「コネ」という言葉がとびかっていた。黒い噂も絶えなかった。私のまわりにもそのような話がたくさんあった。一部のおかしな人が採用時にまぎれこんでいたのではないだろうか。確信はないが、40歳以上の指導力不足の原因の一つではないかとさえ思えるのである。最近はそういう噂はほとんど聞かなれなったことを見ると、なおさらそう思えるのである。
教師の指導力と言っても、ピンからキリまである。教師の指導力の基準をどこに定めるかで、指導力不足の数は異なってくる。今回のような指導力不足の教員は別としても、校長の指導力や教師間の協力や日常的な研修によってある程度の指導力不足も克服が可能である。学校間競争や教師間競争がおきるとそれが困難になるが・・・

最近テレビで野球中継がめっきり減った。巨人の低迷がその理由らしい。プロ野球のペナントレース、今年は実に面白い。
まずは、プレーオフ進出を決めた上位3球団が1位争いをしているパリーグ。現在、西武、日ハム、ソフトバンクの順で、それぞれ残り試合が3、3、4。1位のチームはプレーオフで無条件に1勝が与えられる。だからめちゃくちゃ面白い。なぜ、こんな試合を放送しないのか?
セリーグも中日が独走だと思っていたら、阪神が追いつきかけている。中日が負けているのではなく、阪神が負けないからこうなったのである。私は広島カープファンなのだが(私が生きているうちにもう一度優勝できるだろうか)、落合監督が好きなので今年は中日を応援している。だから中日や阪神の試合も見たい。巨人が低迷しているから放送しない・・と言うのでは、プロ野球の人気は落ちる一方である。
大相撲は朝青龍が優勝(「あさしょうりゅう」と打てば、「朝青龍」と変換してくれるのだ)。ところで大相撲には青森県出身の幕内力士が6人いて都道府県別では最高である(来場所は3人陥落しそうだが)。それだけ相撲の盛んな県なのである。ところが、それよりも多いのがモンゴル勢で朝青龍を筆頭に7人。モンゴル国の人口は250万、新潟県と同じくらいだから一つの県の出身者が7人いるようなものである。いくらモンゴル相撲の伝統があるとはいえすごいことだ。
これはモンゴルが強いというより、日本人の食生活に問題があるのだろう。日本人の体格は向上したが、どうも軟弱になってしまっている。体の小さな朝青龍や安馬(あま)が図体ばかり大きな日本の力士を転がすのは痛快ではあるが、やはり一抹の寂しさを感じる。千代の富士のような力士はもう出てこないのか。

06/9/22 (Fri)

意外な方が結構このページをチェックしてくださっているようだ。
愛読してくださっているのか、腹をたてているのか、笑っているのかは知らないが。

東京都教育委員会が教職員に対して、国旗に起立、国歌斉唱を強制したことに対して、東京地裁が違憲という判断を下した。
いろいろな意味で驚いた。この判決が最高裁まで持つとはとても考えられないが、この判決が出たことでしばらくは現場では混乱が続くだろう。裁判の場にまで持ち込むような問題ではなかったと思う。裁判にまでもちこませることになった都教委のやり方も強引すぎた(卒業式で教育委員会の職員が国旗に尻をむけて、教師が起立しているか、口をあけているかをチェックしているそうだ。ばかげている)。お互いが納得できるもう少し上手な落としどころはなかったのか。


集中講義に来られたO先生と昨日書いた半兵ヱで飲んでいたら、藤山一郎の歌が聞こえてきた。
O先生「こういう歌はたかだか50年くらいの前の歌なのに、200年前のベートーベンの音楽よりも古くさく聞こえる」
確かにそうだ。日本の「伝統音楽」といっても、古典派の音楽より新しいものはたくさんある。
伝統ってなんだろう。

06/9/21 (Thu)

大方の予想どおり(というより、筋書きどおり)、自民党総裁は安倍氏できまり。麻生氏と谷垣氏が予想以上に得票したのも、筋書きだったのではないか。しかし、その筋書きを誰が描いているのだろうか。


飲酒運転で教育長が検挙された。さらにその教育長の記事を書いていた新聞記者が。
もう笑ってしまう。これだけ取り締まりが厳しい今飲酒運転するのは、地雷の埋まった草原を歩くようなものだ。こういう人には、本当に地雷の草原を歩いてもらったらよい。踏まなければそれでいいし、踏んでしまえば地雷一個撤去したことになる。その上飲酒運転をする人が一人いなくなる。世の中のためにはとても良いことだ。


半兵ヱというチェーン店で飲んだ。「昭和」を売りにした店で、店内は昭和30年代前後のポスターや看板で飾られており、そのころの音楽、流行歌、アニメのテーマソング、CMソング、ジャズなどが流れている。飲み物も、トリスや電気ブランなどがおいてある(従業員は昭和など知らないといった平成顔である)。
2007年問題と言われるように、来春から団塊の世代が60歳定年を迎える。この世代、ただでさえもじっとしていられない世代である(なんせ角材ふりまわした輩である)。とうぜん定年後の日々をもてあますことになる。このような昭和風の飲み屋、フォーク喫茶、さまざまなカルチャースクール、スポーツジムなどが、この世代であふれかえることになるだろう。最近停滞していると言われる、碁会所や将棋会所も復活するかも知れない。またたちの悪いことに(?)非常に元気なので町に出るとあちこちで若い世代とこぜりあいもおこしそうだ。・・・私はちょっと楽しみにしているのである。
ただ、大学教員は残念なことに63歳または65歳が定年なのでもう少しはたらかなければならない。早期退職しても退職金等で不利にならないならば、60歳で退職するのに・・・。でもその前に一仕事しなければならない。


今日は、教育学部1年生の教職希望者全員に「授業観察」について話す。
「印象ではなく、見えたこと聞こえたことを書け!」これが私の言いたいことすべてである。

06/9/20 (Wed)

台風の被害は青森県では少なかったようだが、九州では大きな被害があったことが報道されている。
私の仲間の家や、別の仲間が働いている大学もかなり被害にあった模様。一日もはやい復旧ともうこれ以上台風が来ないことを願いたい。

どうも、走るのが最近おっくうである。
朝起きて、足が一歩でないのである。
10月1日のマラソン、エントリーはしているが、出るか出ないか迷いはじめた。

次期首相になることが確実視されている人は、教育改革を目玉にしている(同じことを昨日も書いたような気が・・・)。
以下は、私のかなり無責任な推論である(確信はないがかなりあたっているのではないかと・・・)
この人の教育政策ブレーンはどうもあの人らしい。有名なあの会の会長になったがこっそり中国の学者と会ったことがばれてクビになり、今度はなんとか機構という実態のない団体をつくって有名人を呼んでパーティーを開いた人である。あの会の会長にまつりあげられていたので、あの人は教育に造詣が深い人だと勘違いしている人もいるが、教育に関しては具体的な業績は何もない人だ。もし、そんな人の考えでこの国の教育が動かされるとすればいやだなあ。
太閤の甥みたいなことになるかも・・・

交響曲にわざわざ標題をつけるのは、レコードやCDを売るためだろう。昨日のショスタコーヴィッチの場合のように交響曲第5番より「革命」のほうが確かに印象は強い。ベートーベンの交響曲第5番も日本では(でだけ)「運命」と呼ばれているからこそ売れるのかも知れない。
それで、第3番「英雄」、第5番「運命」、第6番「田園」、第9番「合唱付」として、他の交響曲にも標題をつけてみよう。
いろいろあると思うけど、私なら・・・・。
第1番「自由」
第2番「青春」
第3番「英雄」
第4番「希望」・・・2番と4番は入れ替えてよいくらい、印象が似ている
第5番「運命」
第6番「田園」
第7番「堕落」・・・「酩酊」くらいにしておきたいがそれだと売れない
第8番「愛」
第9番「合唱付」
なぜかと言われるととても困るが、こうやって全集だせば売れると思う。でももうだれかがとっくに考えているような気もする。
もっと、いいアイデアもっている人は、ゲストブックにどうぞ。
(昨日と言うことが矛盾していない? スーザンに叱られる!)

06/9/19 (Tue)

久しぶりにショスタコーヴィッチ作曲「交響曲第5番」を聞いた。
この作品が生まれた1937年は、スターリンの大粛正の嵐のまっただなか。ショスタコーヴィッチの友人の多くも処刑されていた。
だから、この作品はショスタコーヴィッチが命乞いのために書いた作品とも言われる。実際にこの作品がなければ生きていなかったかも知れない。
若い頃この作品を聞いた私は、そんなことは知らないから、「社会主義っていいなあ!」などと思ってしまった。
しかし、そういうことを知り、社会主義に幻滅した今きいても、やはり「いいものはいい」。
一人の作曲家の作品はそんな簡単にイデオロギーと直接結けて分析できるほど単純ではない。また人は本人の地位や言動にはあらわれない多様な面を持っている。イデオロギーだけで評価できるほど人は単純ではない。だから、この作品もそれぞれの思いを大切にして聴けばよい。
ただ、言いたいことが二つある。
その1「よくぞ生き延びてくれた。ショスタコーヴィッチ!」
その2「誰だ! この曲に『革命』などという安っぽい標題をつけたのは」


ジョギングをするので、ふだんはストップウォッチの機能のついたデジタル腕時計をしている。このデジタル時計がなぜか動かなくなった。
それで、取り替えたのだが、思い切って電波時計にした。前にプレゼントに壁掛け用の電波時計をもらいそれを使っているのだが、とても使い勝手がよいので(ありがとう!)、腕時計も電波時計にしたのである。プールに入ることもあるし、風呂ではずすのも面倒なので20気圧防水、そして電池を替えるのが面倒なのでソーラーにした。値段ははった(私にしては)がとても良い。一度はめたらもう何もすることはない。ものぐさな私にぴったりの時計である。


私は、最近はどこに言っても「守旧派」のかたまりである。
自民党総裁選挙の有力候補の売りの一つが教育改革である。そして教育改革の一つとして、義務教育の段階から保護者が学校を選択出来る制度をつくると言っている。要は義務教育の学校同士を競争させようと言うことだ。私は、競争一般が悪いとは思わない。しかし、教育機関同士が競争してどうするのか。
はっきり言えば、保護者というのは自分の子どもに関してはエゴのかたまりである。教育問題と言うような総論ではいくらよいことを言っても、いざ自分の子どものことのような各論になると保護者はエゴむきだしになる。保護者が学校を選択するということは、保護者に学校の評価をゆだねることである。保護者が学校を評価することになれば、それは自分のエゴを基盤にして評価せざるを得ない。つまり自分の子女をその保護者が基準とする「幸せ」にしてくれる学校がよい学校になるのである。エゴで教育が評価されてはたまらない。そんな国が「美しい国」であるはずはない。

06/9/18 (Mon)

台風13号が接近している。できれば、青森県には来ないでほしい。
津軽のりんごにとって台風は大敵である。収穫前のりんごは落ちやすい。大切に大切に育ててきたりんごが台無しになる。

私は国内旅行では、よほど急がない限りは鉄道を使う。飛行機は怖いからである。あんな鉄のかたまりが空を飛ぶというのは信じられないことである。奇跡である。
しかし、よくよく考えると鉄道も同じである。新幹線が時速300キロで走るのは、飛行機が空を飛ぶ以上に奇跡に近いことかも知れない。
・宮本昌幸『図解・鉄道の科学』(講談社ブルーバックス・860円)
例えば、新幹線の車両一両の重さは乗客を含めて45トン。これを8輪の車輪でさせているので一輪あたりが6トン弱。一つの車輪の半径は455ミリ、車輪の幅は125ミリで、フランジ(車輪の内側の帽子で言えばツバにあたる部分)の高さはわずか30ミリ(半径455ミリの車輪のツバの部分がわずか30ミリですよ。少し揺れれば脱線しそうな気がする。怖くない? )。この車輪がわずか65ミリ幅のレールの上を走る。これで最高速度300キロ、カーブでも250キロで走っているのである。
この本は、電車が安全で快適に走るしくみをわかりやすく説明している。電車にお世話になっている人は、一度は読んでおくべき本である。

私の大変苦手な(^^;、高校教育の話。
現在の高校教育は多様である。難関校・進学校から困難校まで、生徒の質も多様である。だから現在の高校にはさまざまな履修パターンが準備されている。そして一つの教科に対してさまざまな科目が準備されている。例えば、数学の場合、最初に履修できるのは数学基礎か数学I、その後も数学II、数学III、数学A、数学B、数学Cなどが準備されている。しかし、音楽の場合(専門課程を除く)最初に芸術として選択できるのは音楽Iのみである。その後も履修するとすれば音楽II、音楽IIIと履修していくしかない。実態はやや違っているかもしれないが、建て前としては、みんなが同じことを学習することになっている。これはよいことなのか、まずいことなのか。私も考えがまとまらない。


昨日の「大きなかぶ」の続き
「あまいあまい 大きなかぶになりました」
この時点では、まだかぶは畑に生えているのだ。大きなかぶはわかるが、なぜあまいとわかるのか。
「いや、作者は未来を知っている。時間や空間を超越しているからこう書いたのだ」と言う人がいるかも知れない。しかし、それでいいのだろうか。
実はこんな例はいくらでもある。
例えば13日にこの欄で紹介した『頭がよみがえる算数練習帳』につるかめ算が出ている。
「つるとかめは合わせて7で、足数の合計は24本です。つるとかめは、それぞれいくついますか」
つるとかめは合わせて7なのだから、つるとかめがそれぞれいくついるかは当然わかっているはずだ。わかっているのになぜそれぞれの数をもとめるのか(まあ、クイズだと思えばよいのだが・・)。
・・・とかいろいろ言えるのだが、私が本当に問題にしたいのは歴史についてある。現在のこと(過去にとって未来)を知っていてそれを前提にして過去(その時点の現在)を語ってよいのか。

06/9/17 (Sun)

酒を飲んで運転をしようとしている人にインタビューしている場面がテレビで放映されていた。テレビが見ていようと結局は運転をして行く。テレビでは、運転者の顔やナンバープレートにモザイクを入れて放送する。しかし、事故にでもなればこの映像は証拠として採用されるのかも知れない。酒を飲んでいるとそういう思考さえはたらかなくなるのだ。どうせなら、放送局ももうモザイクをはずして放送すればよいのに。違法行為をしているのだから。
大人がルールを守らないことが当たり前になってきた。これを見て子ども達はどう育っていくのか。

先日ある会議のあとみんなで飲んだ。その時にある方は、「私は駅に車を置いていて運転しなければなりません」と言って、約2時間ほどウーロン茶だけでみんなとつきあってくださった。真に酒に強い人とはこういう人のことを言うのだ。そういう意味じゃ、私なんかはほんとに弱い。

昨年、小泉内閣が自分の党の人間を切り捨ててまで実現した郵政民営化。その本当のねらいはどこにあったのか。
・関岡英之『奪われる日本』(講談社新書700円)
毎年「年次改革要望書」というのが米国政府から日本政府に示されているそうである。
この本では、次のような1995年の要望書の一文を紹介している。
「米国政府は、日本政府が以下のような規制緩和及び競争促進のための措置をとるべきである。・・・郵政省のような政府機関が、民間保険会社と直接競合する保険業務に携わることを禁止する」
つまり、民間の保険会社が自由に競争するためには、簡易保険のような政府機関が携わる保険はじゃまだから禁止しろ、ということなのであ。
最近、「アリコ」などのアメリカ系の保険会社の宣伝がめだつ。これは日本の生命保険や損害保険にアメリカが参入して来たからだ。日本は世界第2位の保険市場である。この保険市場を独占したいアメリカの要望の一つが「郵政民営化」というわけである。
日本は、アメリカに奪われつくしてしまうのか。
この本は、野党の立場からの自民党批判ではない。昨年の選挙で民営化に反対して自民党を追われた議員の立ち場に近い。保守の立場からの小泉改革批判である。

・小長谷有紀『「大きなかぶはなぜ抜けた? 謎とき世界の民話』(講談社現代新書・760円)
「知れば知るほど面白い。大人が楽しむ「伝承学」」というキャッチコピーの本だが、あまりおもしろくなかった。大きな株について6つの謎解きをしているのだが、私がいちばん知りたかった謎に答えていない(自分の謎に答えていないから面白くないというのは我がままだと思われるかも知れないが、このHP自体がわがままなHPなのだから仕方がない。私の疑問の箇所は次の箇所である。
「あまいあまい 大きなかぶになりました」。さあ、このページを読んでいただいている方は私が何にこだわっているかおわかりですね。

06/9/15 (Fri)

まだ、懲りずにに飲酒運転している人間がいる。
「飲んだら乗るな」と言うが、「飲んだら乗るな」という言葉を忘れてしまうのが酔っぱらいである。
じゃあ「乗るなら飲むな」はどうか。毎晩の飲酒が習慣になっているような人間にはこれも通用しない。決っして飲まないと決めていても、一定の時間酒が切れるともう我慢ができず酒に手がしまう。飲酒運転で検挙される人間はほとんどが常習犯のはずだ。わかっちゃいるけどやめられない・・私はそういう人の気持ちがよーくわかる。
だから、酒を習慣にしている人は、車の免許証を持ってはいけないのだ。飲むなら持つな免許証!

06/9/13 (Wed)

脳みそがしゃきっとしないことがある。こんな場合は、パズル、クイズなどで頭をほぐす。時には数学や算数の問題を解いてみるのもおもしろい。
と言うわけで、算数の問題。
「ある牧場では、300頭の牛を放牧すると10日で草がなくなります。また、600頭だと4日で草がなくなります。それでは、500頭の牛なら何日間、放牧できるのでしょうか。ただし、牛はみな、1日に食べる草の量が同じだとします。また、草は毎日、一定の割合でのびるものとします」
・竹内薫『頭がよみがえる算数練習帳』(ちくま新書・720円)
この問題は、ニュートン算と言うそうだ。本当にニュートンが考えた問題かどうかは知らないが、ニュートンは微分積分の創始者と言われているから、増え続ける量を扱うこのような算数問題はニュートン算と呼ばれるそうだ。
算数の問題集としてだけでなく、発想のヒントが掲載されている。


大学の図書館の入構証を紛失した。バーコードのついているこの入構証がなければ、図書館の入り口のゲートが開かないので図書館に入れない。
電話で図書館に紛失したことを伝えた時の、図書館の係との会話。
私「紛失したので再発行してほしいのですが」
係「それでは、図書館のカウンターまで来てください」
私「入構できないので、カウンターまで行けません」
係「それじゃあ、入り口で大声で叫んでください」
Simple is best!
今から、大声で叫びに行くことにする。


どこかの大学の音楽教育の教員の井戸端会議
Y氏「この間高木東六さんが亡くなったって新聞に出てたね。亡くなったことより、いままで生きていたと知ってびっくりしちゃったよ」
I氏「ぼくなんか、この間クララ・シューマンに会ってびっくりしちゃったよ。・・・私、ブラームスとは何もなかったのよ、だって」

06/9/12 (Tue)

440Hzの振動数の一点イ音より1オクターブ高い二点イの音の振動数は880Hzである。それよりも一オクターブ高い三点イの音は1760Hzである。人間が1オクターブの音程差を感じるのは、振動数が2:1の場合である。これをもっと一般化して言うと、「振動数の比が一定の時に同じ音程に感じる」ということになる。例えば、9:8を長二度(大全音)、5:4を長三度、3:2を完全五度と感じるのである。人間は振動数の「差」を音程として感じているのではなく、振動数の比を音程として感じているのだ。
人間が人生の中で感じる歳月もこれと同じことが言えるのではないだろうか。例えば、10歳から20歳になるまでの10年間に比べると、40歳から50歳になるまでの10年間は短く感じる。私の感じから言えば、10歳から20歳になるまでと20歳から40歳になるまでは同じくらいのスピードである。つまり年齢の差ではなく、年齢の比を歳月として感じているのである。
かりに、人間が感覚的に感じる歳月を印象歳月と言うことば表すとする。そして年齢が倍になった時に感じる印象歳月を1印象歳月と呼ぶ。そしてある年齢Y1からY2になる時に感じる印象歳月をIとすると次のような式が成り立つ。
I=log(Y2/Y1)  logは2を底とする対数
 ※なぜ、突然対数が出てくるかというと、説明するのはとても難しいので心理学の「ウエーバー・フェッヒナーの法則」を調べていただきたい。
これに実際の数値をあてはめると
10歳から20歳は 1   
20歳から30歳は 0.58
30歳から40歳は 0.41
40歳から50歳は 0.32
50歳から60歳は 0.26
50代の10年は、10代の時の10年の1/4に過ぎない。
一昨日56歳になった。ある人からメールが来て誕生日に気がついた。誕生日を忘れるほど恐ろしいスピードで歳月が過ぎて行く。

・安倍晋三『美しい国へ』(文春文庫・730円)
目新しい物はほとんどなかった。自民党内の保守本流の思想がそのまま書かれたいるだけである。だからほとんどの内容が予想した通りだった。だからわかりやすいとも言える。(だから逆に安倍氏の独自性はまったく出ていないとも言える)。具体的に安倍氏が何をするのかまだ不明朗である。ただ、教育問題に関してはまったくお粗末。居酒屋の議論である。総理大臣になる人だから一度は読んでおいて損はない(損はないが、読んだからと言って得するわけではない)。

飲酒運転による自動車事故の問題。
飲酒運転はけしからんことだが、私は根本的には日本の交通政策、道路行政の問題だと思っている。しかし世の中は「公務員バッシング」だけに動いている。多くの公務員は住民のためにまじめにはたらいているのだ。公務員全体に対する過度のバッシングは、まじめに働いている公務員のやる気までそいでしまう。国民と公務員が対立する構図が意図的につくられているような気がする。

06/9/7 (Thu)

9月3日付のこの欄の記事を読んだ息子から電話。
「お父さん、ぼく運転免許取ったよ。ちょうど3日に免許証もらった」。ガクッ!


最近は離れてしまったが、東京時代に少しこっていたディベート教育。
何度か審判もしたことがあるディベート甲子園(全国中学・高校ディベート選手権)は、今年11回目の大会が行われたようだ。
今年の論題は次の通り
中学校「日本はすべての動物園を廃止すべきである。是か非か。」
*動物園とは動物(主に哺乳類、鳥類)を収集・飼育し、広く一般に公開・展示する施設のことをいう。
* 2008年3月までに廃止する。
高校: 「日本は道州制を導入すべきである。是か非か。」
* 現行の都道府県制を廃止して全国に7〜11程度の道・州をおき、外交・防衛・通貨以外の権限を基本的にすべて国から道・州に移すものとする。
* 地方間の財政的格差を調整するために、国が必要な課税処置をとることを妨げない。
全国教室ディベート連盟HP参照
今年も熱戦が繰り広げられたようである。
と言うわけで、昨日の結果(?)をふまえて、ディベートの論題を一つ考えてみた。
論題「日本国は皇室典範を改正すべし。是か非か」
* 女系天皇を容認する。
* 改正の時期、長子優先か男子優先かについては肯定側がプランの一部として提案する。
この間の有識者会議の報告をめぐる論争では、空気がとげとげしくなり(とげとげしくした責任は反対派にある)十分にかみあった議論になっていない。
冷静に議論するには、一度ディベートにかけるのがおもしろい。
たぶん肯定側が出す主なメリットは「皇位の安定的継承」、否定側の出す主なデメリットは「伝統的な制度の変質」ということになるだろう。
かみあった議論ができそうである。
ただ、中には「私は、天皇という制度の存在そのものに反対だから、こう言う論題自体がくだらない」と言う人もいるかも知れない。
それでも、一度はこの肯定側と否定側の両方の立場に立って考えていただきたい。そうすると必ず新しい視点が生まれる。それが「天皇という制度の存在そのものに反対」という意見を補強することにつながるかも知れない。

06/9/6 (Wed)

赤ん坊が生まれた。母子ともとても元気だそうだ。
そりゃあ、どこで誰が生まれてもめでたいさ。みなさん。おめでとさん。

06/9/5 (Tue)


五所川原、立佞武多の館(たちねぷたのやかた)にある立佞武多の一つ。高さが22メートルある。
(写真をクリックすると大きくなります)


昨日の朝、「Yahoo! JAPAN - ユーザーアカウント継続手続き」と題するメールが来た。
それには次のように書いてあった。
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Yahoo!オークションを継続してご利用いただくためには、Yahoo! JAPAN ID
ユーザーアカウント更新手続きが必要です。
ここをクリックしてください↓↓
詳しくはユーザーアカウント継続手続きページをご覧ください
http://edit-users.zukyun.jp/jp/securty/user/siz=61458532/
--------------------------------
上のページ開いてみたら、いかにもYahooというデザインのページがあってIDとパスワードとクレジットカードの番号を入力するようになっていた。
私は、オークションはよく利用するので何の躊躇もなく入力をしようとしたのだが、よく考えるとオークションにカードは必要ない。相手に直接送金すればよいのである。また、よく見ると上のアドレスにYahooという文字がない。zukyun.jp というドメイン名もあやしい。これはいわゆるフィッシング詐欺である。危ないところだった。とりあえず、メールには「ばーか!」と返信して、Yahooに連絡した。この手の犯罪には気をつけなければならない。
試しに、夕方もう一度上のページを開こうとしたら、すでになくなっていた。何人かのフィッシングに成功してさっさと退散したのだろう。だまされた人がいたらお気の毒である。


ホリエモンこと、堀江貴文被告の公判がはじまった。
ひどい経済音痴の私は世の中を単純に考える。
そもそも社会全体でみると、富というのはものをつくること(生産活動)によってしか生まれるはずがないのだ。株を売ったり買ったりして、株が増えたり株価があがったりしてもそれだけで社会全体が豊かになるわけではない(でしょ!)。社会が豊かになるのは、もの(知的な生産物も含む)を生産する人がいるからだ。
そしてものを生産することによって生まれた富は、適切に分配されるべきだ。直接ものづくりに携わった人はもちろん、そのプロセスを管理する人、つくったものを流通させる人、またそういうふうにものづくりができる社会を維持するために働く人(公務員など)、そういうものづくりができる時代が続いていくように人を育てる人(教育者)、それぞれがその働きに応じて富の分配にあずかれば良いのだ。分配の仕方が不公平になることはあるかも知れないが、ささやかな幸せが維持できれば少しのことは我慢できる(それが維持できないほど、不公平な時代になってきた)。
株を売ったり買ったりするという経済活動もそれによって生産活動が刺激されれば、間接的に社会を豊かにすることにつながる。ところがホリエモンや村上ファンドの村上被告がやろうとしたことは、株で自分たちだけが儲かること、つまり社会全体でつくりだした富を横取りすることだけだったのだ。もちろん資本主義社会では合法的に富の横取りができるのだが、ホリエモンや村上被告は非合法の域まで踏み込んでしまったのである。
ところで私の仕事に対する富の分配は適切なのだろうか? 逆に言えば、私は分配された富に応じた仕事ができているのか? また、それだけの仕事をしてきたのか。・・・いかん、いかん、もっと真面目に仕事をしよう。

06/9/4 (Mon)

昨日、国道の右側の歩道をジョギングした。退屈なので対向する自動車の運転手を観察することにした。携帯電話をしながら運転している人がどれくらいいるのか調べてみた。100人中電話をしながら運転している人は2人だった。つまり2%である。この数をどう評価すべきか。たいしたことはないと思うのだろうか。この割合が、日本の道路での運転中の携帯電話の使用状況をそのまま反映しているとすれば大変なことになる。運転を1時間(60分)する間に一人が平均72秒は携帯電話を使うということだ。すべての日本人がそれほど非常識だとは考えられないから、運転中に携帯を使用する人が10%くらいと仮定する。するとその10%の人たちは60分の間の12分は携帯を使っていることになる。本当にそうだとすれば怖い話である。
100人中2人というのは偶然と思いたいが、そうは言い難い経験もある。一度、交差点を横断していて、左折しながら携帯電話を使っている車にしかれそうになったことがある。この間は暴走族が携帯を使いながら道路の真ん中を走っているのを見かけた。歩行者は携帯の運転手には特に注意しよう。

06/9/3 (Sun)

福岡で起きた酒酔い運転による追突事故で、幼い子どもたち3人が犠牲になったニュースが大きく報じられた。
車が海に転覆するという特異な事故になったこと、事故が犠牲者が幼い子どもだったこと、運転手が福岡市の職員だったことなどもあって、ワイドショーでも大きく取り上げられた。
今回のように衝撃的な事故の場合には大きく取り上げられるが、実は交通事故は毎日起きているのである。警察庁の統計によると、今年7月の交通事故の死者は524人に上る。1日十数人は交通事故で犠牲になった人がいるのである。そしてまた今日も必ず何人かが死ぬだろう。その一人が私でないとは言い切れない。あなたかも知れない。(交通事故で死なないためには、家にじっとしているしかない)。
昨年、回転扉に幼児が巻き込まれる事故が起きた。その1件のために全国の回転扉の使用が一時停止された。プールで幼児が排水口に巻き込まれる事故が起きた。それだけで、全国一斉に点検が行われた。駅構内で線路に人が落ちて亡くなった。それだけで、すべての駅のホームに一部地下鉄線のようなドアのついたフェンスをつけろという意見まででてくる。
もちろん、このような事故は二度と起きてほしくはない。しかし、このような事故には敏感に反応する人が、交通事故に対して日常的には鈍感で、特殊な事故の場合にだけ反応するのはどういうわけか。
交通事故をゼロにするのはほとんど不可能に近い。しかし、その数を大きく減らすことは可能である。マイカーを規制すればよいのである。
例えば、マイカーの使用は必要不可欠な場合に限る。具体的には、公共交通機関のあるところでの通勤での使用、レジャーのための使用、ドライブ(自己目的の運転)などをすべて禁止するのである。運転するためには、免許証とは別にマイカー使用許可書のようなものが必要になるようにする。
さらには、65歳になったら免許証は返却(そのかわり老人福祉を充実させる)するようにする。どんなに軽い違反でも1度違反すれば免許取り消し(二度と取得できない)にする。飲酒運転は無期懲役とする。−−−まあ、こうすればマイカーというものがなくなるかも知れない。そうすると、自動車産業はどうなるのか、そこで働く人はどうなるのかという反論が必ず出てくるだろう・・・それを考えるのが行政の仕事である。
私は、車の運転を完全にやめた(免許証を自分で失効させた)。これで、私の運転のために(私を含めて)命を落とす人が出る可能性は限りなくゼロに近くなった(あとは自転車事故である)。たまに不便さを感じることもあるが、車などなくても私は十分に生活できている。
まずは、自分の生活に自家用車が必要かどうか見直してみよう。

06/9/2 (Sat)

新書の正味期限は3ヶ月・・と私は思っている。その意味では切れているのだが、まあ食べても害はない本。
・高嶋ちさ子『バイオリニストの音楽案内』(PHP新書・2005年・740円)
例えば、ショパンのピアノ協奏曲第1番を真剣に練習しているピアニストがいるとする。そこで、誰かが「その曲、都はるみが歌った北の宿?」なんて言われたら怒るだろうな。こういうたぐいの話はよくある。
この本は、クラシック音楽をそう言った本音で解説(=案内)している本である。
例えば、ベートーベンの交響曲5番については、次のように言う。
「そして切れ目なく第四楽章に入ります。めちゃめちゃかっこよくて、わかりやすくてエンディングにふさわしい曲です。第一楽章の冒頭のような、怖い、暗い感じとはかけ離れた換気の雄叫びのようです。宝くじで一億円が当たった時のようなテーマ曲になります。この曲の唯一の気にいらないところをあげるとすれば、いちばん最後、終わるのかな、とまず一回目に思うところから立ち直り、そこから二分かけて終わりに近づきます。そしてやっと終わったかと思うと、それもまたフェイント。「しつこい男だね。何回やれば気がすむんじゃい! あんた、だから女にもてないんだよ」と、あの世であったら言いたい」
ドボルザークの弦楽四重奏曲「アメリカ」については
「ちなみにこの出だしの「うら〜の畑でポチがなく〜♪」と聞こえる(?)ソロはヴィオラです。私はこのソロが弾きたいがために、この曲を選び、ヴィオラのポジションもゲットしました。江藤俊哉先生のレッスンに行った時、「あなたはヴィオラのほうが・・・」」
と、だいたいこんな具合に50曲のクラシックの「名曲」が紹介されている。ただし、「案内」と書いてあるが、読んで聴くより、一度くらいこの中の音楽を聴いてから(あるいは聴きながら)読んだほうが絶対におもしろい。また、演奏家は絶対に読まないほうがよい。演奏中に思い出すと笑いがとまらなくなって演奏どころではなくなるからである。
ちなみに私は、音楽ギャグのほうが好きである。
「交響曲『巨人』の作曲者は?」「マーラー」「じゃあ、巨人の持ち物は?」(詳細はこのHPにある「おやじの音楽事典」で)