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吉田からのメッセージ


05/12/30 (Fri)

いよいよ、今年もあと2日。忙しい中、当サイトにおいでくださりありがとうございます。
まだまだ、今年の予定がおわりません。今日はいろいろ。


とりあえず、研究室の机の上の整理した。といっても本当の机の上ではなく、パソコンのデスクトップである。私は、合計3台のパソコンを使っている。研究室用、自宅用のデスクトップパソコン、持ち運び用小型のノートパソコンである。仕事を3つのコンピュータでするのだが、とりあえずデータをデスクトップにおいておく。家で仕事をする場合は、そのデータをサーバーに置き、また家で仕事をし、サーバーに返す。ひんぱんに出し入れしている時はいいのだが、そのうち急ぎの仕事をするときちんとサーバーに返すのを忘れる。一番新しいのがどこにあるのやら分からなくなる。・・・というわけで、デスクトップに膨大なファイルやフォルダがちらかっている。これらを消してしまうのは、こわい。しかたないのです。CD−ROMにでも入れて、ゆっくり整理するしかない。これがまた大変な作業である。コンピュータを使っているわりには、仕事の仕方が能率的でない。来年はこのへんを改善したいと思っている。
来年の目標をきめた

整理整頓

05/12/29 (Thu)

今日から年末・年始の休みに入るが、私は今から大学へ。一日、研究室で過ごす。

ひねくれ教育事典の3巡目が一応終わったので、まとめて追加した。読み返して見ると、よくもこれだけくだらないことを書いたなあと思う。4巡目? もちろん書くつもりである。

05/12/28 (Wed)

今日は1年の362日目。正月まであと4日である。ところで、クリスマスと言うと歌がたくさんあるのに正月の歌はほとんどないのはなぜだろう。私が知っているのは「お正月」(東くめ作詞・もういくつねると)と「一月一日」(千家尊福作詞・としのはじめの)。
子どもの頃もっと不思議だったことがある。
「お正月にはたこあげてこまをまわしてあそびましょう。はやくこいこいおしょうがつ」
そんなにこまをまわしたいなら、たこをあげたいなら、別にお正月がこなくてもやったらいいじゃん。
くめさんごめんなさい。


ひねくれ教育事典 【ん】
ん ヘボン式ローマ字では「ん」はいつも"n"ではなく、b、m、p の前では、"m"を使うことになっている。だから、産婆さんは"Samba”、本間さんは"Homma"、乾杯は"Kampai"である。最近は、それが日本語にまで影響してきて「がムばります」と書く人まででてきた。ところで、ローマ字には「訓令式」というのがある。訓令は「上級官庁が所管の下級官庁に対して事務の方針や権限の行使などの基本に関する命令を発すること。また、その命令」(Infoseekマルチ辞典)である。そして、戦前に内閣訓令で定められ、戦後は内閣告示で定められたものが今で言う「訓令式」である(なら、告示式と言ってもよさそうなものだ)。この告示は現在でも効力があるので、小学校のローマ字教育では訓令式が使われているのである。内閣の長である小泉純一郎氏の名刺には、Junichiroh ではなく Zyun'ichirô(「じゅにちろう」と読まれる恐れがあるので、nとiの間に’を打つ)と書かれているのだろうか。ぜひ一度見てみたい。私は昔からヘボン式を使って来たが、最近は訓令式も良いなあと思いはじめた。YOSIDA Takasi。すっきりしてとてもよい。ただし、「よすぃだたかすぃ」と読まれそうである。ん?「ん」からだいぶ脱線した? そんなかたいことを言わなくてもいいでしょう。

小泉純一郎を順一郎と書いてしまった。はずかし。

05/12/27 (Tue)

今日は、一年の361日目。午前中は会議、午後は院生の修論指導。夜は・・・もちろん・・・・


ひねくれ教育事典 【ゑ】
ゑ 今は使わなくなった旧かな。漢字の「恵」の草書体から生まれた。カタカナは「ヱ」である。次の漢字に・・・・えっ、教育事典と関係ないですって。そんなかたいことを言わなくてもいいでしょう。

ついでに 【を】
を 今は助詞としてのみ使われている旧かな。漢字の「遠」の草書体から生まれた。カタカナは「ヲ」である。「男」「女」は「をとこ」「をんな」である。それで「を」を「くっつきのを」と言うのである。えっ、教育事典と関係ないですって。そんなかたいことを言わなくてもいいでしょう。

05/12/26 (Mon)

今年もあと6日。
昨日の津軽弁、Sさんより間違いの指摘があって、訂正した。感謝!


ひねくれ教育事典 【ゐ】
ゐ 今は使わなくなった旧かな。漢字の「為」の草書体から生まれた。カタカナは「ヰ」である。次の漢字にこの「ゐ」が対応する。
位、井、亥、猪、居、遺、韋、田舎(ゐなか)、院(ゐん)など(以上『全訳古語辞典』(大修館)による)。えっ、教育事典と関係ないですって。そんなかたいことを言わなくてもいいでしょう。

05/12/25 (Sun)

大学の事務的な仕事、頼まれた原稿が2つ、学生・院生の指導、研究、マラソン、酒などやらなければならないことが山ほどある。正月休みの間にかたづけるべきものは片づける・・・それをしなければたぶんパンクするだろう。

ひねくれ教育事典 【わ】
わたくし(私) 一人称にはどれくらいの種類があるか。思いつくままに並べる。私(わたくし)、わたし、ぼく、僕、拙者、小生、我(われ)、それがし、俺(おれ、オレ)、儂(わし)、自分、吾輩(わがはい)、おいら、おら、あたし、あちき、うち、わて、おいどん(方言)、当方、余、朕、麿、筆者(研究者専用)、自分の名前。結構たくさんある。ちなみに、津軽の日常会話では「わ(男女とも)」である。「わの、とごさこいへ!」は「私のところにおいで」という意味である。ところで、あまり調べてはないのだが、「余」から「筆者」まではどうも一人称とは言えないようだ。例えば、筆者を英語に直せば、Author だから三人称だろう。自分のことを一人称ではなく「三人称」で呼ぶ場合があるということだ。
ところで、論文で自分のことを言う時に、「私」と書く人と「筆者」と書く人がいる。私は「私派」である。「筆者」なんて他人みたいで気持ち悪い。研究の客観性を確保したい(というふうに見せたい)という気持ちがそうさせるのかもしれない。しかし、客観性を確保するのなら、「筆者」という言葉さえ必要なくなるのではないか。逆に私は論文とは自分の頭の中にあることがらを書くものだっと思っている。「いや事実を書くのだ」という人がいるかもしれないが、「事実」でさえも「自分の頭の中で再構成された物語」である。だから論文には頭の中にある物語だけを書けばよい。つまり私の頭の中にあることを書けばよいのだから、「私」というような頭の持ち主のことについて言及する必要はないのである。しかし、例外がある。教育研究の場合には、研究者自身が物語の主役になることがある。例えば、自分自身が授業者になって、自分自身のことを書く場合である。教育研究のややこしいところである。 

05/12/24 (Sat)

今日はクリスマス・イブである。「だからどうした?」と言われてもクリスマス・イブなのだからしょうがない。しかし、日本人はなぜこんなにクリスマスだと言って大騒ぎするのか。あのキリスト教会ですら、クリスマスを祝うのである。不思議で仕方がない。考えすぎて眠れなかった。


というわけで今日はクリスマスなので、クリスマスの音楽をどうぞ。
明治16年(1883)年に発行された、『小学唱歌集(第2編)』に掲載された「栄行く御代」という歌である。「神のめぐみ」という言葉がでてくる。もちろんこの神は日本の神道の神であるが・・キリスト教の神として歌っても不自然でないところがすごい。

05/12/23 (Fri)

結局まだ、東京にいる。今から弘前に戻る。
昨日は新しい出会い。まだ興奮気味である。どんな出会いかって? それは企業秘密である。


神保町の古書店の一つ、古賀書店(名前からして古書店っぽい)は音楽専門の古書店である(岩波ホールから、靖国通りを西に100メートルほど)。ただ、本当の意味での古書"Old"は少なくほとんどがいわゆる"Used"である。しかし、"Old"もあってその中に掘り出し物もあったりする。
かの兼常清左(かねつねきよすけ)著『音楽概論』(昭和2年・1927年・岩波書店・定価壱圓貳拾銭)を見つけた。ながめているだけでもおもしろい。
例えば、その中に「音楽会の退屈」という節がある(本当は、旧漢字で出したいのだが、ネット上では無理である。ただし、ひらがなは旧かなづかいのままとする)。
−−−−−−−−−−−
音楽はカフェーで聴くのが一般の人々にとっては、一番無難である。老人諸君なら芸者のどゝいつでも聞いてゐればそれでいゝ。それならたゞ面白くて、愉快で、いゝ気持ちである。
しかし音楽だけをきくためには音楽会といふものがある。この音楽会で音楽を聞くのは、カフェーで音楽を聞くほど簡単には行かない。音楽会で音楽を聞いて、それを相当に楽しむためには、どうしても私共は難関を一つ越さなくてはならぬ。
その難関は、退屈を我慢することである。
たいていの音楽には、退屈がつき物ある。欠伸を噛み殺す、といふ事は、私共が長いジムフォニーやゾナーテを聞くときに、しばしば繰り返す不愉快な経験である。、
音楽の面白さに我を忘れて聞き入った。−−−といふ様な文句は、たゞ音楽の形容としてしては甚だ美しいが、しかし実際には、なかなか容易にそんな出会いはない。殊に古典的な長い曲では、我を忘れてその全体を聞いてしまふ、といふ様な事は、私共の生活には殆ど無い。たとへばベートーヴェンの雄大なジムフォニーでも、或る退屈さを我慢しなくては、とてもその全体は聞いていられない。
−−−−−−−−−−−
当時はレコードはそれほど普及していなかったはずである。音楽が聴けるのはそれこそカフェーが音楽会しかなかったのだろう。それでも、そしてまた兼常博士をもってしても音楽は退屈だったのである。
兼常清左、その痛快さがよく話題になる人である。

05/12/22 (Thu)

昨日の記事を読み返していたら、アイデアが一つ浮かんだ。
課題 「論理的思考力」という文章を、できるだけわかりやすく書きあらためなさい。
ちゃんと書き直せば、小学生でも理解できる程度の内容である。ゼミ3年生の冬休みの宿題にしよう。


昨日は一ツ橋で会議。はやく終わったので神田神保町の古本屋めぐりをした。少し成果があった。10000円ほど使った。
その近くに奥野かるた店という伝統ゲーム専門店があった。私はこういう店をみつけたらまず入る。百人一首のみならずさまざまな種類のかるたや将棋、囲碁、花札などの伝統ゲームがたくさんおいてある。こんな店なら何時間でもいたい。この店で前からほしかったものを発見した。
昨年の1月20日に次のような本を紹介した(過去ログ3)。
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読んではいけない(とくに学生は)本!!
先崎学『小博打のススメ』(新潮新書)・・・大学の生協には新潮新書の新刊はたいていおいてあるのだが、この本は置いてなかった(当然か)。
先崎は青森県出身の将棋の棋士(八段)。あの羽生名人と同年代で、子どもころから「天才」と言われたのだが、やや羽生におくれをとった。それでも一流の棋士と見られるA級八段まで上りつめた。羽生名人や谷川棋王を見れば分かるように今の将棋の棋士はみな紳士である。しかし、先崎は中学生のころから麻雀屋に出入りし、酒、たばこを吸っていたという。「最後の無頼派」である。その先崎の本。
麻雀、トランプ、サイコロ、花札、などのゲーム(このゲームに少しの金をかけるのが小博打である)などといっしょに、「手本引き」というゲームが紹介されている。先崎はこのゲームを「日本裏文化が残した、博打の最高傑作」と言う。耳慣れない名前だが、それもそのはずだ。「その筋の人御用達」の禁断のゲームだったからだそうだ。解説を読んでいるだけでも確かにおもしろい。わくわくしてくる。
読むとはまりそうな本である。だが、先崎は前書きで次のように言う。
「本書は博打をすすめる本ではない。小博打を楽しんでいただく本である。楽しむために一番大事なことは、博打というものが、お金をやり取りするものであることをしっかりわきまえて、その恐ろしさを決して忘れないことである。金の持つ力は魔力だ。それはたしかである。それをきっちり分かったうえで、また人間というものがいかに欲望に対する自制心が弱いかを知ったうえで、健全に小博打を楽しめば、生きるということが豊かに、そして楽しくなるのである」
ははは。かなり分裂気味の文である。心にもないことを書くからこんなことになる。「自制心の弱い」人間が「健全に」小博打など楽しめるものか。先崎がそれを知らないはずがない。
この本を読んで小博打を楽しんだということくらいで止めておくべきだろう。小博打を楽しまなくとも、人生を豊かに楽しくする方法などいくらでもある。・・・・でもやってみたい(^^;
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前からほしかったものとは、この本の中の「手本引き」に使う札である。ほしかったのだが、なかなか見つからなかった。先崎も入手は難しいと書いてあるし、インターネットなどでも難しいと書いてある。ところがこの奥野かるた店にあったのである。まずは写真を見ていただきたい。実はこれは任天堂の製品である。そしてそれにはバーコードがついているから、けっして大昔の物が売れ残っているのではない。ただし、「張札」(大きい方)「豆六」(小さい方)という名前で出しているので(どちらも1350円)、箱の外から見ただけではどんなゲームかはわからない。奥野かるた店はショーウインドウに中身も飾っているからわかったのである。案外どこにもあるものなのかも知れない。
ただし、これを実際に使って遊ぶのは無理だ。お金を賭けて遊ぶ以外には遊びようがないゲームだからだ。「張札」、まさに「張った張った!」で張るのである。警察はこの札があるだけで賭博容疑でしょっぴいてたそうだ。大学生に教えたらたぶん首が飛ぶだろう。時々取り出して楽しむだけにしておこう。
そう言えば、つい最近BS放送で映画「仁義なき戦い」シリーズををまとめて放映していたが、その中にこの手本引きをしているシーンが出てきた。やはりその筋のゲームである。札の図柄もいかにもそれっぽい。
奥野かるた店では、店員から「ご家庭でお使いになりますか」ときかれた。私はてっきり「賭場では使えませんよ」と言われたのかと思って、「私はその筋の者ではありませんよ」と言いかけたらそれは深読みだった。プレゼントにするのかどうかをたずねられただけだった。クリスマスである。


05/12/21 (Wed)

ひねくれ教育事典 【ろ】
ろんりてきしこうりょく(論理的思考力) もっとも簡単に言ってしまえばいくつかの知識を組み合わせて新しい知識を導き出す能力のことを言い例えば「人間は動物である」という知識と「動物は死ぬ」という知識があれば「人間は死ぬ」という知識を導き出せるのであって「人間は動物である」と「動物が死ぬ」がともに真理であるかどうかはこのさい無視してそれに「私は人間である」という知識が加わった時にいろいろな複雑な思考を経て一度は「私は死ぬ」という結論に至ったのであるがこれがどのくらい複雑な思考かと言うと「私は人間である」「人間は動物である」という知識から「私は動物である」を導きさらにそれに「動物は死ぬ」という知識と組み合わせて「私は死ぬ」という結論を導いたのか「私は人間である」という知識とすでに論理的思考の結果として知識となっている「人間は死ぬ」という知識と結びついて結論を導いたかを明らかにする必要があるのだがその点に関しても今は考えないことにして人間というのは誰もが「私は死ぬ」ということを認めたくないので(これも真理かどうかはともかくそういうことにしておいて)そのことを否定するために乏しい論理的思考力を駆使して「私」は「人間は死ぬ」と「私は人間である」が真理だと断定できるのだが「私が死ぬ」とは断定できないのであってなぜならば「私」が死んだら「私が死んだ」ということを認識することすらできないではないか「私が死んだ」と認識したとすれば「私」はまだ生きているのであるからやはり「私は死んだ」とは認識できないではないかと実は「死ぬ」と「死んだ」をすり替えているのだがとりあえず「私は死なない」ということにすると「私は死ぬ」の前提となる知識のどこかに誤りがないかともう一度はじめから検討し直して見なければならなくなり「私は人間である」は否定しようがないので「私は動物である」が真理かどうかいちばん疑わしいので、さらにその前提となる「人間は動物である」について喧々諤々(けんけんがくがく)と議論していたら誰かに「それは侃々諤々(かんかんがくがく)の間違いでしょう」と指摘されてそう言えばこういう言い間違いはたくさんするなあ例えば「汚名挽回」と横道にそれそうなのを必死でおさえてとこういうふうに話が複雑になると話を横道にそらそうとする人はどこにもいるなあと思いながら話をもとにもどして「人間が動物である」ことが真理かどうかということについて考えていたら夜が明けてきた。


そういうわけで今日は東京に来ているのだが雪がまったくなくて不思議な感じだがそれはさておきこの「吉田からのメッセージ」のページは横幅が広く一行の文字数が長くて読みにくい(それならば自分でWindowの幅を調節してもらったらいいのだが)というご意見をいただいたのでCGIのPERLスクリプトを書き換えて一行の幅を固定したら少し見やすくなったようなのでせっかくだから今日はその記念に一文の文字数をふやしてついでに読点もすべて抜いたらどんな文になるかをためしてみたのだがこのような文を見たらあの大先生を思い出す人が多分10人くらいはいるはずである。

05/12/20 (Tue)

あるHPに、イベントの報告が出ていた。
イベントの主催者がだれで、どんなことが行われたが書いてあった。
プログラム情報と異なるのは、何人参加したかということと「質が高い」という筆者の感想だけだった。
子どもの頃、私は次のような作文を書いていた。

  きょうは ぼくは あさ6じはんに おきました。
  さんぽをしたあと、ごはんをたべました。
  それから はを みがいて がっこういきました。
  がっこうから かえって おとうとのつよしとあそびました。
  とても たのしかったです。

筆者の作文能力はこの程度なのだろう。
これなら、プログラムをそのまま掲載して、「予定通りおこなわれた」で十分である。
そのほうが、よほど資料価値がある。


大学評価 (内輪の話なので、興味のない人は読み飛ばしてください)
どこでもここでも、評価、評価、評価・・・あ、ひょうか!
まるで雹(ひょう)がふってきたような空前の評価ブームである。
我が弘前大学は、学位授与機構による認証評価というのをうける。そのためにはまず各大学が、自己評価書を提出しなければならない。
私は、学部の自己評価委員と全学の評価室委員をやっている(私には一番似合わないことをやっている)。
まず手始めに、自分の学部の自己評価のたたき台の文章を書くことになった。それで私が分担した部分は次の通り。
基準5 教育内容及び方法
基準6 教育の成果
基準9 教育の質の改善のためのシステム
もちろん、これだけのことを書くためには資料収集も必要である。まずそこからはじめるわけだが、時間のすべてを費せるのならいいが、そうはいかない。授業もしなければならないし、研究もしなければならないし、酒も飲まなければならない。というわけで、暇をみつけては下書きを書いていたのだが、下書きを書いてわかったことは、大学がいかに資料をきちんと集積していないかということだった。例えば、「個々の教員は、評価結果に基づいて、それぞれの質の向上を図るとともに、授業内容、教材、教授技術等の継続的改善を行っているか」という項目がある。こんなことを一介の教員である私が書けるわけがないではないか。書いたとしても「行っているかどうかは不明」あるいは「各教員の良心にゆだねられている」と書くしかないではないか。唯一の手だては、それぞれに自己評価してもらうしかない。学部の委員会で昨日下書きを検討してもらったのだが、資料収集をもう少し続けなければならないということになった。ただ、この仕事は個人の仕事でなく、いっしょに仕事をしてくれるとっても有能な同僚もいる。年越しの仕事になるが、まあ先の見える仕事だから何とかなるだろう。
・・・この過程で、少しおもしろいことを発見した。大学の自己評価書も、資料の裏付けがなければ、かなりの部分がいわゆる「作文」にならざるを得ないのだが(それをいかに実質的なものにできるかが大学の力量でもある)、評価する側である学位授与機構が作った「自己評価実施要項」をはじめとする一連の手引き書もかなりの部分が「作文」である。そりゃあそうである。学位授与機構のメンバーがみな大学の管理運営や大学教育を専門とする研究者ではないし、大学の実態についてもきちんと掴んでいるわけではない。だから、中には絶対に把握することが不可能な項目さえある。それに複数のメンバーによる作業だろうから、各文書間が不整合になる。同じ文書内でも、部分によって書きぶりが相当違ってくる。これにしたがって報告書をつくるほうは一体どうすればいいんじゃということになる。評価する側も誰かに評価されなければならない。それで、評価される大学側にアンケートをして、評価機構に対する評価をしたらどうだろうか。こうなると「学生による授業評価アンケート」と同じことになる。こういう評価システムに矛盾をかんじつつ・・まあ、やるべきことをやるしかない。


ひねくれ教育事典 【れ】
れんしゅう(練習) 私は、子どものころから練習というものが嫌いだった。一時期は夢中になることもあるのだが、あまり長く続かない。数学は子どもことから好きだったが、簡単な算数の計算ミスが多い。計算ドリルがきらいだった。文を書くことは嫌いではなかったが漢字をよく間違った(今でも)。漢字ドリルがいやだった。ピアノ・・嫌いではなかったがやはり練習はきらいだった。1時間以上も練習したのはこの一生で3日くらいか。あの有名な入門用の教則本おわるのに3年かかった。大人になってからは、練習する時間があるのなら・・そりゃあ酒を飲みますよ。・・・というわけで、この練習嫌いで、損をしたことがたくさんある。・・・まあ、報いだからしかたがない。
そんな私が、一つだけ長続きしたもの。それが5年前にはじめたランニングでである。このランニングのためにどれだけ時間を使ったか・・・この時間を研究に使ったらどれだけ成果があがっていたか・・・・・と言ってもそううまくいかないのが人生である。この2ヶ月、けがで休んだが、2ヶ月で研究がすすんだかと言うとそうでもない。というより、停滞していると言ったほうがよいかもしれない。そろそろトレーニング再開しなければ・・・と思ったが、今日も雪。休むことにする。ランニングの練習まで嫌いになったら、私は一体何を楽しみに生きたらよいのだろうか。

05/12/19 (Mon)

全国的にも雪。とくに昨年地震の被害にあった中越地方は大変なようだ。愚痴を言わずに生きよう。

  <津軽の雪の風景>

ひねくれ教育事典 【り】「ら」はとばします・・・思いつかないので(ーー)
りっしんしゅっせ(立身出世) もともとは一人前の大人になって世の中に出ていくと言う意味だが、だんだん人よりも高い地位につくというような意味になってきた。唱歌の「ふるさと」(高野辰之作詞)の「志を果たしていつの日にか帰らん」もそんな心情を歌ったものだろう。しかし、同じ唱歌の「我は海の子」(作詞者不詳)はちょっとすごい。
  いで大船を乗出して
  我は拾わん海の富
  いで軍艦に乗組みて
  我は護らん海の国
一、二、三番くらいまで歌うだけでは(現在6年生の共通教材になっているが、「歌詞は3番まで」という但し書きがある)、言葉一つ一つの意味はわかるが、全体になんのことやらさっぱりわからない。しかしこの七番まで歌えば「話者」の気持ちがわかる。どうせ学校で取り上げるなら、ぜんぶ包み隠さず教えるべきだし(その話者に共感せよと言うわけではない。こういう気持ちを歌った歌だということがわかれば良いのである)、中途半端にするのならはじめから取り上げないほうがよい。

05/12/18 (Sun)

今、朝5時30分。今日は宿舎の雪かき当番である。もう少し明るくなったらはじめる。寒いのでいっぱい引っかけて・・・。今日は1時間以上かかりそうだ。冬はこれがつらい。

最近「認知症」という言葉をよく聞くようになった。「痴呆」では差別的だからということか。しかし、この言葉を作った人の言語感覚は相当ひどい。○○症といういうのは、普通は「○○になった状態」を表す。つまり○○は症状なのである。例えば、血栓症、感染症、高血圧症などである。したがって、認知症をそのまま読めば、「認知する症状」ということになる。逆に、ある機能が働かなる場合は、心臓病、肝臓病、精神病のように「病」を使う。認知症なら「認知不全症」「認知病」と言うべきであった。「認知障害」というが一番良いかもしれない。認知症では、いかにも言葉づらだけを改めたような感じだ。それに本人やそのような人を抱えて苦しむ家族に対する配慮のひとかけらも感じられない。


ひねくれ教育事典 【よ】
よしだしょういん(吉田松陰) 幕末に松下村塾をひらいて明治維新の推進者である、高杉晋作、木戸孝允、伊藤博文らを育てた。しかし安政の大獄で捉えられ処刑される。「金太の大冒険」(「金太負けが多い」の歌詞で一部の子ども若者の絶大な人気を誇っていた)で有名なシンガーソングライターのつボイノリオ氏は、この時の弟子たちの気持ちを「吉田松陰物語」で次のように歌っている。「松陰死んじゃいや! やりとげてほしかった」(著作権の関係、風紀の関係でこれ以上歌詞は紹介できません)。なお、このページの管理者と同姓だが、何の関係もない。


雪かきに出たら、今日はたくさん降ったので、除雪車がやってきてさっさと除雪してくれた。それで入り口の前だけですんだ。15分くらいで終わった。
ラッキー。

05/12/17 (Sat)

津軽地方は大雪の気配である。

ひねくれ教育事典 【ゆ】
ゆうじょう(友情) もはや死後となりつつある概念。と言っても、言葉に出して言うのが気恥ずかしいだけで、だれもが大切にしたいと心の中では思っているはずである。ただし、友情というのは少し打算的な感情でもある。相手にとっては自分がいることの都合の良さ、そして自分にとっては自分がいることの都合の良さ、この一致度が友情の強さを決定する。つまり自分を生かし、相手も生かす。そういう相手が友人であり、そう言う相手に対する感情が友情である。そのへんが、恋愛や家族愛と違うところである。愛する人のためならたとえ自分が死んでもいいという感情に対し、相手の存在が自分を生かすからこそ、また自分の存在が相手を生かすという自負があるからこそ成立するのが友情である(どうもひねくれられない)。・・・で話は飛ぶのだが、漫画・梶原一騎原作・川崎のぼる作画「新・巨人の星6」(講談社漫画文庫・本体583円)に次のような場面がある(私は結構こんな漫画が好きなのである)。
主人公の星飛雄馬(ひゅーま・すごい名前だ)の高校時代からの相棒に伴宙太(これも名前だけでどんな人物かがわかる)という豪傑がいる。この伴宙太は飛雄馬に「友情」「友情」といつも友情の大安売りをする男である。この二人が、同じ女性、鷹ノ羽圭子を好きになる。圭子は実は飛雄馬が好きで、そのことを飛雄馬の別の友人である牧場に伝える。そして牧場は伴に「彼女には他に心密かに慕う男性がある」と伝え、飛雄馬の父である一徹(これもすごい名前だ)にも圭子の気持ちを伝える。そのことを父から伝え聞いた飛雄馬は「総身をゆさぶるような歓喜がこみあげてきて何か大声でわめきだしそうだ(この言葉一度借りたことがある)」といいつつも、伴のことを案じて、伴の家へ向かう。伴は牧場からの伝言にショックを受けて大酒を飲んで我を失っているところだ。そこで、飛雄馬が言う。
「伴よ訊くが、青雲高時代の昔も現在(いま)も・・・・おまえ、おれのために死ねるか?」
酔っ払いの伴が答える
「あ・・・あったりまえじゃい! それが真の友情ちゅうもんよ・・・ヒック」
と言って寝てしまう。その脇で飛雄馬が静かにつぶやく。
「わかった。そして・・・・おれもおまえのためなら死ねる」
で、飛雄馬は友情と野球を選ぶ決心をし、圭子のアプローチをはねつけ、野球に専念する・・・かっこいい!(^○^)。
と言う訳で、星飛雄馬氏によると、おまえのために死ねるのが友情だそうだ。
我が家には「巨人の星」「新・巨人の星」「あしたのジョー」等・・単行本がそろっています。

05/12/16 (Fri)


昨日は忘年会。アトラクションでタイからの留学生が、歌と踊りを披露してくれた。私は、タイの音楽というのを意識して聴いたことはなかった。歌も踊りの音楽も「ドレミソラ」の五音音階だった。もちろん音律は西洋音楽とは少し異なるが・・・
二次会で、とてもよい話を聞いた。これはそのうちに書く。今日は朝9時から会議である。


ひねくれない教育事典 【や】
やがく(夜学) 夜学習すること。または夜に開かれる学校。大学の二部、定時制高校、夜間中学校などを言う。かつては働きながら学ぶ学生のための学校だった。しかし、今は多様な学生、生徒が通っている。高度経済成長時代の1960代。金の卵と言われる中卒の少年少女が都会に集団就職してきた。彼らもやがて学習がしたくなり、定時制高校に通う。この時代に定時制に通う高校生の青春を描いたミュージカルと映画が『見上げてごらん夜の星を』。そしてその同名の主題歌を、永六輔が作詞、いずみたくが作曲、坂本九が歌った。中学校の3年の3月、集団就職する同級生を見送りに行ったことを思い出す。私の好きな歌の一つである。もう、40年前の歌だ。



05/12/15 (Thu)

昨晩、ちょっとがんばって仕事が一区切りついた。
今日は、学部の忘年会・・忘れてなるものか・・この一年・・飲むぞ!

ひねくれ教育事典 【も】
もじ(文字) こんなにおしゃべりできるのに文字にするのは難しい(日本語)。文字は読めてもおしゃべりするのは難しい(英語)。おしゃべりも難すぃーすぃ文字にもでぎねぃー(津軽弁)。だびょーん。

05/12/14 (Wed)

津軽の雪の風景 上のタイトル画像に使いました。宿舎のある学園町キャンパス構内です。右側の建物が附属小学校。これからまだまだ積もりそう。

最近、仕事でエクセルを使うことが多い(OpenOfficeのCalcを使うこともある)。
なかなか面倒な仕事だが、数式をうまく使えば非常に役立つツールである。
エクセルを使う上で、重要な技術の一つは、数式をうまく他の場所にはりつけることであるが、この時時間を短縮するには相対指定と絶対指定をうまく組み合わせることが重要である。つまり$を上手に使うのである。私は、不精者だからそういうセンスはすごくあると自負している。ただし、あまり労力を節約しようとしすぎると、大きな間違いをおこす。最初の数式で$の使い方を間違い、あとで気がついて全部やり直しということになる。昔から、しょっちゅうそういうことを繰り返してきたのだが、最近またやった!少なくとも10時間くらいは無駄をした(^^; 


ひねくれ教育事典 【む】
むしょうのきょういく(無償の教育) 無償と言ってもただでできるわけではない。国民が支払った税金、すなわち公費による教育ということになる。
憲法第26条に規定されている国民の権利でもある。
「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。2  すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする」
このため、都道府県が負担する公立の義務諸学校の教職員の給与等について、その2分の1を国が負担するという制度が続けられてきた。今この負担金が3分の1に引き下げられようとしている。3分の1というのは妥協案である。最終的には0にし、教育についてはすべて地方でということになりそうである。地方の側は自分で自由に使えるお金が増えるからこれを歓迎しているようだ。しかし、地方の財力には格差がある。地方で当然格差ができる。無償の教育を続けようとすれば、当然のことながら教育にも格差がつく。憲法の「能力に応じて」の「能力」が「地方の財力」ということになりかねない。無償の教育も将来見直される可能性がある。

05/12/13 (Tue)

大雪になりそうな気配。もううんざり・・・・

ひねくれ教育事典 【み】
ミッションスクール かつては、キリスト教の伝道(Mission)を目的にしていた私立の学校を言ったが、最近は学校教育法に規定され、「キリスト教主義の学校」と呼ぶことが多い。「キリスト教」は一つの主義なのである。小中学校の場合は、道徳の代わりに「宗教」や「聖書」などの時間がある。高校でもや大学にも、それに準じる科目がある。ただし、実際にはキリスト教主義はほとんど形骸化しており、教員にも信者は少ない。キリスト教主義の学校に行っているから安心だとか、そういうことは信じてはいけない(最近の殺人事件を起こした人・・・これはちょっと特別な例だが)。ましてや、キリスト教徒だから、敬虔でまじめだなどというのはほとんど"迷信"に近い。そのよい証人が、ほれ、あなたの目の前にいるでしょう。


「話者」概念はなぜ必要か?
歌の歌詞を味わったり、理解したりするためには「話者」概念が必用である。例えば、「七つの子」は、この歌詞の中の話者の言葉である。この歌詞の中の話者が言った言葉だから、たとえ生物学的に見て、烏が七年生きなくても七羽生まなくても、話者がそう思った、あるいはそういう嘘をついたというふうに考えれば良いのである。したがって、その中の会話の内容は間違っていても、そういった会話自体はリアルなのである。
私は、かつて次のようなことをこの欄に書いた(04/02/06 過去ログ)。しつこいが再掲する。

−−−−−−
将棋で思い出すことがある。夏目漱石の「坊ちゃん」の一コマである。私が中学生の頃、国語の教科書に「坊ちゃん」の最初の章が掲載されていた。そこに将棋が出て来る。(その当時の教科書はもうないので新潮文庫版から引用する)。

「兄は実業家になるとか云って頻りに英語を勉強していた。元来女のような性分で、ずるいから、仲がよくなかった。十日に一遍位の割で喧嘩をしていた。ある時将棋をさしたら卑怯な待駒をして、人が困ると嬉しそうに冷やかした。あんまり腹が立ったから、手に在った飛車を眉間にたたきつけてやった。眉間が割れて少々血が出た。兄がおやじに言い付けた。おやじがおれをを勘当すると言い出した」

国語の時間。ある将棋好きの級友が、かみついた。
「先生、卑怯な待ち駒とありますが、待ち駒は卑怯じゃないと思いますが」
・・・そうなのである。待ち駒は卑怯ではなく立派な戦法なのである。将棋の格言に「王は包むように寄せよ」がある。つまり、外側から包むようにして脱出ができないようにして生け捕りするのである。だから、私も級友と同じ考えだった。
女性の国語の先生は、ちょっと困ったような顔をして、しどろもどろで次のように答えた。
「それは、「卑怯な待駒」と書いてありますから、卑怯な待駒と卑怯でない待駒があるのでしょう」
この解説は嘘なのである。その時はおかしいと思いながらも、どう考えてよいかわからなかった。

この場面、「話者」という概念を使えば、すぐに解決するのである。
この作品の作者は夏目漱石である。しかし、この作品の話者は主人公の「坊っちゃん」である。したがって、「卑怯な待駒」と言うのはこの主人公の「坊っちゃん」の考えなのである。確かに「待ち駒は卑怯だ」と言う人はいる。しかしそう言う人は将棋の弱い人(というかちゃんと勉強していない人)である。そういう人が負け惜しみで言う言葉なのである。つまり、この場面では「坊っちゃん」と言う主人公は「待ち駒は卑怯だ」と考えている、そういう性格の人だと思えばいいのである。・・・もう少しつけ加えれば、「坊っちゃん」という人物を描く夏目漱石の文章の巧みさを表しているのである。
なぜ、こんな簡単なことにきづかなかったのか、不思議である。気づいたのは、ずっとあとで教育研究に興味を持って国語教育の論文などにも目を通すようになってからである。
ついでに言えば、「女のような性分」と言う言い方をしているからと言って漱石に腹を立ててはいけない。「坊ちゃん」の言葉なのである。
この「話者」の概念。実は音楽教育にも使える。

05/12/12 (Mon)

「七つの子」は舞台裏では思わぬ方向に・・・
調べないといけないことがたくさんできた。・・・それでも授業はできる。

ひねくれ教育事典 【ほ】
ホームページ 今や、企業、役所、学校、団体、趣味サークルまで、開設して当たり前のものになった。また、持っていなければなんとなく時代おくれでださいという印象まで与えてしまう。だから、みんなそれなりにホームページづくりに気を使うのである。ただ、あればいいかというと、そうでもない。次のようなものならないほうがよい。
×間違いばかりのもの・・・個人のHPはかなりあぶない。気をつけられたし。
×更新していないもの・・・前世紀から一度も更新していないようなページがある・・私の職場のいくつかの講座にはそれに近いのがある。
×デザインのダサイもの・・・これは人のことは言えないなあ。そろそろ表紙デザインは専門家に頼もうとか思っている。
×コンテンツのまったくないもの・・・データベースとか言って、実は単なるリンク集だったりして。今くらい検索ロボットが動き回っているとリンク集だって、必要なさそうだ。音楽教育関係者もホームページをたくさん出していてそこにはリンク集があるが、結局最後は同じところにもどってしまうのはどういうわけだ。
×面白すぎて中毒になりそうなもの・・・一度見に行くとついついはまってしまい、膨大な時間をすごしてしまうもの。私にもいくつかある。
×人を小ばかにしたようなもの。・・・ここです。アクセス・ログを見てみると、Googleの「明日の運勢」で検索してやってきて「もう一度占う」を何度も何度もクリックしている人がいて面白い(実は10種類ある)。はじめから「ジョーク」と断っているのだが、検索ロボットが拾った場合は、直接このページに入ってくるからどうしようもない。だいたいそういう人は、他のページを見ないで帰って行く(多分怒って)。


私のホームページは自宅のサーバーにおいてある。そしてこのサーバーにしているコンピュータは1998年購入の前世紀の遺物である。それでもLinux(Fedora Core3)マシンとしてしっかり動いている。ただ、少し古いので、アクセスされると、ハードディスクが動き「ガリガリ」と音がする。それで、だれかが自分のページを見ていることが分かるのであるが、それが夜中に数分の間続く事がある。これもアクセスログを見てわかったことだが、検索ロボットがやってきて、トップページから入ってすべてのコンテンツを持って帰るようにしているらしい。
アクセスログを見てもう一つわかることは、サイバー攻撃というのが時々あることだ。中をのぞこうとしてるのか壊そうとしているのか・・・。まあ、やられてもたいしたコンテンツはない。他人のデータはまったくない。たいしたことはないが研究のファイルもすべて入っているので時々CD-Rにバックアップする。悲しいことに、1枚で十分である。その中には写真や音情報が含まれている。テキストだけならもっと少ないだろう。人間が一生かかっても自分で作り出せるコンテンツは正味CD-R一枚(650メガバイト)分にもならない。ついでに計算すると・・(アクセサリーの電卓を使って)・・60*60*24*365*80=2522880000・・約25億、2.5ギガ秒。コンピュータに向かって1秒に半角文字を1文字入力する。それを24時間休まず一生続けてできるデータが2.5ギガバイトである。これが人間の寿命である。人生ははかないのである(と、なぜ話がこうも変わってしまうのか)。

05/12/11 (Sun)

昨日の「七つの子」、結構反響があって、裏ではメールで盛り上がっている。
企業秘密にしたいこともあるので、ここには書かない。


ひねくれ教育事典 【へ】
へんさち(偏差値) 数学的に言うと次の数式であらわされる数値。
 偏差値=50+10×(個別得点−平均値)/標準偏差  
このように直すと、全体の平均点が50点、標準偏差が10になる。
個々の児童、生徒が全体の中でどの位置にいるかを知るにはまことに都合のよい値であり、受験先を決定したりするさいには特によい判断基準になる。
60点以上なら、だいたい上位15%くらいまでに入っており、70点以上なら上位2〜3%である。
かつて受験地獄と言われた時代には、この偏差値は悪玉扱いされた。「偏差値ですべてを決めてよいのか!」と声高に叫ぶ教育関係者がいて、最近ではあまり使われなくなった。・・・と言っても大手の予備校ではしっかり偏差値データが積み重ねられている。また、当然のことながら、「偏差値が高い大学」「偏差値が高い高校」が存在する。学力を受験学力という側面からだけ見るなら、偏差値ほどそれを正確に表すデータはないのである。
それよりも気になるのは、「偏差値ですべてを決めてよいのか!」と声高に叫んでいた人が、高校野球の全国大会などに「進学校」と呼ばれる偏差値の高そうな高校が出場すると高く評価し、偏差値の低そうな高校は「出場して当然」のようなことを言うのはどうしたことか(私は、こういう人をいくらでも知っている)。まさにこれこそ「偏差値」で人間の価値すべてを決めていることになるのではないか。偏差値が高いこと、スポーツができること、音楽が得意なこと、文章がうまいこと、性格がやさしいこと、将棋が強いこと、ハンサムであること、美人であること、大飯食らいであること、毎日歯を磨くこと、元気なこと、酒が飲めること、酒が一滴も飲めないこと、携帯を持っていないこと、生きていること・・・それはそれとして個別に評価してやれば良いのである。

05/12/10 (Sat)

プランの書き直しである。

授業プラン「七つの子」(野口雨情作詞 本居 長世作曲)

国語ではなく音楽の授業としてやってみる。
ポイント
「七つ」は年齢か子の数かが問題になってきた。
しかし、烏の寿命は2〜3年である。また7羽も産まない。
そこがまた授業のポイントになる。

1 歌詞書き取り
『CDを3回かけます。歌詞を書き取りましょう』

2 板書
 3人を指名し、それぞれの連を板書させる。
 漢字、空白、改行をオリジナルなテキスト通りになおす。

3 発問と予想される回答
@話者は何人ですか
 1人、2人、3人
A話者はだれですか
 父、母、子、教師、烏、他の動物、その他の組み合わせ
Bそれぞれの言葉の話者を考えましょう。
 例
 第1連前半 子 
 第1連後半 母
 第2連前半 子
 第2連後半から 父
 回答をパターンに分ける。
C七つは何の数ですか。
 七羽、七歳
 「烏は七羽も生まないし7年も生きない」ことを知らせる。
D話者はなぜ「七つの子がある」と言ったのでしょうか
 人間の歳で言えば7歳
 話者が嘘を言っている。
E最後にもう一度ききます。話者はだれですか。
 ここで、Aのときと変わってもよい。 
F(初出の『金の船』の七羽の烏の挿絵を見せて)
 これからどんなことがいえますか。

4 全員で「七つの子」を歌う。


 

05/12/10 (Sat)

昨日この欄で紹介した『向山型国語教え方教室』11−12月号(No.028)に触発されて書く。

授業プラン「七つの子」(野口雨情作詞 本居 長世作曲)

国語ではなく音楽の授業としてやってみる。
ポイント
「七つ」は年齢か子の数かが問題になってきた。
しかし、烏の寿命は2〜3年である。また7羽も産まない。
そこがまた授業のポイントになる。


1 歌詞書き取り
『CDを3回かけます。歌詞を書き取りましょう』

2 板書
 3人を指名し、それぞれの連を板書させる。
 漢字、空白、改行をオリジナルなテキスト通りになおす。

3 発問と予想される回答
@話者は何人ですか
 2人
A話者はだれですか
 大人と子ども
 教師と子ども
 人間と烏 別の動物と烏(この時は出てこなくてもよい) 
B赤線と青線で二人の会話を区別しましょう。
 第二連の最初で意見が分かれる。
C烏は七つの子といっしょにいますか
 いない。「山の古巣に行って見て」だから。
D七つは何の数ですか。
 七羽、七歳
 烏は七羽も生まないし、7年も生きないことを知らせる。
 人間の年で言えば7歳−人間を烏にたとえている。
 七歳は特別な歳、七五三 学校に入学する。
Eもし人間であるとすればどんな人のことですか。
 事情があって子どもと一緒にくらせない。
 出稼ぎ、病気、懲役、徴兵
Fもう一度ききます。話者はだれですか。
 
4 「七つの子」を合唱する。

と言うわけで、まず大学で授業をしてみる。
なお、R大のT氏が、初出の『金の船』<1921(大正10)年>の画像を送ってくれた。その挿絵には、8羽の烏が描かれている。これだと「7羽の子」になってしまう。大学生の授業ではその理由も考えさせる。

なお、この授業ぜひやっていただきたい。
教育関係者でない方も話題にしていただきたい。

・・・・のつもりだったら、Y氏がインターネットに次のような文があることを教えてくれた。

「『七つの子』は「七歳の子」である」(続) 
http://wadakoji.cool.ne.jp/esseopen.htm
ここで和田孝司氏は次のように書いている。
「「カラスはなぜなくの」と問うている子こそが「七つの子」すなわち「七歳の子」である。その七歳の子の素朴な質問にその子の母親(および父親)が「あのカラスにはお前のような七つになる子がいるから、カラスはかわいかわいとなくんだよ」と答えている。常識はずれな事をわざと言うのである」
これは有力である。むしろ、「子どもと離れた親」と考えるよりも自然だ。
そして大事なことを忘れていたことに気が付いた。「七つの子」という言葉は話者の言葉なのだ。話者は嘘をつくこともあるのだ。
そういう意味では、発問Eは少しうがちすぎた解釈だった。もちろんそういう風に解釈する子がいてもよいが、こういう自然な解釈のほうがより「童謡的」である。発問Eは抜くことにする。
もう少し修正がいる。
発問@の答えは、この場合は3人である。
「子があるからよ」は母親のようだし、「いて見て御覧・・・いい子だよ」は父親のようだ。
発問Cはやや誘導的すぎるか。
かなり全面的に書き直す必要がある。
あらためて書き直す。

05/12/9 (Fri)

『向山型国語教え方教室』11−12月号(No.028)で向山洋一氏が、「赤とんぼ」(三木露風作詞)をとりあげている。
「向山型国語に挑戦27」
向山氏は「松本隆行氏の論文がすぐれていました」として次のように言う。
「全文をノートに写し、一つひとつつきつめて考えてほしいのです」
ノートに写すのはとてもよい。私は、音楽の時間だが、CDを3回聴かせて、歌詞を書き留めさせた。
さらに第三連の「「お里ののたより」は誰から誰にあてた便りでしょう」について言う。
「発問9は大切です。「「お里の便り」は、「話者の母の里からの便り」を「姐や」がしてくれていたが、それがなくなったという有力な説があるのです。この点をおさえていたのも松本実践だけでした」
可能性はあるが、有力な説だと言えるだろうか。
二つの理由から、有力な説だとは言えない。
(1)これを有力な説と言うためには、まず露風が幼い時に母と別れたという情報が必要になる。これは事実だが、そうすると「作者と話者」は違うという氏の主張と矛盾する。作者と話者と同じだとすると、今度は露風が母と音信不通にはなっていないという事実と「それがなくなったなくなった」が矛盾する。
(2)どう考えても、15歳未満の子守奉公に来た少女が便りをしてやるというのは不自然である。姐やには便りをする時間と場所とお金が必用になる。
やはり姐やの実家から話者の実家への便りと考えるのが自然である。
姐やの消息については実家からの便りでしばらくは知ることができたが、時がたつにつれて(あるいは何らかの事情で)その便りも途絶えてしまった。
特殊な事情(社会に広く知れ渡っている場合を除く)について知っていなければ成り立たない事実を根拠にすべきではない。
なお、私の赤とんぼの実践はこちら

この雑誌の裏表紙に、「七つの子」(野口雨情作)の歌詞がでていた。
「あなたは、この教材をどう授業しますか」とある。
からすは7年生きない。
からすは7羽も生まない。
「七つ」をどう解釈するか? さらに、そこからどのような発問をつくるか?
 

05/12/8 (Thu)

雪はやんだのだが、道路が凍って、滑りそうである。こわい。


「このHPは、《筆のすさび》で書き散らしたような日記である」
「あの本は、《巻措くあたわず》のおもしろさである」
こういう日本語が、すっと出てきたらかっこいいなあと思う。
そういう日本語を集めた本である。
・日本語倶楽部編『死語にしたくない美しい日本語』(KAWADE夢文庫・540円)
こういう言葉を使うのは私のもっとも苦手とするところだからありがたい。辞書がわりに使えそうである。
ただ、《筆のすさび》は現在では、《指のすさび》または《キーボードのすさび》と言うべきか。
一方、滅びてほしい粗野で下品な日本語もある。
《飼い犬に手をかまれた》
人間を飼い犬扱いする人だから出てくる言葉である。
《顔に泥を塗る》
「塗った」と言う人も、「塗られた」と言う人もいやだ。顔=体面などどうでもいいじゃないか。
これらは載っていなかった。


ひねくれ(ない)教育事典 【へ】
へいきんりつ(平均律) オクターブを平均的な音程に等分割した音律。等分割というのは、隣り合った音同士の振動数の比が一定であること、すなわち振動数の数列が等比数列になっていることである。振動数が等比であれば人間は等差に感じる。エネルギーが10倍、100倍になれば、マグニチュードが1段階、2段階とあがっていくのと同じことである。
代表的なものは1オクターブを12等分した12平均律である。理論的にはいろいろな平均律を考えることができる。全音音階は6平均律と言えるし、F#とBの鍵盤だけの楽曲を作れば、2平均律である。また、13平均律や29平均律なども可能である。オリジナルな楽曲をつくるのなら、素数を使った方がよさそうな気がする(そうでないと、平均律と共通する音程ができるからだ。例えば15平均律だと3つの音が平均律と共通音になる)。
また実用できる考え方(あくまでも考え方)に53平均律がある。これだと、純正律やピタゴラス音律などのほぼ近似値をほとんどカバーできるからである。
大全音を9度(度は53平均律の隣り合った音同士の音程)、小全音を8度、大半音を5度、小半音を4度と考えれば、イメージしやすい。

05/12/6 (Tue)

ひねくれ教育事典 【ふ】
ふぞくがっこう(附属学校) 教育学部の学生が教育実習を実施したり、教育研究を促進したりするために大学に附設された学校を言う。入学時に選考を行うのは、教育実習生にへたくそな授業をされても、研究開発のための変則的なカリキュラムを実施しても、一時的な学力の遅れを十分に回復できるだけの能力のある児童生徒を確保するためである。だからエリートを選抜するためではないという「建前」を示すために、まず選考の際に第一次の学力試験で入学定員を超える数を合格させ、抽選で最終合格者を決定する措置を取ってきた。しかし、保護者の中には附属をエリートの通う学校と誤解している人はまだまだいる。最近は、この抽選制度をやめる附属学校が増えている。「抽選で進路が決まるのは教育的によくない」という保護者の要望もあるようだ。「抽選が教育的によくない」と思うのは、附属に入学することが名誉なことであるという誤解の裏返しである。抽選が教育的でないというのなら、教師の見習いの授業を受けることが非教育的だとは思わないのだろうか。非教育的なことがいやなら、はじめから受験させなければよいのである。抽選を廃止することは、学校みずからが保護者のそういう誤解や身勝手さを是認し建前を放棄することでもある。
なお、附属学校の情報をインターネットで検索するには「附属学校」としっかり入力しよう。「附属」だとたいていは病院とか図書館が出てくる。"fuzoku"とは決して入力してはいけない。←コウカイテモヤッテミルヒトガ10ニンハイル。

05/12/6 (Tue)

ひねくれ教育事典 【ひ】
PTA(Parent-Teatcher Association) 某大学では、入学式を2回に分けて行うと言う。保護者のスペースを確保するためだそうだ。また、ある学部は成績表を保護者に送付している。別の学部は保護者と教員の懇談会を開催している。そのうち○○大学PTAというのができるかも。かくして子離れ、親離れはがますます遅くなっていく。すでに企業の入社式に付き添う親もいるそうだ。学校の教員の親も学校に付きそうようになるだろう。保護者参観日というのは、教員の親が自分の子の授業を参観する日だったりして。夜家に帰ったら、母親は教員である息子に「たかしちゃん、今日の授業よくがんばったね。ママはとってもうれしいわ」とか言うのだろうか。Parents of Teachers Association とか言う組織ができたりして・・・・・


もう師走。師走になって一番いやなのが年賀状である。出そうとは思っているのだが無精なので結局出さない。年賀状はたくさん買うのであるが・・・
出したのは、転勤があって住所や連絡先を知らせなければならない時だけだったような気がする。とくに最近はほとんどメールですますようになった。で、私に年賀状を出しても返事を期待しないでください。ごめんなさい。あなたのことを軽んじているわけではありません。




05/12/5 (Mon)

昨日夜9時からの「NHKスペシャル」は、「脳梗塞からの“再生“、免疫学者多田富雄」。〈生きる力〉とはこういうことを言うのだろう。言葉を奪われ、手足が不自由になっても、仕事、趣味、酒を続ける。脳梗塞で倒れたあとからも、本を5〜6冊出したそうである。何よりも自分の状況を研究者の目で見続けられるところがすごい。一流の研究者は違う。私なんぞは足下にも及ばない。


一時期ひどかった掲示板へのアダルトサイトからの書き込みがなくなった。アクセスログを調べて、あやしいアドレスからのアクセスをすべて禁止したからだ。また、サーバー自体に攻撃をかけてくる奴もいる。そういうアドレスからのアクセスも禁止した。

05/12/4 (Sun)

昨晩は、青森県作曲家協会の会員が作品を発表する「第31回音楽展」が開かれた。批評を書くように頼まれた。こういうのは2〜3日たつと印象がうすれてしまうので、朝のうちに書いてしまった。2〜3日推敲して最終原稿を送ろうと思う。ここに載せて意見をいただきたいのだが、地元紙の陸奥新報に掲載されるのでちょっとまずいかなと思う。見てくださる方があれば、メールをいただきたい。


11/24の続き 石取りゲーム
次のように書いた。
>「石の山がMあり、交互にN個ずつ取る場合」の必勝法を書けば、数学に近づく気がするのだがそこまで考える脳みそがない。
学生が答えを持ってきた。
ただし、「石の山がMあり、交互に3個ずつ取る場合」である。
言葉で説明されたのだが、ほぼ完璧のようである。それをヒントに私流にまとめてみた。
(1) 各山の石の数を4で割り、その余りによって各山の状態を次のように表す{0},{1},{2},{3}
(2) 次のABCのいずれかの状態で手番になったほうが負けである。
 A {0}を除く山は{1}だけで、かつ{1}が奇数個ある。
 B {2}または{3}があり、かつ、{1}{2}{3}が、それぞれ偶数(0個も含む)個ある。
 C {1}{2}{3}がすべてあり、かつそれらがすべて奇数個ある。
たぶんこれで穴はないと思う。これで、Nが決まってない場合も答えがだせそうである。


ひねくれ教育事典 【は】
はなまる(花まる) 教師(とくに小学校低学年)がよくできた子どもの答案に書いてやる丸のこと。小学校時代には私ももらったのだが、あんまりうれしくなかったような気がする。今はどうなのだろうか。今度、大学のレポートに花まるを書いて返してあげようか。ただ、あんまり花まるかけるようなレポートは少ない。

05/12/3 (Sat)


本格的に雪が降ってきた。写真は、住宅のベランダから。
仕事が山のようにたまっている。今日は大学に出て仕事を片づける。
夜は、コンサート。大変なことを頼まれた(^^;

少女殺害事件があいついで起こっている。安易な論評は避けるべきだと思う。ただこれ以上事件が続かないことを願うばかりである。
それにしてもこれらの事件のTV報道にBGMつけるのは、なんとかならないか。それもほとんどがテレビゲームのBGMみたいな音楽である。これではまるでショーではないか。被害者の遺族はいたたまれない。また、視聴者からは冷静な判断力を奪う。
二つの教育が必要だ。
・音楽の消費者教育・・・・音楽にだまされない。
・メディア・リテラシー・・メディアにだまされない。

ひねくれ教育事典 【の】順番間違えた(^^;
のうりょく(能力) 日本国憲法には次のような条文がある。「第26条 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」。この文章はおかしい。「その能力に応じて」と「ひとしく教育を受ける」は矛盾する。実際にもひとしい教育など受けてはいないではないか。理想は「それぞれの個性や能力に応じて、それにふさわしい教育が受けられること」でなければ、ならない。もちろん「ふさわしい教育」は、能力の高い人が高度な教育を受けられることだけではなく、発達障害や学習障害を持つ人が手厚い教育を受けられることを意味する。だから、憲法の条文は次のように解釈すべきである。「ひとしく権利を有する」。つまり「ひとしく」は「教育受ける」ではなく、「権利を有する」にかかっているのである。次のように書いてあればよかった。「すべて国民は、能力に応じて教育を受ける権利をひとしく有する」。
文章を書くときに、副詞(句)や形容詞(句)の位置をどこにするかは悩ましい問題だ。
『あいまいな日本の私(大江健三郎)』。あいまいである。


今午後4時。
研究室で大学の仕事をしている。公の文書を作っているのだが、まったくはかどらず。約束の期日までにできるのか。
土曜だからスチームはこない。ストーブはあるが、二つのヒーターのうち一方が故障している。あまり効果がない。


05/12/2 (Fri)

「馬鹿」「ばか」「バカ」と言う言葉に過敏に反応する人もいるらしい。私は、どんなにできなくても、一生懸命やっている人のことを馬鹿だとは思わないし、またそのような人を「馬鹿」呼ばわりしたことはない。私が「馬鹿」だ思う人には共通性がある。このメッセージ全体を読めばわかるはずである。

久しぶりに研究ノートを更新した。

ひねくれ教育事典 【ま】
マスターベーション @青春の入り口(とくに少年)で通らなければならないほろ苦い儀式(この儀式は繰り返し行うのが特徴) Aアマチュア(または一部の自称プロ)がやる音楽活動 Bごく一部をのぞいたほとんどの音楽教育研究(こわーーーーーーーーー!) 

05/12/1 (Thu)

昨日の続き
農工大の生協への投書と生協職員の白石さんの回答(http://shiraishi.seesaa.net/)

Q リュウとケンはどっちが強いんですか? 同じだろ!(うんこマン)
A.リュウとケンとは、この場合、誰のことを指すのでしょう?
(漫画のキャラクターか何かですか・・・?)
推測の域は出ませんが、竜雷太と松平健の場合、
全盛期ならおそらく竜雷太の方が腕力は上だと思われます。(白石)

私が職員なら次のように答える(ゲストブックにも書いた)。
学生を愛しているからだ。学生をばかのままで終わらせてはいけない。

  この投書をした学生に告ぐ。
  お前はばかだ!
  反論があれば、生協事務室に来い。 


−−−−−−−−−−−−−−−−

再びマンションの構造計画書偽造問題
問題になっている建築士が、圧力をかけられたと言っている。
建築士が圧力をかけられたと感じたのは本当だろう。しかし、どれだけ追究しても「偽造しろ」と言われたという言質を引き出すことは不可能である。どう考えても、企業の責任者が「偽造しろ」と直接的に言うはずなどないからである。
以下は推測である(確信がある)。
こういう業界では、力のあるほうが「もう少し安くならないか」と言えば、下のほうはその言葉を〈少しくらい偽造しても安くせよ〉と理解しなければならない。それが読めないようでは、この業界では仕事ができない。こういう空気が業界やそれに関係する官庁まで行き渡っている。つまり、明確な言葉によって意思決定がなされるのではなく、一つの空気によって物事が決まっていくのである。
もしこの推測が当たっていれば、今回の事件は氷山の一角である。あぶないマンションはまだまだある。そして、今回の問題にしても、責任者をはっきり特定するのは不可能だろう。特定したとしても、もっとも弱いところ(例えば企業の一社員とか中小企業の経営者)が責任を背負い込むことになるだろう(実際にもう自殺者がでている)。だから被害者の救済のためには国が責任を持って保証するしかない。補償問題と責任追及は別に考えるべきである。
ところで、言葉ではなく空気によって物事が決まっていくというのは日本社会の特徴でもある。例を出せばきりがない。
・小中学校の学級会や生徒会ではあれほど多数決が行われるが、一般社会で多数決が行われることはまずない(我が教授会では一度もない)。
・大学で「学生による授業評価」というのが行われているが、実際に一人ひとりに意見を聞いてみると本当に賛成している人はごくわずかだ(でもいっこうにやめる気配はない。しつこいね、私も)。
・京都で「ぶぶづけいかがですか?」と言われたら、「お帰りください」という意味だ(弟が住んでいるが、京都にはあんまり行きたくない)。
・人にお願いをして、一度断られたからと言ってもう一度お願いしないのは失礼だ。
・「おまんじゅうあげましょう」と言われたら、辛党でも「けっこうです」とむげに断るのは失礼だ(おまんじゅうすすめられるのは結構つらい)。
・かつて○○省の○○官が地方を視察したさいに、土産物店の前で立ち止まったら、案内をしていた地方の△△△△から2・3日後にその土産物が自宅に届いた(私の業界では伝説になっている。今はそんなことはないのでくれぐれも誤解しないでいただきたい)。
・血液製剤小委員会の安倍委員長の暴走を止められなかった。裁判で負けなかったのは、決定的な証拠を残さず、空気で委員会を支配したからだ。
・勝つはずのない戦争に突入した(みなさん、ご存じの通りです)。
例をあげればキリがない。そして、この空気を読めない人間や空気とたたかおうとする人間は徹底的にたたかれる。最近の官庁、地方自治体、公団、公社、企業などでおきた不祥事は、この日本社会全体にある空気の支配が招いたものだと言っても過言でない。
と・・・ここまで書いてやばいことに気がついた。私の弟は、建設業界人だ。まあ、会社のホームページ(設計屋さんにしては、あんまりセンスのよくないホームページだ)を見る限り大丈夫だろう。


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