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メッセージ


05/11/30 (Wed)

津軽は本格的な冬。雪がつもりそうです。

ベストセラーになっているので生協の本屋で立ち読みした。
・白石昌則、東京農工大学の学生の皆さん『生協の白石さん』(講談社・1000円)
あほらし! 東京農工大学の学生ってばかだね!
まあ、白石さんも、こういう馬鹿相手じゃ、自分もたのしまなくっちゃやってられないからはじめたんだろうけど、馬鹿を拡大再生産してるようなもんだね。
こういったことが全国の・・いや少なくとも弘前大学生協には感染しないことを祈るのみ。

05/11/29 (Tue)

昨日の音楽科教育法の授業。唱歌の歴史で「蛍の光」のCDを聴かせていて、ちょっと「ぐっ」と来そうになった。歌詞の3番「つくしのきわみみちのおく」の部分である。明治には、この歌詞で「西から東まで日本は一つ」と教えるつもりだったのだろう。しかし私には「筑紫(つくし・ちくし=福岡地方)に生まれ、全国をうろうろしながら、今この陸奥(みちのく=東北)のまたその一番奥の青森県の大学の教壇に立っている」・・という思いが。いやあ、音楽というのは怖い。それも単純なほど。
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マンションの構造計算書偽造問題。行政機関が公的資金の支出も含めて保証するしかないだろう。ただし、関係する事業所に対しては個人資産も含むすべて資産の管理没収、責任者の処罰というという厳しい姿勢で臨むべし。現行の法律の範囲で出来る限りのことをすべきである。国民の生命と財産を守るのが国家の使命である。
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バレーのグラチャン。日本チームは男女とも振るわず。まあ、それはいいとしても腹の立つこと2つ。
1)「KAT-TUN」とか言う若造のいかにもサポーター代表みたいな振る舞い。そんなこと認めてないぞ。
2)生ではなく、時間差で中継していること。放送終了時間によって、「あっ・このセットで終わるな。日本は負けるんだ」とわかってしまう。味気ない。
こんなことやってる限り、バレーボール日本の復活はないだろう(復活しなくても何も困らないが)。「だったら見るな」って?ほとんど見てませんよ。
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ひねくれ教育事典 【の】
のうみそ(脳味噌) 「筋肉を鍛える」というのは、実は筋肉を破壊することである。トレーニングによって筋肉を酷使すると、筋肉細胞は破壊される。しかしその後の休養と栄養補給によって筋肉はトレーニング以前よりも増強される。これを超回復と言う。では脳味噌はどうすればよいか。脳味噌破壊は簡単だ。毎日毎日大酒を飲めばよい。ただ、その後の栄養補給の方法がわからない。だから、私の脳は破壊されたままである。(トレーニングの方法も間違っているような気がするが、まあ堅いことは言わないことにしよう)

05/11/28 (Mon)

青島広志『作曲家の発想術』(講談社現代新書・2004年・740円・私がこの欄で発行年を省略している本は、その年に出版された本である。このようにことわっているのは、前年以前に出版された本である)。
なにげに(「何気なく」が正しいのだろうが、ちょっと若者ことばを使いたくなった)、中をながめていたら(青島ファンには悪いが、こんな本は真剣に読む本ではなく、なにげにながめる本である)、次のような記述があった。
スーザ作曲「ワシントン・ポスト」の作曲法について分析?した部分である。
「・・・暢気で上機嫌な曲想になっていて、少しばかりヨハン・シュトラウス二世の匂いもある。序から二つの主題を持つ主部の後、トリオが続き、ここでは属調に転調する。この途中で「事件」が起きるのだが、これまた真面目に書いているのだろうかと疑いたくなるようなギャグの音楽が繰り広げられるのは、子供を意識してのことなのか。それともアメリカ人の国民性の成せる業か」
・・・ここまで読んで、あわてて「ワシントン・ポスト」を冒頭から頭の中でたどってみた。たしかに「事件」があって、ギャグがある(知らない方はぜひ聴いていただきたい)。笑いをかみ殺すのがたいへんだ。
この曲を自分で演奏したのは、高校生の頃だったろうか。深刻な顔(たぶん)をしておおまじめに演奏していたのだろう。こういうふうに楽しむことができなかった・・・・その頃の学校吹奏楽はどこかおかしかった。今は改善されているのだろうか。

05/11/27 (Sun)

ブログが大流行である。私もこの欄をブログにしようかと何度も思ったのだが、なかなかやる気にならない。一応、ここに準備だけはしているのだ。
人のブログをよく見るのだが、どうもごちゃごちゃしていてわかりにくい。何がどこに書いてあるのかわかりそうでわかりにくそうだ。
結局のこと CGI スクリプトが一番使いやすいのでこれをつかうことにする。下のほうにパスワードを入れる欄があり、そこにパスワードを入れると編集画面になるという超簡単なスクリプトである。作者は右下にあるのだが、もうこのスクリプトは配布していないようだ。
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きわめて常識的な学力論
清水宏吉『学力を育てる』(岩波新書・700円)
清水氏は学力を次のようにわける。
A学力 知識・理解・・・ペーパーテストで簡単にみることができる学力
B学力 思考・判断・・・ペーパーテストで測ることは難しいが、成績や試験の成績に関わってくる学力
C学力 意欲・関心・態度・・・A学力、B学力を伸ばしていくための基礎となる学力
そしてこれらの学力を樹木における、葉、茎、根として捉える学力論である。
広岡亮蔵の「三層学力論」、岸本裕史の「見える学力・見えない学力」、そして指導要録の「観点別評価」全部に顔をたてたような学力論とも言える。
樹は、葉、茎、根のどれがかけても育たないのでどの部分も大切だというわけである。
常識的であり、とてもわかりやすい学力論である。
音楽科で言えば、次のように説明すればよい。
A学力 目に見える表現の技能や鑑賞の能力
B学力 音楽的感受の能力
C学力 音楽への関心・意欲・態度
見事に、指導要録の評価の観点にはまってくる。
しかしである。評価はこれでよいとしても、具体的に授業の実践を考えると、このような学力規定は本当に有効だろうか。言いたいことはたくさんある。また別の機会に。
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トランプの一人遊びを一つ。
(1)カードからジョーカーを抜き全体を裏にしてよくシャッフルしする。
(2)場にカードを7枚並べる。その際次のように1枚目(一番左)を表にし、2〜7枚目は裏向きにする。
 表・裏・裏・裏・裏・裏・裏
(3)上の2枚目のカードの上に1枚のカード表向きに重ねる。さらに3〜7枚目のカードの上に1枚ずつ裏向きに重ねる。カードは上から見ると次のようになる。
 表・表・裏・裏・裏・裏・裏
(4)裏になっているカードのうち、一番左側のカードの上に1枚のカードを表向きに重ね、裏になっている残りのカードの上に1枚ずつ裏向きに重ねる。
(5)上の(4)をすべてのカードの山の一番上のカードが表になるまで繰り返す。
(6)表になっているカードのうち、色違い(例えば、クローバとハート)で数字が1違いのカードがあった時には、小さい数字のカードを大きい数字のカードの上に重ねようにして移動する(ただし、重ねた時に少しずらして下のカードの種類と数字が見えるようにしておく。小さい数字のカードを移動したあとの山の一番上のカードを表向きにする・・・・
ああ、この説明は面倒だ。
もうおわかりだと思う。これはWindows についているソリティアというゲームの実際のトランプカードを使った遊び方である。いや、こういう言い方はおかしい。ソリティアのもともとの遊び方である。ソリティアにはたいていの人が一回ははまると言う。それくらい一人遊びとしてはよくできたゲームなのである。それは昔から伝えられた、よく鍛えられたゲームだと言うことなのである。
私は、コンピュータが普及するずっと昔、子どもの頃からよくこのゲームで遊んでいた。ただ「ソリティア」とは言わなかった。叔父や叔母がよくこの遊びをしていた。「なんしようと(何してるの)?」と聞いたら「うらない」と言う。まあ、あがれば良いことがあると期待して遊んでいたようだ。ところが、私はこの「うらない=占い」という意味がわからず、ずっと「うらない=裏ない」と思っていた。つまり最後は全部のカードが表向きになる(ことを目指す)のでそう思っていただけである。子どもの頃によくある勘違いである。
ソリティアはよく鍛えられたゲームだから、ついついはまってしまう。Windowsについているスパイダー・ソリティアも相当おもしろい。はじめるとあっという間に1〜2時間の時間がたってしまう(「あっ」というだけで2時間もたつことは絶対ないが)。だから、職場のコンピュータからは削除した。

05/11/26 (Sat)


10月29日琉球大学にて。マイクを持っている方が琉球大学の中村透氏(作曲)。その隣の口をポカーンとあけているばかづらが私.
----口をあけて人の話を聞くのは子どもの頃からの癖だが、いつまでたっても直らないものである。


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「例えば日本では、男の子が学校で大便をしてしまうと(汚い例ばかりでスマンね)、小のときと違い個室に入るので、その子が大をしたことがたちまち分かってしまい、それがいじめにつながるという。そして、その恥ずかしさのあまり学校で大便ができず、学校で大便をしないためにお腹が張ってしまう子供もいると聞く。トイレに行くのは人間として普通のことだ。普通のことを普通にして何が悪いというのだろう。これが正論だが、そこに“恥”という感情が入ると、“学校で大便するというのは汚いことで、人に知られたら恥ずかしいことだ”と子供は考えてしまう。そして“大便は恥ずかしい”という概念が子供の間に広く流布する限り、子供は学校のトイレに行くことができない。人間だから当然だという理論は遠く浮遊し、そんなことは言っていられなくなってしまう」
山本李奈『胸を張れ!小心者』(文芸社・2004年・1200円)
弘前大学の女子大学生がエッセイ集を出版したということで、昨年あたりに話題になったことがある。それも自費出版とか、地元の小さな出版社からの出版ではなくて、文芸社という東京の立派な出版社からの出版である。私は、だいたい話題になった本は買うことにしているのだが、この本を買うのはためらっていた。若い女性の書いた本を買うのはなんとなく気恥ずかしいのである。例えば、もう十数年も前になるが、俵万智の『サラダ記念日』を買うのをためらって書店の中をうろうろしたあげく、他の本5〜6冊といっしょにしてめだたないようにしてレジに持って行った記憶がある(その頃は俵万智さんは20代だったと思う)。また、今でも柳美里の作品なぞをレジに持って行く時にはどきどきしてしまう。
そんなわけで、また他学部の学生でもあるので読むこともなかったのだが、先日あるイベントがあって著者本人と顔見知りになった。ごく普通の大学生という感じだったが、本の売り上げをずいぶん気にしていたので買って読むことにした。・・・それでも買うのは気恥ずかしかったのだが・・・・
17歳から20歳くらいまでに書き溜めたエッセイ集だという。WEBに掲載した文章らしく、文頭の一マスあきがない。ごく普通の高校生、大学生がごく普通の日常を当たり前に描いているだけなのだが、なんとなくおかしい。それがみなユーモラスに思えるのは、おそらく身の回りに対する観察力と、幼いころから文章を書き続けて培った文章力のせいなのだろう(文章を書くから観察力がつくのか、観察力があるから文章が書けるのかはよくわからないのだが)。そして冒頭に引用したようなちょっと鋭い人生論もところどころにちりばめられている(実は、私もこの話題について「ひねくれ教育事典」に「便所」という見出し語で書いている)。まだ、一刷がはけてないようなので、みなさん、ぜひぜひ買ってやってください。
ただこういう学生が近くにいると、まわりにいる人間、友人や指導の教員はつらいかも知れない。しっかり観察されるから(^^;

05/11/25 (Fri)

10月29日に行われた日本音楽教育学会のシンポジウム「地域性を生かした音楽教育を考える −沖縄の肝心(ちむぐくる)を次世代へ−」をテープ起こしをした原稿が送られてきた(と言ってもメールだ)。これを学会誌に掲載するのだそうだ。20ページにもなる。それで、原稿を見てほしいということだった。最初は自分の発言だけを見るのかと思っていたら、全体に目を通してほしいと言う。テープ起こしをした方にはほんとうに感謝である。
しかし・・・、このシンポジウムを学会誌に掲載する習慣、毎年続いているのだがそろそろやめてはどうかと思う。もちろん、シンポジウムの提案者の話は貴重である。そしてそこで討論された内容も貴重である。しかし、それはその場にいて討論に参加するからこそ貴重なのであって、その場にいない人間には何の意味もないものである。とくに今回のように映像や実演を伴う話の場合はなおさらである。その場にいて得た情報と、文章で得た情報はまったく別物である。
と文句を言っても仕方がない。習慣なので目を通すことにしたのだが、やはり問題点は多い。一言で言うと話し言葉は冗長で、書き言葉として読むには耐えられないということである(もちろん、この冗長さは必要な冗長さであって、話し言葉が書き言葉のようになってしまうと、頭の回転が追いつかなくなる)。とくにひどいのが次のような例である。
・話言葉特有の余分なことば。「えー」、「あのー」など
・同じ内容の繰り返し。「私は・・・私は・・・・と私は考えます」など
・話言葉独特の倒置。「なんです。沖縄では」
・くだけすぎた表現。「・・・するんですけど」
・文章にしてみると、何を言っているのかまったくわからない表現(その場にいたらわかる)
・そのまま書き出すと少し気の毒な表現(その場で聞いているうちはよいが、文になると支離滅裂にきこえる言い回し)
ついでに言えば、過去の記録を読み返して見ると、フロアーの支離滅裂(と私が感じるような)発言まで、ほぼそのまま掲載されている。こういうものに学会の貴重な予算を使うのは大いなる無駄遣いだと思っていた。
僭越だとは思ったが、私とコーディネータのNさんで言い回しを修正させていただいた。それでもまだわかりにくいところはあるが、そのままよりもましである。と言うわけで、この記録に関する文責はすべて二人にある。

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三島由紀夫が、私兵組織楯の会を連れて市ヶ谷の自衛隊市ヶ谷駐屯地に総監室に乱入し割腹自殺したのが、35年前の今日、1970年11月25日である。当時は、私はギンギラギンの左翼青年だったので、三島由紀夫など名前を聞くだけでおそましかった。おぞましい人間がおぞましい人間にふさわしいおぞましい事件を起こした、くらいにしか思わなかった。だから三島のことなど、しばらくは考えたこともなかった。ただ、年をとるにつれて、三島のやったことの意味などについて少しは考えるようになった。35周年だからか。三島関係の本が出ている。
松本健一『三島由紀夫の二・二六事件』(文春新書・710円)
著者は二・二六事件では蹶起した青年将校と三島をダブらせる。そして三島の思想を次のように要約する。
「二・二六事件にあっては「西欧的立憲君主」として、いわば天皇みずからが政治概念として立ち現れ「みやび」なる青年将校を討伐した、というのである。とすれば、じぶんが『英霊の声』で描いた〈美しい天皇〉こそが、本来あるべき天皇の姿ではないか」
そして、三島の行動は二・二六の青年将校たちに対して自ら厳しい処断した昭和天皇に対するたたかいであったという。しかし、昭和天皇は少なくとも公式には三島を無視し、そのことによって三島は昭和天皇に敗れ去ったとするのである。
三島の思想については、わかりやすい本である。しかし、最後はうがちすぎである。
三島の心情はどうあれ、三島は昭和天皇に敗れ去ったのではない。よい意味での戦後民主主義に敗れ去ったのである。三島が引き起こした事件が、社会に与えた影響など皆無と言ってよい。日本の民主主義は、三島一人が騒いで土台が揺るぐほど脆弱ではなかったのである。ただ、それだけである。

05/11/24 (Thu)

11/21 の続き

石取りゲーム(1)の答え
山にある石の数を a とする。
ゲームの定義に より a=1 の時に手番なら負け。
したがって a=2,3,4 の時に手番なら勝ち。
a=5 が手番の時には、a=2,3,4 にすることしかできないから負け。
以下同様に、a=9,13,17.... が手番になると負けになる。
従って、必勝法は次の通り。
(1) a=4n+1(n は 0 または自然数)ならば後手を選び、それ以外の時には先手を選ぶ
(2) 以下、a=4n+1 にして相手に手を渡す。
※相手が必勝法を知らなければ、上の(2)にするチャンスが必ず訪れるはず。

石取りゲーム(2)の答え
答えだけ簡単に・・・
3つの山の石の個数を4で割った余りを a,b,c とし 山の状態を{a,b,c}とする。
ただし、 a=>b=>cとする。
次の状態で手番なら負けになる。
{1,0,0}
{1,1,1}
{2,2,0}
{3,3,0}
{3,2,1}
(1) 最初が上の状態なら後手を選び、それ以外ならば先手を選ぶ。
(2) 以下、上の状態になるようにして相手に手を渡す。
 もう少し簡単に表せるような気もするが・・・・

たぶん
「石の山がMあり、交互にN個ずつ取る場合」の必勝法を書けば、数学に近づく気がするのだがそこまで考える脳みそがない。

05/11/23 (Wed)

11/20の続き
まず、次の文を読んでいただきたい。
「この本ができあがるまでのいきさつを、かんたんにしるしておきたい。この本は、著者ひとりでできあがったものではない。たくさんの友人たちの、共同作業の結果のようなものである。わたしは、わかいときから友だち運にめぐまれていたと、自分ではおもっている。学生時代から、たくさんのすぐれた友人にかこまれて、先生よりもむしろ、それらの友人たちから、さまざまな知恵をまなびとった」
漢字が少ないのが特徴である。
名著とよばれた 梅棹忠夫著『知的生産の技術』(岩波新書・1969)のまえがきである。
コンピュータなどまだ普及していない時代に、情報整理の方法について提案した本である。例えば、昔(今も使っている人がいるかも知れないが・・・)、多くの研究者がB6カードを使っていたのは、この本の影響ではないか。私も使っていた時代があるがものぐさなのですぐ断念した。
ワープロがなかったこ時代に、梅棹氏はかなタイプの普及を主張している。梅棹氏はかな文字推進者だったわけである。それで、梅棹氏の著書では、冒頭のように漢字の少ない文がつかわれる。漢字がつかわれるのはほぼ名詞だけである。熟語でも副詞でつかわれるばあいは「かんたんに」のようにひらかなになる。
わたしはわかいころから、「これはいいなな」とおもっていた。いちじき梅竿氏の文とおなじくらいに漢字をへらす努力をしていたじだいがある。もちろんひらかなはひょうおんもじだからもじをみただけでいみがりかいできない。だからことばをしんちょうにえらんでつかわなければならない。それはとてもめんどうなことだった。そしてまもなくしてワープロのふきゅうである。
できるだけひらかなをしようしようとおもっていたわたしのぶんしょうにも、ワープロのふきゅうによってすっかりかんじがふえたかんじだ。
夫れだけなら未だ好いのだが、全く漢字を必要と言葉にさえ漢字を使用するように次第に成った次第である。

05/11/21 (Mon)

11/17の続き

石取りゲーム(その1)
AとBがそれぞれ任意の数の石を場に出す。それをいっしょにして石の山を作る(山に合計何個あるかを数えてよい)。
AとBは石の山から交互に、1〜3個の石を取っていく。
最後の一個を取ったほうを負けとする。
【問題】山を作ったあと、じゃんけんをしてじゃんけんの勝者が先後を選べるとすれば、じゃんけんの勝者はどのような戦略をとればよいか。(必勝法がある)

大学生でもこれで結構楽しめる(そのうち必勝法を発見するが・・・)
で、次は少し難しい問題

石取りゲーム(その2)
AとBがそれぞれ任意の数の石を場に出し、それを使って3つの石の山を作る(それぞれの山に合計何個あるかを数えてよい)。
AとBは石の山から交互に、1〜3個の石を取っていく。ただし同時に複数の山から石を取ることはできない(2個、または3個とる時には同じ山から取る)。
最後に残った山の最後の1個を取ったほうを負けとする。
【問題】ゲーム1と同様にじゃんけんをしてじゃんけんの勝者が先後を選べるとすれば、じゃんけんの勝者に必勝法はあるか。あるとすればその必勝法を書きなさい。

これが、今週の宿題である。・・・・なんちゅう授業じゃ、これは。

実は、この石取りゲームは、コンピュータ対人間の対戦ゲームのプログラミングの初歩の練習問題としても使われているようだ。
関心のある人はどうぞ。

05/11/20 (Sun)

昨日と本日は推薦入学試験のために土日なのに出勤。昨日はみぞれだった。「ミーソーレー」と(移動ドで)歌ってみたが、温かくはならなかった。

「わたしのこどもたちはあすがっこうへゆく」という文を最も一般的と思われる漢字まじりの文にするとすればどうなるか。
なんと、24通りの答えがあるという。
「わたし」は「私」で自明のようだが、「私」は「わたくし」としか読まないという考えもある(2通り)。
「こども」は「子供」(常用漢字表)、「子ども」(教育研究者や教師)、「こども」(こどもの日)である(3通り)。
「たち」は「達」でよそさうだが、常用漢字表では「友達」の「だち」、「達する」の「たつ」しかないそうである(2通り)。
「あす」も「明日」と書くと「みょうにち」「あす」とも読める。限定するには「あす」と書きたくなる(2通り)。
2×3×2×2で24通りということになる。
「ゆく」も「行く」と書くと「いく」とも読むので「ゆく」と書きたくもなりそうだから、これも入れると48通りになる。
・夏木広介『わかったようでわからない日本語』(洋泉社・780円)
徹底的に言葉にこだわった本である。私(わたくし)の一番好きな類(たぐい)の本である。
ただ、私自身はこれほど漢字の使い方に関して厳密ではない。というのは結局ワープロのその時々の(「時どき」か「時時」かも難しい)状況によって違ってしまう。たいていは先に出た方を選んでしまう。だらしのないこと限りない。結局、できるだけ平仮名(「ひらがな」?、「平がな」)を使うことになる。
ちなみに、役所では、「ひらがな」を使うことを、「ひらく」(平く?)と言うようである。「この文章はできるだけひらくことにしましょう!」という具合である。例えば、小学校学習指導要領に次のような文言(もんごん)がある。
「歌唱教材については,共通教材のほか,長い間親しまれてきた唱歌,それぞれの地方に伝承されているわらべうたや民謡など日本のうたを取り上げるようにすること」。
「わらべうた」や「日本のうた」の「うた」は意図的に<ひら>いているのである。

05/11/18 (Fri)

クラシック音楽とポピュラー音楽の何が違うのか?
これを説明するのに音楽の様式の違いに求める場合がある。あるいはその担い手や受け手の関係に求める場合がある。しかし、どれもなかなかしっくりこない。ちょっとおもしろい定義があった。
岡田暁生『西洋音楽史 〜クラシックの黄昏〜』(中公新書・870)
西洋音楽の「流れを一望」というのが売りの本である。著者の名は知っていたが、本を読んだことはなかった(まあ、西洋音楽史の本を読むなんて、学生時代以来である)。あまりにも一般的な名の本が新書として出ていたのでびっくりして買ったしだい。
著者ももちろん「芸術として意図された音楽の中にもくだらないものはいくらでもある」とことわった上で、次のように言う。
「しからば「芸術」としての音楽のありようとはいったい何なのか? 端的に言えば「楽譜として設計された音楽」のことである。「設計=構成されるコンポジションとして音楽」が芸術音楽だと考えれば、まずは民謡や民族音楽がそこから除かれる・・・・・ジャズのように即興性が高いのも同様だ。ポピュラー音楽もまた、しばしば楽譜に「書き起こされる」ことはあるにしても、ベートーベンやマーラーの交響曲のように隅々まで前もって楽譜上で設計される音楽だとはいえない。ギター片手にボロンボロンと音を探るのではなく、紙の上で音の設計図を組み立てるという知的な性格を強く帯びているのが、芸術音楽である。どこか門外漢には容易に近づき難いという印象を与えるのも、民謡などに比べてはるかに複雑で大規模な楽曲を作ることが可能になるのも、すべて芸術音楽のこの「書かれたもの(エクリチュール)」的性格によるものである」
たしかに言われて見ればそうだ。このような定義の仕方に反対もあるかも知れないし、私もこれでいいのかという疑問はあるが、このような実証的な定義をくつがえすのはなかなか大変そうだ。本全体もおもしろい。入門書としても適切である。下手な音楽史の講義よりずっとためになるかも。

05/11/17 (Thu)

津軽は、雪がぽつぽつ降り始めました。
急な気温の変化で先週末ごろすっかり体調を壊してしまい、やっと元気になってきたところです。
そのためにに15日の出張も取りやめさせていただきました。

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「総合演習」という3年生向け授業がある。教員免許取得希望者は必修である。
各教員(または各教員グループ)が自分でテーマを出して、それを見て学生が好きなテーマのところにあつまる。
私は、この後期に「日本の伝統ゲーム」というテーマを出した。テーマが魅力的だったのか20人集まった。
伝統ゲームとは、囲碁、将棋、かるたなどの日本に昔から伝わるゲーム(勝ち負けの決まる遊び)である。
目的は二つである。
「日本の伝統ゲームの魅力を知る」
「伝統ゲームの教育的意義を知る」
最初に「かるた」(百人一首)を3回にわたって行った。
(後輩のYさんに話したら、笑われそうである)
百人一首を見たこともない学生などもいたが、試合をしているうちに盛り上がった。一部には上の句、下の句を覚えて来る者がいた。
最後は「かるたの魅力と教育的意義」というレポートを提出させた。レポートを出させなかったら単にゲームで遊んだだけになる(^^;
今日から、囲碁に入る予定だったが、その前に碁石を使った遊びをした。その中の一つ石取りゲームが盛り上がった(続く)。

05/11/12 (Sat)

前にも書いたが私は「学び」という語がきらいだ。「学習」ではなくなぜ「学び」なのか。「学ぶ」に「習う」がくっついてはなぜいけないのか。
例えば、「太鼓の学び」などと言われるとほとんどもうわからなくなってくる。太鼓は「学ぶ」よりも「習う」ものではないのか?
それでも、「学び」ならまだよいが、「学びの共同体」などと言われると頭がおかしくなりそうだ。昔から「学習集団」とか「集団学習」という言葉はあったではないか。それとどう違うのか・・・。とくに、流行しているからと言って、音楽教育関係者が何のためらいもなく、「学びの共同体としての音楽の授業」とか言う言葉を使っているのを聞くと、ほとんどうさんくさくなってしまう。
ただ、うさんくさいという理由だけで批判する訳にはいかないので、いつかきちんと検討しようと思っていたら、『現代教育科学』の11月号(No590)に柴田義松「「学びの共同体」論と学習集団」(連載の一部)という一文が掲載されていた。主として、佐伯胖氏と佐藤学氏の「学びの共同体」論批判である。批判の論拠は大きく3つ(私の理解だから、正確ではないかも知れない)。
(1)日本における学習集団の研究と実践を無視していること
(2)教科の体系的な知識の学習を軽視している。
(3)ヴィゴツキーの発達論を誤読している。
私は(1)(2)については非常によくわかったが、(3)のヴィゴツキーに関しては、勉強不足のためよく理解できなかった。やはりきちんと検討する必要がありそうだ。

・・というのは前置きで、実はとてもうれしかったことがある。この柴田氏の論文の中に一人の心理学者の名前が出ていた。ヴィゴツキーの研究者で、多くの著作のある方である。若い頃には家族ぐるみのおつきあいをさせていただいていたし、いろいろなことを教えていただいた方である。お互い何度か転勤を重ねるうち疎遠になって気になっていた方である。あまりの懐かしさにその方の勤めている大学に電話したら、ちょうど研究室におられた。もう12〜3年ぶりである。短い時間だが、話ができてとてもうれしかった。メールアドレスの交換もしたので、またいろいろ教えていただきたいと思っている。


11月8日にこの欄で紹介した、プロの将棋の棋士になった瀬川晶司さんの談話が、将棋連盟のホームページに出ている。
「やっと終わってホッとしています。念願のプロ棋士になることができて、言葉では言えないくらい嬉しいです。また、自分の好きなことを一生の仕事に出来るのは幸せなことだと思います」
そうなのだ。私たちだって自分の好きなことを一生の仕事に出来ているのだ。不満ばかり言っていないで、しっかり仕事しなければならない。・・・というわけで今日の私はとっても優等生です。


ポピュラー音楽学会の会場準備で、パソコンにプロジェクターをつないでも、画面に「入力信号がありません」と出る。いろいろやってもなかなか出ない。
こういうことにとても詳しいTさんにたずねようと思って電話したがこんな時に限ってでない。くそたれが・・・。ちょっと頭がパニクってきたので冷静に考えることにし、研究室でインターネットを調べていたら思い出した。FNキーを押さえながら、LDCとかモニターの絵のついたファンクションキーを押さえて切り替えるのをわすれていた。ああ、はずかしい(^^;。Tさん、「くそたれが」とか思ってごめんね。


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History v1.32 [Shigeto Nakazawa]