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メッセージ


05/11/10 (Thu)

「学生による授業評価アンケート」の項目を改訂するという。その案がまわってきた。
次の各項目について、「5 強くそう思う 4 そう思う 3 どちらともいえない 2 そう思わない 1 全くそう思わない」 の5段階で答えるのだと言 う。

1 この授業の目標、目的は明確だった。
2 この授業の内容は理解できた。
3 この授業はまとまりよく組み立てられていた。
4 この授業の説明や板書、スライド等はわかりやすかった。
5 この授業の準備は十分行われていた。
6 この授業の開始・終了時間は守られていた。
7 総合的に判断してこの授業に満足した。
8 自由記述


そもそも私は学生に評価をさせることに反対である。学生に評価をする資格などあるものか。もちろん私を含めて大学教員にもいたらなさはある。学生のことが すべてわかっているわけではない。学生の意見に耳をかたむけるべきである。だから、私は毎時間学生に授業の感想をかかせている。問題があればそれですぐに 対処する。授業改善のためならそれでいいではないか。
百歩譲って学生による授業評価を認めたとしても、この質問はあまりにも愚問である。学生がその授業に対してどのような意識を持っているかという調査ならわ かるが、なぜこれが「評価」になるのか。
以下、愚問の理由を書く。
1 教育の「目標」「目的」は、本当に学習する側が明確に理解できるほど単純なものか。自動車学校の目標ではないのである。学問とはそれほど浅く単純なも のだろうか。また「目標」「目的」という概念は教育研究の課題なのである。そう単純に学生に理解してもらってはこまるのである。特に教育学部の学生には。
2 (1)理解できたかどうかは、理解しやすい授業をしたかどうかとだけでなく、学生に理解力があったかどうかにもかかっているのである。基礎学力に決定 的に欠ける学生に「理解できたか」どうかを聞いてもしかたがない。(2)理解できる授業がよい授業だとは限らない。逆に言えば、それほど水準の低い授業 だったということになる。理解できなかったことを自覚することが学習意欲に結びつくこともある。
小咄一題
学生「大学の先生の授業ってどうしてあんなにわからないのでしょうね?」
教師「そりゃあお前の頭が悪いからさ」
3 私は、よくまとまとまった授業よりも拡散型の授業をよい授業だと思っている。一つのテーマがいろいろな方向に拡がっていくのである。残念ながらそのよ うな授業がまだできないでいる。
4 これも2と同じである。
5 私は教師が楽をして学生がしんどい授業が一番よい授業だと思っている。学生にしんどい思いをさせる教育技術が私にはない。だからしかたなく一生懸命準 備をしなければならない。一生懸命準備をしてつくった料理をぺろりとたいらげられた上、「おいしかった」の一言ですまされるより、自分で料理をつくっても らいたい。
6 私は、いつも「この程度のことで満足してもらっては困る」と思って授業をしている。本当はもう少し厳しい授業をしたいのだが、どうしても妥協してしま う。それがいけないのだ。
7 私は、授業時間だけはしっかり守っている。守っていないのは学生のほうである。そんな学生に守っているかどうか言われたくない。
8 別の大学の人から聞いた話だが、この学生による授業評価をめぐってたいへんなことが起きているという。自由記述欄に悪意のある誹謗・中傷を書かれて、 それを根拠に反省を求められた教員がいるそうだ。これだけいろいろな学生がいれば、どんなに良心的な教師であっても、それに対して悪意を抱く学生は出てく る。思想、信条、宗教などが違えば当然である。その中にはそれを実際の行動で示そうする人間も出てくる。そういうことを考慮せず、しかも無記名で意見を書 かせたものを何の証拠もなく事実確認もせずに取り上げて、書かれた教員に反省を求めるなどどうかしている。私自身にもしそいうことが起きたら、事実なら反 省もするが、そうでなければ必ず「人権侵害」としてたたかうつもりである。

そもそも、こういう質問紙をつくってよく平気でいられるなあと思う。というより担当者もいやいやながらやっているのだろうなと思う。まさか確信をもって やっているわけではないだろう。教育のことを真剣に考えれば、こういう質問はつくれないのである。

05/11/8 (Tue)

カラオケで「上を向いて歩こう」をよく歌っている人と、この歌は聴いたことはあるが歌ったりしたことはないという人がいる。
この二人に異文化の音楽であるベートーベン作曲ピアノ協奏曲「皇帝」を聞かせたら、よく歌っている人は「皇帝」と「上を向いて歩こう」の旋律が良く似てい ることに気づいたが、歌ったことのない人は気づかなかった。

あたりまえじゃんと思うだろうが、これとどっこいどっこいの発表が、学会の研究発表という名のもとに行われている。こういう発表が平気で行われるのは、こ れを高く評価する人がいるからだろうが、私は研究とは認めない。もちろん若い頃には人の意見など聞こえなくなるものだし視野がせまくなるのも当然だが、あ まりにも浅はかである。こういうことは、近くの人がきちんと言ってやるべきである。もしここで言ってやらなければ、本人はずっとこういうスタイルの研究を 続けて行くのかもしれない。私もやんわり批判するつもりで質問をしたが、非常に高飛車な返答をされてしまったのでそれ以上いえなくなった。

ぜひこの欄を本人に読んでほしいと思う。たぶん心当たりはあるだろう。
私の言うことがあたってなければ、自分とは関係のないことだと無視すればよい。
あたっていると思うなら、これから少し路線変更することだ。

05/11/8 (Tue)

興味のない方は読み飛ばしてほしい。
将棋のアマチュア強豪でサラリーマンの瀬川晶司さん(34)がプロ編入試験に合格し、晴れてプロ棋士になったことが報道されている。
詳しくは http://www.shogi.or.jp/
すごいことだ。プロ棋士になるには普通は、奨励会と言う棋士養成機関を卒業しなければならない。卒業するといっても、だいたい小学校6年生から中学校あた りの年齢で6級(と言ってもアマチュアの世界では四段はある)くらいで奨励会に入会し、その中で競い合い勝ち抜いた者だけがプロ四段になれるのである。そ れも毎年わずか4人である。小学生の頃から将棋一筋に打ち込み、年月だけが過ぎて行き、結局年齢制限で退会していく人がほとんどなのである。
にもかかわらずこのような特別な試験が行われたのは、瀬川さんの強さを将棋連盟が認めたからだ。将棋連盟側は瀬川さんに奨励会で一番強い会員からA級棋士 まで6人を瀬川にぶっつけ、瀬川さんが3勝したら合格、4敗した時点で不合格とするルールで試験がすすめられた。瀬川さんは5戦目で3勝2敗となり合格が 決まったわけだ。それでも将棋の解説を見ると瀬川さんが勝った将棋でも薄氷を踏むような将棋だったことがわかる。運が少しでも悪ければ不合格になる可能性 もあったのである。
アマチュア一人がプロになったというだけで大騒ぎされるのは、それくらいプロとアマの差は大きいということなのである。
こんな世界はなかなかない。
例えばスポーツ。身近なところではプロ野球。高校出たばかりの選手がいきなり通用することがある。大学野球や社会人野球なら即戦力になれる。例を出して悪 いが今年の楽天イーグルスなどは、どうかすれば社会人野球のチームにだって負けるのではないか。
音楽の世界はどうか。音楽の世界には結構「俺だってプロで通用する」と思っているアマチュアは多い。それ自体は私は不遜なことだ思うのだが、そう思わせて しまうような甘さがプロの世界にもあるように思えてしかたがない・・・というよりプロとアマの境界があいまいなのである。
一番ひどいのは教育の世界である。小学校の授業参観に行って、「私が教えたほうがましだ」と思う保護者は多いはずだ。そしておそろしいことに、本当にその ほうがましなほどひどいプロがいるのだ。というより「プロ」という意識をもった教師がどれくらいいるのか。
では大学教員はどうか・・・考えると恐くなるのでやめる。

05/11/6 (Sun)

今、大河ドラマ「義経」を見ていた。どう考えても不自然である。もう最悪!
もう二度と見ない。見ていた人は理由はわかるはずだ。

05/11/4 (Fri)

音楽教育学会が終わったら、次の学会が弘前で開催される。日本ポピュラー音楽学会である。重なる人もいるが、「教育」のつかないまたひ と味違った人が集まってくる。はじめての参加なので楽しみである。詳細は こちら
ただし、私はこの学会では新米でもあるので、裏方に徹するつもりである。今日は使用する教室に行ったり事務の方の説明を受けたりて使用する機材の確認をし た。沖縄大会の運営があまりにもすばらしかったので、いいかげんなことをするわけにはいかない。
できるだけのことはしたいと思っている。

今日、整形外科病院に行ってきた。足の痛みがまだ少しある。それで11月の前沢マラソンと12月の那覇マラソンは断念する。残念である。


05/11/3 (Thu)

日本音楽教育学会大会の感想を書く。
まず、運営は申し分なかった。とくに、現地の琉球大の先生方やお手伝いの院生や学生さんたちの働きは抜群だった。こんな気持ちのよい大会ははじめてと言っ てもよいかも知れない。T先生をはじめとする琉球大のスタッフのみなさんに感謝したい。
私が司会をした全体フォーラム「地域性を生かした音楽教育を考える」は本当によい企画だった。私の司会がよかったわけではない。私は「余計なことを言わず 進行役に徹する」ことに決めていただけだ(私は、そもそも司会者が他人の話に注釈をつけたり、コメントをつけたりするのはきらいなのである。つまり司会者 はでくのぼうが一番いいと思っているのだ)。何よりも、コーディネータのN先生の企画と3人のパネリストの報告が見事だったのである。
ただ、個別の発表会場の一部で発表資料が足りずに、学生さんがコピーに走るという事態があった。あいかわらず発表を聞かないで資料だけ集めていく不届き者 がいるからだ。毎年、注意はしているようだがなかなか直らない。
研究発表のレベルは全体としては高くなっている。ただ、いくつか「???」がある。自分のことは棚にあげて書く。
発表とは自己主張の場である(事実の報告であっても、その事実がこれまでの通説をくつがえすものであったり、だれも知らなかったような事実を提出したりす るような報告であれば、それも立派な自己主張である)。にもかかわらず次のようなひどい発表がある。
・横のものをたてにしただけのようなもの(翻訳し要約しただけのもの)。
・自己主張をしようとするのに聞き手を説得しようとする姿勢のまったく欠けるもの(自分さえわかればよい)。
・体裁だけは整っているが主張があまりにも当たり前でどうでもよいもの。
こういう発表を聞いていると随分時間を損したような気になる。とくに若い人の発表にこのようなものが多いのは残念だ。
かつて、私は学会誌で他人の論文を批判したことがある。しかし、それはまだその論文が批判に値するからだ。それだけ自己主張があるからだ。だからこそ喧嘩 を売りたくなるのである。喧嘩も売る気のしないような発表は、もう研究発表とは言えない。

05/10/30 (Sun)

日本音楽教育学会大会が終了した。
1日目のシンポジウムで司会をした。パネリストの方3人の話とパフォーマンスがとても良かったので盛り上がった。
また、今日は研究発表を行った。まあまあのできではなかったかと思うが、少し詰めがあまかった。しかしとにかく無事に終わってよかった。

また、3日間よく泡盛を飲んだ。楽しかった!!
明日の飛行機で戻る。

05/10/28 (Fri)

明日から日本音楽教育学会沖縄大会である。泡盛づけになりそうである。
実はこの沖縄大会は2001年に開かれる予定だった。ところがあの9.11同時多発テロの影響で中止になったのである。
あの大会で、私は全体シンポジウムの司会をする予定になっていた。しかし中止のためにその役を果たすことができなかった。
というわけで、実行委員会の配慮かもしれないが、今回は1日目の全体企画のフォーラムでの司会を仰せつかった。
題して「地域性を生かした音楽教育を考える −沖縄の肝心(ちむぐくる)を次世代へ−」。いらぬ解説、注釈はやめて進行役に徹しようと思うのだが、それで も心配ごとがある。それは沖縄の方言がまったくわからないことである。また漢字読み違えそうである。それも愛嬌ということで許してもらうしかないかも知れ ない。
あと、2日目に研究発表する。「ソソドレミレド、ララソファソ考」。唱法問題をもう一度蒸し返すことが目的である。

05/10/18 (Tue)

登山の後日談
実は、下山時の転倒は思いの他、重大だった。
何とかおりて帰ったのだが、家についてみると膝を捻挫したらしく相当痛い。次の日になるとふつうには歩けないほどに痛くなっていた。
もうひとつは右手の親指を突き指したて痛い。まあ、こちらはたいしたことはない。
それで、ランニングができなくなることだけはつらいのでできるだけはやく直そうと思って医者に行くことにした。医者でX線をとってもらったら、膝はたいし たことがなかった。ところがなんと右手の親指は骨折(ひび程度だろうが)していたのである。それでしばらく治療が必要だ。食べること、字を書くこと、ピア ノを引くことに苦労しているが、まあたいしたことではない。授業の時には私でも少しはピアノも弾くが、左手で和音を弾いて右手は指一本でメロディーを弾け ば何とかなる。それよりも、膝がたいしたことがなかったことがなによりもうれしい。もうそろそろランニングも再開できそうである。・・・・・ということを ある人に話したら、「ピアノよりもランニングのほうが心配なあんたは・・一体?」とあきれられた。

05/10/12 (Wed)


10月10日は体育の日。というわけではないが、前々から一度はやりたいと思っていた、岩木山(標高1625メートル)登山を決行した。「津軽富士」の別 名を持つ名山である。8合目までは自動車道路がありそこから9合目まではリフトがあるのだが、私もスポーツマンのはしくれ、そんな軟弱なものを使うのなら はじめから登らない。どうせ上まで上がるならすべて自力でということで、まず自宅から3時間かけて15キロほど歩いて登山口の百沢岩木山神社へ。登山口に は「山頂まで4時間15分の表示」がある。そこから本格的に登り始める。
思った以上にきつい山だった。まず、坂が急でただひたすら上に登るだけの山であること、そして1000メートルすぎるとほとんど岩場で、手も使って登るよ うな山だったこと。一週間前にフルマラソンを走り、前日は朝のジョギングと夕方のトレーニングで計23キロ走り、さらに当日15キロも歩いたあとの登山は やや無謀だったかも知れない。が。なんとか4時間で頂上にたどりつく。あいにく霧(雲?)で眺めは悪かったが、とにかく登れたことだけでもう感激だっ た。・・・頂点で有頂天!!
しかし、やはり無謀だったかもしれない。それは帰りに・・・
また、同じ登山道を下ることにしたのだが、問題点が二つ。
一つはこんな岩場の多い山だとは知らなくてランニングシューズで登ったこと。そのため帰りに石の上ですべってしまった。ちょっと危ないところだった。
もう一つは日没時間の計算が甘く、山を降りきったときはもう日がほとんど暮れていたこと。もう10分も遅れたら、山の中で動けなくなっていたところだっ た。懐中電灯も持っていかなかったのでこちらも危ないところだった。
秋山でもいろいろな危険がある。山をなめてはいけない。実感である。
翌日、自宅近くで彼方に岩木山を見た。ここから歩いてあの頂上まで登ったんだと思ったら、またじわーっときた。
(写真は弘前市悪戸付近から)

05/10/4 (Tue)

昨日附属小学校で、R大のTさんに飛び入り(本当に前日に決めた)の授業をしてもらった。
3年生に「てぃんさぐぬ花」を指導してもらったのだが、ものすごくいい授業にだった。
黒板にはった歌詞(漢字まじり)の歌詞の意味を一段ずつ児童に考えさせていくのだが、児童はいろいろな推測をしながら正解にたどりついて行くのである。
さすが(「人間でなく行為をほめよ」の原則から行くとこのことばよくないが・・・やっぱりさすがに)小学校教師の経験もしたことのあるTさんである。たく さん学ぶことがあった。
・・・大学教員の研究会のためとはいえO県からわざわざ遠くまで来てもらって、21キロも走ってもらってついでに授業まで見せてもらって、感謝感激雨霰で ある。

05/10/2 (Sun)

いよいよ、アップルマラソンである。
今日のために毎日3合の酒を2合にし(そのかわり焼酎を飲んで)、締め切り日のせまった原稿も書かずに練習に励んで来た。
復活レース・・・とにかく完走を目標にする。
ナンバーカード(ゼッケンのことを今はこう言う)は620である。あと、昨日の研究集会のために(マラソンのためではない)来弘した、R大学のTさんが ハーフの部に出場する。こちらも完走が目標である。ナンバーは1360である。
ご声援をよろしくお願いします。

というわけで、上を書いてから7時間ほどたちました。
最後は足が棒になってしまいましたが(うそです。本当に棒なったら大変です)、なんとか5時間以内で完走しました。Tさんもハーフの制限時間内で完走でき ました。
埼玉から応援のYさん、スタート地点で応援してくれた同僚のNさん。親子で応援のKさん、途中で何度か声援を送ってくれたSさん、ゴールで声援してくれた Mさん、前日必要以上にエネルギーを補給してくださった茨城のTさん、また「がんばれ」「がんばです」と声援をくれた沿道のみなさん、スタッフのみなさ ん、本当にありがとうございました。

ゴール直前・・・・ゆとりなし

05/9/28 (Wed)

同僚に聞いたことがある。
自分のゼミの学生が、「お父さんが・・、お母さんが・・・」と話すものだから、注意したそうである。
「あなた他人の前で『お父さん』『お母さん』はおかしいわよ。『父』『母』って言うものよ」
そうしたらその学生は次のように答えたそうである。
「勝手でしょう」
・・・・・・・
同じようなのが、新人の国会議員にもいる。恥ずかしい。

05/9/26 (Mon)

このところ附属小学校でよく授業をする。今日も3年生の授業をした。教育実習中でもあるので見学の学生のために指導案(略案)を書い た。その指導案に書いた能書きである。

小・中学生に授業をする際に心がけていること
1)音楽の授業では特別な場合をのぞき、児童生徒が音楽活動(聴いている、演奏している、動いている)をしている時間が多くなるようにする。特別な場合と は、音楽の理論や規則について学習している場合や歌詞について考えている場合のことである。その場合はできだけ児童生徒が脳味噌を動かすような活動を考え る。実習生の授業を何時間か見たが、教師(実習生)がしゃべっている時間が長すぎる。説明をする場合でもちょっと歌ってやればすむものを言葉で説明するた めに膨大な時間の無駄遣いをしている。一瞬でも隙間をつくらない! 難しいがそのようにいつもこころがける。
2)「一人ひとりを大切に」というのは言葉でいうのは簡単だが、実際には難しい。それは「一人ひとり」と言うわりに、その一人ひとりを見る授業のしくみ (システム)ができていないからだ。そのようなシステムを授業を構想する段階から考えるのである。
3)授業で使える技術のレパートリーをたくさん持つ。例えば、「発声練習」「基礎的リズム練習」「新しい教材曲の導入法」「曲覚え」・・・身につけておく とよい指導の技術がある。このような技術をできるだけ身につける。人がやっていいてよいと思ったことは盗む。人まねをすることは決して恥ではない。

05/9/25 (Sun)

総選挙は、予想通りと言うべきか、小泉首相率いる自民党の圧勝に終わった。
それは別として、参議院で郵政民営化法案に反対した議員が次は賛成することを表明した。自己保身が本心なのだろうが、その言い訳がものすごい。
「民意を尊重する」ということらしい。恥ずかしい。
自分の信念に基づいて行動し、自分の信念が理解されなければ自分の行動によって、逆に民意を変えていくのが政治家の役割だと思っていた。
結局、「強い方につく」と言っているだけである。「反対したことが間違っていた」と言うほうがよほどよい。

ひねくれ教育事典 【に】
にんげん(人間) 世の中でもっともいろいろな意味で使われる言葉。人間愛、人間性、人間教育などふつうは肯定的に使われる場合が多い。「そのなひどいこ とをする人は、人間じゃない」と言う言い方をするのも人間を肯定的に見ているからである。しかし、実際には「人間じゃない」と言われるような行為はほとん どが人間だからこそできる行為である。おぞましいので例は省略するがよく考えてほしい。だから、簡単に人間愛とか人間性とか人間教育と言葉を使う人を見る とかえってこわくなる。

05/9/25 (Sun)


この8月〜9月はよく走った。半年ほどトレーニングをさぼっていたら体重が75キロになってなってしまい、またお腹が見苦しく出っ張ってしまったからだ。 また人間ドックでは脂肪肝まで指摘される始末。これは大変というわけで少しムキになって走ってしまった。私はものぐさなのできちんと記録をしていないのだ が、この2ヶ月で1000キロは走ったのではないだろうか。
その割に体重が減らないのは、やっぱり酒のせいなのか。といっても、7月末と比べると5〜6キロは減った(これも記録をしていないのでいい加減である)。 1000キロも走ったわりにはたいしたことはないという意味である。それだけ運動で減量するということは大変なことなのである。
だから、一番よいのは食べ過ぎない飲み過ぎないに限るのだが、意志の弱い私はそれができないのである。
と言うわけで、来週の日曜日、10月2日に久しぶりにレースに出場する。地元で行われる弘前・白神アップルマラソンである。弘前公園前の追手門広場と弘前 市の西にある西目屋村間を往復する42キロコースを走る。制限時間が6時間。復活レースなので制限時間内で走ればよいのだが、少し欲を出して5時間以内を めざす。
私の最終目標は4時間以内なのだが、来年中に達成したいと思っている(そうしないと今度は年齢的な限界がおそってくる)。
今年は、このレースを含めてあと3回レースに出場する。今出場しようと思っているレースは次の通りである。
10月2日 第3回弘前・白神アップルマラソン(弘前市・フル)
11月6日 第23回スポニチ奥州前沢マラソン(岩手県・30キロ)
12月4日 第21回NAHAマラソン(那覇市・フル)
 1月8日 第7回谷川真理ハーフマラソン(東京・ハーフ)
 2月19日 第40回青梅マラソン(東京・30キロ)
 3月末  荒川マラソン(東京・フル)・・・この大会で記録をめざす。

05/8/27 (Sat)

今年も、某テレビ系列の24時間テレビがはじまった。
どうもこの番組好きでない(ずっと昔、この番組に協力したことがあるのだが)。
愛だの何だのいいながら、寄付をたくさん集めるまでは良い。その募金は確かに番組で知らされているように使われるのだろう。しかしその他ではちょっと怪し い。
多分、企業も企業イメージがよくなるということでスポンサーになり、広告料を出すだろう。タレントは結構安いギャラで出演してくれるはずである。しかし、 その広告料はだれが取得するのか。おそらく結局は放送局がぜんぶ持っていくのだろう。つまり、結局は放送局がかせぐためのイベントなのではないか。もし、 テレビ局がスポンサー料もすべて寄付金に充てるというのなら私はあの番組を信じてよい。そんな企業論理に反することはするはずがない。
それに、もっといやなのはあのマラソンである。人が走る姿に感動し勇気を与えられるということはあるだろう。しかし、多くの人に勇気を与えるために走ると いうのはどうか。それも、多くのスタッフに守られ周到な準備をしてよほどのことがない限りは完走してほとんど当然である。自慢ではないが、私だって100 キロを完走したことがあるのである。それも13時間という制限時間の中である。一人で見知らぬ土地に行ってレースに参加し、だれの力も借りずだれにも注目 されずともただひたすら走るのである。それが普通の人のマラソンである。だから有名人が多くのスタッフに守られて24時間で100キロを完走したくらいで 大騒ぎをするのはナンセンスである(こういうふうに書くと、多くの人は吉田がひがんでいると思うに違いない。そうなのだ。私はひがんでいるのである)。

05/8/26 (Fri)

皆様、台風はいかがだったでしょうか。
今、東京にいますが、東京は夜が明けるにしたがって風も雨も弱まってきました。少し青空さえ見えるすがすがしい朝です(8時30分現在)。

05/8/25 (Thu)

この頃不感症である。音楽に対してである。
音楽をきいても「音が流れていく」、ただそれだけである。
コンサートに行くと「はやくおわらないかなあ」とばっかり考える。
とくにクラシックはだめ。前にも書いたが、その中でもモーツァルトはもう最悪である。ああ、つまらない。
やはり、陳腐化現象の現れなのだろうか。
こんな人間が音楽教育について語っていいのであろうか。助けてくれーーーー!

というわけで(何も関係ないのだが)、次の一冊はとてもおもしろい。
鈴木淳史『私の嫌いなクラシック』(洋泉社新書y・720円)
一部紹介する。著者はベートーヴェンの交響曲弟9番を取り上げて、次のように言う。
「第一楽章から弟三楽章までの音楽は文句なしにすばらしい。若いときは、なんて取っつきにくい曲。原初状態から初めて生物が誕生したようなインパクトであ る。この巨大な作品のすべてがこの短いやりとりのなかに収められているといっていい」
さらに弟二楽章、第三楽章についても褒めちぎったあと、第四楽章について言う。
「こんないい音楽を書いておいて、ベートーヴェンは第四楽章で「このような音楽ではないんだよなあ」とあっさり否定してしまうのだ。オイ。作曲家本人にお んなふうにハッキリ言われてしまうと、とてもだまされた気分になる。これまでイイ音楽だなあと思いつつ、黙って耳を傾けていたあたくしたちはどうすればい いのさ・・・(以下略)」
と言う具合である。そうだそうだと思いながら一気に読んでしまった。絶対おすすめである。

05/8/24 (Wed)

平等で豊かな社会をめざす社会主義。その中国でなざ文化大革命のような悲劇が起こったのか。またなぜ現在のような貧富の差の大きな社会 ができたのか。
北村稔『中国は社会主義で幸せになったのか』(PHP新書・720円)
著者は30年間近く中国近現代史研究に携わってきた研究者で、この本をその「まとめ」としている。約100年間の中国史をふまえてこの本を書いているので あって、決して偏狭なナショナリズムや反共主義の立場から書いているのではない。
著者は言う。
「中華人民共和国における社会主義実現の努力は、平等で豊かな社会をめざした社会主義とは、似ても似つかぬ不平等で抑圧的な社会を生み出してしまった。し かしながら、社会主義の原則で中国社会を分析しようとするから混乱するのである。目下の状況は、「官」が政治を独占し、徴税を通じて、「民」の経済活動と 共存していた、伝統的な王朝支配の政治と経済が復活したのだと理解すれば驚くにはあたらない」
もちろん中国でいう「官」とは政治権力独占している中国共産党である。さらに次のように言う。
「そして中国の伝統に従えば、官僚とは政治権力を元手に利殖を図る存在であり、「民」も「官」に賄賂を送り、経済活動への便宜供与を勝ち取るのである」
では、社会主義でなかったらどうだったのか?。ぜひ読んでいただきたい。


ひねくれ教育事典 【な】
なまえ(名前) 小学校の教師にとって子どもの名前を覚えることはとても重要なことらしい。なんせ、特定の子どもばかり覚えていると「えこひいき」と思わ れるし、特定の子どもの名前を忘れると「大切にされていない」と思われるかも知れない。そういう意味では私はもう小学校の教師にはなれないだろう。一度覚 えても名前が出てこないことが多い。ブラウン管のテレビタレントの名前が思い出せない。会議の時に、「○○先生がおっしゃいました点について」と言いかけ て○○が出てこない。少人数の授業をしている時に「○○さん、この点についてどう思いますか?」と質問しても○○さんが出てこない。で、しょうがないの で、指さしして「どう思いますか?」とごまかす。・・・単に年齢から来る健忘症にすぎないのかも知れない。
考えて見ると、小学校の先生の場合、私の年齢の先生はたいてい管理職になっている。だから少しくらい健忘症になっても努められそうである。しかし、大学教 員はそうではない。たいていは65歳まで現役である。今はまだごまかしがきくが、あと10年持ちこたえられるのか? 同じ授業で同じ話を3回した・・・・ こういうことがおきたらすぐやめようと思う・・・・えっ、「それならもうやめろ」だって?

05/8/23 (Tue)

久しぶり(でもないか)に東京に来ている。駅のトイレに入った。大である。東京で通勤電車を使っているころから思っていたのだが不思議 なことがある。今日もそうだった。
私は、親からもらった丈夫な胃腸のせいかトイレは大でも2〜3分もすればすむ。私のようなのは特別だとしても、まあふつうは5分、長い人でも10分くらい あれば用は足せるのではないだろうか。ところがである。駅のトイレに入るとたいていは全部が使用中である。5部屋あっても5部屋が全部つまっている。そし てもっと不思議なことは、次が私の番ということになると10分以上は待たされる。一人平均10分としても5部屋あれば2分おきくらいで開いてもいいはずな のだが、たいていは10分以上待たされる。
そこで考えたのだが、実はみんなトイレに入るのは、用を足すためではないのではのではないだろうか。例えば、やっと一人になれる空間を見つけて出たくない とか、ゆっくり読書をしているとか、ノートパソコンを出して原稿を書いているとか・・・。ひょっとしたら、食事をしたり酒を飲んだりしている人もいるかも 知れない。いや、もっとすごい人はトイレの便器を通じて異次元の空間と行き来をしてるのではないだろうか。上野の駅の便器が新宿駅の便器とつながっていて ワープできるとか・・・。
考えたら眠れなくなるほど不思議である。

05/8/18 (Thu)

衆議院が解散し、総選挙がはじまる。自民党は郵政民営化法案に反対した前議員を公認せず、それらの議員が立候補する選挙区には有力な対 抗馬をたてるという。良いことである。
良いことだというのは私が郵政民営化に賛成だからだというのではない。自民党がやっと近代政党としての体をなしてきたという点だ。自民党は郵政民営化を 10年来持論としてきた小泉純一郎を総裁にし、その総裁のもとで前の総選挙でも議席を獲得してきた。その自民党の議員が民営化に反対するのは勝手だ。議員 のそのような行為は一般的には認められるべきである。しかし、その行為を自民党として認めてしまったのでは党としては無責任である。反対した議員は当然の ことながらこうなることは覚悟していなければならない。このような覚悟もなしに反対票を投じたとすれば、政治家としてまた無責任である。彼らが泣き言を 言っている姿はみっともない。
郵政民営化に代表される一連の構造改革に賛成ならそれを進めようとする政党に投票すればよいし、反対ならそれに反対する政党に投票すればよい。それが政党 政治というものだ。重要な問題で意見の違う者が同じ政党にいるほうが異常である。
小泉首相の政策や手法には問題が多い。しかし、政治をわかりやすくしたという点は評価できる。

ひねくれ教育事典 【と】
とうや(陶冶) 教育の機能の中でもとくに能力形成の側面をこう呼び、人格形成の側面を「訓育」と呼んで区別することがある(最近ははやらなくなった)。 音楽で言えば、音楽の知識や技能を育てるのが「陶冶」、豊かな情操を育てるというのが訓育ということになる。「陶」は陶器をつくること「冶」は金属を溶か して鋳物をつくることである。「冶」だけだとなんだか型にはめるだけのような気がするが、「陶」によって、なんとなくこねたりさすったりして大切に作って いくという感じがする。ある時は型にはめることも大事だし、あるときは丁寧にこねまわすこともたいせつだ。なかなか味のある言葉なのだが、あまり使われな くなって残念だ。

05/8/15 (Mon)

8月15日。戦後60年を迎える。日本は、第二次世界大戦後に戦争に巻き込まれていない数少ない国だそうだ。常にどこかの国と戦争をし てきたアメリカの核の傘の下にいて、米軍基地を全国に持っている状態が戦争に巻き込まれていない状態かどうかについては疑問もあるだろうが、とにかく日本 という国が直接他国と戦争をしていないし、また日本の領土が他国によって軍事攻撃されたことはない。そのような意味では平和だ。
60年間もこの平和が続いたのはなぜか。もちろん憲法第9条におうところが大きい。もっと言えば、60年前にアメリカが決めた体制がほぼそのままの形で続 いているからだ。この体制がずっと続いたままなのは、日本人のバランス感覚にあるのではないか。つまり全体が右に傾こうとすれば左にゆり戻す力が働き、左 に傾こうとすれば、右にゆりもどす力が働きという具合に、微妙なバランス感覚で日本という国の舵取りが行われてきたように感じられる。もしこのバランスも 誰かの意思によるものだったらすごいことである。
しかし、この平和と引き換えに、世界に対して何も主張できない国になっていることも事実である。アメリカべったり、北方領土も帰ってこない、竹島、尖閣列 島では韓国、中国に言いたい放題に言われ、外国から拉致をされても手も足も出ない。核兵器まで備えた軍事大国から軍国主義よばわりされる始末である。当た り前のことが当たり前に主張できない国、それが日本である。しかしそれによって平和を手に入れてきたから多くの国民はそれで満足してきたのである。
ただ、今のこのバランスを保つこと自体が難しい時代になってきた。一方に傾いた舵をもとに戻すのことはできない状況になっている。
私はこの10年間選挙に行かなかった。考えれば考えるほど誰に入れてよいか分からなくなったからである。しかし、今度は行こうと思っている(大学生の教育 上もよくない)。・・・でも誰に入れたらよいか・・・・難しい。

05/8/12 (Fri)

520人もの犠牲者を出した日本航空のジャンボ機墜落から20年たった。この事故は、金属疲労によって尾翼が脱落し、そのために機体が 直進できなくなり、40分間もダッチロールを繰り返した後に墜落したものだった。犠牲者が味った恐怖はどれほどだったろうか。この事故、私もショックだっ た。それから3年間ほどは航空機を利用しなかったほどだ。
何の落ち度もないのに死を覚悟しなければならない状況・・このような状況にはできれば会いたくない。

事故でもないのに、死を覚悟しなければならない状況が60年前にあった。戦争である。それも敵の攻撃によって死ぬのではない。国家(の指導者)によって死 を命令された人たちがいた。
・保阪正康『「特高」と日本人』(講談社現代新書、720円)
特攻として自分の身を武器として死んでいった若者たち、この若者たちはみな東大や京大などから学徒動員で入隊したエリートだった。短期間で飛行機の操縦技 術を覚えさせ特攻にするには、優秀な若者が必要だった。
著者は特攻「英霊論」にも「犬死に論」にも反対する。死んでいった彼らの思いを読み取ることが必要だと言う。
この本の中には数多くの特攻隊員たちの遺稿が紹介されている。それを読むとわかるのだが、彼らは決して進んで特攻の任についたわけではない。また、単にだ まされてわけではない。残酷な国家の命令が不条理であること、自分たちの死が戦争を有利に導くものではないことも十分にわかっていたのである。にもかかわ らず、自らの運命を受け入れ(他にどんな選択があったのか!)、葛藤しながら突撃していったのである。彼らの苦悩や懊悩を理解せずして、英霊論や犬死に論 に与すべきではないと言うのである。
また著者はこの「十死零生」ともいう残酷な命令を下した国家の指導者の責任を厳しく追及している。著者は必ずしも反戦平和の立場から特攻を語っているので はない。理念もなく展望もなく、1%も生還する可能性のない作戦で青年たちを死に追いやった指導者を追及するのである。
戦後60年の年である。現代の視点からではなく、その当時に生きた人々の視点から戦争を捉えることの大切さを教えられた。

05/8/10 (Wed)

「忙しい」という言い訳(あくまで言い訳である。大学教員が「忙しい忙しい」と言ってもたかが知れている。いくら忙しくても酒を飲む時 間くらいは残っている)で、半年ほど休んでいたランニングを再開した。体重が一番軽いときに比べると12キロも増えてしまい、着るものにも不自由するよう になったからだ。
7月末くらいから再開したのだが、もう体重のほうでは効果が見え始めた。しかし、それだけではない。ランニングのよいところは、その時間だけはすべてのこ とからはなれてたった一人になれることである。テレビも、電話(携帯もランニングの歳はもたない)も、本も何もない。ただ、ひたすら走り続ける。そうする といろいろな考えが頭に浮かぶようになる。わからなかったことが急にわかったり、アイデアがわいてきたりする。脳みその働きが活発になるのだ。
ランニングを休んでいた間、この感覚をわすれていた。
もう一度、フルマラソン、ウルトラマラソンをめざすことにする。まずは、10月2日(日)開催の弘前・白神アップルマラソンにエントリーする。

05/8/6 (Sat)

今、弘前ではねぷた祭りが行われている。「ねぶた Nebuta」ではなく、「ねぷた Neputa」であるところに注目していただきたい。
青森がNebutaで弘前がNeputaである。弘前は空襲がなかったので町並みも戦前と同じで道路もせまい。そのためねぷたも全体に小振りで、形も青森 の人形型とちがって、扇型に絵のついたものである。青森のように壮大ではないが、上品でしっとりとしているのが弘前ねぷたの特徴だ。
ただ、この祭りは8月1日から7日まで続く。七夕に合わせるので7日までになるのだが、少し長すぎやしないか。祭りというのは3日くらいでぱっと咲いて ぱっと終わるほうがよほど盛り上がるような気がする。それに、ねぷたを見る場所を確保するために、道路のあちこちござを敷いたり、ガムテープを道路に貼り 付けて枠を書き込んだりしている人がいる。汚いことはなはだしい。観光客に笑われそうで、はずかしい。

05/8/5 (Fri)

全国大会で優勝したこともある高校野球の名門校が、今年の夏の大会出場を辞退した。組み合わせ抽選が決まった後の辞退は異例のことであ る。部員の喫煙と暴力が理由なのだが、もっと大きな問題はそれを部長と監督が隠していたことにある。部長と監督は辞意を表明しているが、それだけですむこ とか。学校ぐるみで隠蔽しようとしていたのではないかと疑われてもしかたない状況だ。
この高校は多くのスポーツ選手を全国から受け入れている(スカウトしているらしい)。野球の場合、この学校のある県では県大会に16校しか参加しないか ら、選手のほうもこの学校に入れば甲子園に出場できるチャンスも大きく広がる。だから誘われれば当然この学校に入ってくる。
今をときめく大相撲の横綱(この横綱の四股名の下側はこの高校名である)、ブラジルから帰化したサッカーの日本代表、そして人気上昇中の女子プロゴル ファーなど、スポーツで成り立っている高校である。
今立派に活躍しているスポーツ選手やまじめに勉強している生徒をけなすわけではないが、今回のことに限らず、少しおかしな学校である。
例えば、今年6月に校内で生徒が同級生を刺すという事件が起こった。この事件そのものは突発性のものであったとしても、この時の学校の対応はおかしかっ た。まだ、捜査もすまない段階で、校長が事件をおこした生徒が話していることをマスコミに対してべらべら話しはじめたのである。この光景をテレビで見て違 和感を感じたのは私だけではあるまい。
また、かつて次のようなこともあった。野球部の生徒の大学進学を斡旋してもらうために、大学野球部の監督を少女を使って接待しようとしたことである。この 時はその大学野球部の監督が毅然と対応したのでことが明るみに出た。ばれなければ何をしてもいいという体質があるのではないか。このさい、すべてのことを 明らかにしてウミを出してしまったほうがよい。

隠蔽体質で思い出した。これは保護者から直接聞いた話である。その保護者は明るみにすべきか今のところ躊躇しているのだが、腹が立つので書く。別の県での 中高一貫の私立の名門中学校でおきた事件である。
1週間ほど前の話だ。学校の宿泊合宿で、教師が生徒にジャージのままで滝に飛び込むことを奨励したというのである(行事予定にそのようなものは入ってな かった)。その結果5人の生徒が怪我をし、中には腰椎骨折を含む7週間の大怪我をした生徒もあったそうである。そしてひどいことに、けが人が出てからも教 師は飛び込みをやめさせようとしなかったというのである。
この教師も教師だが、さらにはこのような大きな事件であるにもかかわらず、学校はことを1週間たった今の時点でも公にしていない(これだけの事件が公にな れば新聞ざたにならないはずはない)。やはり学校の隠蔽体質のなせるわざではないだろうか。隠せば隠すほど根は深くなる。はやく公にして謝罪をし今後の方 策について明らかにすべきだ。

「ばれなければよい」という風潮を学校がつくりだしてはいけない。
・・・とここまで書いたら、地元の新聞に掲載されたという連絡が入った。事件がおきてから県に報告したのは8日後とのことである。

05/7/20 (Wed)

戦後60年である。中3のころ「戦後20年」とマスコミで言われていたのをよく思い出す。それから戦後30年まではずいぶん長かったよ うな気がするが、年が経つにつれて10年が短くなる。時間の感じ方にもひょっとしたウェーバー・フェッヒナーの法則がはたらいているのか。つまり感覚量は 物理量の対数に比例する(詳しくは、心理学事典か何かで調べてください)。おっと、脱線した。戦後60年である。いろいろなことが議論されている。
「私の“太平洋戦争批判”の主要な点は二点に絞られる。弟一点が、なぜあのような目的も曖昧な戦争を3年8ケ月も続けたのかの説明責任が果たされていない こと。弟二点が、戦争指導にあたって政治、軍事指導者には同時代からは権力を付与されたろうが、祖先、自孫も含めてこの国の歴史上において権限は与えられ ていなかったこと。この二点である」
・保阪正康『あの戦争は何だったのか』(新潮新書・720円)
一言で言えば、バランス感覚のある本である。著者の一番言いたいかったのは、次の箇所ではないか。
「私は、この戦争が決定的におろかだっと思う、大きな一つの理由がある。それは、「この戦争はいつ終わりにするのか」をまるで考えていなかったことだ。当 たり目のことであるが、戦争を始めるからには「勝利」という目標を前提にしなければならない。その「勝利」が何なのかを想定していないのだ」
つまり、戦略というものがまるでなかった戦争だったということだ。もっと言えば、戦争が終結した時のイメージが何もなかったのである。こうなるともう、負 けること以外に戦争が終わる展望もなかったのである。これは重要な指摘である。
とにかく、あの戦争を感情論でなく、冷静に検証していくことが日本人に一番求められていることである。

05/7/15 (Fri)

7月7日に書いた「リコーダーの指導」の件で多くの方から意見をいただいている。「リコーダーは「簡易楽器」でも「おもちゃの楽器」で もなく、一生楽しめる「本物の楽器」であることに気づかせる」というところに共感をしていただいたようだ。ゲストブックには石原さん、成本さんに書いてい ただいた。
ただ、一つだけ言わせていただければ、小学校3年生でリコーダーをはじめること自体については、私はかならずしも賛成ではなく疑問を持っている。この点 は、きちんとした検討が必要である。しかし、どうせやるなら、きちんとやらせたいということなのである。


「日本語に関する調査」について同僚と話した。なぜ、「すばらしい」が「やばい」になるのか。勝手に次のように推測した。
・ラーメンをたべた→うまい。すばらしい味だ→この味、やみつきになりそう→太る→やばい!
・ドラマを見た→おもしろい。すばらしい。→毎週見てしまいそう→試験がはじまるのに→やばい!
・きれいな女性がいた→美しい→好きになってしまいそう→勉強が手につかない→やばい!
結構深いのかも・・・・


05/7/13 (Wed)

文化庁が行った国語世論調査の概要が各紙で報道されている。文化庁もHPで発表している。http: //www.bunka.go.jp/
間違った表現、変な表現の例がたくさん出ている。

間違った言い方
「青田刈り」「汚名挽回」「天下の宝刀」
意味の取り違え
「他山の石」「枯れ木も山のにぎわい」「世間ずれ」
新しい言い方
「わたし的」「話とかしていました」「とても良かった・・みたいな」「やばい(すばらしい)」「微妙」「うざい」

まあ、私も間違えることがあるからそれほど目くじらを立てることはない。他山の石、自分自身を磨くために参考にしよう。
しかし、一番びっくりしたのは「やばい」である。「すばらしい」という意味で使う人が20代の男女でそれぞれ、51.7、53.2%、10代は 75.6%、65.8% である。これはいくらなんでもやばい・・・みたいな。
また、「びみょう(微妙)」も日常会話で使うのならよいが、授業中に学生に質問して「微妙です」と答えられるとわたし的にはチョーうざい。・・・と思う私 は、<世間ずれ>とかしているのだろうか。

05/7/8 (Fri)

ロンドンで爆発事故。まだ詳しい情報はないが、同時テロと見て間違いないだろう。サミットが開催中で、2012年のオリンピック開催が 決まった直後のことだった。もう世界に絶対安全な場所などないということだ。


本のタイトルにひかれて、Amazonを通じて次の本を買った。
・大塚正元『楽譜の数学』(早稲田出版、2500)円
B5版で250ページ数式だらけの本だった(^^;
例えば次のような数式がある(この数式の意味は別の機会に)。

では、このような数式のついた原稿をどうやって書いたのだろう。多分組版ソフト TeX(てふ)を使ったのだろう。数学の先生はほとんどこのソフトが使える。一部のコンピュータおたくの先生も(失礼!)使っている。わたしも一度使いこ なせるようになろうと思ってちょっとだけかじった。ここに出した数式くらいなら何とか書ける。次のようなテキストファイルを作成して、PDFファイルに変 換すれば上のような式が出てくる。
=================
\documentclass{jarticle}
\begin{document}
$y=\frac{2^8}{3^5}=\frac{256}{243}$
\end{document}
=================
ただし、私の場合実用できるようなレベルではない。そしてこの勉強に時間を費やすほど人生ののこり時間はない。あきらめた。
興味のある方は下からどうぞ。

05/7/6 (Wed)

7月23日の弘前大学教育学部附属小学校の公開研究会で授業をする(大学教員に小学校の公開研究会で授業をせよ・・・。こんな恐ろしい ことを考えたのは誰だ!)その指導案を書いた。題材名は「リコーダーで二重奏」である。3年生の授業である。4時間の単元(題材)で、最後の授業が公開研 究会になる。
その前文を載せておく。詳細については授業がすんでから公開したい。
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(1)リコーダーの初期指導について
 リコーダーの入門期においては、リコーダーを手にした時の楽しさを持続させ、つまずきを押さえることがもっとも重要である。指導にあたっては、次のよう なことに留意すべきである。
@リコーダーは「簡易楽器」でも「おもちゃの楽器」でもなく、一生楽しめる「本物の楽器」であることに気づかせる。そのために、教師自身がリコーダーを本 物の楽器として扱う姿勢が重要である。
Aリコーダーが自分で音をつくる作音楽器であることを意識させる。そのためには、吹き方によって音色が大きく変化することを認識させ、正しい姿勢、正しい 息づかいができるようにする。
Bタンギングは重要であるが、それを意識しすぎるあまり不自然なタンギングを身につけている児童が少なくない。自然なタンギングができるよう留意する。
C初期の段階で、各音を確実に押さえられなければ、必ずつまずく児童が生まれる。この段階では各児童の達成度を確実に把握しておく必要がある。
D楽しさを持続させるために、入門時から適切な楽曲を使って演奏を楽しめるようにする。

(2)バロック式リコーダーの使用について
 リコーダーには、バロック式(イギリス式)とドイツ式(ジャーマン式)の2種類がある。我が国の多くの学校では、ドイツ式でソプラノリコーダーの指導が 行われてきた。しかし、近年はバロック式を導入する学校も増えてきた。本校でもバロック式が導入されている。
 ドイツ式には高音域に難があることやアルト・リコーダーへの発展性を考えると、最初からバロック式で指導するほうが望ましいと、私は考えている。しかし ながら、バロック式の場合、ヘ音の運指には大きな困難が伴う。この問題を解決するために、安達弘潮氏は「『ファ』の一時的回避と『ト長調』からのスター ト」を提案している(安達弘潮『リコーダー復興史の秘密』音楽之友社,1996)。賛成である。
 ここでいう「ファ」とは固定ドの「ファ」であり、音名の「ヘ」のことである。言い換えれば次のようになる。
┌─────────────────┐
│ト長調からスタートする。     │
│へ音より先に嬰ヘ音から学習する。 │
└─────────────────┘
 リコーダーの初歩指導では、一音累加法が採用されることが多い。その場合、次のような順で各音の指導が行われる。
┌─────────────┐
│ロ→イ→ト→二点ハ→二点ニ│
└─────────────┘
 左手の運指だけで、出せる音が指導される。この音だけで演奏できる曲となると、当然ト長調の曲と言うことになる。実際に第三学年の教科書のリコーダー教 材にはト長調の楽曲が多い(調号は使われてないが、実際はト長調である。私はこれを「隠れト長調」と呼んでいる)。実は、バロック式でなくても、リコー ダーの学習は、既にト長調からスタートしているのである。そこから考えると、この後は次のように累加していくほうがむしろ自然である。
┌────────┐
│ 嬰へ→ホ→ニ │
└────────┘
 このように「嬰ヘ」を先行させるもう一つの理由は、困難なヘ音を学習させるよりも、負担を少なくして、数多くの楽曲に取り組ませるほうが効果的であると いうことである。
 なお、私は移動ド派であり、ト長調からスタートするならば、ト音を「ド」と呼び、嬰へ音を「シ」と呼ぶべきだと考えているが、混乱を避けるために今回の 授業では固定ドを採用する。ただ、その場合に「嬰へ音」をどう呼ぶかが問題である。今のところ、本授業の間だけということに限定して「Fe」(フェ)とい う呼称を使う予定であるが、実際の授業で使うかどうかは、当日まで検討したい。
(3)二重奏について
 リコーダーという楽器は、多人数で演奏する楽器ではなく、重奏をしてこそ本領を発揮する楽器である。したがって、入門期においても重奏を楽しませること が重要である。そのためには適切な重奏の楽曲教材を準備する必要がある。

05/7/2 (Sat)

・高田理惠子『グロテスクな教養』(ちくま新書 740)
なかなかおもしろい本で、大学の教養教育とか、大学人の「業績」と言ったことに関して考えさせられる本である。
本全体の趣旨とは離れるのだが、私がおもしろいと思った箇所がある。「禁句について」という項である。
「現代女性の晩婚化・非婚化の原因についての調査を「官」から依頼された心理学者の小倉知加子が「ここには階級という変数を入れないと解けない」、つまり 階級によって原因は異なるはずだと言ったところ、「それはあんまりちょっと・・・・行政ではそれは禁句なんです」と困られてしまったそうである(『ザ・ フェミニズム』)。我が国の優秀な官僚たちを悩ませているさまざまな社会問題や教育問題は、しばしば階級という要素を抜きにしてはとりあつかえないもので あると思われるが、どうやら、その最も重要な点が(だからこそ)「禁句」になっているらしい。」
たしかに、そういうことはある。現代の音楽教育を語るときに、「階級」という言葉を使わざるを得ないということはまずない。しかし、対象を一つに特化し て、例えば「教材」とくに「歌」について徹底的に分析していけば「階級」に突き当たらざるを得ない。私は、最近の音楽教科書に載っているポップ調という か、フォーク調というか、それでいて妙に健全な歌詞のついたあのへんの歌がとっても嫌いなのだが、なぜ嫌いかを説明するにはたぶんこの禁句を使わざるを得 ないのだろうと思っている。私は、そのへんをうまく文章にする力がないので今のところ近寄らないことにしているのだが、いずれ本音を書かなければならな い。(「あのへん」とか「そのへん」とかちょっと歯切れの悪い言葉で申し訳ないのだが、「このへん」でお許しいただきたい)。

05/6/30 (Thu)

尺八の「尺」という字は象形文字で、親指と人差し指を広げてものにあてている形だそうである。なるほど、左手でそうすると尺の字にな る。しかしそれにしては実際の1尺は長すぎやしないだろうか。その理由は、権力者が尺を勝手に少しずつのばしてきたせいだそうである。反物を納めさせるし てもそれだけ多く納めさせることができる。またまた、なるほど。
「秒」というのは「セシウム133の原子の基底状態における、2つの超微細構造準単位の間の遷移に対する放射周期の、91奥9263万1770倍の継続時 間」なんじゃこれは? 要するに時間の単位である秒は、1日の1/86400ではなくて、原子の固有のスペクトル線を基準として用いた時計で決められてい るらしい。なるほど・・・・とわかったことにしておこう。
星田直彦『単位171の新知識 読んでわかる単位のしくみ』(講談社ブルーバックス 940円)
たしかに読んでわかる(わからないこともある)し、おもしろいし、事典代わりになる。ところで、「世界共通の長さの単位を作ろう」と最初に言い出したのは フランスのタレーランという政治家だそうである。それまで使っていた単位を使うのではなく(フランスの単位に合わせさせようとしたのではなく)、地球の北 極から赤道までの距離を基準にしたまったく新しい「メートル」という単位を作ったところが、「メートル」がまあまあ(日常的に使っていない国もあるから 「まあまあ」である)成功した理由である。
しかし、音楽ではこうはいかなかった。フランスは、「ドレミ」(Ut Re Mi)を音名として使うという暴挙?をおかしてしまった。パリからの距離によって世界中の位置を表すことにしたようなものである。


朝一番の授業、共通教育の授業をして研究室に帰ったら、教務の事務から電話がかかった。授業でCDをかけるのが他の教室にもれてうるさいというクレームが 他の教員からあったそうだ。180人も相手をする授業をしていて、おまけに暑いので窓をあけている。特に今日は、日本の民謡をたくさんかけたので、特別う るさかったかもしれない。しかし改めるのは無理だ。何とか教室を変えてもらうことにした。しかし、これを理由にして来年度は担当を断ることにしよう。

05/6/28 (Tue)

文部科学省のホームページに、マスコミでも話題になっている「義務教育に関する意識調査」の速報と中間報告が出ている。
珍しいことだ(私の知る限り)と思うのだが、文部科学省が民間のベネッセ教育研究所に委嘱して行った調査報告書である。
いろいろあるが、音楽についての結果を簡単に見てみる。
教科等の好き嫌いという質問がある。各教科について、「好き」、「まあ好き」「どちらとも言えない」「あまり好きでない」「まったく好きでない」の内から 選ばせる質問である。
小4から、中3までで「好き」「まあ好き」を選んだ児童・生徒の割合(%)は次の通りである。
72.1(小4) 62.6(小5) 60.1(小6) 53.2(中1) 48.2(中2) 54.2(中3)
だんだん、減少していくのが気にはなるが、中3でまた盛り返している。中学校3年では、保健体育、技術・家庭に続いて3番人気である。健闘していると言っ てよいのではなかろうか。ただ、依然として男女差がはげしいのが気にはなる(男子に不人気というわけではない)。
その他、話題になっている総合的な学習の時間に関する結果もおもしろい。新聞の見出しだけで判断しないことがたいせつである。
ぜひ、文科省ホームページを見ていただきたい。
文科省HP

05/6/24 (Fri)

少し落ち着いて勉強したいのだが、学内、学外の仕事が次から次へとやってくる。研究室を掃除する時間さえない(あってもやらない が・・・)。
今日は九州へ向かう。九州の音楽の先生たちの勉強会に参加させてもらう。楽しみである。


History v1.32 [Shigeto Nakazawa]