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メッセージ過去ログ10



05/6/18 (Sat)

おえー。飲み過ぎた。
まだ、東京にいる。ホテルでは各部屋にLANが来ていてDHCPになっているので、LANケーブルを差し込んだだけで、インターネットも使える。
LANが使えないときのために電話線のケーブルも持ってきたが、必要なかった。

ところで、アダルトサイト退治のため、3つほどのIPアドレスやドメインからのアクセスができないようにした。ゲストブックやリンク登録に、削除しても削 除しても繰り返し書き込んでくるからだ。私は、APACHEというWEBサーバーソフトを使っているのだが、その設定ファイルに少し細工をするだけです む。そうすると書き込みがまったく止まった。アダルトサイトはたくさんあるようだが、運営している業者はそれほどではないようだ。一つの業者が手を変え品 を変え、あの手この手で消費者をだまそうとしているにすぎないのだ。たぶん、架空請求とか不当請求などをしてる業者ももとをたどれば、同じなのではないだ ろうか。


「研究ノート」を更新した。音楽理論に関心のある方はどうぞ。

05/6/17 (Fri)

昨日から東京に来ている。
日曜日に会議に出席するのが目的だが、調べものをしたり、人と会ったりいろいろできる。
本屋をまわるのも楽しみである。最近は音楽関係(?)にとても関心がある。
弘前の生活ももう4年近くになるのだが、東京に来ると「帰ってきた」という気持ちになるのは何故だろう。
今年度になって引き受けた東京の仕事が4件。こちらに来ることが増えそうである。


若貴兄弟の問題がマスコミをにぎわわせている(飛行機の中でひまだったので、随分読んだ)。
どちらか一方につく週刊誌もある。(例えば、『週刊文春』は一方的に貴派)。家族内の問題なのだから、そっとしておくのが一番いいとも思うのだが、「他人 の不幸は蜜の味」。自分に火の粉がふりかからないならば、これほどおもしろい話題はない。
ただ、まったく無責任な推測だが、私はほんとんどの問題が兄にあると思っている。兄は、外面だけはいいのだが、本当は相当いいかげんな人間なのだろう(そ ういう報道もされている)。子どものころからそんな兄をずっと見てきた弟には、不満がたまりにたまっていたのではないか。そういった末の行動なのだろう。 二人兄弟がいれば、兄はたいていいい加減でずぼらで無責任、弟は几帳面で責任感が強いと相場は決まっているのである。
なぜ、そんなことがわかるかって? 私が二人兄弟の兄だからである。

05/6/14 (Tue)

昨日は、大ポカをしてしまった。こんなことは人生はじめてである。とにかく口に出すのもはずかしい。・・・多くの人(特に学生は)知っ ているのだが・・・・(このことに関しては、もうしばらくしてから書く)。今日は、文を書く気にもならないほど落ち込んでいるのだが、こういう日だからこ そ元気を出すことにする。


佐伯啓思(いかにも考える人という名前だ!)氏が、オルテガの言葉を次のように紹介している。http: //www.ittsy.net/academy/instructor/keishi2_3.htm
(オルテガ自身の言葉を引用すべきなのだが、その文献が見つからない。孫引きのような形になるがお許しいただきたい)。
「かつて人類が遊牧段階から脱して、定住し社会を作りだすときに、何が起こったか。若者が中心になり、獲物を獲得し、他の集団と争うという、いわば戦闘集 団ができたであろう。この戦闘する集団こそが最初の社会であった。ここでは、集団の規律化が生み出され、身体的訓練が重要な課題となり、若者たちは家族か ら離れて、指揮官のもとに統率されて集団的生活を行なっただろう。そして、この獲物を獲得するための戦う集団の行動が様式化されたものがスポーツであり、 また国家だというのがオルテガの述べているところである。国家は、スポーツから始まった、もしくはスポーツと同じ起源をもっているというのだ。
このオルテガ説を借りてくると、サッカーと「国」の結びつきはよく理解できる。サッカーはその言葉の通り、人々を「結びつける(アソシエイト)」ものであ り、そのルールや競技としての特性の単純な明快さにおいて、確かに、スポーツの起源を指し示しているように見える。獲物を狙う(ゴールを狙う)ために集団 を作り、集団間の競争、闘争の中で素早く矢を放つ(シュートする)。この集団では、個人の力量がものをいうと共に、それぞれの役割を果たすための訓練され た組織力が重要なのである」
さらに、次のように続ける。
「ところでオルテガは次のように言っている。集団の獲物獲得の対象は、他の集団の女性でもあっただろう。だから女性は、こうした戦闘集団とは対立する存在 だ。つまり、この種のスポーツや国家というものに対しては冷ややかだ、と。もしそうだとすると、このワールドカップにおける女性たちの熱狂はどう考えれば よいのだろう。ただ、サッカーの本場であるヨーロッパでは、概してサッカーは男性的スポーツだと見なされていて、女性はさして関心を持たないようである。 とすれば、この女性の熱狂は日本や韓国独特のものなのか」
私は、狩猟民族だの、農耕民族だのという話には誇張やこじつけの入り込むスキがあってまゆつばになりやすいと思っているのだが、ヨーロッパ人と日本人女性 のサッカー熱の違いは納得できる。
確かに、ヨーロッパでは女性は略奪の対象であったのかもしれない。しかし、日本では全般にそうではなかった。次のように考えるこのはこじつけになるだろう か。
日本では(農耕民族だからかどうかはわからないが)、女性は常に男性を支える存在であった。そして、時には男性とともにたたかった。したがって、自分が支 える男性がたたかいに敗れた時には、女性もそれにしたがった(自決した)。この点から言えば、サッカーの場合に、女性がサッカーに熱狂するのも当然だと言 える。つまり、男性のたたかいを支えるサポーターそのものである。
もちろん「だから日本の女性のほうが幸せだ」などと言う気はさらさらないし、日本人をこれによって美化しようとする気もない。しかし、ここに欧米人や大陸 人と日本人の女性観の大きな違いが潜んでいるのでないか。時おり国際問題になるあの問題も(文相が発言して問題にしているあの問題である)・・・・・。ま た、ナショナリズムという病気がはじまりそうなのでやめる。

※オルテガとは、アルゼンチンのサッカー選手のアリエリ・オルテガ選手のことではなく、スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットである(念のため)。

05/6/13 (Mon)

アダルトサイトからの度重なる書き込みに対して、自衛手段を講じます。
トップページから、「重要なお知らせ」をごらんください。

05/6/11 (Sat)

昨日の記事に関して、メールをいただいた。
「全国の都道府県と都道府県庁所在地が入った歌とか、かけ算九九を覚える歌とか、円周率を100桁覚える歌とか・・・。おもしろいかもしれない」と書い た。それについて、昔かけ算九九体操というレコードがあり、そのレコードに合わせて、歌ったり体操をしたりして九九を覚えるという実践をしていたという情 報をいただいた(深謝)。考えてみれば、あって当然かも知れない。現在でもありそうである。


これはよい本である。
中山元『高校生のための評論文キーワード100』(ちくま新書 720円)
「アイデンティティ」から「レトリック」にいたる100語がていねいに説明されている。
「はじめに」に次のような文がある。「この本は、高校生の諸君が教室の授業や大学入試の際にとりくむ評論文読解に役立つよう工夫したものだ。ここで選んだ 100項目は、実際の試験で使われた文章に頻出する用語や、あらかじめ知っておかなければならない理解しにくい用語を中心にしている」
「高校生のための」と言っても、大学生にも十分通用する(大学生でもこれらの語のほとんどを知らないだろう)し、私たちにも役に立つ。とくに私たちにとっ ては、こういったキーワードの説明の仕方を身につけるための参考書になる。
それぞれのキーワードに関して、「ポイント」「切り口」「展開」に分けて説明している。例えば、「記号」について「ポイント」は次の通りである。
「ぼくたちはあるものを示すために別のものを使うことができる。空腹を身振りで示すこともできるし、煙を使って信号を出すこともできる。郵便のマークや地 図のお寺のマークはだれにもなじみだろう。なかでも、言語というものは、自分の考えていることをかなり正確に他人に伝えることのできる優れた記号体系だ」
まずゼミの学生に知らせよう。


05/6/10 (Fri)

手の届くところに敵がいない。みんなが仲間。
広島にいた最後の年の1975年。広島カープがセリーグ初優勝をとげた。どこにいっても「カープ」「カープ」で盛り上がっていた。カープの話題さえ出せ ば、誰とでも仲良くできた。まわりに敵なし(いたかもしれないが、とても名乗ることはできない雰囲気だった)。東京ではこうはいかない。さすがに、一つの チームのファンばかりではない。一つのチームで盛り上がることはない。青森に来ると野球の話題さえすることはない。野球というのは、それぞれの地域では、 人と人の結びつきを強める。しかし、国中が盛り上がるということはあまりない。その証拠に、野球のナショナル・チームの試合、例えばオリンピックや世界選 手権があっても関心はうすい。
ところが、サッカーはどうだ。昨日朝のトップニュースは、私が見た限り、すべてがワールドカップ出場を決めたアジア予選だった。無観客試合でも、スタジア ムの外に応援に行ったサポーターもいる。東京の国立競技場に3万人も集まって、声が届くわけもないのに「ニッポン・ニッポン」と声をあげる。テレビの最高 視聴率は58%だそうだ。
サッカーのナショナルチームに関心が集まるのは、それだけ国際的なスポーツでほとんどの国にナショナルチームが存在するからだ。バーレーンという国は面積 が日本の奄美大島くらいで、人口は日本で一番人口の少ない鳥取県と同じ60万人台。そんな小さな国のチームに、経済大国日本のナショナルチームが苦しめら れる。拉致の国、北朝鮮も国家の威信をかけてたたかう。「負けるわけにいかない!」
サッカーを応援している限り、手の届くところには敵がいない。日本人みんな仲間である。安心感がひろがる。愛国心教育などよりもはるかに効果がある。


ひねくれ教育事典 【て】
てつどうしょうか(鉄道唱歌) 「汽笛一声、新橋を・・・」。明治時代(1900年)に地理教育のために作られた唱歌。現代ではこの発想はあまりない。全 国の都道府県と都道府県庁所在地が入った歌とか、かけ算九九を覚える歌とか、円周率を100桁覚える歌とか・・・。おもしろいかもしれない。

05/6/8 (Wed)

昨日、一昨日とここに書いた内容に対して、反論のメールをもらった。たいへんありがたいことである。公開して再反論したいのだが、私信 なのでそうはいかない。放言と受け取られるのならそれはそれで仕方がないが、それなりの覚悟をしてここに書いているつもりである。いざとなれば、進退をか けてもいいと思っている。こちらはそれなりに血も流して書いているわけだから、できれば、公の場で反論してもらいたい。BBSを使ってもらってもよい。

05/6/7 (Tue)

昨日の記事に対して、当の学校から反応があった。必ずしも学校の研究が全員の合意のもとで進んでいるわけではないようだ。
そもそも、研究が一つのテーマで統一されることが私はおかしいと思ってるのだ(ある志で集まった研究会は別である)。
できれば、その学校の偉い人から抗議文でもきたら良いのにと思う。そうしたら、きちんと受けて立とう。
「学びの力は幻想か?」というテーマでシンポでもひらいてもらおう。そのほうが教育研究らしい。


時々、尋ねられることがある。「先生は、法則化ですか?」
法則化とは、向山洋一氏が1980年代半ばにはじめた「教育技術の法則化運動」のことである。もちろん現在も続いている。TOSSという略称が一般的であ るようだ。
私は、次のように答えることにしている。「法則化のサークルに参加したりしているわけではないし、各々の実践に対して疑問もあるが(当たり前である)、運 動を理解しているつもりだし、学ぶべきところは学ぶべきだと思っている」
法則化のもともとの趣旨は、学校の中に埋もれている片々の教育技術を教師の共有財産にし、体系化するということであったと理解している。このような仕事は だれかがやれなければならなかった。しかし、だれもやらなかった。運動がはじまった時、「目から鱗」という思いだった。
例えば、新米の教師が小1を担当する。最初の音楽の授業をどうするか。あれこれ考えて試行錯誤でやってみる。試行錯誤は教師にとってはいいことかも知れな いが、指導錯誤された子どもはたまったものではない。こんな時は、先輩の教師たちが積み上げてきた技術を学ぶのが一番良い。ただし、そのような技術がきち んと記述されていなかった。それらをだれにでも伝えられる形式で記述しよう・・・これが法則化だった。私はそう理解していたし、今でもそう理解している。
ところが、残念ながら、このような考えを受け入れない体質が教育界にあった。批判(非難)論文もたくさん書かれたが、向山氏の主張や実践をきちんと検討し たまともな論文は少なかった。
すぐれた方法が提案されているのに、「研究」と称して一から方法を開発していこうとするのは無駄である。多くの研究授業ではこのような無駄がなされてい る。まずは、それらの方法を検討すべきである。そして使えるものは使ってみたらよい。他の人の実践をまねることは少しも恥ずかしいことではない。私は、法 則化を最近見直しているのである。


ひねくれ教育事典 【つ】
つうしんぼ(通信簿) 私たちが子ども頃は、通信簿というのは私たちの心にずっと重くのしかかるものだった。何と「終業式」の日のことを「通信簿もらいの 日」と呼んでいたくらいである。五段階相対評価であった。クラスは50人くらいだったか。五段階のそれぞれに定数があるわけだから、大変である。5をもら うには、だいたいクラスで5位には入っていなければならないわけである。しかし今考えてみると、五段階相対評価というのはわかりやすい方法であった。保護 者からみれば、子どもの位置がすぐわかるからである。私の子どもの時代には、もう五段階ではなかった。観点別に○(よくできる)または△(がんばろう)ま たは無印である。保護者にとっては何の資料にもならなかった。昔に戻せというわけではなく、保護者に対してはもう少しやりようがあるはずだと思った・・・ というのがもう20年も前のことである(^^;

05/6/6 (Mon)

「学びの力」は幻想である。
ある学校の研究テーマ。「学びの力を育む授業改革」とある。
一体、どのような回答を求める研究なのか。私にはさっぱりわからない。
例えば、リコーダーで、まっすぐな息を出すことができるように、ロングトーンの練習をする。まっすぐな息を出すことは、次にある楽曲を演奏するための基礎 能力を身につけることになる。小学校の一年生で、簡単な歌をたくさん歌う。それは将来より高度な歌を歌えるようになることにつながる。
学校で学習する内容に、それだけで自己完結するような内容は何もない。その内容は次に学習する内容の、あるいは将来学習する内容の基礎になるのである。そ うでないとすれば、学ぶ価値のない内容である。
だから、学習することは、学習する力を身につけることでもある。「学ぶ」ことと「学びの力を身につける」ことを切り離すことなどできないのである。
「学びの力を育む」などという目標は、「学びの力」なる学力が、教育内容とは独立して存在するという錯覚にもとづくものである。つまり「学びの力」という 幻想を追い求めてるだけである。音楽の教師が、このようなテーマに忠実に答えようとすれば、音楽に対する感性や技能や知識とはまったく別の、「音楽を学ぶ 力」という訳のわからない幻想を追いかける他はない。実際にそのような幻想を追いかけている授業をあちらこちらで見かける。子どもは動いてはいるが何を学 習したのかがさっぱり見えない授業である。時間と労力の大いなる無駄づかいがなされている。
「学びの力」などいう幻想を追いかけるよりも、子どもたちにとって今何が必要か。そのためには今何を学ばせるか。それをどのような方法で学ばせるか。これ らを具体的に考えるべきである。

05/6/3 (Fri)

KEY B♭
|d :- .r |m :- .d |m :d |m :- |

「ドレミの歌」の最初の部分をトニック・ソルファ法で表してみた。
この歌は、今から40年ほど前に製作されたアメリカ映画 The Sound of Music の中に出てくる一曲である。
映画の中では、次のような歌詞で歌われる。

Doe, a deer, a female deer
Ray, a drop of golden sun
Me, a name I call myself
Far, a long, long way to run
Sew, a needle pulling thread
La, a note to follow So
Tea, a drink with jam and bread

「シ」のところが tea になるのは、イギリスで開発されたトニック・ソルファの法の、Doh Ray Me Fah Soh Lah Te というシラブルの影響だろう。10年ほど前、パソコン通信で、旋律をテキストのみで表す方法を集団で開発した。その方法もこのトニック・ソルファを元にし ていた。その時の方法で書くと次のようになる。

Do=Bb 2/4  
/d :- .r /m :- .d /m :d /m :- /

エルとの紛らわしさを避けるために小節線スラッシュを使ったこと、Keyを調と混同しないように Do= としたことくらいである。この方法はあまり使わ れなかった。多分「移動ド」が敬遠されたのであろう。

ところで、この映画の舞台は1938年のオーストリア、ナチスの影響が迫ってくる時期の実話を題材にしている(ドイツ映画「菩提樹」も同じ物語である。見 たいのだが、手に入らない)。この「ドレミの歌」を素材にいろいろなことを考える。
(1)この映画の主人公のモデルである実在したマリアはトラップ家の子どもたちに、このトニック・ソルファ法を教えたか? ドイツにはすでに  Tonika-Do として広まっていた。オーストリアではどうだったか・・当然広まっていたと思う(ただし、ドレミの歌は映画で作られた歌である。念のため・・・)
(2)この歌は映画の中では、変ロ長調で歌われる。私は当然なんともない(変ロ長調であることさえ気づかなかった)が、固定ドの感覚の人はこの歌をどう聴 いたのか。大人なら理屈がわかっているから良いのだろうが、子どもはたいへんだったのではないだろうか。しかし、Doe(しか)、Ray(光線)のよう に、歌詞としてきけば何の問題もないような気もする。
(3)「La はソに続く」音はちょっとおかしい。トニック・ソルファではラはソに向かう音である。だからハンドサインでは手全体を下向きにするのである(屁理屈だ が)。
(4)ペギー葉山の日本語訳は最悪である。「ドはドーナツのミ」でなければならない。"Re" は "Lemon" も相当ひどい。私が RとLの区別がつけららなくなり、ひいては英会話が身につけられなかったのはこの歌のせいである。ただし、2番はとても良い。「どん な時でも、列をくんで・・・」。しかも 日本語にない、La では "La La La ・・・"である。


ひねくれ教育事典 【ち」
ちゅうくんあいこく(忠君愛国) 「忠君」は君につくすこと、すなわち上向きの精神の在り方である。「愛国」は国という自分の所属する集団、つまり公とい う横に広がる精神の在り方である。したがって「忠君」と「愛国」は両立しえない対立した概念である。愛国に向かえば向かうほど忠君との軋轢は大きくなる。 だからこそ、明治維新の志士たちは、「愛国」のために「忠臣」を捨てたのである。しかし、「愛国」すなわち「公」のためと言いながらひとたび権力を握った 者は、今度は人民に「忠君」を求めるようになる。これは現在でも同じである。企業、国の組織(官僚機構)、学校と、形は違っても組織はその構成員に忠君を 強制するのである。そして「忠君」と「愛国」という矛盾した精神を同時に求めるというグロテスクな教育(「愛国」は大義名分)がはびこることになる。本来 の「愛国」とは「忠君」とはけっして両立しない権力に媚びない精神の在り方を示すのである。権力に媚びて生きるエセ愛国者よ、わかったか!!・・・とイン ターネットだけで大口をたたく・・・・

05/6/1 (Wed)

研究室のコンピュータを更新したら、プリンタへの打ち出しがうまくいかない。P&Pで自動的に認識しているから大丈夫だと思っ たのだが、文字化けして使い物にならない。こんな時はあれこれやってもしょうがない。このあたりに一番わかっていそうな、長女に電話をする。娘のアドバイ スであっという間に解決した。かつては、こういう事態になると、どうしても自力で解決しなければ気が済まなかった。それで自分であれこれやってみるのだ が、そのうちに時間がすぎてゆき、気がついたら空が白みかけていたということがしょっちゅうあった。そういうことをする気力がなくなったというか、少し利 口になったというか・・・それだけ年をとったということなのであろう。


『新潮45』、中島義道氏の「哲学者というならず者がいる」という連載がある。6月号の書き出しがおもしろい。
「いまさら言うまでもないことだが、私はほとんどの「社会問題」にまったく興味がない。ライブドアののっとり劇に世間は蜂の巣をつついたような騒ぎだった が、私はニッポン放送がなくなってもまったくかまわないし、同時にライブドアが自己崩壊してもいいと思っている。私は野球には髪の毛1本ほどの興味もない から、といういうより小学校のころよりできないのに無理やりやらされて、憎しみ以外の何も残っていないので、全球団が崩壊したらとても嬉しく思う。牛肉は 食べ(られ)ないので、吉野家がつぶれてもいっこうにかまわない・・・」
考えてみれば、確かにみんなどうでもいいと言えばどうでもいい。にもかかわらず、どうして私は、ライブドアのニュースをしっかり見ていたのだろう。プロ野 球の勝敗を知らないと気が済まないのだろう。自分でどうにかできるわけでもないので、時事問題でワイワイ言い合うのが好きなのだろう。まあ、私は根っから 下世話好きな人間なのである。・・・・しかし、そういう意味では『新潮45』というのはもっとも下世話雑誌の一つである。なんせ、6月号の特集は「昭和史  男と女の7大醜聞」、小特集は「セックスは語る」。中瀬ゆかりさんもよくやるなあと思う。そして、そんな雑誌に毎月連載を書く人って一体? 

ひねくれ教育事典 【た】
たんい(単位) 大学生が大学で学ぶ直接の目的はこれを規定通り集めることにある。その内容がどうあれ、これさえ集めることができれば、無事卒業となりめ でたしめでたしである。ふつうにやっていれば、たいていは4年間でおつりがくるほどとれる。それができないのは、裏口入学者(・・でも入ってしまえばチョ ロい)か、かなり怠け者か、学生をいじめることが趣味のサド的教員にあたった場合である。例えば、うっかり携帯をマナーモードにするのを忘れて音が鳴った だけで、出席禁止になった学生がいるとか。私はそんな意地悪はしない。(授業中にどこから携帯の音がするので、「だれだ!」としかったあと、よく聴いたら 自分の着メロだった)。

05/6/1 (Wed)

インターネットは便利である(「何をいまさら」と言われるかも知れないが、いまさらながら便利だと思ったのだからしょうがない)。
明治時代に音楽(唱歌)教育をはじめるために「音楽取調掛」という機関が設立された。この機関が後に東京音楽学校となり、戦後は東京芸術大学音楽学部にな る。したがって、この東京芸術大学図書館にはこの「音楽取調掛」時代の資料がたくさんある。
あることに関心があって、この資料を見ないといけない。そのためには芸大までいくしかないなあと思って、芸大の図書館のHPを見たら・・・
何と、文書・資料の全部が電子化されWEBに公開されているようなのである。ただし、それを見るためにはIDとパスワードをもらわなければならないような のだが、WEBから申し込んで、2〜3日でID発行のメールが図書館の担当の係の方から送られてきた。さっそく、一部を閲覧させてもらった入ってみたのだ が、すごい資料である。思わず「○○さん(芸大図書館の係の方のお名前)、ありがとう」と叫んでしまった。
思えば、故山住正己氏が『唱歌教育成立の過程』を書くために、長期間通い続けて調べた資料なのだと思う。カビのにおいに苦しみながら研究を続けたのであろ う。それが、弘前にいて机にすわったまま見ることができるのである。贅沢といえば贅沢である。役に立てなければ申し訳ないとも思う。
インターネットを見直した次第である。

ひねくれ教育事典 【そ】
そつぎょう(卒業) この言葉を聞いて、ダスティン・ホフマンを思い出し、カーペンターズの「サウンド・オブ・サイレンス」や「スカボロフェア」の旋律が 頭に浮かぶ人は、相当なおやじである。そう言えばフォークソングに「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」という女々しい(おっと失礼!)歌もあった。

05/5/30 (Mon)

先日のことである。
携帯電話に次のようなショートメールがきた。ショートメールなどほとんど使わないから、おかしいと思いながら内容を見たら、次のようなことが書いてあっ た。
「至急、退会手続きを!連絡なければ自動更新し金額上がる03xxxxxxxx」
これで電話をかけると、架空請求が持ちかけられるのだろう。当然無視である。ところが、1時間ほどたって電話がかかってきた。
相手「債権管理部ですが、あなたは未払い分がありますよ」
私「で、何の未払いですか」
相手「とにかくあるんですよ。あなたの住所、名前を教えてください」
私「何で、名前を教えないといけないのですか」
相手「未払いがあるからだ、とにかくなのれ」
私「心当たりがないのになのるわけにはいかない」
相手「とにかく、債務はあるんだからな」(切)
もう自分のほうから電話かけて「なのれ」とは無茶苦茶である。やり口はだいたい次のようなものだろう。まず、ランダムな電話番号で、ショートメールを出 す。それにつられる人がいればその人に架空請求する。それでつられる人がいなくても、ショートメールを出すことで、電話番号が実在することが確かめらるの で、しばらくして電話する。うまくひっかかればよい。多分これで、支払いしてくれる気の弱い人がいるのだろう。
少したってから、公衆電話(こちらの電話番号がわからない)で「携帯メールの件、警察に届けます」と言ったら、「警察に届けるのにどうして公衆電話使うん だ(ナンバーディスプレイに出ているのだと思う。てめえ、俺たちをいったいだれだと思ってるんだ!!」と逆にすごまれてしまった。まあ、架空請求だという ことを自分で認めているようなものだけど・・・
みなさん、ご用心!でもだんだんやり口は巧妙になってきているようだ。


ひねくれ教育事典 【せ】
ぜんめんはったつ(全面発達) もはや私(死)語と化した教育の目標。まあ、幻想だったのでしょう。

05/5/29 (Sun)

小学校低学年の子どもに歌を教えてみる。
聴唱法で、自分が歌ってその歌を聴いて歌わせる。これをくりかえして歌を覚える。
この方法でやると、クラスの中に数人低い声でモソモソ歌ってメロディーにならない子どもいる。実は、大人の男の声は子ども声より1オクターブ低い。その高 さで歌おうとしているのではないか。当然それが出るはずもないから、モソモソっとなるのだ。(私は何度か経験がある)
それで、ファルセット(裏声)で歌ってやる人もいる。しかし、私はもうそんな声は出ない。
オクターブは同じ音だという感覚さえあれば、上のようなことはおこらないはずなのだが・・・
オクターブは同じ音だというのは自明のことなのだが、どうもそれがわからない人がいるらしい。とくに幼児にとっては難しいことのようだ。梅本堯夫著『子ど もと音楽』(東京大学出版会)には、このことに関する心理学的な研究例が紹介されている。
本当に、幼児や小学校低学年の子どもが、オクターブが同じものとして認識できないとすれば、少し深刻な問題がおきてくる。
こと音楽に関する限り、その中でも歌唱の指導に関する限り、幼児や小学校低学年の指導には男は不向きということになってくるからである。
これは、徹底的に調べる必要がありそうな課題である。
経験がある方、対処法を知っている方、先行研究など知っている方は教えていただきたい。


ひねくれ教育事典 【じ】
じょうそうきょういく(情操教育) この言葉を振りかざせば振りかざすほど、振りかざした人の情操が疑われることば。

05/5/28 (Sat)

のどをいためた。風邪を引いたせいもある。しかし、今までこんなひどくなることはなかった。思い当たるふしがある。柄にもなく(?)少 し身を入れて調べものなどしたからである。このところずっと古い資料を調べていたのである。古い資料は強烈なにおいがする。それにカビである。それにやら れたようだ。私は歴史家ではないので、それほど古いものをさわるわけではない。それでもこんな状況である。歴史を中心に研究している人は一体どうしてるの か・・・


小泉首相の靖国発言が引き金になって、日中関係がまた悪化してきた。悪化してきたといっても、それは中国側の態度の問題であって日本側が意図的に悪くしよ うとしているのではない。首相が靖国神社に参拝することが、中国に対して大きな打撃になるものでもない。まあ、中国の指導部内部の問題や国民への対策と 言った意味もあるのだろう。
ただし、靖国神社問題は私たち日本人にとっては重要な問題である。大きく言えば、一つは憲法で保障する信教の自由にかかわる問題、もう一つはA級戦犯合祀 の問題である。
この点で、わかりやすい本が出ている。
・高橋哲哉『靖国問題』(ちくま新書 720円)
高橋氏については、前に『教育と国家』(講談社新書)を紹介した。哲学者である。
この高橋氏は、この本の結論として次のように述べる。
「「政教分離」を徹底することによって、「国家機関」としての靖国神社を名実ともに廃止すること。首相や天皇の参拝など国家と神社の癒着を完全に建つこ と。一 靖国神社の信教の自由を保障するのは当然であるが、合祀取り下げを求める内外の要求には靖国神社が応じること。それぞれの仕方で追悼したいという 遺族の権利を、自らの信教の自由の名に侵害することは許されない」
ほぼ賛成である。ただし、一の後半で癒着は絶つのは必要だが、参拝すること自体が癒着とはいえない。二の前半部分の合祀は、靖国神社の自由である。
「A級戦犯」ついて言うと、「A級」は国家の指導者であった人たちだったということであって、「B級・C級」という人たちより罪が重いということを表すわ けではない(この点から言えば、週刊誌の見出の「巨人低迷のA級戦犯」と言った言い方は適切ではない)。それにこのA級戦犯を裁いた東京裁判そのものを見 直す時期に来ている(私はきわめて悪質な裁判と見ている。ほとんど冤罪である)。もし、見直す必要もないというのなら、逆にいつまでもこの問題を引きずっ ていく必要もない。
私の考えもどこか間違っているかもしれない。他の意見を聞けば変わるかも知れない(この問題に関心を持ち始めて40年ほどになるが、何度も変わって来 た)。それほど白黒がはっきりできる問題なのではないのである。だからもっと議論が必要である。
そのような問題を、一つの国が一つの考えを押しつけてくる。これが「内政干渉」でなくて何であろうか。(ただ、国家の指導的的な立場の人が、「内政干渉 だ!」とか声高に言うべきどうかは別の問題である。戦略的に判断すべきではある)。


ひねくれ教育事典 【さ】
さっちゃん(サッちゃん) 最近亡くなった阪田寛夫氏の作詞による童謡。「さちこ」ていうんだホントはね。この童謡、なんとなく寂しい気持ちになるのはな ぜだろう。そういえば昔、ばんばひろふみという歌手が Sachiko と歌を歌っていた。この歌は寂しいというより悲しい歌だった。私は結構好きでカラ オケレパートリーの一つでもある。ただし、「さっちゃん」という女性とつきあったことはない。いや年をとったので忘れてしまったのかも知れない。「さびし いね、サッちゃん」。

05/5/27 (Fri)

昨日は「ひねくれ教育事典」で「形式陶冶」についてひねくれ書きをした。
実は「教育研究」というのは、それ自体が形式陶冶に傾く傾向がある。例えば、「心」「発達」「意欲」「思考力」「表現力」「発問」「指示」「発達」「一貫 カリキュラム」「評価」等々の教育研究の概念が、教育内容(教科内容)と無関係に枠組の問題としてだけ語られると、研究の関心が形式のみに向かってしまう (私はその傾向が強いので気をつけているのが)。しかし、逆に内容だけを重視して、上のような研究を否定してしまうような傾向もある。それは我が国の戦後 の教員養成論に根強く存在している。例えば「1つ教えるためにはその10倍知っておかなければならない」として、「教科を担当するにはその教科の内容(つ まり専門の諸科学)をしっかり勉強しておけばよい」という論である。現在の教育学部にもそのような論が展開されることがある。そこから教育研究そのものを 否定するような暴論も生まれてくる。
この内容と形式を統一させる役割を担った研究領域が教科教育学である。ただしそうやって威張れるところまで来ていない。


ひねくれ教育事典 【こ】 
こうくん(校訓) 学校の教育目標を簡潔にまとめて表示したものだが、どのくらい意味があるものかはわからない。例えば、「誠実」「努力」「礼儀」「健 康」などは、どの学校でも目標になるから、あえて校訓にすることはない。「校訓」というからにはその学校独特のものにしたらよいのだが、多分そんな校訓を つくると世間から批判がくるだろう。
「人をみたら泥棒と思え=安全」「受験では友達も敵だ=努力」「ながいものにはまかれろ=和」「赤信号みんなでわたれば恐くない=協調心」「歯磨きはしな い=個性豊かに」「規則は守らない=勇気」・・・・・

05/5/26 (Thu)

昨日研究室で昔の資料を整理していたら、20年ほどまえに授業のために作ったプリントが出てきた。高知大学時代のものである。そういえ ば若い頃はプリント作りが好きだった。とにかく毎時間毎時間たくさんのプリントを準備していた。馬力があったのだ。
そのプリント、一応ワープロで打ってある。よく見ると文字の種類も1種類(明朝だけ)、ポイントも1種類である。あと、タイトルや見出しのために、横倍 角、縦倍角、4倍角の文字が使われている。ただし、これらの倍角文字にはギザがついている(よく見ると標準の文字にもついている)。それでもワープロとい うのはありがたかったのである。私は知る人ぞ知る悪字人間である。だから、それ以前は電動和文タイプを使っていたくらいである。ワープロはその和文タイプ よりもはるかにはやいスピードで文字が打てるのである(手書きよりもはやい)。さらには保存することができる。簡単に修正することもできる。かくしてあっ という間にすべての文章をワープロで作成するようになってしまったのである。
その後、コンピュータでもソフトでワープロが使えるようになり、さらに便利になった。コピー&ペースト機能など、自由自在である。おそらく文章作成という 手間だけでも、手書き時代の何分の1かの時間ですむようになっただろう。コンピュータのその他の機能もあわせれば、研究の手間も相当縮小されているはず だ。だから、研究の速度も飛躍的に進歩しなければならないはずなのだが、少なくとも私個人に関しては進歩どころか、後退してしまった観がある。
最近、あるテーマで明治のことを調べている。その私の作業は遅々として進まないのだが、明治の人の知的生産力はすごいとつくづく思う。おそらく一人の人が 私なんぞの何百倍もの仕事をしているのではないか。便利さというのは人間をかえって怠け者にするだけなのかも知れない。


ひねくれ教育事典 【け】
けいしきとうや(形式陶冶) 学習の中身を問題にせずに、思考力とか想像力とか創造力とか記憶力とか表現力とか情報処理能力とか生きる力とか言った目に見 えない力をつけようとする主張がある。最近ではそれに情報処理能力というのも入るのかも知れない。しかし、私の経験では、そのような教育はほとんどうまく いかない。例えば「創造力を身につけさせるための音楽教育」などはだいたいインチキである。音楽の中身を軽視するのでうすっぱらいものになる。そういえ ば、どこかの大学の教育学部の目標は「児童生徒・成人に働きかけ、読みとり、働きかけ返す力をもつ教育の教育プロフェッションの養成」だそうだ。これもそ のまま行われれば形式陶冶なのだろうが、だれも本気でそんな教育をやる気はないので実害はない。

05/5/25 (Wed)

弘前市のある青森県の西部地方を「津軽地方」と呼ぶ。ただ、この「津軽」という呼び名は、「土佐」「伊予」と言った昔の国名ではない。 国名は西部東部と現岩手県も合わせて「陸奥(むつ)」と言った(現福島県から、東北地方の東側全体を「陸奥」と呼ぶこともある)。「津軽」というのは、江 戸時代にこの地を治めていた藩主の姓である。桜で全国的に有名な弘前城を建てたのもこの津軽氏である。
そんな、津軽藩の歴史をてっとり早く知る本がある。
・知坂元『卍の城の物語』路上社(2005年5月・1200円)
実はまんがである。知坂さんは、現在小学校の教頭先生である。10年ほど前に陸奥新報社から2冊組で出ていたのだが、このほど合本になった。
津軽家では、随分血なまぐさい事件が起こったことがよく分かる。また、切支丹に対してはずいぶん残酷な刑を行ったこともわかる。しかし、この本の良いとこ ろはそんな藩主たちを美化するでもなく、悪玉扱いするわけでもなく、淡々と描いていることだ。小学校の先生だから、子どもたちに判断してもらおうと言うと ころか。
今なら弘前の紀伊国屋に平積みしてある。ただ、全国では取り扱ってないらしい。



05/5/24 (Tue)

ずいぶん休んでしまった。休めば休むほど書くことがおっくうになる。それは論文でも同じである。
私は、どうも書き続けないとだめなようである。それで、書くことを再開することにする。

雑誌『文芸春秋』6月号の特集は「中国に告ぐ」。
石原慎太郎「北京五輪を断固ボイコットせよ」、中西輝政「日本企業よ、『黄河ののろい』から覚めよ」と威勢のいい記事が続く。昨年のサッカーアジア大会以 来の中国での反日行動、教科書、靖国問題での対応など、中国をとことんこきおろす記事になっている。
逆に朝日新聞社が出している『論座』6月号は「クール!に論じる憲法改正」。長谷部恭男『日本の立憲主義よどこへ行く?』など、護憲の立場の記事が続く。 しかし、長谷部の記事を例にすると、「ドン・キホーテ」(ディスカウントではなく小説)、「ハムレット」と行ったフィクションから憲法論をはじめるなど、 全体として論旨の不明な歯切れの悪い記事が目立つ。
私は、ナショナリスト(笑)だから、どちらかと言えば『文芸春秋』のほうが好きだ。「中国は民度が低い!」とつぶやいているほうがはるかに気持ちよいから である。しかし、自己分析するにこのナショナリズムは、安物の酒によるアルコール中毒のようなものである。このアルコールを抜いてよく考えてみると、民度 の低さでは日本だって相当なものである。
今パソコンを開いてみたらアダルトサイト、出会い系サイトから30本ほどのメールが来ていた(メッセージルールを使ってそれらを一つのフォルダに集め、一 括して削除するようにしているが、それでも追いつかない)。HPでメールアドレスを公開しているせいだろう。そしてそのメールをうっかり開いてHPを閲覧 でもしようものなら、正体不明の6万とかの請求が来たりする(もちろん無視する)。こういうことがはやるのは、だまされる人間がいるからだろう。
このところがひどい事故も続いている。4月のJR西日本の事故もひどかったが、一昨日には飲酒による事故が方々であった。小学生誘拐殺人事件や少女監禁事 件も頻繁に報道されている。
裏アダルト産業がおおはやりで、公共交通機関を命がけで使い、酔っぱらいが車を運転し、保護者はいつも子どもの安全を気にかけないといけないような国にい て、他国のことを「民度が低い」といばって言えたようなものではない。自分の中のナショナリズムに要注意である。

ひねくれ教育事典 【き】
きょうかしょ(教科書) 教科用図書の総称だが、日本の小中高等学校では、文部科学省の検定に合格した図書のみを教科書と言う。同じ教科の教科書を複数の 出版社が発行(小学校、中学校音楽は3社)するが、検定を受けるのでどれも似たり寄ったりのものになる。だから今問題になっている歴史教科書をとってみて も、それほど大騒ぎをするようなものではない。ナショナリズム中毒の人は、むしろ「えっ? こんなものなの?」と拍子抜けするのではないか。ほめるとして もけなすとしても、一度手にとって読んでみたほうがよい。

04/12/2 (Thu)

ふしづくりの山本弘先生、ご健在!!
うれしくなった。1970年代に、岐阜県で生まれ全国に広まったふしづくりの教育のリーダーの山本弘氏がご健在である。それも、ホームページを出しておら れる。
http://www.chiba-fjb.ac.jp/yamamoto/
1960・70年代、日本の音楽教育界は民間教育研究団体が、そしてすこしおくれて文部省が(考え方に少し違いはあるものの)、音楽教育方法の系統化を目 指していた。一言で言えば、読譜能力・記譜能力を含む音楽的な基礎能力を子どもたちにいかにつけていくかについて、関心が広まっていったのである。系統化 の考え方は、昭和43(1968)年版の学習指導要領に「基礎」という領域が導入されることによって、具体化される。民間教育研究団体が、コダーイなどの 外国の音楽教育の方法を応用しようとしたのに対し、ふしづくりの方法は日本の学校音楽教育の流儀をできるだけ壊さずに系統化をすすめようとしたものであっ た。そして教師に「熱心であれば誰でもできる」方法を提案した。私も、ふしづくりを導入した学校の授業を何度か参観したが、確実に子どもたちに音楽的能力 が身に付いていた。この岐阜県で「ふしづくり」を生み出したリーダーが山本弘氏である。
しかし、昭和52(1977)の学習指導要領で「基礎」が消え、「系統化」などいう考えはどこかに吹き飛んでしまった。民間教育研究団体からも「系統化」 の方針は消えた。それで、ふしづくりもまったく霧散してしまったかと思っていた。事実、ふしづくり関係の書籍がすべて絶版になっている。しかし、山本弘氏 はHPでがんばっている。法則化運動もこのふしづくりに注目しているようだ。復活のきざしである。それはとてもよいことである。

04/11/29 (Mon)

弘前では雪がふりはじめました。
トップページからリンク集の青森県ライブで映像を見ることができます。

04/11/28 (Sun)

本の装幀
講談社現代新書の装幀が大きく変わった(どう変わったかを知らない人は、インターネットで「講談社現代新書」を検索すればよい)。シンプルになったといお うか、味もそっけもなくなったと言おうか。私は、前のあのクリーム色のカバーがとても好きだったのだ。
新しい装幀者は中島英樹氏。今までは、杉浦康平氏+X氏。つまり本によって変わらない部分が杉浦氏で、すこしずつアレンジを加えるたのが別の装丁家であ る。以前は谷村彰彦氏、最近は佐藤篤司だった。講談社現代新書の場合、これまでは杉浦氏のデザインをベースにしながらも、一冊ごとに特徴のあるデザインを してきたということだ。講談社新書を持っている方はぜひ並べて見ていただきたい。それぞれの本に個性がある。この部分が、谷村氏と佐藤氏の仕事だったわけ である。それから見ると今回の装幀の変更は手抜き宣言である。コストダウンをねらったものであろうが、装幀をケチるとはせちがらい。その分、中身が充実す ることを期待したい。
ひょっとしたら、なんで装丁なのか思っていらっしゃるかもしれない。たかが装幀などとばかにしてはいけないのである。(不勉強なことに私は10年くらい前 まで「装丁」という言葉あることさえ知らなかった)。「装丁は文化を盛る器」とも言われ、これによって売れ行きも相当変わってくるのである。ちなみに私の 手元にある新書を並べてみる。
岩波(赤・青、黄、新赤)、講談社現代、講談社ブルーバックス、講談社α、中公、集英社、ちくま、文春、洋泉社、」凡社、新潮・・・まだまだある。それぞ れに特徴がある。この装幀だけで自己主張しているように見える。この中で私が一番気に入っているのは、間村俊一氏によるちくま新書である。一番ダメなのは 新潮新書である。いかにも安っぽい。装丁者を調べたら、新潮社装幀室となっていた。自前である(ケチるなよ)。
なお、装幀について関心がある方は次をお読みいただきたい。
・臼田捷治『装幀列伝』(平凡社新書・820円)
この平凡社新書の装幀は菊池信義氏である。交差点をイメージしているのか。私は好きだ。雰囲気が洋泉社新書yと似ていると思ったら同じ人だった。
ところで、私の専門領域の本をたくさん出しているM社とO社の装幀、何とかならないものか。

04/11/27 (Sat)

お笑い金正日
ちょっとおもしろいインターネットの記事を見つけた。北朝鮮の金正日には次のようなエピソードがあるそうだ。どれくらい音楽的にすぐれているかというエピ ソードである。
「ある日、書記(=金正日)は一芸術団の管弦楽レッスン場に立ち寄った。…ところがある箇所にいたって書記はコンダクターに演奏を中断するよう合図した。 演奏は中断された。書記は音程を誤った人がいるようだがどうかとたずねたが、コンダクターはまったく心当たりがなかった。書記は微笑して、その部分を演奏 しなおさせた。かれはやはり誤った音程を聞き分けることができなかった。権威あるコンダクターとして名のあるかれはすっかり当惑した。
かれの心情をさっした書記は、ある演奏家にその箇所を独奏するよううながした。満場の注意を集中させて当のメロディーが流れた。はたして誤りがあったが、 わずか半音の差だった」(『とわに輝く朝鮮の星』http://www.piks.or.tv/report/20030500b.htm)
すごい話である。何がすごいかというと、「半音の差」を「わずか」というのがすごい。その差に指揮者も芸術団の団員も気がつかないというのがすごい。そし てそれを金正日だけが気がついたところがすごい。また、練習を中断させられるというのもすごい。こういうことを本にするところがすごい。
いかにこの体制がおろかであるかを宣伝するようなものである(書いた人の身が心配になるくらいである)。
しかし、これを北朝鮮の話だけだと笑っているばかりではいけない。事実の捏(ねつ)造は私たちのまわりにもある。書いてもよいがあまりにも汚らわしいので やめる。


ひねくれ教育事典 【か】
かんじ(漢字) 書き取りテストをしたら47%しか正解できなかった教師のことが話題になっていた。笑い事ではない。何せワープロ時代である(とくに私は ほとんど文章はワープロを使うので、紙に漢字を書くことはほとんどない。手帳やノートくらいだが、人に見られることはないのでわからなければひらがなで書 く。板書でちょっと立ち往生することはある)。だからひょっとしたら30%しか書けないかもしれない。大学教員の評価に書き取りテストが導入されないこと を願う。そういえば、大学院生から「ぺこちゃんの絵をかけ」といわれた。あれだけ特徴がある顔なのだが、全然かけない。もちろん絵を見ればそれがぺこちゃ んだということはわかる。そのあと一度絵を見てかいてみた。うまくはないが、誰が見ても「ぺこちゃん」と分かるようにかけるようになった。手続きをきちん と頭に入れるともう書けるのである。漢字も同じような気がする。それで、まったく関係ない話だが、むかし「ぺこちゃんなぞなぞ」というしょうもないなぞな ぞがあった。
1 ぽこちゃんがぺこちゃんのうちに遊びに行ったら、ぺこちゃんがお風呂に入っていました。そこでぺこちゃんは大声で叫びました。何と言って叫んだでしょ う。
2 ぽこちゃんがころんでけがをしました。ぺこちゃんがお見舞いに行きました。「大丈夫?」。ぽこちゃんが答えました。何と言ってこたえたでしょう。
3 ぺこちゃんがころんで死んでしまいました。何でころんだだけで死んだのでしょう。
こたえはこちら

04/11/26 (Fri)

茨城県で家族殺人事件があいついで起こった。痛ましいことである。
テレビのワイドショーなどでは、さっそくその家族構成や容疑者の生育歴などが紹介され、評論家をはじめとする様々な人がこの事件についてコメントをはじめ ている。しかし、どこか変だ。例えば、昨日の事件ではまだ事件から1日もたっていないにもかかわらず、一つの単純化された家族像が形成されてしまってい る。「旧家で名門」、「きびしい父親」、「甘やかす母親」、「ひきこもりがちの息子」。そして、家庭環境だけがこのような惨劇を生み出したかのように描い ている。
どんな家庭でも、何らかの問題はあるはずである(完璧な子育てなどありえないのである)。また「ひきこもり」が凶暴な事件の引き金になるというわけでもな い。家庭環境だけでなく、さまざまな要因が複雑に絡んでいるはずである。ここで、報道から得られるだけの情報(というより印象)に基づいて、軽率な判断を するのは危険である。まずは、関係者のプライバシーが犯されないように十分に注意しながら多面的に情報を集め、それを専門家の目で丹念に分析し、このよう な事件が起こった原因を冷静に突き止めていくことが第一である。この事件をすぐに教育制度の在り方の問題に結びつけるような短絡的な思考は厳に慎むべきで ある。

04/11/25 (Thu)

一点突破全面展開
全共闘世代の人ならすぐ分かる言葉である(私は少しあとだが)。昨日、ある研究会で人の話を聞いていてふと思い出した。
目の前に大きな壁がある。しかし、どこかに突破口があるはずだ。そこを突破すれば必ず道は開ける。
学校の授業も同じである。時間的な壁がある。制度の壁がある。能力の壁がある(学習者・・・場合によっては指導者も)。そんなときには突破口を探すのであ る。音楽の授業の場合は、例えば合唱活動に一本にしぼる。あるいは日本音楽一本にしぼる。あるいは創作(例えば創造的音楽学習)一本にしぼる等々である。 活動がかたよっているからいけない・・・などと言ってはいけない。一点を突破した力は必ず他に転移するのである。これが一点突破全面展開の思想である。優 れた実践家は必ず、この突破口を持っているのである。「合唱の○○氏」「日本音楽の□□氏」「創造的音楽学習の△△氏」という具合である(この業界に詳し い人は○○、□□、△△にすぐ名前が入りますね)。
この一点突破全面展開の対極に位置するのが、網羅主義である。学習指導要領にそってそこに書かれてあることをバランスよく調和的に学習させようとする。そ うすれば、すべてを少しずつ網羅するしかない。しかし、逆に何もまともに身に付かないという危険性がつねに伴う。何よりもおもしろくもなんともない。教員 養成も同じである。特に時間の壁をどう乗り越えるのか。「一点突破全面展開」か「網羅主義」か。
私はどうしても「網羅主義」に陥ってしまう。本当に自分で確信をもてる「突破口」が見つからないからである。


「おねえさん」を「おねいさん」とわざと書いてある。インターネットで「おねいさん」で検索すると出るわ出るわ。どう違うのだろう。それで勝手に定義する ことにした。
・ふつうのおねえさんが「おねえさん」。ちょっとおしゃれなおねえさんが「おねいさん」
−−−−−という具合に言葉遊びができないものか。
・おちゃわんにもったお米が「ご飯」、お皿にもったお米が「ライス」
・ほんとに意識していないのが「何気なく」。意識していて意識していないように見せるのが「何げに」(さりげなく)
・ふつうの雑巾が「ぞうきん」。柄のついたぞうきんが「モップ」
・野球のチームはジャイアンツ。マーラーの交響曲はタイタン。
いくらでもできそうである。

04/11/24 (Wed)

メディア・リテラシー
テレビなどのメディアで映し出される音楽などで脚色された報道は、けっして事実そのものではない。むしろ事実を素材の一つにした「作品」である(この作品 を英語では"Media Text"と呼ぶことがある)。作品だから、当然製作者の意図がその中に込められる(非常に意図的、意識的である場合もあれば、ほとんど無意識の場合もあ る)。政治的意図、宗教的意図、商業的意図などである。
だからと言って私たちはこのメディアを捨てて生きていくことはできない(20代のころ、友人のすすめに従ってテレビを5年間家庭から追放したことがある。 だからと言ってよいことはなにもなかった)。新聞であろうと、週刊誌であろうと、インターネットであろうとやはりメディアの作品であり、そこに制作者の意 図が込められるのである。結局は、メディアの作品が作品であることを意識してそれらを批判的に見ていくことが重要であり、そのような能力がメディア・リテ ラシーである。
メディア・リテラシーを身につけさせるためにはどうすればよいか。メディアの否定的な面ばかりを強調すればよいかというとそうではない。それでは「メディ ア=悪」という認識が育ってしまう。私たちはメディアなしに生きることはできない。メディアを上手に楽しむことが重要なのである。このような「メディア= 悪」論に陥らないためには、まずはメディア製作の技術的な側面にまず注目させるべきである。例えばテレビであれば、それぞれの番組はどのようにして作ら れ、どのようにして私たちに送られて来るのか。番組のスタッフはどのような役割を果たしているのか。音楽はどのようにしてつけていくのか等々である。
その意味で、テレビ番組の中で音楽がどのような役割を果たしているかを学習することはとても重要である。


大相撲九州場所。横綱を目指す大関魁皇が白鵬に敗れ2敗目(白鵬が強すぎた。来年の今頃は横綱になっているかも知れない)。残念である。魁皇は、福岡県直 方市、直方第二中学校出身、実は私の後輩にあたる(20歳以上違うので、もちろん面識はない)。あと4日間なんとかふんばって、2敗のまま場所を終わって ほしい。しかし、無理だろうなあ。


ひねくれ教育事典 【お】
おしつけ(押しつけ) 押しつけることが一概に悪いのではない。「勉強」とは勉め強いること、つまり押しつけである。問題は、価値観、思想、趣味、嗜好な ど押しつけることなど不可能なことを「押しつけようとする」ことが問題なのである。押しつけようとして押しつけられないので、押しつけが成功したことを示 す証拠として、態度や行動を求めようとすることになる。つまり形式である。あらゆる形式主義は「押しつけようとする」ことから生まれるのである。とくに音 楽の教師が気をつけなければならないのは「音楽を愛好する心情」である。自然にこれが育つようにするのはいいのだが、いつのまにか押しつけをしていない か。それによって「音楽を愛好するふりをする」子どもが育っていないだろうか。

04/11/23 (Tue)

ワイドショーと音楽
今日は、勤労感謝の日。日頃、ワイドショーなどは見られない方も見ることができるかも知れない。このワイドショーを見ていただきたい。できれば、いっしょ にビデオに録画していただきたい。そこで報道される映像にくっつけられた音楽に注意してほしいのである。
イラク戦争、北朝鮮問題、奈良の少女殺人事件、皇室関係者の婚約、芸能人関係、スポーツ・・さまざまなトピックが紹介されるはずだが、その一つ一つの報道 のバックの音楽を注意して聴いていると、その使い方に特徴があることに気づくはずだ。できれば、別の局のも視聴していただきた。・・・あんまりかわらない ことに気づく。音楽はあおりの役割を果たしているのである。このあたり、メディアの流儀は変わらないのである。メディア独特の流儀である。
音楽はメディアの中で一体どんな役割をしているのかを考える。メディア・リテラシーの教育の一つでもある。


ひねくれ教育事典 【え】
えほん(絵本) 幼児期の子どもの発達とって欠かすことのできない道具の一つである。この絵本が成長するにしたがって、児童文学や科学読み物へと進んでい けばいいのだが、たいていはあらぬ方向へ進んでいく。ふつうの場合、絵本の次はまんがである。このまんがも中学生くらいで卒業すればよいのだが、大学生に なっても、さらには社会人になってもまんがを読んでいる人もいる(おまえだろう!)。まんがを卒業した人でも、最近は活字へとは行かず、写真週刊誌がとっ てかわることもある。困ったものである。

04/11/21 (Sun)

「世界人口白書」(日本語版)という冊子を読んだ。国連人口基金が出しているのだ。もともとは英文であったものを日本語訳したらしいの だが、この訳がひどい。
「1994年の国際人口開発会議(ICPD)の中心となる前提は、国の人口の規模、増加、年齢構成、地方と都市の分布がその国の開発の将来の見通し、特に 貧困層の生活水準の向上の見通しに重大な影響を与えるという考えであった。この考えを受けて、ICPDは「人口に対する関心を、あらゆるレベルの開発戦 略、計画、意思決定および資源配分に十分組み込むこと」を各国に要求した」
よく読めばなんとなくわからないこともないのだが、理解するのに苦労する。ちなみに原文はどうなっているか。UNFPAのHPに出ていた。
A central premise of the 1994 Cairo conference was the notion that the size, growth, age structure and rural urban distribution of country's populateion have a critical impact on its development prospects, and specifically on prospects for rasing the living standards of the poor. Reflecting this understanding, the ICPD called on countries to "fully integrate population concerns into development strategies, planning, decision-making and resource allocation at all levels".
私のような貧困な英語力しか持っていない人間でも、まだ英文のほうがわかりやすい。立派な装丁と紙質で100ページ以上ある冊子であるが、日本語版を最後 まで読む人はいないだろう。もう少し何とかならないものかと思うのだが、なかなか難しいのかもしれない。
こういう文書に限らず、やっぱり原文を読まなければいけないなあと思った次第。

04/11/20 (Sat)

今日は、推薦入学の試験。入学試験の第一弾である。

音痴(その2)
中学校時代にひどい「音痴」だったクラスメートがいた。どのくらい音痴かと言うと、ほとんど旋律になっていない。いわゆる一本調子なのである。かわいそう だった(私は、決して口にはださなかったが)。ところが、すごいことにこのクラスメート、歌が好きだったのだ。それで結構人前で歌うのである。当然けなさ れる。しかしけなされてもけなされても歌うのである。
卒業後5年ほどたったころあった。やっぱり音痴は直ってなかった。その頃、確信した。「音痴は直らない」
ところがである。先日中学校のクラスメートが10人ほど集まった。彼には30数年ぶりに会った。「○○君はほんとうに音痴だったなあ!」と私。「そうだそ うだ!」とみんな。「そんならカラオケやろう」ということで、カラオケスナックへ。まず○○君が歌う。えーーーーーーーーーーっ! 何と、音程が正し い!。その上うまいのである(私なんかよりはるかに)。とにかく場数をこなした歌である。よほどのことがない限り、好きでさえあれば「やればできる」ので ある(その証拠に、あの運動音痴の私が、フルマラソンを走ったのである。関係ないか)。
私は、このクラスメートを含めて、若い頃音痴だったのに今は正しい音程で歌える私と同年代の人を5人ほど知っている。いつかきちんと聞き取り調査をしてみ たいと思っている。研究上、貴重なデータになるからだ。

04/11/19 (Fri)

音痴
調子はずれ、いわゆる「音痴」について研究している若手の研究者と電話で話していて気がついたことがある。
学習指導要領には、「音痴」に関する記述が何もないのである。
例えば中学校学習指導要領には、「指導計画の作成と内容のとり扱い」の項に次のような一文がある。
「変声期について気付かせるとともに,変声期の生徒に対しては,心理的な面についても配慮し,適切な声域と声量によって歌わせるようにすること」
その若手の研究者は、これと同じような記述が「音痴」についてもあっていいと言うのである。もっともである。
しかし、それよりも不思議なことは、「音痴」の反対、つまり「音程を正しく歌う」ということがどこにも書かれていないのである。それどころか「気をつけて 歌う(学習指導要領にはこの記述が多い)すらないのである。強いて言えば、小学校の第1・2学年の目標に「互いの歌声や楽器の音,伴奏の響きを聴いて演奏 すること」があるが、これに「音程に気をつけて歌うこと」まで含めるのは無理がある。何か意図があるのか。
過去の学習指導要領では、昭和43年告示の小学校学習指導料に「リズムや音程を正しく歌うこと」という記述がある。つまり昭和52年告示の学習指導要領か らこの記述がなくなったのである。
そのせいではないのだろうが、ある研究者は「最近、子どもたちが音程に気をつけなくなった」といい、「ハンドサイン」を見直しているそうである。

04/11/18 (Thu)

私が所属している委員会が提案したカリキュラム案が教授会で可決した。やれやれというところである。基本方針がやっと通っただけで、こ れからまたこまかい作業が必要である。
私は、1976年に幼稚園教員を養成する短大に勤めて以来、1982年からは小中学校の教員養成、途中8年半の空白をおいて、また現在の小中学校教員の養 成に戻り、約20年間教員の養成に携わってきた。その間、いつも教員養成にふさわしいカリキュラムについて考えてきたような気がする。それを裏付けるよう な研究もそれなりに行ってきたつもりである。その意味では、教員養成カリキュラムのプロという自覚はある。
しかしである(最近この「しかしである」が多くなったような気がする)。このカリキュラムを変えることが、よい教員を養成するのにどれくらい貢献するかと いうと、あまりたいしたことはないのである。私の感覚では1%くらいである(1%でも変えないよりはましだと思うから変えるのである)。あとの99%は、 毎日行われている授業内容にかかっているのである。いや、もっと言えば授業内容そのものではなく、その授業内容が学生の生活をかえるかどうかにかかってい るのである。
小学校教師をめざす学生のことを考えてみる。各教科に関する専門科目は1教科あたり90分の授業が15回。教科教育法の授業も同じ。「音楽」だけで言え ば、90分が30回。これが4年間の間のすべてなのである。他の教科も、教職関係の科目も同じことである。ではどうすればよいのか。まさに自分で勉強する 学生にするしかないのである。私は次のような学生になってほしいと思っている。
・新聞を毎日読む(自分で購読する)。
・読書をする。月に10000円は本に費やす(他で生活を切りつめればよい)。
・自分の考えを文章で表現する。
・音楽、美術、体育などの技能を高めるための時間を1日1時間はもつ。
・できるだけ音楽、美術、演劇などの鑑賞をする。
こういう生活ができる学生になればよい。要は、よく勉強しろということなのである。こういう学生にさせるための授業が必要なのである。カリキュラムもこの ためにある。


報道によると、北朝鮮に動きがあるようだ。金正日の肖像画が撤去されたとか、敬意を表す修飾語が消えたというような報道がされている。あのような政権は北 朝鮮の人々自身の手で倒されるのが一番よい。それも平和的な手段で倒させるならなおよい。これからの報道が楽しみである。


9月末に、日本人の手ではじめて新しい元素が発見された(つくられた)というニュースが流れた。元素番号113ということだ。ほとんどの新聞で報道され た。ところがはずかしいことに私は見出しだけしか見ていなかったので大変重要なことを見落としていたのである。その研究プロジェクトの代表者は理化学研究 所に勤めている私のいとこだったのだ。最近になってインターネットできがついたのである。さっそくおいわいのメールを打った。
こ ちらをどうぞ

04/11/17 (Wed)

風邪がなおらない。・・・というわけで今日はお休み。

04/11/16 (Tue)

・・・で、とうとう風邪をひいてしまった。ここ数日、気温の変化がはげしすぎたせいか。眠れればいいのだが、鼻づまりで眠れなくてずっ と眼をさましていたら朝になってしまった。

昨日のメッセージを見た同僚から、「陳腐化現象」という言葉を教えてもらった。社会学で使われるそうだが、経済とか経営とかでも使われるようだ。
例えばコンピュータを使っているうちに痛んでしまったので新しいものに買い換える場合は、減価償却したというような言い方をする。しかし痛んでもいないの に、OSやアプリケーション・ソフトの進歩のために買い換えなければならない場合がある。こういう場合に陳腐化償却という。企業はこの陳腐化を計画的に 行っている。
これを音楽にあてはめるとどうなるか。ポピュラー音楽は、概して陳腐化の速度のはやい音楽と言えるだろう。そしてその陳腐化は音楽の送り手の側が計画的に つくりだしているのだろう。では古典や伝統音楽はどうか。ある人にとって陳腐化することはあるが社会全体では陳腐化しない(逆に社会全体にととってはとっ くに陳腐化しているがある人にとっては陳腐化していないとも言える)。陳腐化という概念で音楽の説明ができないだろうか。私が勉強していないだけで、音楽 社会学あたりではもう十分語り尽くされているのかもしれない。・・・・・・・そういう文献を知っている人がいたら教えてください。

別の同僚から叱られた。言われてみればその通りという気もする。私が大きな思い違いをしていたのかも知れない。ただ習慣を全体を変えないといけないので少 し労力がいる。


ひねくれ教育事典 【い】
いきるちから(生きる力) 現在の学校教育の目標を象徴的にあらわした言葉。しかし、実際の授業実践においては何も生きて働かない言葉。

04/11/15 (Mon)

モーツァルトの交響曲を5つまとめ聴きした。35「ハフナー」、36「リンツ」、38「プラハ」、39、40、41「ジュピター」。ど れも中学生、高校生の頃から好きだった曲である。つらいときには、いつもモーツァルトを聴くことで慰められ励まされしてきた(そんなロマンチストな少年 だったのだ!私は)。
ところがである。今、聴いても少しも心が動かされないのである。ただ、ちょっと耳に快い音が流れていくだけにしか感じないのである。なぜなのだろう。もち ろん音楽の感じ方は人それぞれに違うし、同じ人でもその身体・精神状態によってもちがうのは当然である。しかし、あまりにも違う。まるで不感症になってし まったように何も感じないのである。・・とは言っても、それはモーツァルトだけで、他の音楽に対する感じ方が大きく変わったわけではない。一体どうしてし まったのだろう。
一つだけ考えられる理由がある。モーツァルトはあまりにもイージーに使われすぎている。例えば、喫茶店、ホテルのロビーなどでは、かすかな音でモーツァル トが流れている。有線放送にもそんなチャンネルがあるらしい。テレビの皇室報道(昨日もあったなあ)バックで流れる音楽はたいていモーツァルトである(日 本の伝統音楽ではない)。どうも、モーツァルトの音楽とある生活場面との関係が知らず知らずのうちにできあがっているようだ。
考えてみると、小学校のころ給食の時間や掃除の時間には、レハールの「金と銀」とかマリーの「金婚式」が毎日毎日流れていた(鑑賞共通教材でもあった)。 そのため今でもこの曲を聴くと、あのまずいまずい脱脂粉乳の味を思い出してしまう。それによって何か低級な曲というイメージをもってしまっている。モーツ アルトにたいしてもイージーというイメージができてしまったのか。
そう考えてみると、BGMというのはありがた迷惑で罪つくりなものである。
・・・というようなことを考える鑑賞指導もあるかなあと思う。

04/11/14 (Sun)

居酒屋の教育談義がそのまま通ってしまうのは、政治の世界ばかりではない。大学でも同じことである。
それには理由がある。教育のことなどは、専門家でなくても誰でも語れるものだと思われているからだ。
第一に、誰でも教育現場を経験している。ただし学習する側としてである。大学まで行けば、16年にもわたる。
第二に、たいていの人は教育する経験をしている。子育て、つまり家庭教育である。一人の子どもでも20年の体験をつむことになる。
大学の場合は、これにもう一つ加わる。別に「教育学」関係の教員でなくても、自分自身が教師である。自分自身が教えてきた経験がある。
このような経験から、教育についていろいろ発言するようになる。それだけならまだ良いのであるが、そこから教育研究というものを軽視するようになる。
例えば、教育学部において教科教育の研究を軽んじる。小中学校の教師経験さえあれば教科教育は教えられると信じてこんでいる人がいる。また、自分の個人的 な経験だけでの教員養成カリキュラムについて語る。「小学校の教師には算数の能力が一番大切だ」などと言うことを正式の会議で臆面もなく主張する人がい る。こと教育に関しては、大学の中ですら居酒屋談義がまかり通る。
こうなるのは、もちろん教育研究者の責任もある。研究内容があまりにもタコツボ化して現実の教育からはかけ離れていること(少なくともそう見えること)、 教育研究者の教育活動がまずいこと(授業が学生にきわめて評判が悪かったりする。私もドツボにはまるように授業がうまくいかなくなることがある)、人格が ひどすぎること(「おまえだろう!」と言われそう)などである。気をひきしめよう。


ひねくれ教育事典 【あ】
あいさつ(挨拶) あいさつは人と人とのコミュニケーションの第一歩。人間関係の潤滑油である。朝は「おはようございます」。昼は「こんにちは」。帰りは 「さようなら」これだけで気持ちがよい。しかし、このあいさつも強制されるとおかしくなる。「俺にあいさつがない」とか「目上の人には必ずあいさつしろ」 とか、他人にあいさつを強制する人間がいる。あいさつが大切だと思ったら自分が積極的にすればよいだけだ。それに、あのコンビニの「いらっしゃいませ、こ んにちは!」という形式的なあいさつも気持ち悪い。それも、店内にいる店員がからいっせいに言われるとドキッとしてしまう。
ところで、弘大の学生は、教員に対してたいてい「お疲れさまです」という挨拶をする。やや違和感があるのだが、なぜだろう。
ついでに言うと、私はきちんとあいさつしようとこころがけているのだが、時々人のあいさつを無視することがあるらしい。それはたぶん考え事をすると自分の 殻の中に閉じこもってしまう(自分も気がつかないくらい)ところがあるからだと思う。気をつけてはいるのだが気がつかないうちにやっているようだ。それ で、不愉快な思いをした人がいたらごめんなさい。

04/11/13 (Sat)

ショートカット。コンピュータ上ではとても便利である。しかし、人間の思考までショートカットではこまる。今きわめて短絡的な思考で教 育改革がすすめられようとしている。
少年犯罪がおこると、「大変残念な事件があった。大切なのは教育だ。子供たちに命の大切さを教え、この国、この郷土のすばらしさを教えてゆくことが大切 だ」と発言する政治家がいる。そして、そこから愛国心教育を強調し、教育基本法の「改正」を主張する。つまり犯罪がおきるのは愛国心がないからだという ショートカットである。ほとんど居酒屋談義である。この愛国心教育、教育基本法「改正」の主張を徹底的に批判した本である。
・高橋哲哉『教育と国家』(講談社現代新書・720円)
高橋氏は主としてデリダを中心に研究している哲学者である。愛国心に対する高橋氏の考えは次の部分に集約されるだろう。
「もちろん愛国心をもちたいという人に、それを禁止する権利は誰にありません。(中略)それは「愛」なのですから、その愛を禁止するということは原理的に できないのです。国家からの強制ではなく、自分自身で愛国心をもちたいと言っている以上は否定することはできません。それを否定しまうと、思想・良心の自 由も否定しなければならないので、自己矛盾になってしまいます。
大切なのは、同時に、自分は愛国心をもちたくない、あるいはそういう教育を押しつけれれたくない人の自由権も認めるべきだということです。近代民主主義国 家においては、人々の愛を「これを愛せ」という形で法制化することは間違いです。何を愛するかは一人ひとりが決めることで、たとえ対象が何であったとして も、国家が、私が何をするかを強制することができるはずはないのです」
それはそうである。「愛」に限らず、人間の精神のあり方を強制することなどそもそも不可能なのである。そしてそれが不可能なことは強制しようとする側さえ わかっているのである。それがわかっているからこそ、そのような精神のあり方を具現化した「形」を求めることになるのである。例えば卒業式での醜悪な事態 はその典型的な例である。3月30日のこの欄で紹介した守口朗氏の文をもういちど引用する。
「保守強行派に牛耳られた一部の教育委員会は、ここに来て校長から決定権を取り上げ、国旗は壁にはれ、国歌は生演奏で斉唱させろ、起立しない教員は処分す るといいはじめた。私の知る最悪の例は、肢体不自由児のための養護学校で、それまで同一のフロア形式で行っていた卒業式を壇上方式に変更させたことだ。こ れにより多くの生徒が、自分の力で卒業証書を受け取る喜びを絶たれてしまった。−−−中略−−−教育委員会の役人が国歌斉唱時に国旗に尻を向けて「起立」 「斉唱」の実施率をチェックする姿を想像してほしい。かくも愚劣な行為が、「愛国心」の重要性をとく人たちの圧力により本当に起こっているのだ」(『授業 の復権』新潮新書)
愛国心をいくら強制しても教育がよくなることはない。形式主義がはびこるだけである(近頃の学校現場での息苦しさはこの形式主義によるものである。大学に も少しずつ形式主義がはびこってきた)。しかし、国家と個人の関係、すなわち個人の側から言えば国家とどう向かい合いその一員である国民としてどう生きて いくかということを冷静に考えることは重要である。それは決して精神のあり方ではなく、具体的な場面での意思決定のあり方の問題である。そういう意味で は、「国」「国家」「国民」等についての教育が不十分だったことも事実である。そういった議論は必要である。現在の教育改革を批判する人たちも代案を示す べきだろう。居酒屋談義で教育改革がすすめられてはならない。

04/11/12 (Fri)

・神山睦美『思考を鍛える論文入門』(ちくま新書・720円)
出たばかりの本である。この本の趣旨からはずれるが、おもしろい箇所を見つけた。
最初の方に、ある大学(?)の2001年の入学試験の小論文の問題が紹介されている。
[設問]なぜ人を殺してはいけないのか?この問いに答えがある人はその答えと理由を、答えがないと考える人もその理由を論理的に述べよ。(600字)
いろいろ考えさせられる。次のような解答をしたらどうなるのだろう。
------
この設問は悪問である。以下、その理由を述べる。
第一は、この設問に対して解答できない人が、少なくとも論理的には存在するからである。
この設問では、解答すべき人として「答えがある人」と「答えがないと考える人」を指定している。この二分法が間違っている。
「答えがある人」には「答えがない人」が対応しなければならない。逆に「答えがないと考える人」に対しては「答えがあると考える人」が対応しなければなら ない。「答えがある人」と「答えがあると考えている人」は同じか。また「答えがない人」と「答えがないと考えている人」は同じか。どちらも違う。
「答えがある人」を考えてみる。「答えがある人」は当然答えがあると考えるだろうから「答えがあると考える人」である。では「答えがない人」はどうか。 「答えがないと考える人」だけではなく「答えはあるはずだと考えるが答えがみつかっていない人」つまり「答えはあると考える人」でありかつ「答えがない 人」も存在する。つまり次の三種類の人が存在することになる。
a.答えはあると考えており答えがある人
b.答えはあると考えているが答えがない人
c.答えはないと考えている人(この人には当然答えがない)
bは解答する義務がないことになる。bが解答するとすれば次のように書く以外にない。
「私は答えがあると考えていますが、今のところ答えをみつけていないので解答できません」
bは常識的に考えても実際に存在する人である。世の中には「答えはあるはずだが答えがわからない」ことはいくらでもある。だから研究者という職業が成り立 つのである。
この設問が悪問である第二の理由は、悪文だからである。
「この問いに答えがある人はその答えと理由を、答えがないと考える人もその理由を論理的に述べよ」
この文を二つに分けて考えてみる。
A「この問いに答えがある人はその答えと理由を(論理的に)述べよ」
B「この問いに答えがないと考える人もその理由を論理的に述べよ」
文Aの「ある人は」を受けるのは、「論理的に」からか「述べよ」からかがあいまいである。この場合、「論理的に」の前に読点があったほうがよい。さらに 「考える人も」の「も」の使い方がおかしい。「も」は同一あるいは類似したものを指す助詞である。この答えがある人には「答えと理由」を求め、答えがない と考えている人には、「その理由」を求めている。この場合、「答えと理由」と「その理由(答えがないと考える理由)」は異質のものである。したがって「論 理的に述べよ」が同一ということになる。しかし、このような入試の問題では、論理的に述べなければならないのははじめからわかりきったことである。「同 一・類似」を強調する意味はない。両者に求めていることの違いを示すべきである。
「この問いに答えがある人はその答えと理由を、答えがないと考える人は答えがないと考える理由を、論理的に述べよ」
これでもおさまりわるい。もっとわかりやすくするためには次のようにする。
「この問いの答えがある人は、その答えと理由を論理的に述べよ。また答えがないと考える人は、答えがないと考える理由を論理的述べよ」
「論理的に」が重なって目障りだがもとの文だと、答えがないと考える人だけ「論理的に」述べないといけないようにもとれる。あいまいさは残さないほうがよ い。それでも第一の理由によって良問とはならない。bに属する人に対する設問を考えなければならないが難しい。
「答えがあると考えているが現在は答えが見つかっていない人は、答えがあると考える理由を論理的に述べよ」
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このような解答をした受験生がいたらおもしろい。
小論文の出題はこわい。出す側の論理性が問われるからである。なお、「なぜ人を殺してはいけないのか」については、前年に小浜逸郎氏の同名の本が出て、 ちょっとしたブームになった。また、柳美里氏もこれについて述べている。読書をしている人なら、朝飯前の問題であった。
・小浜逸郎『なぜ人を殺してはいけないのか』(洋泉社新書y・2000年・680円)
・柳美里『仮面の国』(新潮新書・2000年・438円)

04/11/11 (Thu)

一昨日、永井均『<子ども>のための哲学』のことを取り上げた。
その中に次のような下りがある。
「いま考えられているのは、A、B、C、D、の4人の男の子がいて、Bが<ぼく>であったのに、Bに何の変化もないまま、ただBが<ぼく>ではなくなっ て、単なる<ぼく>になってしまう、という状況だ。突然<ぼく>でなくなるということが考えにくければ、Bが<ぼく>である現状と、もともと<ぼく>では なかった仮想状況を対比しても同じことだ。もちろんそん場合でも、他の点では、Bに何の変化もない、と考えねばならない」
よくもこんなことを考えるものだ、哲学者とは何とひまな人間かなどと思っていたらちゃんとちゃかしが入る。
・勢古浩爾『思想なんかいらない生活』(ちくま新書・820円)
上の永井氏の文を引用したあと、勢古氏は次のように続ける。
「などと延々やられた日には、もうめんどうくさくてうんざりである。ところが永井はさらに「話をおもしろくするために、突然<ぼく>でなくなる方を考えて みよう」とひとりノリノリでグイグイ自説を開陳していくのだが、悪いことにちっとも「おもしろく」ならないのである。「ぼくはなぜ生まれたか」「ぼくがな ぜぼくなのか」「ぼくとは何か」。何度もいうが、こういう問いにとらわれるのは自由である。そのひとの勝手だ。だが、この問いは地の果てまでいっても、無 意味である。無意味であろうとなんであろうと、そういうことを考えずにはいられない人間がいるのだということはわかる。だがそれもまた無意味である。この 無意味の中に意味を読み込むことができないほどに無意味。ふつうの人間には、その無意味を意味あるように生きることさえできない」
そうなのだ。自分がめちゃくちゃに意味があり重要なことだと考えていることでも、「その無意味を意味あるように生きることさえできない」別の人がいるの だ。まあ、研究者全体に言えることなのだが、だいたいほとんどの人は、自分のやっているテーマがその分野の中では一番おもしろいものだし意味があるのだと 思っているはずだ。またそうでなければ、こんな仕事はやってはいられない(なんせ、わざわざみんながいやがる勉強を一生やろうというわけだから)。しか し、違う人から見れば、そんなことはどうでもよい・・・むしろほとんど大多数の人間にとってどうでもよいことなのだ(このサイトだって吉田はとってもすご いサイトだと自負しているのだが、インターネット世界全体から見れば、ゴミみたいなものである・・・という自覚はしている)。
明後日から日本音楽教育学会の大会が武蔵野音楽大学ではじまる。私は今回はパスする。大会の発表要旨のついたプログラムを見る。発表者は力みかえっている けど・・そんなことどうでもいいじゃない・・というものも(といっても何も発表もしない私よりはマシです)。
勢古氏の本はタイトルの過激さからか馬鹿売れしているようであるが、言い方が過激なだけで、主張は常識的すぎるくらい常識的である。代表的なのは次。
勢古浩爾『まれに見るバカ』(洋泉社新書y・2002年・720円)
※本の紹介のさいに値段をつけるのは、学生の皆さんを考慮してのことである。だいたい新書は定価は平均750円前後である。大学生協の書籍部で買えば、 もっと安くなる。ちょっとぜいたくな昼食1回分である。ほとんど躊躇なく買えるものを紹介している。

ひねくれ(ない)教育事典 【を】
をしへる(教へる) そうなのだ!おもろいことに、教育の「教」は旧仮名遣いでは「を」を使うのである。(ちっともおもしろくないってか?)

というわけで、ひねくれ教育事典は2巡目がおわり3巡目にはいる。
3巡目からは50音全部網羅するのはさすがに無理なので、とばしたり重複したりしながらすすめていく。
(このコーナーを本にしたいと言ってくる出版社がないこともないこともないこともないこともない)

04/11/10 (Wed)

今日はお休み・・・・

04/11/9 (Tue)

昨日のメッセージで映画監督の山田洋次氏のことを山田洋二氏と書いた。書きながらなんかおかしいと思いながら確かめなかった。呼び捨て よりも失礼なことかもしれない。
・・・という訳で今日は(も)手抜きである。

昨日、「ゴミのような論文」というのを話題にしたら、ずいぶん反響があった。紹介したいがかなり差し障りがあるのでやめる。
ただ「じゃあ、おまえのは文は何だ?」と言われたら困るなあと思った。それで「毒ガス」と答えることにした。

次のようなメールもいただいた。
「今日の吉田.comを読みながら、世界中で一番自分に自信の無いのはアメリカ人なのかなと思いました。
だから、呼び捨てにしたり、ちゃん付けで呼んで、「お友達」であることを確かめようとする。
テレビ業界もそう。やたら、ちゃん付けで呼ばれて、親しそうに言われる。なんか利用されてる気がする。
ほんとの友情って、どんな議論をして、戦っても、その後に残るものだと思う。「淋しいアメリカ」はこれからどこに行くのだろう・・・・
人類のために本当に心配である」
そう言えば、昔「ロン」「ヤス」と呼び合って喜んでた首相がいたなあ。私はアメリカが嫌いな訳ではない(相当な反米主義者だという噂もあるが、それは誤解 である)。なんせ、明治の学校教育の黎明期にも、戦後の教育改革の時にも、学校音楽教育はアメリカには本当にお世話になっているのである。そういうアメリ カとは全然違うアメリカが今あるような気がする。といっても、一言で言い尽くせないのがアメリカである。


ひねくれない教育事典 【わ】

わたし・わたくし(私) 私とは何か? 私はなぜ存在するのか? かなり難しい問いである。子どもころにちょっとだけ悩んだことがある。ある先輩から次の ように言われた。「おまえは吉田孝だ。なぜ存在するかというと、おまえの父ちゃんと母ちゃんがセックスしたからだ。そんなことをを考えるよりも大事なこと は、おまえがこれからどう生きていくかだ」。そう言われて納得してしまい、それ以上問うことをやめた。ところが、この問いをずっと持ち続けそれを明らかに することを仕事にまでしている人がいる。哲学者である。もっとも手近な入門書(と言ってもけっこう難しい)がある。前にも紹介したかもしれない。
・永井均『<子ども>のための哲学』(講談社現代新書・1996年・700円)
ついでに言えば「自分だけが存在し自分以外のものは(自分の心の中にしか)存在しない」という唯我論(独我論)についても書かれている。これも子どもの頃 とらわれた考えである。しかし考え続けるのが面倒なのでやめた。
哲学者とは子どもときにもった素朴な問いをずっと持ち続ける人なのである。それが私(って何?)のような凡人とは違うところなのである。
そういえば私の身近な同僚も哲学を基盤に研究をしているのだが、毎日子どもみたいな嘘をついて喜んでいる純朴な人である。
という訳で「私とは何か?」と言われても何も答えられない私である。

04/11/8 (Mon)

ある学会のニュースレターに、国際的なリサーチセミナーに出席した会員の報告が掲載されていた。こういう国際的なセミナーの報告ができ る語学力と研究力をもった人はうらやましい。「だから、どうした」と言いたいような内容のものもたくさんあるにはあるが...。それは別としてその報告を 呼んで驚いたことがある。そこで発表した外国の研究者が皆ファースト・ネームで紹介されていたのである。中には愛称で呼ばれていた人もいる。 Robert→Bob と言う具合だ。お互いに仲間意識があるのだろうし、国際的な研究仲間の間ではそれが常識なのだろう。しかし、典型的な井の中の蛙である私なぞは、目を白黒 させるしかなかった(実際に白黒していたかどうかは鏡を見ていないのでわからない)。
ただ、私はそんなところには参加しないからいいのだが、もしそのような習慣が国内の学会にもちこまれたら困惑するだろう。学会の会長を捕まえて「ヒロ」と か、前会長をつかまえて「文ちゃん」とは酒席でも言えない。私はどれだけ親しい人でも公式の席では「○○先生」「○○さん(だいぶ親しい人の場合)」、文 書では生存している人は「○○氏」(亡くなった方に氏をつけるのはいけないそうだ)と呼ぶ。年下でも同業者に「○○君」と呼ぶことはない。まあ、他人に強 要する気はないが、自分は自分なりの一つの筋の通った言い方をしようと思う。筋の通った言い方というのは、年齢や社会的地位の違いによって呼称を変えたり しないということである。
ちなみに、映画の「寅さん」役の故渥美清さん、「さくら」役の倍賞千恵子氏、監督の山田洋二氏は、台本を離れればおたがいに「渥美さん」「倍賞さん」「山 田さん」と呼び合っていたそうである(何かの本に載っていたはずなのだが出典が出てこない)。とてもいいなあと思う。


ひねくれ教育事典 【ろ】
ろんぶん(論文) 研究者の評価はこの数と質で決まると言ってよい。大学の教員に採用される場合も、昇任する場合もこの論文がモノを言う。ただし、我が教 育系の論文には、教育の改善にも学問の発展にも役に立たないものもある(というよりほとんどがそうである)。いわばゴミのような論文である。ゴミかどうか は1行読めばわかるので、すぐ読むのをやめる(さすがにゴミ箱にはすてない)。その証拠に、他人の論文をすみからすみまで丁寧に読んだという人の話をあま り聞いたことがない。もし読むとすれば批判論文でも書こうと思った場合である。当然、学会誌に掲載された論文の中にもゴミはたくさんある。具体的に例をあ げろと言われればあげてもよいが血を見そうなのでやめる。こんなことを書くと「喧嘩売ってるのか」といわれそうであるが、実は売っているのである。

04/11/7 (Sun)

小学校・中学校・高校を通して、意思決定の方法の一つとして多数決を学んできた。対立する意見があれば多数決をするのが当たり前のこと だと教えられてきた。だから、大人社会でも当然そうするものだと思ってきた。ところが、実際は違う。会議で多数決を取ることなどまずないのである。全員が 合意することが建前なのである。
私の所属する学部内のある委員会(A委・私も所属している)が、学部全体のことを決定していく委員会(B委)にある提案をした。そのB委ではA委の案にい ろいろ意見は出たが了承された(とオブザーバー出席していた私はそう思っていた)。ところが、次のB委員会(私は出ていない)で前回都合で欠席していたD 委員が猛烈に反対し、結局B委員会はA委員会に提案を差し戻してきた。私はその後、D委員と顔を合わせたときに「ひどいじゃないですか」と抗議をしたら、 D委員は「私だけではなくB委員会の半分くらいは反対だった」と言われる。半分くらい反対者がいればこれはもう否決されるはずなのだが、そうはなっていな い。反対者が半分もいるなら前回そんな意見が出ているはずである。嘘とは言わないがその場の雰囲気からくる思いこみで言っているのである。多数決をしてい ないのだからそんなことはわかるわけがない。
私は徹底抗戦を考えたのだが、A委員会は委員長はじめ穏やかな方ばかりなので、A委員会では差し戻しの意見にはしたがおうということになり、これ以上譲れ ないという線まで大幅譲歩して再提案した。
しかし、それでもB委員会ではさらに意見が出たのである。つまり委員会として大幅譲歩した案をさらにもっと譲歩せよと迫る委員がいたのである。中には今回 の提案の前提までこわすような(私のような教員養成学部で生きてきた人間から言えば「アナーキー」としか言いようのない)意見まで出たのである(その会議 では言えなかったが、今度会ったら必ずやっつけてやるから覚悟しとけ!プンプン!)。こうなるともう突っぱねるしかない。「私たたちにそういう考えはな い」と突っぱねた。それでも反対なら勝手にしてくれという気持ちである。実はその前にもう一人のA委の委員と「これが通らないなら辞任しよう」と打ち合わ せていたのである。そのせいもあってかなんとか「合意」が形成された。しかし、これは第一段階である。教授会がある。
こういうふうに混乱するのはなぜか。声の大きな人には実は責任はない。このような決め方をする限り最後まで主張し続けるのはある意味では当たり前のことで ある。その大きな原因は、多数決をとらないことにある。大学の会議では、意思決定はほとんど「合意」という形をとる。「合意」をするまで議論することがよ いことだとされる。そうすると声の大きな少数者は徹底抗戦することになる(私も時と場合によってはこの戦術を使う)。結局提案したほうは譲歩するしかな い。結局声の大きな少数派の意見が採り入れられることになる。
しかし、これはきわめておかしな方法である。つまり多数決をせず合意をはかろうというのは、少数意見は存在することすら認めないという理念である。逆に声 が大ききれば少数意見でさえ全体の決定になってしまうのである。
きちんと決定のルールを確立すべきである。国会と同じでよいのである。
・意見が対立したら多数決で決める。
・提案の一部に反対なら、文の形で修正案を出す。
・多数決で負けたら、潔く多数に従う。
これでよいのだ・・・
ただ、大学は法人化で自らのことを自らで決めることがきわめて少なくなってきた。こういう議論そのものが意味がなくなるのがこわい。


ひねくれ教育事典 【れ】
れきし(歴史) 自分の負って立つ世界観によって、見え方のまったく異なってくるもの。それは単に、ある現象をどう見るかということにとどまらず、現象そ のものが存在したかどうかというところまで異なってくるのである。例えば、日中戦争が勃発した1937年に中国国民政府の首都南京でおきたとされるあの事 件である。ある人たちは「南京大虐殺」と呼ぶ。しかし、別のある人たちは「そのような事件はなかった。それはまぼろしにすぎない」と言う。そしてまたある 人たちは、事件はあったが「大虐殺と言えるものではなく戦争のなかでは通常におこりえるものだった」という。これらをそれぞれ「虐殺派」「まぼろし派」 「中間派」と言う。このような異なった見え方が存在する場合、教育の世界では結局それぞれの見方を認め、判断は学習者にゆだねるべきだとおもうのだが、そ う簡単にいかないのが教育界である。どう難しいかについては・・・歴史教育の専門家に聞いてくださいよ。なお、この南京事件については、次の本を参照され たし。
・北村稔『「南京事件」の探求 その実像をもとめて』(文春新書・2001年・680円)

04/11/6 (Sat)

政治の話を書くのはHPの趣旨ともメールマガジンの趣旨とも異なる。そして何よりも気が重たい。同じ考えではない人たちも読むだろうか ら、反発がこわい。友達を失うこともあるかも知れない。それに「吉田は考えがクルクルかわる」と言われるのもいやである。しかし、情報が錯綜しめまぐるし く動く世界の中で、何もかわらず一つの考えを持ち続けるのはかえって異常である。やはりその時々の自分の考え方は残しておきたい。という訳で、昨日の続き を書く。

少し古い本(2002年)で、またそこからの孫引きで恐縮である。小浜逸郎著『人はなぜ働かなければならないのか』(洋泉社新書y・740円)に入江隆則 氏の一文(『正論』2004年4月号)が紹介されている。
「9月11日のテロと、それに続いて起こったアメリカ軍のアフガニスタンへの侵攻をどう受け取るかに関しては、結局四つの立場しかないということである。 テロと報復戦争の両方を否定するか、両方を肯定するか、それともどちらか一方を否定して、他方を肯定するかの四つしかないのである。(中略)そうするとテ ロと報復戦争の両方を肯定するのはたぶん「狂人」であろうが、その両方を否定するのが「傍観者」で、腐りきっている時代がテロを生み出したとしてテロルに 共鳴するのが「だだっ子」だということになる。これに対して、より重大な殺人としてのテロを防ぐために、より軽微な殺人をしての戦争をいとわないのが「治 者」であり、日本が世界統治にいささかなりとも責任を持とうとするならば、日米同盟のよしみを重んずるのはいうまでもないし、またアメリカの支える平和と 繁栄に日本が依存している事実を考慮しつつ、とにかく「治者」を選択するしかないという簡明ではあっても、厳粛な結論が出ることになる」(ここまでが孫引 きの入江氏の文)
この一文について小浜氏は次のように補足する。
「戦争がテロに比べて「より軽微な殺人」であるかは、議論の分かれるところだろうが、これは、橋爪大三郎が「読売新聞」2002年1月18日付夕刊で提出 した、いろいろな殺人に対する「罪の重さ」についてプロテスタントの考え方を援用したものである。ここでは、結果的な被害の大きさとしての「重大・軽微」 ではなく、「軍人どうしが任務で殺し合う」ものとしての戦争概念と、「無関係な人を大勢、意図的に殺す」テロ概念とを純粋に比較のテーブルに載せた上での 議論が前提となっている。入江のこの提言がもつ重要なインプリケーションは、知識人が現下の国際問題について発言する時には、「だだっ子」や「傍観者」の 位置に立たず、常に責任ある「知者」の立場に立ってものを言えということである。私もこの考え方にまったく共感する」
この入江氏や小浜氏の発言は日本の保守派を代表する発言であろう。私も、この本が発売された2002年の時点ではこの考え方にほぼ近かった(9.11に対 するショックも大きかった)。そして少なくともアフガニスタン侵攻までは、世論もこの立場を支持した。
しかし、戦争がアフガニスタンからイラクに移行するにしたがって、この入江氏の論理が通用しなくなってきた(入江氏が、イラク戦争にまでこの論理を援用し ているかどうかは私は知らない)。
第一は、イラクにおいては「より重大な殺人としてのテロを防ぐ」という言い分が通用しないことである。むしろ事実は反対で、テロをさらに誘発し拡大させて いるのである。
第二は、戦争を「より軽微な殺人」であると言えないことである。少なくとも数の上ではより重大な殺人が戦争によって行われているのである。
なお、「軍人どうしが任務で殺し合う」戦争と「無関係な人を大勢、意図的に殺す」テロを概念として比較するのは詭弁(または強弁)にすぎない(橋爪氏の文 も検討しなければならないと思っている)。戦争はだれかが意思決定をしなければおきないのである。そして戦争をすれば無関係な人が大勢死ぬことは自明のこ となのである。したがって戦争も「無関係な人を大勢、意図的に殺す」ことにはかわりないのである。戦争もテロも概念とし捉えるのでなく、そこでおきる被害 の大きさを問題にすべきなのである。概念としてテロを捉えれば、「弱者の強者に対する最後の抵抗の手段」と言うような概念規定も成り立ちうる。また、「弱 者の犠牲のもとに豊かな生活を送っている人々」と言えば日本人さえ「無関係」とは言えなくなり、日本人に対する無差別テロさえ容認されることになってく る。戦争についてもテロについても、そこで起こっている事柄について個別に見ていくべきなのである。
もちろんテロは容認しない。また、戦争がいかなる場合にも悪だとも言わない。しかしまず戦争を避ける道を第一に考えるべきなのである。政治は戦争をするた めにあるのではなく、戦争を避けるためにあるのである。そしてそのような道を追求すべきなのである。それが「治者」の立場である。
現在の日本の保守派のアメリカへの追随の姿勢は「知者」の立場とは言えない。むしろ「日米同盟のよしみ」を重んじ、また「アメリカの支える平和と繁栄」に 甘んじてすべてを受け入れる「傍観者」の立場である。

04/11/5 (Fri)

米大統領選挙でブッシュが再選された。アメリカ国民はこれまでのブッシュの政策を支持したということになる。ただし、それは世界がブッ シュを容認したことにはならないし、イラク政策をはじめとするブッシュの政策が正しいことが証明された訳ではない。アメリカのイラク攻撃の大義が壊れるに つれて、ブッシュをシンボルとする米の一勢力、そしてブッシュ政権に対して異常なまでに追随して、自衛隊を派兵した日本の小泉政権も、近いうちに窮地に追 い込まれるであろう。
私は、自衛隊の海外派遣にいかなる場合にも強行に反対するという立場にはない。国際貢献、平和維持のために軍事力を伴う舞台が海外に出ることが必要な場合 も起こり得るであろう。もちろんそれに伴う危険性も覚悟しなければならない。そういう意味では憲法についての議論を含んだ法の整備も必要である。
しかし、現在のイラクの自衛隊派兵には何の道理もない。ブッシュの嘘がどれだけ明らかになってきても、ブッシュ政権に追随することを「国益」として、さま ざな議論を封じるやり方を容認することはとうていできない。ブッシュをシンボルとする一勢力のためだけに日本国民が犠牲になることのないように願う。


ひねくれ教育事典 【る】
ルーズソックス 1994年頃から流行しはじめた女子高校生のファッション。ただ、ソックスをルーズにはいているのかというとそうではない。まず、ルー ズ・ソックスというソックスが存在するのである。そしてそれをはくにはおちないよう留めておくためのテープあるいはのりが必要なのである(たいていはのり で留めるらしい)。そして、ルーズソックスと一言で言っても、さらには時代によって「ゴム抜きルーズ」とか「ウルトラルーズ」などというように変化がある そうである。私たちオヤジはそれにずいぶん顔をしかめたものだが、別に何も心配することはなかった。卒業して社会人にたってまで、あるいは大学に進学して までルーズソックスをはき続ける者はいなかった。それに、ルーズソックスをはいた男子高校生もいなかった(^^; しかしルーズにズボンをはいた男子高校 生は今でもいる。よく見ると裾がほころびている。そして社会人になっても、大学生になってもルーズにズボンをはいている者がいる。そういう意味では、女の ほうが男よりもずいぶん成長がはやいような気がする。

04/11/3 (Wed)

九州に行って来た。久しぶりに(30数年ぶり)に中学校の担任のS先生や10名の同級生と会うことができた。先生はもう米寿を迎えられ たということ
だがお元気そうだった。こうなったらもう百歳まで生きていただきたいと思った。

九州で印象に残ったのは、JR九州を走る電車の美しさである。私が育った直方を走る筑豊線(愛称福北ゆたか線)は電化され、817系という窓の広い電車が 走っていた。この電車に直方から博多まで乗った。この電車は特に中が美しかった。また、博多から佐賀まで「白いかもめ号(880系)」に乗ったが、こちら は外見も中も美しく快適だった。

九州行きの目的地は佐賀である。高校の授業を一時間見せていただいた。しっとりした雰囲気のいい授業だった。教師の指示、説明をきちんと受け止め、誰一人 脱線もせず、しかも明るく授業を受けている。担当されている音楽の先生、そして学校全体がよく生徒たちを育てているのだなと感じた。


昨日九州から戻った。今回は全部列車である。佐賀から、「みどり」「のぞみ」「はやて」「つがる」を乗り継いで弘前まで帰ってきた。12時間である。さす がに疲れたが本がしっかりよめた。
・中島義道『続・ウイーン愛憎』(中公新書・740円)
笑わない哲学者(吉田が勝手につけた愛称)、中島義道氏の新刊。この本は、その前編である『ウイーン愛憎』(中公新書、1990年、720円)と合わせて 読まなければ、意味がない。それに前編のほうがはるかにおもしろい。
ヨーロッパで暮らす日本人の多くは、高飛車なヨーロッパ人社会の中では、彼らの文化や習慣に卑屈に同化して静かに暮らしていくしかない。少々のことはじっ と耐えるのみである。しかし、中島青年はそうせずに、理不尽な言動に対しては断固戦うという姿勢に出る。そのためにどのような仕打ちを受けることになるの か。