06/9/7 (Thu) 音楽活動と音楽学習(その3)
学習指導要領の目標である「表現及び及び鑑賞の活動を通して」に関して、小学校学習指導要領解説(音楽編)には次のように記されている。
「『活動を通して』とは、指導しようとする内容を単なる知識として理解させようとしたり、技能の機械的な訓練のみにとらわれたりすることなく、音楽を伸び伸びと表現したり、音楽を聴いて心を引かれたりするなど、児童一人一人が感性を豊かに働かせながら、楽しい音楽活動を展開していくことの重要性を述べたものである」
つまり、「知識として理解」することや「技能の訓練」を否定するのである。
(この場合「単なる」や「機械的」と言う形容語には、「単なる」ではない知識や「機械的」でない訓練がどのようなものかを示さない限り意味がない。「指導する内容を知識として理解」「技能の訓練」と読んでも意味がかわらない。例えば「単に教育技術を身につけるだけではいけない」と言う人は教育技術そのものを否定している場合が多い)
では、活動だけをすればよいのかというと、「活動あって学習なし」(これは前教科調査官がほうぼうに書いている言葉である)になってしまうので、「活動を通して・・・する」ということになる。そのためには、表現や鑑賞の活動を教師がコントロールすることことになる。
それが、Cの「コントロールされた音楽活動」である。
現在の学習指導要領はこのような学習観によって成り立っていることになる。
06/7/14 (Fri) 音楽活動と音楽学習(その2)
A 音楽学習=音楽活動
B 音楽学習=音楽活動とは独立した活動
C 音楽学習=コントロールされた音楽活動
このモデルのうち、どの学習を重視するかによって、学習観が明らかになる。
Aの学習を重視するのは、いわば体験を重視の学習観である。理屈抜きにできるだけ豊かな音楽活動を重視する学習観である。
Bの学習を重視するのは、技術中心の学習観である。音楽的な能力を獲得するには、音楽活動とは独立した技能の訓練や理論の学習が不可欠だという学習観である。
かつて、民間教育研究運動では、このAの音楽学習とBの音楽学習の両者を平行して行ういわゆる「二本立て方式」が主張されたことがある。
また、学習指導要領でも、「鑑賞」「歌唱」「器楽」「創作」に並べて、「基礎」という領域が設定されたことがある。これも二本立ての一種と捉えることができるだろう。
このBという活動は現在では、『小学校音楽科学習指導要領解説』で否定されている。(つづく)
06/7/11 (Tue) 音楽活動と音楽学習(その1)
現行の小学校学習指導要領音楽科の目標は次のようになっている。
「表現及び鑑賞の活動を通して、音楽を愛好する心情と音楽に対する感性を育てるとともに、音楽活動の基礎的な能力を培い、豊かな情操を養う」
「表現及び鑑賞の活動を通して」は「音楽活動」と呼ぶことにする。この「音楽活動」と「音楽学習」の関連について、整理し直してみる。
音楽活動との関連から音楽学習を考えてみると、次のような次のような3つのモデルができあがる。
A 音楽学習=音楽活動
B 音楽学習=音楽活動とは独立した活動
C 音楽学習=コントロールされた音楽活動
Aは、豊かな音楽活動の体験をさせることを中心した音楽学習である。
Bは、音楽学習を日常の音楽活動とは独立させる音楽学習である。知識の理解や技能の訓練を中心とした音楽学習である。
Cは、音楽活動を教師がコントロールすることによって学習の目標を達成しようとする音楽学習である。(続く)
05/12/2 (Fri) 東川清一『読譜力 伝統的な「移動ド」教育システムに学ぶ』(音楽之友社・2005・1800円)
1979年の唱法論争以来、長きにわたって一貫して「移動ド」を主張してこられた東川氏の著作である。
10月はじめに出版された本で、私は10月末の学会で関連した内容について発表したのだが、この本については時間がなくて対応できなかった。
今読んで見て、やはり無理してでも対応したほうがよかったと思っている。
私は、東川氏の著作から多くのことを学ばせてもらってきた。また直接教えていただいたこともある。本の内容については全体として支持できる。私自身は器楽ですら移動ドでできる。例えばCONCENE50番練習曲をピアノ伴奏しながら階名(もちろん移動ドのことである)で歌うことができる(途中でつっかかるがそれは移動ドで読むからではない。指が老朽化しているせいである)。そのくらいでなければ気持ちが悪いという移動ド実践者でもある。そしてこの移動ドを21世紀に残したいと思っている。
ただ、東川氏の主張に全面的には賛成できない部分がある。それは次の3点にわたる。
(1)学習指導要領に対する認識の誤り−−−カリキュラムの問題
(2)移動ドと「純正な音程」を結びつけること−−−音楽理論の問題
(3)階名の精神的効果の強調(ハンドサインなど)−−−教育方法上の問題
これから少しずつ書いていく。
05/6/18 (Sat) 奇妙な理論
奇妙な論文をインターネットで見つけた。「ハイテク音楽教育」で有名な鈴木寛氏が、雑誌連載中の「SML理論による音楽教育とハイテク」という論文をご自分のHPで公開されている。http://www.art.hyogo-u.ac.jp/hrsuzuki/Jindex1.html「その14」の「ドはど?(その3)」である。
階名「ドレミ」の起源と言われる「聖ヨハネの賛歌」について次のように書かれてる。
「このドリアと呼ばれる教会旋法で、書かれた「聖ヨハネの賛歌」はいわば二短調だったのでその終止音は現代風に言えば【ラ】の音でこの曲の主音であり、出だしのUtは現代風に言えば【ソ】の音で実は【ド】という主音ではないのです。このことは「聖ヨハネの賛歌」こそが移動ドの元祖であったという説を覆してしまいます」
さらに、次のように書かれている。
「要するに「音名」と「階名」の混同の歴史は10世紀にまでさかのぼることができるのです」
これはどういう意味か。
まず、「聖ヨハネの賛歌」が「ドリア」旋法であるとするなら、主音はレである。この曲の最後の音をレと読めば、出だしのUtは現代でいう【ド】である。鈴木氏の勘違いだろう。しかし大きな問題ではない。重要なことは、終止音は【ド】でなければならないと考えていらっしゃることだ。だから、「聖ヨハネの賛歌」の主音は【ド】すなわち当時でいう【Ut】でないから、聖ヨハネの賛歌が移動ドの元祖ではないという訳だ。
これは、階名ドレミに対する大きな誤解に基づいている。そもそも、Ut Re Mi Fa Sol La はどのように使われたのか。当時の聖歌でつかわれた音を現代のドイツ音名であらわす。
G A H C D E F G A B(またはH)C D E F G ・・・・・・
これらの音をUt Re Mi Fa Sol La のシラブルで表すとすれば、当然読み替えをしなければならなくなる。その場合、次の三種類の読み方をする。
(1)CをUtと読み C-Ut D-Re E-Mi F-Fa G-Sol A-La
(2)GをUtと読み G-Ut A-Re H-Mi C-Fa D-Sol E-La
(3)FをUtと読み F-Ut G-Re A-Mi B-Fa C-Sol D-La
三種類の読み方が必要な理由は2つである。
(1)6つのシラブルからはみだす音が出てくるため。
(2) Bを使う場合とHを使う場合を区別するため。
重要なことは、どんな場合にもMi-Faが半音程になるように読んでいたことである。つまり、このUt Re Mi Fa Sol La は音程感覚を身につけるための道具であって、Utが主音であることを示すための道具ではなかったのである。
最後に鈴木氏は次のように書かれている。
「【ド】は音名ではなく【階名】であり、【ド】は【主音】であることをきちんと教えられる教師こそが今必要なのです」
つまり鈴木氏の「【ド】は【主音】」から言えば、聖ヨハネの賛歌が移動ドの元祖という説は覆る。しかし、逆に言えば、階名「ドレミ」が歴史的に見ても、主音との関係を表すのではなく、音程を表す名称であることがますます明らかになるのである。
ただ、注意しなければならないことは、Utは移動したのだが、現代の階名のように、あらゆる音にUtが移動していたわけでない。上に示したように三種類の使い方しかなかったのである。そして、読替えをしなければならない弟1の理由、すなわち6音からはみ出す場合の問題を解決すれば(Siの導入)、二種類の読み方だけで十分になる。このことは、Ut Re Mi がはじめから一つの読み方に統一される危険性を孕んでいたとも言えるのである。そしてその危険性は、フランスやイタリアで現実のものとなったし、我が国でもほぼ現実のものとなっているのである。そういう意味では鈴木氏の言われるのとは別の意味で、階名と音名の混乱は10世紀にまでさかのぼることができるのかも知れない。
05/5/29 (Sun) 音程の合理的な考え方
10年ほど前、音程をてっとりはやく説明する方法がないかと思って次のようなことを考えた。
(1)完全五度の積み重ねだけですべての音程を定義する。(例 5度+5度→9度)
(2)オクターブを超える複合音程はすべて単純音程と考える。(例 9度→2度)
(3)基準となる音より低い音は、転回して高い音と考える。(例 −5度→4度)
ということを前提として音程を次のように定義するのである。
基準音を0とし、それよりも完全五度高い音を1Qとし、さらに完全五度を積み重ねてできる音を2Q、3Q、4Q・・・とするとそれらの音と基準音との音程は次のようになる。
0→完全1度
1Q→完全5度
2Q→長2度
3Q→長6度
4Q→長3度
5Q→長7度
6Q→増4度
7Q→増1度
以下、Q12まで増音程
13Q→重増4度
以下、+19Qまで重増音程
以下、重重増、重々々増音程と、理論的には無限に音程を導き出すことができる(ただし、現在の五線譜に書き出すのは不可能にはなる)
逆に五度を−(マイナス)方向に積み重ねていくと(完全4度を積み重ねていくのと同じ)
−1Q→完全4度
−2Q→短7度
−3Q→短3度
−4Q→短6度
−5Q→短2度
−6Q→減5度
−7Q→減1度(減8度)
以下−12Qまで減音程
−13Q〜−19Qは重減音程・・・以下、重々減音程(こちらも理論的には永久に続く)
ややこしいと思う人がいるかもしれないが、これをコンピュータの論理言語(例えば Prolog)で書くと10数行で次のような問題を解くプログラムが書けてしまう(こういった論理的思考が苦手な人は、一生懸命覚える以外にはないのだろう・・・)
・2音間の音程を正しく答える。
・どちらか一方の音とある音低をなす音の高さを正しく答える。
これを今から10年前にあるところに書いた。わすれかけていたのだが、別のことに応用できそうだ。
上のことから次のようなことがわかるのである。
・現在の五線譜による記譜法では、音程が五度の組み合わせで成り立っていることを前提にしている(ピタゴラス音程)
例えば、増2度と短3度の違いは区別できる(理論的には)。
・しかし、現在の記譜法では自然長三度とピタゴラスの長三度を区別しない。
ここから、音楽理論にとって、そして音楽教育にとって悩ましい問題が生じてくるのだ。
05/5/27 (Fri) 「トニカ・ド」とは
小さいようで、重大な間違いをしていた。
下の記事である(論文等でも間違いをしている。見つけたら訂正して読んでいただきたい)。
下の短音階の主音をドと読む方法のことを、日本人の何人かの人が「トニカ・ド」と呼ぶのを聞いたことがある。だから私はそのように思いこんでいた。また、言葉でも「トニカ(主音)」が「ド」だから当然そうだと思っていたのである。しかし、それが間違っているようなのである。
イギリスでJ.Corwen のトニック・ソルファを勉強して、それをTonika-Doとしてドイツに伝えたのは Agnes Hundoegger という女性の教師である。この人の書いた本に、「トニカ・ド教本」というテキストがある(Lehrweise nach Tnika Do)。この本を調べてみたのだが、Corwenとまったく同じで、短調の主音がラなのである。例えば、和声的短音階は l t d r m f si l のように記すのである(si は s の半音高い音)である。コダーイの方法にかなり近い。コダーイはHundoegger に影響されたと言われているので当然と言えば当然である。
とすると、短調の主音がドというのはどこから来たのか・・・・・。だいぶわかってきたのだが今のところは企業秘密である。
04/2/26 (Thu) 20世紀の遺物・最後のたたかい
「歌唱の指導における階名唱については,移動ド唱法を原則とすること」
小・中学校学習指導要領の「指導計画の作成と各学年にわたる内容の取扱い」の一文である。
問題点がある。
(1)文自体に矛盾がある(私は前々から指摘していた)。理由は次の通りである。
・階名とは音高の相対的な位置関係を表す名称である。
・相対的である以上、階名とは移動するものである。
・したがって、階名唱とは移動ド唱のことである(固定ド唱はドレミを音名に転用した音名唱である)。
・だからわざわざ断る必要はない。
(2)歌唱に限定している。「小学校学習指導要領解説」によると、器楽では固定ドを使ってもよいことになっている。歌唱を移動ド、器楽を固定ドにすると次のようなことが起こる。
・小学校ではハ長調かイ短調しか視唱はしなくなった。しかし、視唱はしなくてもいろいろな歌をドレミで唱うことは奨励している。だから、ト長調の「うみ」を階名模唱して「ミレドラレドラソソドドレ」と歌ったり、同じくト長調の「メリーさんの羊」を「ミレドレミミミ」と歌うことはするわけである。
・ソプラノ・リコーダーの初期指導では、g,a,h,c,dの音を使用する。したがって、ト長調の教材が多くならざるを得ない。この場合、「メリーさんの羊」を使えば、「シラソラシシシ」と意識させることになる。もう混乱がはじまる。
つまり理論的に混乱があると同時に、不徹底なのである。学習指導要領の問題を含めて、移動ドは現在はもう建前にすぎなくなっている。実際には、ほとんど使われていない。次のような問題がある。
1 学習指導要領が不徹底である。
2 移動ド唱法を身につけている教師が少ない(専門教育−というよりピアノ教室などではほとんどが固定ド)。
3 理論的な混乱がある(例えば、いわゆるトニカ・ド=機能ド[長調でも短調でも主音をドとする唱法]を本来の階名唱だ主張し頑固にこの立場を譲らない人々がいる。転用であることがわかっていて、こちらのほうが実用的だと主張するのならよいが、こちらが本物だと言って人の意見を聞かないバカの壁)。現在、移動ドをきちんと使っているのは、アマチュア合唱団の男性団員くらいである。その人たちももう50歳を越えた。それゆえ、移動ドは20世紀の遺物と化した。
つまり移動ドの実効性など、学校ではとっくになくなっているのである。
建前に過ぎないなら、完全に固定ドにしたほうが混乱が少なくなる。「視唱ができなくても視奏ができれば十分だ」という意見は検討に値する。それで、音楽を楽しんでいる人はたくさんいるからだ。
そのかわりにあらゆる混乱をなくすために次のような体系を使う。
1 階名としての「ドレミ」を廃棄する。
2 フランス式音名として、ドレミを使う。
3 日本式イロハ音名は廃棄する。
4 「ソ音記号」「ファ音記号」「ド長調」「ファ長調」を使う(フランス式の固定ドを日本に導入しようとした安川加寿子氏らはいち早くからこの名称を使っていた)。
現実に合わせるならこれが一番よい(というより、現状もこれに近い)。
しかし、本当にこれでよいか? 「20世紀の遺物(歌唱も器楽も移動ド)」である私が最後のたたかいに挑む。
資料もだいぶ集まった。少しずつ論文にして行くつもりである。
04/2/23 (Mon) 2/19日付の「吉田からのメッセージ」に音律論のことを書いた。音律論は何故大切か、ということについて書いてみる。題して「管楽器の音律論」である。
1
管楽器は、管の長さを2倍にすると、音が1オクターブ低くなる。
では2オクターブ低くするためには、どうすればよいか。2倍のそのまた2倍だから、4倍である。つまり、長さ1の管から1オクターブ、2オクターブ、3オクターブと下げていくためには、管の長さを次のようにのばしていかなければならない。
1,2,4,8,16.........
つまり等比数列である。
では、長さ1の管を半音づつ下げていくには、管の長さをどのようにのばしていかなかればならないか。これも等比数列でなければならない。だから12回かけると2になる数を求めなければならない。半音ずつ下げていくと次のようになる(つまり 2^(1/12)倍ずつ管を長くしていけばよいわけである。^はべき乗を表す。2^(n/12)でエクセルを使うと簡単に求めるがことできる)。
半音の数n 長さ 長さの差
0 1
1 1.059463094 0.059463094
2 1.122462048 0.062998954
3 1.189207115 0.066745067
4 1.25992105 0.070713935
5 1.334839854 0.074918804
6 1.414213562 0.079373708
7 1.498307077 0.084093515
8 1.587401052 0.089093975
9 1.681792831 0.094391779
10 1.781797436 0.100004606
11 1.887748625 0.105951189
12 2.000000000 0.112251375
それぞれの差はだんだん広くなっていく。ギターのフレットの幅が高くなるほど狭くなるのの裏返しである。
2
バルブを持つ管楽器について考える。(以下はあくまでも平均律を前提に考える)
・バルブ1を押さえると、半音2個分音が低くなることになっている。つまり管の長さは1.122462048倍になるわけである。
・バルブ2を押さえると、半音1個分音が低くなる。つまり、管の長さは1.059463094倍になるわけだ。
・バルブ3を押さえると、半音3個分音が低くなる。つまり、管の長さは1.189207115倍になるわだ。
(あくまでも理論値である)。
3
しかし、半音3個分低くしようとする場合、レガートに演奏することなどを考えると、バルブ1とバルブ2を組み合わせて押さえることが多い。そうすると管はどれだけ長くなるか。0.059463094+0.122462048=0.181925143 で、1.181925143倍になる。ここで、問題がおきる。つまり、理論値 1.189207115 に0.007281972 足りないことになる。つまり二つのバルブを組み合わせるとごくわずかながら、音が高めになる。しかしこの場合はまだよい。
4
では完全四度、半音5個分低くしようとするとどうなるか。普通は、バルブ1とバルブ3を組み合わせて押さえる。
つまり 0.122462048+0.189207115=0.311669163 で1.311669163 倍になる。理論値1.3348398540との差は0.023170691で、これだと耳で聴いて分かるくらい高めになる。これは深刻である(今回は説明は省くが、半音の100分の1の音程を表すセントに直すと約30セント高くなる)。だから、管楽器奏者は唇の閉め方を調整したり、バルブ3のスライドをのばしたりして微調整する(もちろん計算を頼りにではなく耳を頼りにする)。
5
実際には、これに純正律(「平均律」に対応するとすれば「純正調」ではなく「純正律」と呼ぶべきである)の問題が入って来るのでもう少し複雑になる。
大切なことは、二つのバルブを組み合わせると音が高めになること知っておくことである。たいていの演奏者はこれが経験的にわかっているが、音律論によって理論的に確かめることができるのである。
特に吹奏楽の指導者はことのことを知っておくべきである。知っておけば、生徒のピッチが悪いと言って、むやみやたらに叱りとばすことはしなくてすむ。
04/2/10 (Tue) 昨日メールで、茨城大学の田中健次氏におもしろいことを教えていただいた。
次のようなことだ。
・「伝統」という言葉は、中国から伝搬された言葉ではない。
・明治時代に英語の Traditional の訳語として生まれた。
・それが中国に逆輸出された。
不勉強なことに、こんなことも知らなかった。それはしかたがないとして・・・
では「伝統」にかわる適切な日本はあるか? さがして見るが見あたらない。ということは、明治より前の日本には「伝統」という概念がなかったということか。
そこからいろいろ考えてみる。以下は思いつきである。(順不同、未整理)
・「伝統を守る」という発想そのものが、西洋的である。ヨーロッパは国と国の交流、あるいは戦争によって隣国の文化の影響を受けやすかったからだ。
・日本は250年の間半鎖国状態だった。だから他国の文化の影響を受けることはなかった。そのため、「伝統」などという概念は必要がなかった。
・このような事情から、明治の指導者たちは、目に見える外国の影響力には敏感だった。例えば、武力や思想の影響である。しかし、文化的影響に関しては認識が薄かった。ただし、一部の知識人は、これに危機感を持っていていろいろ言ってたのではないか。−いくらでもいそうな気がするのだが、はっきりと人物の名前が出てこない。
・このことから見れば、明治期に西洋音楽がフリーパスで入ってきたのも当然である。
・明治以後も「伝統」という概念はあまり育たなかった。一時期、西洋の音楽の一部が禁止されたが、それも「敵性音楽」ということであって、日本の伝統に反するという理由からではない。
・現在でも、日本には「伝統」という概念は育っていない。「伝統」という言葉に浮ついた印象を受けるのは私だけだろうか。
・私自身、「音楽教育」に携わらなければ、「伝統」を意識することなどなかっただろう。
思いつきだから、間違っているかも知れない。また逆に私が不勉強なだけで、多くの人に言い尽くされてきたことなのかも知れない。とにかくすこし勉強して見よう。
04/2/3 (Tue) 「学力」論争
学力論・評価論の整理をはじめた。人に頼まれたのがきっかけである。しかし、自分でもいつかはしなければと思っていた。
鈴木秀一・藤岡信勝「今日の学力論における二・三の問題−坂元忠芳氏の学力論批判−」『科学と思想16』1975が出てきた。
最初に読んだ時に強烈な印象を持ったのを覚えている。しかしやはり強烈だ。その後、鈴木氏や藤岡氏にはずいぶんいろいろなことを教わったのでなつかしさもある。私はこの論文の主張を次のように理解する。
・学力概念に「態度」「分かる力」「生きる力」を持ち込む「態度主義」を排除せよ。
・教育内容と切り離して学力を論じるな。
・教育内容をだれにも分かち伝えることのできるように組織せよ。
この主張は現在にあてはめるとどうなるか。
文部科学省が提唱する評価政策(私も部分的には関わっている)と当然ぶつかり合うことになる。
ただ、最近はこういった根元的な学力論、評価論の議論がなされていない。
こういう議論をもっとやる必要がある。
04/1/27 (Tue) 以下の文はあくまでも今現在の私個人の認識を示したものである。
評価規準と評価基準
国立教育政策研究所で「評価規準の作成・・・・参考資料」の作成に携わった。個々の学校や教師が題材(単元)ごとに一つ一つゼロから評価規準づくりをするのはたいへんである。だから、その参考になるような資料がこの文書である。・・・・極端に言えば(誤解を恐れずに言えば)、評価規準を作成するための「文例集」として活用すればよいのである。
「評価規準」は「B おおむね満足できると判断される状況」を記述することになっている。だから学校や教師が題材ごとに評価規準を作成する場合も基本的には「B おおむね満足できる判断される状況」を記述すればよいのである。そしてその中で高まりや深まりがある場合が、「A 十分満足できると判断される状況」ということになる。もちろんAと判断できるような状況を予想できれば、事例として設定していてもよい。しかしあくまで事例である。Aと判断できる状況は、具体的に評価を行う場面で見つける場合もある。
ところが、一方で「評価基準」という言葉も世に出回っている。政策研究所が決めたのが「規準」で、それをもとにABCと判断するための基準を決めてしまおう(または決めておかなければならない)という考えのようだ。少なくとも参考資料の作成の過程では、「規準」をもとに「基準」をつくるなどいう話題はでなかった。A、B、Cという3段階の評価基準を設けることは、事実上、Aが高い目標、Bが低い目標ということになってしまう。つまり目標を二重に設定することになる。
そうなると授業に一貫性がなくなるし、評価が複雑になってくる。
「評価基準を設定すべきだ」ということが一つの主張であるのならばそれはそれでよい。しかし、どうも事実認識の食い違いが生まれているようだ(私が間違っているのかも知れない)。何とかしなければ、混乱が広がっていく。
03/11/11 (Tue) 授業研究の諸問題
人の文章の批判ばかり書いていると、気持ちが悪くなって来た。「概念規定」はお休みにして、今日は授業研究の話。
「授業研究論」についてそろそろ私自身の論をまとめ発表しなければならないと思っている。他人の論文を批判するばかりで、自分が論を発表しないのは卑怯でもある。だから一時も早く出したいと思っている。しかし、いざ出そうとなると躊躇するのである。ようするに材料が少なすぎるのである。それでも近いうちに発表するつもりである。ほんの少しだけ....
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授業研究と言う語を、ここでは主として研究者が研究者として(大学という教育現場を離れて)、小中学校などの教育現場に出かけて行う研究に限定して述べる。
研究者が小中学校などの教育現場に行って、授業研究をする意義はどこにあるのか。一言で言えば、授業の観察・分析を通じて、新しい事実を発見し、それをもとにして新たな授業理論や授業思想を構築することにある。
授業研究をそのように考えるとすれば、実際に行われた授業についての次のような記述は無意味である。
「第二は、音楽の授業と言えども、教師と児童の間に多くの言語コミュニケーション活動が存在するということである。T教諭は、児童が十分に発言できるように時間をとって発言を待つことが多い。発言の一つ一つを大切していることの現れである。・・・・」(7年前の私の論文)
上のことはいわば当たり前のことであり、常識的なことである。また、T教諭の教授行為を追認しているだけある。
もし、意味のある授業研究をするとすれば、現実と対峙する姿勢が必要である。
例えば、断片的であるが、授業を見ていて次のようなことを発見することがある。
・教師は子どもをほめて評価しているつもりだが、それが他の子どもの反発を招いている。
・子どもは、自分の考えを一生懸命述べているように見えるが、教師の言わせたいことを子どもは分かっていてそれを話している。
・相互評価で、子どもが相手の批判をすることはまずない。(いい子になっている)
・子どもたちが自主的に表現の工夫をしているように見えるが、実は教師が誘導している。あるいは小さな教師たち(習い事をしている子どもたち)が仕
切っているにすぎない。
・グループ学習では、多くの子どもは何もしていない。ただ、ボーッとしている。
・合奏で全体的にはよくできあがっているように聞こえるが、リコーダーや鍵盤ハモニカの音が電子楽器の音にかき消されている。(リコーダーの子どもの演奏は全体に何の影響も与えていない)。
教師がそのつもりであることと、実際の子どもの姿、行動が違っていることはよく見られることである。授業のそのような面をえぐり出さない限り、研究者が小中学校などの現場で授業研究をする意義などまったくないのである。
このような研究はもちろんそれは最終的にはその教師を批判するためではない。
例えば「表現の工夫」とか「自己評価・相互評価」といった音楽教育の常識となっている概念すら、実際にはマイナスの役割を果たすことがあることを
明らかにし、ひいては、学習指導要領も含めたカリキュラムの改善につながるものでなければならない。
批判精神を持たずに小中学校で授業研究をしても、ただ建前主義の現状追認におわってしまい、なんの改善、改革ももたらさない。極端に言えば、「論文を書く」ことが研究の目的であるような研究が生み出される。
しかし、日本の風土はそのような批判的な授業研究を許さない。例えば授業を見せてもらって上のような批判を書くと大変なことになる。だから、ほとんど現状追認の研究ばかりが生まれる。しかし、授業研究を続けるには、やはり小中学校等の現場の協力が必要である。ジレンマである。
03/10/28 (Tue) 圧縮(その3)
不可逆圧縮
コンピュータのプログラムファイルや文書ファイルの場合、圧縮したファイルは伸張(「解凍」とも言う)して元に戻らなければ、正確プログラムが走らないばかりか、暴走したりまったく意味のない文書になったりする。このようなファイルは可逆圧縮をしなければならない。
しかし、それほど正確さを要さないファイルもある。画像や音声のファイルである。
画像の場合を考えてみる。
24ビットフルカラーの画像の場合、1ドットごとに、赤、青、緑、それぞれに0〜255階調(8ビット→合計24ビット使用)使用して色をつくる。その場合その三色を組み合わせると約1600万色の色を作り出せることになる。4ビットに落とせば、0〜16階調で、4096色におちる。その画像で使用するドット数を落とすなどすれば大幅にファイルサイズを縮小できる。このままでは画像の質が劣化するが、視覚の特性を利用して劣化したように感じさせないようにする。この方法と可逆圧縮で使用した方法を併用すれば、さらにファイルサイズを縮小できる。この場合、元のデータに復元することができない。このように元に戻すことができない圧縮を不可逆圧縮と言う。では音楽の場合の圧縮方法は?(続く)
03/10/25 (Sat) 安田寛氏の『「唱歌」という奇跡十二の物語−賛美歌と近代化の間で−』(文春新書)が出版された。唱歌シリーズとしては『唱歌と十字架』『すると彼らは新しい歌をうたった 日韓唱歌の源流』(音楽之友社)に続く3作目である(多分そうだと思う)。
前の二編におとらずおもしろい。昨夜から朝にかけてつい一気読みしてしまった。唱歌教育を「キリスト教の宣教」と「富国強兵」とのせめぎあいという視点から解き明かしたものだ。
間違っていたら申し訳ないのだが、安田氏の研究の特徴の第一は、複眼的な視点にある。唱歌教育をただ「富国強兵の手段」(私は「山住史観」と呼んでいる)として見たり、逆に「キリスト教宣教の道具」にすぎないものとして見たりはしないのである。一つの事柄に二面性があるだけではなく、一人の人間にでも二面性があるのだが、イデオロギーにとらわれるとそれが見えなくなる。安田氏の著書を読んで一番勉強させられた点である。
第二は徹底した現場主義である。私のような出不精には絶対にまねできないことなのだが、思い立ったら、アメリカだろうが韓国だろうが月にさえ行ってしまいそうな人である。
第三は読者をいつのまにか探求者の世界へ引き込んでしまうような、記述の巧みさである。あっという間に読めるのもこのためである。
今回は新書版だから学生も読みやすいだろう。指定文献にしようと思っている。
ちなみに安田氏は私の前任者である。この本のあとがきで、毎年クリスマスに弘前で開かれているコンサートのことが紹介されている。そのコンサートは私もいつもお世話になっている高石やよい氏が企画し、そのやよい氏と大の仲良しの作曲家の島一夫氏が伴奏し、安田氏が歌い、その他たくさんの招かれた人が(中には招かれざる人もいるが)参加する楽しいコンサートである。今年もまた開かれるのだろうか。招かれない(><)かも知れないが、参加したい。
03/10/24 (Fri) 圧縮(その2)
可逆圧縮
圧縮とは、コンピュータのプログラムやデータのファイルを、効率的に送受信したり格納したりするためにそのサイズを縮小することを言う。
例えば次のような方法がある。
1)同じデータが繰り返し出てくる場合に繰り返しを省略してサイズを縮小する。
例えば 0000333448888888というような数列があれば 04334287といういうふうに直せばサイズは半分になる。
2)データの表記に使用するビット数を節約して、サイズを縮小する。
簡単に説明するのは難しいが、データの出現頻度が偏っている場合、頻度の高いデータを少ないビット数で表わせば、サイズを縮小することができる。
3)いくつかのデータをまとめて短く表現する。
例えば、1234123434563456というデータがある場合、1234→10 3456→11というふうにきめておけば 11111010とサイズを縮小することができる。
これらの方法を組み合わせてファイルは圧縮される。そして、圧縮の逆をやれば元のデータに戻すことができる。このように元に戻すことができる圧縮のことを可逆圧縮と呼ぶ。よく知られているZIPやLHA は可逆圧縮の例である。
可逆圧縮というのは、データがランダムに並んでいるのではなく、繰り返しがあったり、頻度が偏ったりしているということを前提にしている。逆に言えば、データがまったくランダムで、各データの出現頻度が同じ場合は圧縮はできない。
03/10/20 (Mon) 圧縮(その1)
このページをつくっていて、音楽ファイルの圧縮をした。
その時に気が付いたことがある。
圧縮という概念は、情報理論からみても音楽理論から見ても、また音楽教育という観点から見ても、おもしろい概念である。
少しずつ書いてみることにする。
ずっと若いころの文である。雑誌に次のようなことを書いた
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LPレコードでは、この波形をそのままレコードの溝の中に彫りこむ。再生するときは、それをレコード針で拾って電気振動に変換する。このような録音方式はアナログ(相似的)録音と呼ばれる。
CDの場合は、このように波形をそのまま記録するのではなく、一度数値化してしまうデジタル録音である。
CD録音では、まず音声信号を一秒あたり4万4100(サンプル周波数)に区切る。さらに、区切った各時点での(つまり4万4100分の1秒ごとの)音位を測定する。この測定値を16ビット(二進数で16桁)の数値で記録する。したがって、最小値は二進数で000000000000000、最大値は1111111111111111ということになる。つまり、65536通りの数値で記録することになる。CDには、二進数で数値を書き込む。もちろん、1やOを盤面にそのまま書くのではない。盤面上では凹凸でそれを表す。再生の場合は、この数値を読み込んで再び音声信号に交換する。この装置がCDプレーヤーである。
では、1時間の音楽(最大は74分)1枚ををCDに録音する場合には、一体何ビット分スペース(1か0を書き込むスペース)が必要になるだろうか。4万4100分の1秒あたり16ビット必要で、それを3600秒分、さらにステレオで2チャンネル必要だから、計算すると、16×44,100×3600×2=5,080,320,000(ビット)ということになる。
1ビットを1ミリ四方の正方形と仮定すると、100mx50mの長方形の広さということになる。
ところで、情報の量をあらわす時には、普通はビツトという単位を使わず、8ビツトをまとめてバイトという単位を使用する。
したがって、換算すると、635,040,000(バイト)で約653メガ・バイトである。これを文章に換算すると日本語では1文字あたり2バイト使用する(テキスト・ファイルの場合)ので、約317万字(注)である。つまり1時間の音楽は317万字分の文章ということになる。とにかくCDというのはすごいメディアなのである。そして、これを開発した人たちもすごい人たちである。
しかし、それよりもっとすごいのは、音楽を聴くときに、この膨大な量の情報を、瞬時に処理し、感動することのできる人間の感性である。
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(注)は明らかに私の勘違いである。「3億1700万字」が正しい。
結論の部分「それよりもっとすごいのは、音楽を聴くときに、この膨大な量の情報を、瞬時に処理し、感動することのできる人間の感性である」は我ながら大変気にいっていたのだが、大きな間違いに気が付いた。
圧縮という概念と関係がある(以下続く)
03/10/16 (Thu) 音楽教育学会の大会のため、明日神戸に向かいます。
私は、19日(日)に「音楽教育における哲学の意義」という課題研究の進行役、まとめ役をやります。
議論のための基調提案として次のようなものを書きました。
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基調提案にかえて
授業研究の立場から
1 授業記録を書く
授業記録を書くことがよくある。自分のための記録ではなく他人に読ませるための記録である。はじめからあるがままに客観的に書こうなどとは思わない。どれだけ客観的に記述しようとしても、またあるがままに書こうとしても、すべてを書き尽くすことは不可能だからである。
授業のありのままを正確に伝えるならば、ビデオに撮ったほうがまだましである。現在ではそのほうが手間もかからない(もちろんビデオでさえ、撮影者によってありのままには見えないことがありうる。学習者を中心に写すか、授業者を中心に写すかによってまったく違ったものができあがる)。ではなぜわざわざ文章で書くのか。
2 授業記録は記録者の作品である
授業記録は授業そのものではない。それは、音楽評論が音楽そのものではないことと似ている。音楽評論は、批評家の感性や認識をくぐりぬけた音楽を、批評家なりの様式や方法で表現した作品である。それと同じように授業記録は、記録者の感性や認識をくぐりぬけた授業を、記録者の様式や方法で表現した作品である。したがってだれが書いても同じ授業記録などありえない。
批評家の作品である音楽評論に批評家の音楽観や世界観(思想)が反映するように、授業記録には記録者の音楽観や授業観(あえて「授業思想」とよぶことにする)が反映する。
例えば、学習者の活動を追った授業記録がある。逆に教師の指示や働きかけを丹念に追った授業記録がある。これだけも授業思想の違いがあらわれる。
つまり授業記録を書くことは授業思想を表現することである。
3 背後にある思想を検討すべきである
授業研究に限らず音楽教育研究研究全般において、「客観的」であろうとすることは大切なことである。実証的であることも大切である。しかし、どのような実践や研究もその背後には思想がある。私たちはまず自分の実践や研究の背後にある思想に自覚的であるべきである。また、他の実践や研究の背後にある思想を意識すべきである。
哲学そのための手がかりになるはずである。
今回は次のような点について提案し議論したい。
@ 音楽を哲学するとどうなるか
A 音楽教育をどうなるか
B 音楽教育はなぜ必要か
C 哲学は音楽教育になにをもたらすか
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これに対して、次の5名の方々が討論をします。
今田 匡彦氏(弘前大学)-----@
小池 順子氏(埼玉大学研究生)--------A
磯田三津子氏(東京学芸大学非常勤講師)-----B
小川 昌文氏(上越教育大学)-----C
小泉 恭子氏(愛知教育大学)-----指定討論者
私を除くとみなさん気鋭の若手研究者です。ご期待ください。